極端から極端へ
三十五章、ここからです。
舞台は九九七年、黄玉の月、ポロルカ王国の都、ラージュドゥハーニーです。
冬の不幸祭りも、今日からです。
なお、下書きは終わってないので、途中で止まる可能性もあります。
今年、結局、小説の作業してない期間、二ヶ月ちょっとしかなかった……
あとは基本、土日も平日の夜も潰してましたorz
横に広がる白い入道雲が、実に気怠そうだった。
そろそろここ船上からも、ゴマ粒ほどの大きさではあるが、密集する家々を見分けられるようになってきた。白い壁に褐色の屋根。二階建てもあれば平屋もあるが、とにかくそれがぎっしりと隙間なく軒を連ねているのがわかる。そんな街並みがけじめなく地平線の彼方にまで広がっている。
まるで頭上の雲は、雑にこの地上の様子を鏡に映したかのようだ。してみると、ラージュドゥハーニーの空の上には水面があって、それがあのようにぼやけた姿を見せてくれているのだと、それを遠くから眺める俺達も、あの街に住む人々も、それとは知らず天地逆さまなままに日々を過ごしていることになる……そんな妄想が胸中に浮かんできた。
平べったく伸びきった街だが、目立つ場所もないでもない。なだらかな起伏もあるし、街の真ん中には小高く盛り上がっているところがあるが、恐らくあそこが王宮のある場所なのだ。それと、ずいぶん遠くにだが、いくつか大きな灰色の城塞が突き立っているのが見える。
視線を下に向けると、船は変わらず波を蹴散らしながら前へと進んでいるのが見て取れた。白く泡立つ波とは対照的に、海の色は今まで見たどこよりも黒ずんでいた。
ディンが指示すると、また一つ、帆がはためきながら滑り落ちた。今は午前中遅く、海風の吹く時間帯だ。甲板の上にいると日差しばかり強く感じるが、実はしっかり風もある。そろそろ陸が近いから、船足を緩めておかねばならない。
船が係留され、波止場に降り立ったところで、ワングが俺達を見回しながら言った。
「荷物を下ろすのはまだにして、ここで待つネ」
「わかった」
心得ていると言わんばかりにディンが頷いた。
「その辺の出店で買い食いでもするネ」
それだけ伝えると、彼は足早に駆け出していって、客待ちの馬車に向かって大声を張り上げた。値段交渉でもしているのか、束の間、激しく言い合っていたが、結局彼は後部座席に身を落ち着けて、そのまま大通りを走り去っていってしまった。
「さて」
ディンは近くにいた船員を手招きして呼び寄せると、俺に振り返って言った。
「いつ戻ってくるかわからないから、とりあえず船の影にでも座って待っていた方がよさそうだ。みんな、ここは初めてだろうから、僕がお昼ご飯を買ってくるよ」
程なくして彼が持ち帰ったのは、春巻のような食べ物だった。混ぜ物のある米粉を焼いたもので、具を包んでいる。匂いでわかるが、これは喉が渇きそうな感じがする。
「これ、焦げ臭くないですか?」
ラピが恐る恐る手に取ってそう言うが、俺は首を振った。
「香辛料だよ。これは」
「なぁんだ。じゃあ、いただきまーす」
「あっ」
恐れを知らず、彼女は円筒状のそれにかぶりついた。そして一度、二度咀嚼して、悩ましげに眉根を寄せた。それから助けを求めるように左右を見回す。
「水がいりますね、これ」
「船の中にコップがある。取ってくるよ」
「僕が」
俺が戻ってくると、ラピは待ちきれないというようにコップを引っ掴んだ。水を注ぐと、すぐに一気飲み。
「ああ、少しずつ飲んだ方がいい。辛いのはわかるけど」
「だって」
「こっちの食べ物は、西部とはまた違うんだ」
ディンが肩を竦めて軽い調子で言った。
「西部も暑いんだけど、あっちはどっちかっていうと酸っぱいのが多いよね。こっちは辛いのが多いんだ」
この春巻もどき、中身はジャガイモと細かく刻んだ野菜だ。但し、そこに甘いココナッツと香辛料を混ぜ込んだソースが浸み込ませてある。塩味はそんなに感じない。まず、ドアに鼻先をぶつけたような……いや、もっと上品な表現をするなら『熱帯の静寂』とでもいおうか……地上を圧する陽光を思わせる香りが漂う。ラピは焦げ臭いと言ったが、これはクミンでも使ったのだろう。だが、その後に激しい辛さが襲いかかる。レッドチリペッパーがしっかり効いているのだ。その刺激を中途半端に引き戻すのがココナッツソースなのだが、口にする側からすると、進むもならず、退くもならず、といったところか。
「ギィ」
