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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第四十五章 社交の季節
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侯爵令嬢の憂鬱

 ほっそりとした白い花瓶の上、深緑の茎のその上、白百合が澄ました顔で、ぽつぽつとやってくる招待客を眺めていた。

 南国の空気はしっとりと湿っていた。そこにほんのりと添えられたお香と花々の吐息が混じる。

 クリーム色の壁の下は真っ赤な絨毯だ。踏みしめても足音さえ聞こえない。向かいの壁には一定間隔で灯りが点されている。その橙色の光も、こちら側に届く頃には、百合達を染めるほど濁ってはいなかった。


 お城のような保養地の貸別荘……いいや、もう、グラーブの城と呼ぼう。この城の形を一言で説明するなら、上から見て真ん中が凹んだ立方体だ。ほぼ正方形の敷地の周りを壁が囲い、飛び移れないくらいの幅を保った上で、三階以下には小さな窓のみ、四階以上にやっとテラスが設けられている。

 城の中庭だが、高さはおよそ四階相当になる。俺が今日の昼食を食べたのが、あそこだ。この四階の中庭には、本当に庭園が設けられている。場所にもよるが、ともすれば強すぎる日差しを和らげるためにと木々が植えられ、花壇には小さな花々の笑顔がぎっしり詰め込まれている。

 そして来客に与えられる個室は、この中庭を見下ろす四方の壁の部分、その五、六階にある。一方、使用人の領域は基本的に、一階から三階になる。四階の中庭を起点に活動する来客をもてなすために、余ったスペースで炊事などをこなす。俺以外にも馬に乗ってきたのがいたようだが、アーシンヴァルはこの城の北東部の厩舎で世話をされている。


 ……足を止め、周囲を見回す。


 多分、貴族ではない家柄の若者二人が、小声で何事かを話し合っている。何かに感心したように嘆息している。一年生だろうか? 今のところ、彼らのことは俺も知らない。別の学級の生徒なのだろう。こんなに華やかな世界は初めてだ、と気持ちが高ぶっているように見える。

 なるほど、一流の人々の集まりに顔を出せるというのは、素晴らしい体験だ。自分も何者かになれるのではないか。そんな気持ちにさせてもらえる。でも多分、大半の若者にとっては、ここが到達できる高みの最高地点だ。若いうちはいろいろ可能性を見せてもらえるのだが、実生活では、身の丈に合った交際しかできやしない。


 一方、そんな感情とは程遠い俺はというと、もっと別の面に目がいってしまう。

 これからの十数日をここで過ごすのだが、到着してからの数時間で、これはもう呆れるしかなかった。浪費、浪費、浪費……そう評するしかない。


 一時的にここに住む人数だが、かなりのものになる。グラーブら王族三人だけではない。俺やベルノスト、ケアーナといった、貴族やその子女もいるが、そんなのはほんの上澄み一握り。留学生の中には、騎士階級や官僚、宮廷人、有力な商人の子も含まれている。そんな彼ら全員分の宿舎を、王家は用意する必要があった。

 身分によって差をつけるにしても、あまりに粗略な扱いをすれば、王太子の面子は丸つぶれだ。それこそあらゆる客室、また通路その他あらゆる共用部分も、最高級のもてなしになっていなければいけない。

 だからこの連日の催しのために、彼はわざわざメイドや料理人、楽隊を本国から派遣してもらった。帝都で雇う? とんでもない! 作法に疎い、どこの馬の骨とも知れない誰かを使おうだなんて、そんな手抜きは怖くてできない。俺の部屋もそうで、他も同様らしいのだが、呼び鈴を鳴らせば、いつ何時であろうとも、近くの待機部屋からメイドが駆けつけてくる。最低一人は専属がつくらしいが、さすがに二十四時間勤務は不可能なので、合間は予備の人員が対応するという。


