捕獲作戦・登山
刃物のような微風が、そっと頬を撫でていった。身震いするほど寒いとは感じないが、それでも露出している部分だけは、どうしようもなく冷たさにさらされる。
見上げれば、空は相変わらずの灰白色だった。このところ、抜けるような晴天には恵まれていない。だが、この数日間、一度も降雪がなかった。してみると、雪山の街道に足を踏み入れるのであれば、今が最適ということになる。旅人をたちまち凍えさせる吹雪は危険だが、心まで温まるような晴天もまた、恐るべき雪崩の原因となる。
ティンティナブリアの盆地を抜けるまでは馬車で、そこからは徒歩での移動となった。ところどころ雪の積もった山道で、馬車が役に立つとも思えない。だから、荷物は自分達で運ぶしかない。各自、いざというときのために食料その他物資を背負い袋に詰めている。最悪の場合は、それで当面の生存を確保することになっている。
「平気か」
「大丈夫。歩ける」
シャルトゥノーマの肩に手を置いて、マルトゥラターレが目を閉じたまま歩いていた。最初、ディエドラが手を引いていたのだが、それでは危ないということで、この形となった。どうも本人の言うところによると、手を引っ張られるのは本当に怖いらしい。肩に手を置けば、先行する人の体重移動が手に取るようにわかる。例えば、段差があれば大きな動きがある。これが指先だと、肘や手首、指と関節が多すぎるために衝撃が緩和されて、そうした情報がほとんど消失してしまうのだとか。
「大丈夫かな」
ポツリとウィーが呟いた。そして、口に出してから、慌てて取り消した。
「って、ごめん」
「いや、不安になるのは分かる」
とはいえ、他の人はともかく、今からウィーに帰ってもらうわけにはいかない。
「本当に、今回は申し訳ない」
恐らくアナク……いいや、もう、アナクと呼ぶことにしてしまおう。彼女は、必ず俺の周囲の人間に狙いをつける。動機は相変わらず不明瞭だが、俺の弱点ならよく把握できている。直接、俺を殺そうとするより、その周囲を脅かす方が、より有利に戦えるとわかっている。
では、そんな彼女を罠にかけるには、どうすればいい? 残念ながら、撒き餌が必要だ。つまり、俺の周囲の人間が危険にさらされなくてはいけない。俺が身内を守るために全力を振り絞り、余裕をなくす状況。これを演出しなくては、アナクを誘い出し、その背面を狙い撃つことはできない。
「散々実験しただろ? お前はお前の仕事をしてくれりゃいいんだよ」
ホアが肩を竦め、余裕たっぷりにそう言った。
「そりゃ、ボクはボクで、やることはやるけどさ」
「バカでも当てられる特別製の矢を用意してやったんだぜ?」
この言われように、ウィーはムッとした。
「普通の矢でも、ボクは外さないよ。この腕にかけて」
「いいねぇ、頼もしいぜ」
そう言ってから、今度はホアが表情を曇らせた。
「負ける心配なんざしてねぇけどよ……」
「なんだ? 何か問題があるなら」
俺がそう尋ねると、彼女は首を振った。
「いいや、こいつは勝った後の心配だから、今する話じゃねぇ。忘れてくれ。目先のことに集中しようぜ」
すぐに職人の顔に戻った。ホアに関して、信用できるのは、この部分だ。天候を見極めるこの数日間を、ホアは自分の仕事に充てた。道具を準備し、繰り返し動作確認をして、あとは俺達がそれを現場で使うだけ、という状況になったのだが、彼女はこの遠征への同行を申し出た。危険だから、と断ろうとしたのだが、彼女は至極まっとうな、真面目な理由で参加を主張した。
『道具がちゃんと機能するか見届ける役目があるし、使うまでダメにならないか、修理する必要があるかを確かめる役割がある』
まったく戦闘能力がないのでもないが、今回、ホアは戦わない。自分の優位性のある仕事にだけ集中すると宣言した。具体的には、道具の管理と運搬だ。怪力の神通力を備えた彼女は、他の人より多くの荷物を背負うことができる。各自が持参する非常用の物資以外、かなりの分量をホアが一人で引き受けてくれている。