最近はペルジャラナンの表情もだんだんとわかるようになってきた。おいしいと言いたいのだろう。トカゲにそんなものがあればだが、頬が緩んでいる気がする。
「パルトヤスよりウマい」
そう言いながら、ディエドラの表情も苦々しかった。こういうのは辛さが洗い流せない。水を飲んでも口を閉じると後から後からじわじわくる。
「慣れるまでは待つしかないね。そのうち辛さは引いていく。今、水を飲み過ぎない方がいい。それより時間がかかると思うから、昼寝の準備でもしておこうかな。もう少し経ってもまだなら」
果たして、ディンが予想したように、ワングはすぐには戻ってこなかった。そうこうするうち、太陽の位置がほぼ真上に差しかかって日影がなくなっていく。
そこで思い切った彼は、全員をまた甲板に戻した。船室に連れ帰ってもいいのだが、そこは風が通らないので、どっちにしろ蒸し暑い。だから、船内にある補修用の木材を柱代わりに、予備の帆を屋根にして甲板に日陰を作った。
準備が整うと、彼は当然のように横になった。船員達も同じようにしている。それで俺達は顔を見合わせつつも、それならと休むことにした。
ワングが戻ってきたのは、海面が橙色の光を照り返す頃になってからだった。
結局、何もしない一日だったのに、やけにくたびれた気がする。だが、俺の視線に恨みがましいものが混じっていると悟ったワングは、身を竦めて言い訳を始めた。
「この国じゃ仕方ないネ」
「何か困ったことでも起きたんですか?」
「何もなくてもこれが普通ネ。なんでもかんでもコネで決まるネ。倉庫は倉庫、宿屋は宿屋、みんな仲間内で固まってるネ。話を通すのに段取りというものがあるネ」
俺が首を傾げていると、待たせてある馬車に向かうよう、彼は手で指し示した。長い話になりそうだと察した俺は、従った。
馬車に座ると、俺のすぐ横にワングが詰めて座ってきた。そして早口に説明を始めた。
ここポロルカ王国では、万事が血縁、地縁で決まる。
例えば、海辺の倉庫管理。これは代々同じ血族が仕事を独占している。それも、職能は細分化されているのが普通で、船から倉庫に貨物を運搬する役割の家柄と、倉庫の警備を担当するのと、倉庫の補修を行うのと、全部別々だ。
宿屋も同じ。まず、宿屋のオーナーがいくつかの血族集団から成り立っている。その下で働く料理人、これから食べる皿を運ぶ給仕係、食べ終わったお皿を下げる人、清掃担当、警備員と、これらもすべて別々の家柄だ。それどころか、夜間の照明を点す係までいる。
そのため、何事につけ、話を通すのにやたらと時間がかかる。
「ねぇ、ワングさん」
俺は軽い苛立ちを感じながら、彼に尋ねた。
「なにネ」
「前に言ってませんでした? きっとこの国が気に入るとかなんとか」
「言ったネ」
「どこがいいんですか。面倒なだけじゃないですか」
だが、彼はこの点ではまったく怖気づいたりはしなかった。
「慣れれば快適ネ。この国にいる限り、何も考えなくていいからネ」
「考えなくて……いい?」
「そうネ! もちろん、お金はいるネ。でも、あとは問題ないネ。何をするか、細かいところまで、みんな前もって決まっているネ。誰も迷わないネ……迷うのは、余所者だけネ」
前もって決まっている。それが快適、か。
わからなくもない。何も決まっていない世界では、何もかもをいちいち自分で準備しなくてはいけない。物事の進め方、やり方が定まっていないので、ほとんどの人が迷子になる。すると……カリのスラムで見たような惨状が広がることになる。みんな場当たり的に露店を開いたり、売春したりするのだ。それすらまだマシで、大半は行き場所をなくして、ただ日中を寝て過ごすことになる。
なぜそうなってしまうかというと、自分が手探りで行動するのと同じように、他の人もまたそうだからだ。役割分担というものが存在しないから、あちらでいきなり俺が「料理人をやります」と宣言したところで、食材の卸も出てこなければ、食堂を建ててくれる大工も現れない。
歴史の荒波に翻弄され、文化を喪失しただけの西部地方と違い、ここ南部は、暗黒時代を通して王家が入れ替わることもなく、社会が維持された。結果、隣り合っているにもかかわらず、あちらとはまったく正反対の社会が出来上がったらしい。
血縁、地縁でそれぞれが縄張りをしっかり掴んで手放さない。それぞれが利権集団で、枠からはみ出ることはない。階層は分断され、役割は固定される。
「こら! どっちへいくつもりだ!」
