保養地へ
年月を経ても錆びることのない黒ずんだ金属の格子の向こうに、朝日が透けて見えた。早朝の爽やかな風が、さっと一吹き。
垣間見えるのは、その長く引き伸ばされた陽光を照り返す川の水面と、左右に開けていくチーレム島の大地。更に向こう、水平線の彼方には、東の大洋が広がっている。
この時間、東の歯車橋を通る人はほとんどいない。おかげで俺は、悠々と車道の上を、アーシンヴァルに跨って通り抜けることができていた。俺は首を撫でながら尋ねる。
「重くはないか? 降りて歩こうか?」
すると彼は、不満げに鼻を鳴らす。そして、立ち止まろうとしない。
若駒だったアーシンヴァルも、今では立派な体に育ち切っている。黒々とした馬体は大きく逞しい。
橋を渡り終えると、そこには古びた石畳以外、何もなかった。左右を見回すと、少し離れたところに小舟が密集して停泊しているのが見える。
岸から岸へ。あちらとこちらでは世界が違う。ラギ川の北側なら、競技場から更に南東にも庶民の住処が広がっていた。狭苦しくて、騒々しくて、少し散らかった、人間らしい町並みが。だが、川の南岸はというと、橋の付近はさっぱりしているものの、少し奥に進めばこちらにも家はあるのだが、どうにも殺伐とした印象を受ける。
理由はいろいろ思いつくが、最大のものはと言われれば、間違いなくあれだ。
「派手に拵えたもんだなぁ……」
呆れてそう呟くと、空気を読んだアーシンヴァルが足を止めた。
俺が見上げているのは、橋の出口から見て右斜め前にある、巨大な建造物だ。といっても、今はまだ、ただの足場でしかない。そんな代物が……崩れかけの石や煉瓦の壁の上にベニヤ板みたいなものを乗せて屋根代わりにしている掘っ立て小屋に囲まれる、低層のスラム街の真ん中に突き立っているのだ。
来年の夏に向けての開発事業らしいが、これでいったい、どれだけの移民が家を追われたのだろうか。
右手に、少し離れた場所にあるスラム街を見やりながら、俺とアーシンヴァルはまっすぐ南に走った。崩れかけの家々が疎らになる頃、視界はまた、別のもので占められるようになった。
正面方向にあるのは、巨大な丘だった。これが伝説に残る、あの魔法の石板が降り注いだ丘なのだ。ただ、わざわざ駆け上がる値打ちはない。無事な状態で残されている石板は一つもないらしいし、破壊されたもの以外はすべて当局が回収し、秘密の場所に保管しているという。
左斜め前には、か細い道が続いている。こちらを進むと、チーレム島の南西の海岸に沿っている道路に出られる。その途中に、四大迷宮の一つ、ルイナスも存在するという。
ルイナスは、帝都の迷宮の中では、最も攻略難度の高い場所と言われている。理由は、出現する魔物の種類だ。岩石や金属など、異様に固い体を持つ怪物ばかりが出てくるそうだ。その分、実入りもいいらしいが、とにかく討伐が大変で、割に合わないらしい。
右斜め方向に目を向けると、スラムと丘の間には、ちょっとした林が広がっている。そこに丘の下を抜ける日陰の間道があった。
しばらく進んで、木々の庇をくぐり抜けた頃には、もう夜明けではなく、強い日差しが大地を焼く、夏の帝都の朝が訪れていた。周囲に人家はないが、一軒だけ丘の裾に帝都防衛隊の詰所らしき小屋があった。
ここから道は三方に分かれる。真西に進めば四大迷宮の一つ、アエグロータスに行き着く。以前にニドが挑戦したところだ。猛毒を吐き散らすような魔物が多く出てくるので、危険度が高いという。
真南の道をとれば、こちらは暴虐の魔王の幽冥魔境と呼ばれている場所に行き着く。いかにも恐ろしげだが、実際にはそれほどでもない。まるでドリルで掘り抜いたような穴があり、底まで降りていくには、縁に彫り込まれた階段状のところを下っていくしかないという。危険と言えば、転落事故などのリスクがあるくらいで、別に魔物が出るのでもない。
だが、夏の保養地に向かうなら、ここなら南西の道を辿るしかない。ここから先には、陽光を遮るようなものもない。ただ、幅広の道だけが、腰の高さにまで伸びた夏草を左右に追いやっていた。暑くなる前に到着できればと思って早めに出発したのだが、どうやら汗だくになるのは避けられないようだ。