 昼食の後、その専属メイドに案内されて自室を目にしたが、俺というたった一人の客には必要以上としか言いようのない空間だった。

 中庭に面した半屋外の廊下から玄関を開けて入ると、ここからまっすぐテラスまでぶち抜きの応接間が広がっていた。足下には黄色と橙、藍色の三角形のタイルが組み合わされていて目を引く一方、壁はといえば上は白く塗り潰され、下半分は上質そうな深みのある濃い赤褐色の木材で飾られている。暗い焦げ茶色の丸いテーブルの上、真っ白なコンポートには色とりどりの果物が盛られていた。

 奥行きはそこまでないのだが、その分、横方向に小部屋が設けられている。何に使うのか、寝室が二つもあるし、簡易キッチンのようなものまで備え付けられている。もっとも、自分で食事の支度をする必要に迫られる心配はない。呼び鈴を引けばすぐにメイドが駆けつけてくれる。軽食でよければ、いつでも提供してもらえるのだ。また、浴室もあり、バスタブまであった。

 この無駄な広さはやむを得ない選択の結果だろう。俺一人に寝室が二つも必要なわけはないが、この城自体、グラーブ専用に作られたのではない。富裕層にレンタルするためのものなのだ。そして富裕層は、今回のグラーブがそうであるように、自分の楽しみというより社交のために、こうした空間を必要とする。そして彼らが招く客が、俺のような単身者ばかりとは限らない。

 多分、もっと狭い一人用の部屋もあったのだろうが、グラーブはそれを俺に割り当てるわけにはいかなかった。仮にも正式な貴族だから、招待客の中では身分が高い側になる。


 そろそろ会場に入る。南に面した大きな扉は開け放たれていた。二階と三階ぶち抜き、釣り鐘型の大ホールだ。本来なら四階の中庭が社交の場になるのだが、雨天の場合もあるから、屋内での催事にも対応できる空間がなければいけない。

 入口に立つと、色とりどりの光が今まさに溢れ出てくるように見える。天井から吊り下げられたシャンデリア、向かって正面にある小さなステージ、その左右に置かれた金と銀の女神像……丸い会場の真ん中には何も置かれておらず、色大理石の床が光を照り返す。その広い空間を取り囲むように丸いテーブルがぐるりと配置されていて、そこには既にナイフとフォークが並べられている。更にその奥には、調理済みの料理と、それを覆い隠す銀の丸い蓋……クローシュが掛けられている。


 これほどの贅沢には、どんな理由があったのか? さっきの若い来場者達も、殿下の太っ腹なところに感じ入ってしまったのかもしれない。だが、冷静に考えれば、これは必然だった。


 グラーブはタンディラールにとっての、唯一のまともな後継者候補である。これに尽きる。

 直系には、あとは娘達しかいない。マオット王子は子を残す前に死んだので、近しい血統には、これまた殺害済みのフミールと……内乱の後、どうなったかは知らないのだが……その子供達しかいない。あとは遠縁の年金貴族ばかり。中央集権化を推し進めた結果、今は年老いた領地なしの公爵がいる他は、みんな子爵以下、つまりスイキャスト二世の孫にあたるムヴァク子爵みたいなのがいるだけだ。

 だからこそタンディラールはグラーブに多大な投資をせざるを得ない。この王子は期待できないから挿げ替えよう、なんてわけにはいかない。廃嫡の余地がないからこそ、失敗させられないのだ。殊に隣国の王女も同じようにここで活動するだけに、見劣りしては困る。

 たかが学生のお遊びとはいえ、ここには帝都の要人も顔を出す。そう、首相や女神教の総主教といった大物が。


 とはいえ、俺にとっては都合がいい。今回ばかりは魔術の力に頼って、人の思惑を読み取るとしよう。果たして例の噂は誰が流したのか。この後、何に繋げるつもりなのか。

 容疑者を列挙してみよう。


 まずは正義党の関係者。クレイン教授を含む誰かだ。今回は、彼女の他に正義党の代表、つまり首相もここまで顔を見せに来るらしい。

 女神教の総主教も怪しい。そもそも、クル・カディから連絡を受けたはずの彼が、俺の監視のために動かなかったのはなぜか。かなりの高齢者だと聞いているが、彼もこちらに立ち寄る予定だという。