突然、ワングがシュライ語で怒鳴りつけた。その、あまりに乱暴な口調に、却って俺の方がびっくりしたくらいだ。
「行き先は伝えただろう! 『白銀の花』亭まで行けと言った!」
すると御者は振り返って言った。
「もう『白銀の花』亭はない。去年廃業した」
「いいからそこまで行け」
「ここからなら『白蓮の池』亭のが近い。あそこのが安い」
「知らん。お前は何がしたいんだ。いいから行け」
「だったら『白銀の花』亭はここから歩いてすぐだ」
「うるさい! ビタ一文払わんぞ! 行くのか行かないのか!」
手振り身振り、今にも掴みかかりそうな勢いで、ワングは御者に喚きたてた。それで御者も不機嫌そうに小さく溜息をついて前を向いた。
「失礼したネ」
「い、いや」
「こっちの人間は、家畜と同じだと思った方がいいネ」
「家畜って」
少々引き気味の俺だったが、彼は当然のことといわんばかりだった。
「さっきの話の続きネ。全部地縁と血縁で繋がってるから、余所者は人間じゃないネ。いや、繋がりのない人間は、同じ街に住んでいても人間じゃないネ」
「ひどくないかな……」
「むしろ快適ネ。いちいち気を遣わなくていいネ」
それはそれで、別の意味でゾッとする。
血縁も何もない相手は手段でしかない。だからこそ、礼儀作法もへったくれもなく、騙したり吹っ掛けたり、怒鳴りつけたりできる。互いにそういうつもりだから、良心の呵責も何もない。
この社会では、上層に位置する人達は、下の身分の人間を、文字通り道具として使役する。下の階層の人間も、そのことには何の感情も抱かない。役割としてすぐ傍に立つことはあっても、実質的には接点がないのと同じ。互いが互いにとってモノでしかない。
「黙ってると、勝手に馬車に知り合いを乗せたり、関係ないところで勝手に降ろされたり、何があるかわからないネ。何かあったらとにかく怒鳴るのがいいネ」
想像してみて欲しい。前世日本の東京で、足裏マッサージを受けるとしよう。でも前日に入浴していなかったり、靴下を変えていなかったり、水虫だったり……そんな時に、たまたまかわいい女の子が笑顔で接客してくれたとしたら、どんな気分になるだろう? 感想は人それぞれだろうが、俺なら気恥ずかしくなってしまう。汚い足でごめんなさい、だ。
だが、ラージュドゥハーニーの人々には、そんな感情がない。足裏マッサージ屋は生まれた時から足裏マッサージ屋で、利用者にとっては道具としての価値しかない。他の接点などない。だから、汚い足を向けることについての羞恥心もなくて済む。
互いが互いに冷酷だからこそ、歯車が噛み合う社会なのだ。
「倉庫は借りられなかったネ」
「えっ? 確か売り物を積んできたんじゃ」
「バハティーでもそんなに売れなかったネ。こっちではいい値がつきそうだけど、何を売るにも時間がかかるネ。仕方ないから、船に残したままにして、警備員をしっかり雇うネ」
まぁ、俺の商売ではないから、それでいいのならいいのだが。
ワングは急にパッと笑顔を見せた。
「それと、ファルス様のためにお仕事もさせていただいたネ」
「えっ」
「陳情ネ。土地の利用許可を取るためにわざわざここまで来たはずネ? 明後日、知り合いの貴族にお目通りできるネ。これ、普通よりかなり早いネ。私、これでもかなり粘ったネ」
確かに、今日の昼に来て、明後日の面会を取り付けるなんて、大したものだ。ここはワングが偉そうにしても当然といったところか。
「あ、ありがとう」
「どういたしましてネ!」
馬車はよく整備された路面を滑るように走っていた。景色が流れていく。
茶色の瓦屋根に白い壁、大きな庇にそれを支える円柱。そんな家々の前を、みすぼらしい服を着た男達がゆっくりと行き交っている。彼らの表情には、まるで緩みが見て取れなかった。いまだなお日中の熱気を残すこの街には、言葉にしがたい圧迫感、緊張感が居残っていた。
この馬車とすれ違った、とある男。彼と俺達とは、その瞬間、三メートルも離れていなかった。だが、住んでいる世界はまったく別で、遠く隔たっている。そして二度と轍が重なることはない。そもそも馬車に乗る身分の人間と、ただ歩くしかない庶民とでは、何もかもが違い過ぎるのだ。
西部地方も極端な土地柄だったが、南部も南部で、随分なところらしい。滞在中は気を引き締めてかからなくてはいけない。
俺は口元を固く引き結んで、夕暮れ時の大通りを眺めるばかりだった。