朝というには遅い時間に差しかかる頃、海沿いに立ち並ぶ豪邸の数々が視界に入ってきた。いずれも立派な石の壁に取り囲まれている。さもありなん、という気がする。貴顕の人々が贅沢に過ごすのだ。ただの柵では中を盗み見られてしまう。普段の邸宅なら、それも悪くない。自らの宮殿は、また権威の表れでもあるのだから。でも、ここは一応、遊ぶための場所だ。あまりに無防備ではまずいのだ。
「もう少しだ。着いたらまず、水を飲ませてもらおう」
そう言って、俺はアーシンヴァルの首を優しく撫でた。
目立つところ、だいたいはそれぞれの豪邸の一番の高所に、各国の旗や紋章が掲げられている。それを見比べながら、俺はようやくエスタ=フォレスティア王国の「キャンプ地」を発見した。
俺はそれを見上げながら、本日二度目となるが、呆れて呟いてしまった。
「これじゃあまるでお城、いや……『ラブホテル』といったほうがいいのか?」
久しぶりに日本語、いや、英語なのか? 前世の言葉を口に出してしまった。
丈の高い、それこそ二階建てくらいの高さのある、クリーム色の外壁が周囲を覆っている。その内側には、外壁から一定の間隔を空けてではあるが、これまた真四角にほとんど窓のない壁が突き立っている。窓らしきものが見えるのは三階相当の部屋からになるが、そこにあるのは本当に小さな小窓で、人が出入りできるようなものではない。四階以上の高さから、やっとベランダのようなものが目につくようになる。
およそ六階建ての四角い建物の四隅には、それぞれ塔が突き立っている。その天辺に、王国の旗が掲げられているのだ。
今回もそうらしいのだが、この豪邸を借りる費用は、王家の負担になる。俺やその他の臣下達は身の回りの物だけを用意して、宿泊すればいい。というより、出入りの自由がある程度、制限される前提だ。ただでさえ羽目を外しやすい夏のお祭りの時期、何か過ちがあってはいけない。貴顕の家の生まれとはいえ、青少年の集まりなのだ。もちろん、暗殺や誘拐のリスクを下げるためでもある。
南に一つあるだけの出入口……これもさながら本物のお城のように、幅広な代物……に騎乗したまま近づいていくと、門番を務める兵士二人が背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ! 失礼致します。どなた様でしょうか」
俺は馬から降りながら名乗った。
「ファルス・リンガ・ティンティナブラムだ。済まないが、取り急ぎ、馬に水を飲ませてやりたい。荷物も下ろして、鞍も外してやらないといけない。頼めるか」
「しょ、少々お待ちくださいませ!」
一人がバタバタと奥へと駆けこんでいく。こんな早い時間に到着するとは想定していなかったのだろう。今日中にここまで着けばいいので、大半の留学生は、多分今頃出発しているはずだ。
それほど待たされることもなく、兵士は小柄な執事を連れて戻ってきた。
「ファルス様、ようこそお越しくださいました。私めはマジョルドン、殿下の執事を務めさせていただいております」
髪は既に真っ白になってしまっているが、目には生気があり、肌も年の割にはきれいに見える。何より表情が明るく、一目で好感を抱かせる雰囲気がある。これは、タンディラールが宮廷人の中から、有為な者を選んで随行させたのだろう。
「そちらの馬は、では、こちらの者に引かせて、厩舎の方で休ませましょう。お荷物の方も、お部屋の方に運ばせておきます」
「ああ、ありがとう」
「なにぶんにもこのお時間にいらっしゃるとは思っておりませんでしたので、簡単なものしかございませんが、まずは涼しいお部屋で軽食など、召し上がってくださいませ」
少しの間、アーシンヴァルには窮屈な思いをさせることになりそうだ。俺はまた、彼の首を優しく叩いた。
それからしばらくして、四階の東向きの一角で、詰め物をしたパンと冷製スープを出された。中庭に面した、薄暗くて風の通るいい席だ。とりあえず、ここまでは何もなし。
本当のところ、ヒジリの推測通りにパッシャの残党が俺に悪意を向けているのなら、一人で移動している途中にでも襲撃してくれればよかった。俺が人気のないところを一人きりで移動するという、この上ない機会を逃すとは。いや、彼女の予想が外れただけかもしれないが。
これからこの保養地、このラブホテルみたいな巨大な城の中で過ごさなくてはいけない。その間、肝心の調査はヒジリやニドに任せきりになる。自分で動けない上に、周囲の人達にリスクを負わせるというこの状況、本当に落ち着かない。