 シモール・フォレスティア側の陰謀という線もある。マリータ王女が主導して、俺と王家の関係を引き裂こうとしているのかもしれない。ついこの間、地下道の前で待ち伏せしていた件もある。無視はできない。

 フミール王子の遺児、ないし遺臣の復讐に巻き込まれた可能性もある。当時、彼の子供達は帝都に留学中だったというが、その後にどうなったかを、俺は知らない。

 三年以上前に壊滅したはずのパッシャの残党。これも、まだ除外するわけにはいかない。恐らくデクリオンは、あの霊樹の苗を帝都のどこかから盗み出したに違いないのだから。

 最後に、使徒。あれが関わっているとなると、どこで何が起きても不思議ではない。


 そして、この容疑者達が単独犯であるとは限らない。例えばパッシャが、女神教の重鎮と裏で繋がっている、なんてことも考えられる。

 目的もまだ絞り込めていない。標的は俺なのか、グラーブなのか、いずれでもないのか。


「遠いところから、わざわざよく来てくれた。諸君らには感謝しかない」


 みんなが席に着くと、ステージ脇から出てきたグラーブの挨拶が始まった。


「これから数日間に渡って、私達は各国の要人や、帝都の政治家達をここで出迎えることになる。そのためには、君達の協力が不可欠だ。帝都において、我が国はさして重要な地位を占めているとは言えないが、それでもここでの社交には、それなりの必要性がある。また、交際する相手は帝都の人々だけではない。昨今、世界情勢は複雑に変化しつつある。このような状況では、一人でも多くの友人をもっておくことが、非常に重要であろう」


 だから、今回はさまざまなところに声をかけてある。上は総主教や首相といった大物から、下はアナーニアの同級生の集まりまで。ただ、後者についての本音は、コモを招くところにあるのだが。帝都における一大勢力であるリー家との結びつきを強化したくはあるものの、あちら側としてはこちらを見極めたいのもあるのだろう。だから、言い訳のできる形で交際を始めるわけだ。

 また、もちろん、グラーブやリシュニアといったこちら側の顔が、外部に出向いて挨拶しに行くこともある。その間は、こちらに滞在する学生の多くは「お休み」だ。


「これから君達には負担をかけることになると思う。だが、十数日の間のことだ。適度に楽しみつつも、ここが大切な外交の場であることを意識して過ごすことを期待する」


 言葉の端々に、グラーブの内心の不安が透けて見える。

 年若い連中の集まりなのだ。しかも、ここは非日常の空間。だから変に逸脱したりはしないか。具体的には……明らかに好ましくない形で、道ならぬ恋愛に発展するようなのがいてもらっては困る。また、だからこそ、この出口のない監獄のような別荘を用意した。

 恋心を囁くくらいは構わないが、うっかり妊娠なんていうのだけは、御免蒙りたいのだろう。だが得てしてこういう集団行動では、下っ端は上の都合など考えないもの。本当にお疲れ様、だ。


「堅苦しい挨拶はこの辺にしよう。改めて、共に楽しい日々を過ごそう! 乾杯!」


 それからディナーが始まった。残念ながら、ピュリスのセーン料理長の出すコース料理ほどには洗練されていない。フォレスティアでそうするように、作り置きの料理をメイド達が給仕するだけのものだ。とはいえ、食事を提供する人数を思えば、やむを得ないところではある。

 与えられた席は、最上の場所にあると言えるだろう。三人の王族の座るテーブルのすぐ隣に、俺とベルノスト、ケアーナが陣取っている。丸いテーブルだが、中央の広場に面する方向には誰も座っていない。視界を遮らないためだが、その理由は一つではない。このパーティーの様子、特にステージの上でのグラーブ達の発言を見るのに妨げとなってはならないのだが、俺とベルノストには、帯剣が許されている。俺も、叙爵の際に貰った、あの王家の紋章付きのミスリル製の剣を提げている。もちろん、非常時には飛び出していって王族を守らなくてはいけない。