「まずはオーガからだけど、出てきてくれるかしら」
ノーラが周囲を見回しながら、そう呟いた。ジョイスが答えた。
「傍から見れば、人数こそ多いけど、半分以上が女だ。うまそうな餌に見えてるんじゃねぇか」
「同感ですな」
ギムが頷いた。
「私も過去に一度だけ、経験があります。フォンケニアの山地に出たオーガを討伐したことがありましたので、少しばかりは、わかることが」
「僕もオーガ退治に出かけたことはあるんですが」
「ファルス様も、そういえば、アルディニアでご経験なさっておいででしたな」
ギルも連れてくるんだった。後知恵でしかないが。
「いえ、それが……確かにオーガを一匹、倒しはしたんですが、ほとんどゴブリンの相手になってしまい」
「おお、そうでしたか」
彼はまた頷き、説明した。
「連中は、あまり物事を深く考えないようでして。ただ、群れの単位で上下関係はあるようでしてな。一匹だけで殴りこんできたりはしないのです。だいたい、下っ端のオーガが森の中からこちらを見ていて、人間だとなると、毛だらけの足の裏で音を殺しながら駆け戻って仲間を呼び集めるのです。それで、群れなして、大きな木の棍棒を携えて戻ってくるのですが」
「なかなか賢いように思うんですが」
「それが、そうでもないのです。相手がいかにも弱そうな旅の商人とかであれば、警告なしに物陰から飛び出してきて、棍棒を力任せに振るうのですが、私どものような武装した集団だと、街道に出てきて、胸を広げて威嚇の声をあげるのですよ」
ギムは苦笑した。
「だから、それを見て、味方は矢を番えるのです。ですが、連中は深く物事を考えませんから。矢を向けられても、避けようとしないのです。矢が刺さるまで、矢が危険なものだとわからないようで」
「相手の強さとか、危険性を、やたらと大雑把にしか判定できない……」
「左様です」
しばらく無言で雪の道を歩きながら、ノーラが言った。
「その話からすると、私達の場合は」
「前者、奇襲を警戒すべきでしょう」
「そうなるわよね……」
そこにウィーが疑問を差し挟んだ。
「ん? でもじゃあ、それならオーガ退治なら、弓を持っていけばいいってこと?」
「それがそう単純でもなく」
俺も感じた疑問だった。だとしたら、なぜタリフ・オリムの冒険者達は、重い盾と剣を持ち込んでいたのか、という話になるからだ。
「連中は、命中するまでは弓が危険であるとわからないのですが、命中すると、痛みを感じますので、ちゃんと怖がります。すると逃げ出すのですが、やたらと頑丈ですので、それだけの傷ではなかなか死なず」
「でもそれなら、接近戦を挑んでも同じことでは」
「いいえ、いざ向かい合って暴れだすと、興奮が収まらないらしいので。しっかり討伐したければ、やはり正面から挑むのが確実なのです」
もっとも、そのような常識は、今回の討伐ではそこまで意味がない。視界を確保できさえすれば、ノーラが次々昏倒させられる。ただ、そこにアナクという不確定要素が入り込んでしまった。
手の内をさらしてしまったら、襲撃の好機と判断してもらえないかもしれない。だから、そうなるまでの時間稼ぎをするのが、ギムやジョイスの役割となる。つまり、襲い来るオーガの群れを相手に、苦戦を演出することになる。
「あくまでその場から追い払う時には、矢は有効なのです。但し、ぶつかり合う前までの話ですが」
「なるほど」
そこで会話が途切れた。不必要な会話は、脱水を招く。用がなければ黙っていた方がいい。そこからは、ブーツで雪を踏みしめる音ばかりが耳についた。
その日は、西の尾根の向こうの空が、うっすらと赤みを帯びるまで、ただただ歩いた。アナクは無論のこと、オーガも襲いかかってくることはなかった。この辺りは街道のすぐ近くに木々が密生していることもなく、見晴らしがよかった。ただ、日が暮れる頃には、いよいよ本格的な山道に差し掛かっていて、いよいよ山上の森が眼前に迫ってきていた。俺達は道の脇の広場のような場所に降りて、宿営地の準備にとりかかった。足下には雪が積もっていたが、マルトゥラターレが手をかざすと、見る間に雪がひとりでに這いずりだして、そこから遠ざかっていった。冷たいながらも乾いた地面にテントをいくつか立て、その真ん中に焚火を置いた。