まだ、誰の思惑があっての噂だったのか、確たることは言えない。ただ、復讐を目的とするパッシャが動かなかったことから判断すると、或いはもっと政治的な、シモール=フォレスティア王国の陰謀なのか、それとも正義党の誰か、クレイン教授辺りが先走ったのか、はたまた背後に使徒がいるのか。
ただ、最悪の可能性には備えている。いざとなれば、この城の天辺からでも飛び立てるよう、装備一式は持ち込んである。ホアの作ってくれた鎧は嵩張らないところがいい。
もっとも、それでも普通の服と同じというわけにはいかないので、その分、その他の荷物を削ることになった。パーティー用の礼服は二着しかない。着替えも途中で洗濯しないと足りなくなる。いざとなったら公館から持ち込んでもらわないといけないだろう。
なお、ニドとは、毎晩のように精神操作魔術で連絡することになっている。彼の方から俺に通信する手段はないので、俺から魔術を用いなければいけない。場所が明確でないと、うまく術をかけられないので、一応、彼の今の自宅と……愛人の一人と同棲しているらしいが……タマリアの家と、あとは公館を通信先にしている。それで捕捉できなければ、連絡はできない。
「むっ」
このスープ、なかなか侮れない。というか、これ、俺のガスパチョのレシピに似てないか?
もしかすると、セーン料理長が真似して作ってピュリスの店で出したのを、殿下の料理人がまた真似たのかもしれない。
そうして昼食を摂っていると、横合いから人が近付いてくるのに気付いた。食事を中断して振り向くと、そこにはベルノストがいた。
「早い到着だな」
「これはどうも失礼を」
「いい。気遣いはいらない。食べながらでいい」
食事中に声をかけたのはこちらだから、ということなのだろう。
「お前が一番乗りだ」
「殿下は?」
「三人とも、今は大忙しだ。今夜は殿下が自分の臣下をもてなさないといけないからな」
そういう予定になっている。だから、俺を含めたエスタ=フォレスティア王国からの留学生は、特に用事がない限り、今日の夕方までには、この城もどきの邸宅にチェックインしないといけない。そうして、ここの二階から三階までぶち抜かれた大ホールで、ちょっとした晩餐会、その後、舞踏会を楽しむのだ。
明日は丸一日、予定なしになっている。だが、そこからは立て続けに接客の時間になる。初日はグラーブがみんなを受け入れ、もてなす側にまわるのだが、三日目からは臣下達がグラーブを支えて、来賓を接待することになるのだ。
「じゃあ、手伝わないと」
「今日はいいんだ。お前も楽に過ごしてくれ。ただ、明後日からは気を張ってもらうぞ。最悪の可能性も考えられるからな」
「最悪、というと?」
ベルノストは一度、肩を竦めて溜息をつくと、文字通り最悪の可能性について語った。
「正直、ティミデッサ殿下が王位を受け継げる可能性はない。で、それ以外の王子王女が全員、この狭い場所に固まっている。普段の公館とは違って、警備も行き届かない。人目の多い帝都の真ん中でもない」
「物騒な話ですね」
「我が国は……近年は、王族同士の争いが行き過ぎてしまった。おかげで今の陛下の権威があるのだが、どこに火種があるか、わかったものではない」
そういえば、あの内乱が起きた当時、フミール王子の子供達は、帝都に留学中だったはずだ。
あれからどうなったんだろうか? 帝都に亡命したのか、それともタンディラールの手によって暗殺されたのか。或いは逃げ延びて……
とすると、例の噂、実は現王家への復讐に俺が巻き込まれている可能性もあるのか? 冗談じゃない。いったい容疑者が何人いるんだ?
「滅多にないとは思うが、そうなってからでは後の祭りだ。お前には特に仕事らしい仕事は割り振っていないが、なるべく殿下の傍にいてくれ。もちろん、いつもは私が近くで見張っている」
王子の側近というのも、本当に楽ではない。とてもじゃないが、俺にはそんな立場なんて務まりそうにない。お疲れ様、と言いたくなる。
「なに、他に警備の者もいる。まったく休めないなんてことはないさ。お互いにな」
「そう願いたいです」
「まぁ、ゆっくりしていてくれ。ちょっと顔を見に来ただけだ。また夕方に」
それだけ言うと、彼は手を振ってまた、四階の中庭へと引き返していった。