 ある程度、飲食したところで、ベルノストは立ち上がった。主催者たるグラーブが各テーブルを巡って挨拶するからだ。ここにいるのは身内だけだが、万一もある。従者の顔をしてついていかざるを得ない。だから、俺はテーブルに居残ることになる。二人の王女はまだそこにいるから。

 まぁ、そうはいっても、滅多なことは起きないだろう。そう考えて、俺はぼんやりと会場を見渡していた。だから、すぐ横にはまるで注意を払っていなかった。


「ねぇ」


 最初、話しかけられたと思わず、一秒くらいだが、何が起きたかわからなかった。

 隣にいたケアーナは、明るい紅色のドレスを身に着けていた。彼女自身が小柄で痩せぎすなのをカバーするような、ふんわりとしたのをだ。それと、髪の毛はいつものように結い上げていて、頭の天辺近くで結ばれている。そこには暗い緑色のリボンが飾られていた。さすがに正式なパーティーというのもあって、化粧の方はバッチリだ。ニキビもほとんど目立たない。


「これはケアーナ様」


 少々戸惑いながら、俺は頭の中を整理していた。彼女が俺に何を話すことがあるのか? 五年以上前の夜会には、実に爽やかに言い放ってくれたものだ。


『この子、もともと、奴隷だったんでしょ?』


 だが、ただの少年騎士から、ついに正式な貴族にまで成り上がってしまった。ファンディ侯の数いる娘の一人でしかないケアーナからすれば、どう転んでも対等以上の存在になってしまったのだ。

 では、彼女は俺に今更、どんな用があるというのだろう。少なくとも、アッセンが望むような縁談の余地はもうない。東方の小国とはいえ、正真正銘のお姫様との婚約があるのだから。


「いかがなさいましたか」

「どうもしないわ」


 じゃあなんで話しかけてきたんだ、と言いたくなる。だが、彼女にまっとうな会話スキルがあるとも思っていない。ここは意味を汲み取るべきところだ。つまり、具体的に俺にやって欲しいことがあるのではない。となれば、彼女は単にお気持ちを吐き出したいだけなのだ。


「ただ、どんな気分かと思って」

「気分? ですか?」

「そうよ」


 と言われても、何も思うところはない。


「素晴らしい催しだと思います」

「そんなこと聞いてるんじゃないわ」


 彼女は苛立ちをあらわにした。


「何かないの? 嬉しいとか、誇らしいとか、何か」

「それは……今、僕がいるこの場所についてのことですか」

「そうよ」


 俺はちらりと横目でリシュニアとアナーニアの様子を確かめた。異状なし。二人の間に会話もなし。どちらも視線は前方に固定。会場の様子を眺めているフリ。


「責任の重さは理解しているつもりです。殿下やそのお客様に何かないようにと見張るのも仕事のうちですから」

「それだけ?」

「それだけです」


 彼女はつまらなさそうに溜息をついた。


「何か気に障ることでも」

「もちろん、そうよ」

「それはどのようなご無礼があったのか」

「何かされたからってことじゃないわ」


 そうだろう。これは八つ当たりだ。そろそろ俺も察している。

 とはいえ、一つだけ前向きな要素があるとすれば、それはケアーナ自身が、ちゃんと八つ当たりだと自覚できていることか。原因がただ自分の内側にしかない問題について、他人に変な理由をつけて怒りだされると、本当に手に負えないから。