持ち込まれた食材を鍋の中に放り込み、調理する。俺の仕事としては大味に見えるかもしれないが、料理の役目は状況によって変わるものだ。冬の雪山に向かうのなら、味は二の次。重要なのは、いかに生存の役に立つか、だ。何より体を温めることが大切になってくる。また、カロリー摂取も重要だ。
「仕掛けてこなかったな」
ジョイスが、いかにも拍子抜けといった調子で、そう吐き捨てた。
「あちらは飛べるそうですから、引き返すのが難しいところまでこっちが出向くのを待ってから、襲うつもりなのではないでしょうか」
ギムが丁寧にそう述べると、ジョイスは小さく首を振った。
「いや、そうじゃなくって、オーガの方の話のつもりだった」
「ああ、失礼しました」
「奴ら、こっちに気付いてやがるぜ」
彼の役目には、敵意の検出も含まれる。そして、どうやら斥候役のオーガは、俺達を既に捕捉しているらしい。
「それなのに、まだ襲ってこねぇんだな」
「夜のうちには注意が必要かも」
ディエドラが言った。
「なら、見張りはやってやる。今回は、あんまり暴れられそうにないからな」
「助かる」
なんとも落ち着かない状況だった。アナクの襲撃も想定される中、既にオーガにも狙われている。だが、まだ仕掛けてはこない。狙われていることを承知の上で、なお隙をさらして飯を食い、眠りにつかねばならない。
「まぁ、今更、なんてこともないわ」
だが、ノーラは腹が据わっていた。
「旅をしている最中なら、いつもこんな感じだったじゃない」
「まぁ、そうだけど」
「面倒事が一気に片付くと思えば、ちょうどいいわ」
さっさと食べ終えると、何も力むことなく、彼女は焚火の周りから立ち上がってテントに引き篭もった。熱を保ったまま、寝床でも暖かく過ごそうというつもりなのだろう。
「凄いね、度胸が」
そんなノーラの背中を見つめながら、ウィーが溜息交じりにそう言った。
「お前のせいだな」
ジョイスが皮肉気な笑みを浮かべた。
「そう、かも」
何とも複雑な気分だったが、この状況ではありがたいばかりだった。
翌朝、荷物を纏めると、俺達は再び歩き出した。いつ、どこで、何が起きても不思議ではない。危険を予想しているためか、誰もが無口だった。
オーガが数多く潜むのは、山の中でも特に、こうした森の中なのだが、歩いているうちに出くわすことはなかった。相変わらず灰白色の空の下、進むうちにだんだんと木々がまばらになり、あるところで急に視界が開けた。
そこは尾根の根元の部分だった。左手にかけて、緩やかに斜面が続いている。今はもう半ば途切れかけてしまっているが、かつての街道もここに繋がっていたらしい。ここが山々の最高所ということはもちろんなく、周囲を見回せば、いくつもより高い位置の峰が聳え立っていた。そして、そのいずれもが雪化粧をしている。すぐ目の前の尾根も、時折黒々とした岩が顔を覗かせてはいるものの、ほとんど真っ白だった。これはかなり積もっている。
すぐ目の前の斜面を登り切れば、かなり視界がよくなるだろう。ただ、樹林帯を抜けたのもあって、風が少し強くなっていた。
俺達は、顔を見合わせて、ゆっくりと登り始めた。だが、少し進んだところで、自然と足が止まった。
「……こんなにいやがんのかよ」
ホアがうんざりしたと言わんばかりの声色で、そうこぼした。
真っ白な尾根の向こうから、不吉さを感じさせる毛むくじゃらの集団が、ほとんど音もなく姿を現しつつあった。ざっと見て、頭数は十、いや、それよりもっと、たくさん。
「くるよ? どうする?」
弓に手をやりつつ、ウィーが確認した。
「予定変更なし。手筈通りに」
ここで決着をつける。
俺はそう告げた。