「わかってる。あなたが何か悪いわけじゃない。だけど、そこに座っている」

「中座したくても」

「そういうことじゃなくって」


 彼女は首を振った。


「今は私も、この席にいる。二人の殿下に従者がいらっしゃらないから、その代わりみたいなもので」

「そうですね」

「だけど、私はここで終わり。あなたにはその先がある。それを見せつけられて、気分が悪いのよ」


 俺は頷いた。


「御立派になられました」

「なに? 皮肉?」

「いいえ、本心ですよ。五年前か、六年前か、あの日の夜会では散々な仰りようでした。本当に何も考えていないというか」


 するとケアーナは自嘲気味に笑いだした。


「だって騎士なんかと婚約したら、貴族でなくなるもの」

「はい。でも、どうですか、その後は」

「見通しは暗いわね。もう、姉が何人か、貴族の家に嫁いでるし、これ以上、余計な係累はいらないと思うから。多分、その辺の騎士とか、お金持ちの商人とか、その辺に下げ渡されるんじゃないかしら」


 ひどい進路だと思っているようだが、大半の人にとってそれは恵まれた人生だ。


「ものは考えようですよ」

「どういうこと?」

「仮に貴族だからといっても、狭い領地しかない田舎貴族の家に嫁いだら、大変です。王都に出かけていく際の、ちょっとしたドレスを用立てるにも、いちいち財布の中身と相談しなければいけません。それでいて、夜会に顔を出しても、そんなに尊敬なんかされないのですよ。でも、例えば……例えば、ですよ? エキセー地方に居を構えた、お父様のお抱えの商人の家に嫁いだとします。すると、なんといっても領主様の娘ですし、その領主様は大貴族です。その商人にとっての一番の後ろ盾がケアーナ様のお父様です。そんな商人が、跡取り息子の嫁にとケアーナ様をお迎えする」

「うん」

「ご自分からよほどひどい振る舞いをなさるのでなければ、こちらの方がケアーナ様は大切にされますし、尊敬もされます。それに、貴族同士の肩肘張ったお付き合いもしなくていいのです。どうでしょうか?」


 俺の説明を一通り聞き終えてから、彼女はまた笑った。


「言う通りだと思うわ」

「そうでしょう」

「でも、お断りしたいけど」

「なぜです?」


 彼女は肩を竦めて、背中を丸めた。


「わかってるけど、耐えられない。考えたくない。だって貴族でなくなるもの」

「そんなに貴族であることが大切ですか」

「私には、それしかないの」


 人差し指で彼女は自分を指差した。


「化粧を厚塗りしなきゃ誤魔化せないニキビ。それがなくたって、どうせ私は美人じゃない。わかるわよ。だって、お父様の館で働いてるメイド達は、一人残らず私より美人だもの。体だって、まるで食いでのない死にかけの鶏みたい。頭だって、多分そんなによくないわ。よくたって、どうせこちらの王国じゃ、女性官僚なんかにはなれっこないし。武官なんか、もっと無理。裁縫も苦手だし、私にできることなんてないんだから」


 何のとりえもない自分。それを直視できるだけまともなのだが、だからこそ恐怖に抗えない。


「これで貴族でなくなったら、私に何の値打ちがあるの? ううん、その貴族の娘って地位で、余生を買うんだわ」

「大半の人は、それさえ夢のまた夢なんですよ」

「そうだろうけど、じゃあ私は私より不幸な人がいるから、惨めな気持ちを感じてるのに、自分で自分を騙せっていうの?」


 その答えは……一つしかない。

 自ら動くこと。


 人は意味がなければ人として生きられない。彼女も意味に縋って生きている。貴族である、高貴な生まれであるという意味。だが、それは一方的に与えられたものだ。それを剥ぎ取られる痛みに耐えるには、自ら意味を作り出すしかない。

 例えば料理人なら、自らの一皿が素晴らしければ、その一瞬だけは、この世の一切を超越できるのだ。王? 貴族? それがどうした。この皿を出せるのは俺なのだ。仮に俺がそうした支配者に難癖つけられて捕らえられ、今、まさに首を落とされようとしているとしても、彼らがその皿の料理を口にすれば、きっと頬が緩むだろう。無論、次の瞬間には俺への怒りが食の喜びを塗り潰す。感覚と感情は食に惹きつけられても、理性が、ちっぽけな自尊心がそれを許さない。そうして首が床に転がるとしても、俺が誇りを失うことはないのだ。


「今からでも、全力を尽くされてはいかがですか。寸暇を惜しんで仕事に励むなら、そのような痛みは自然と失せていきます」

「無理よ。とてもじゃないけど、我慢できそうにないもの」


 やれやれ。問題はそこだ。

 世間に数多くいる、ねじくれた根性の持ち主というのは、要するに怠惰なのだ。なぜ怠惰かというと、体力がないから。物事に取り組み続ける力がない。なぜ体力がないのか。自分で自分を制御しないから。


 実のところ、やり方はいろいろある。規則正しい生活なんかもその一つ。飲酒や喫煙を慎み、健康的な食事をして運動を心掛けるといったことからの蓄積が、体力を齎す。注意深く自分自身を養うのだ。そして体力の余剰から、少しでも心の強さを得て、それを行動に変換する。行動を重ねた分、心が強くなる。その強くなった心が、自律をより助ける。

 こうして、常人と超人の差が少しずつ開いていく。同じように寝起きし、食べているにもかかわらず、両者の間には埋めがたい差が生じていく。


 ケアーナは、ここまで言語化できていないだろうが、うっすらとこの事実に気付いている。自分が怠惰な側だと。蓄積できているものがない。遅れたところから走り出さなければいけない。お金儲けするなら先に借金を返してから、と言われるようなものだ。それがつらい。


「はぁ。でも、よくわかったわ」

「何がです?」

「恨まれたり憎まれたりする値打ちもなかったんだって。安心もしたし、スッキリもしたし、ガッカリもしたわ」


 それから、彼女は背景を説明してくれた。


「パパがね」

「はい」

「留学の前に、私をこっぴどく叱ったのよ。このバカ娘、あの時お前がファルスとの縁談を拒まずにいれば、今頃は何もかもがうまくいっていただろうに、って」

「ああ……先約があれば、ワノノマも婚約なんかできなかっただろうから」

「そういうこと。あんな風に面と向かって叱りつけられるのは、あれが初めてだったから、目の前が真っ暗になったわ」


 嫌な記憶を振り払おうとするかのように、ケアーナは頭を振った。


「思えば、あの頃までが一番幸せだった。十歳になる前ね。私は大貴族の娘なんだからって。将来は自分も美人で素晴らしい婚約者にも恵まれて、パパと同じくらい立派な貴族のところに嫁ぐんだって思ってた。怖いものなんかなかったのよ。だけど……この何年間かで、だんだん夢が崩れていった。私、美人になんかなれないし、いい結婚もできないし、全部駄目だったんだって。で、ここが最後なの。大貴族の令嬢として、人から羨望の眼差しを浴びる、輝ける人生の最後の場面。これが終わったら、あとは余生よ」


 月の道……

 昔、アイドゥスが語った言葉を、不意に思い出した。今までのケアーナは、産まれる前から与えられていた陽光によって照らされ、輝いていただけだった。だが、その光ももう、尽きようとしている。では、ここからどうすればいい?


「ま、その話はもういいわ。でね、パパが言ってたの」

「はい」

「今後、ファルスはますます陛下に重用されるようになるだろう、だから少しでも縁を持っておけるよう、お前が帝都で結果を出してこいって」

「露骨ですね」


 といっても、そこを遠回しに立ち回って、俺の好感を得られるようにするなんて、ケアーナには荷が重いだろう。


「というわけで、何かできそうなことがあったら、相談して欲しいわ。それが私の点数になるの」

「点を稼ぐと、何かいいことが?」

「田舎貴族の嫁になれるわ」


 軽い調子でそう言って、彼女は皮肉気に笑った。

 これには、俺も笑うしかなかった。

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