元復讐者の意見
空は快晴だった。小さな綿菓子のような雲が、次々と頭上に浮かんでは流れ去っていく。
俺が腰を落ち着けているところの右斜め前から、まるで突き刺さるような冷たい突風が、止むことなく流れ込んできていた。舳先の左手は明るく輝き、その反対側は、暗く沈み込むような影になっていた。
ノーラを送り出して間もないのに。俺自身がこんなにすぐティンティナブリアに向かうことになるとは、それもイーセイ港に行くとは、思いもしていなかった。ノーラは、俺の顔を見たら喜んでくれるだろう。でも、何が起きたかを伝えたら、どう思うだろうか? 仮にも手を取り合って迷宮に挑んだ仲間が、今は激しい憎悪に駆られて、俺を追っていると聞いたなら。
とにかく、アナクと思しき襲撃者が、こちらに矛先を向けてくれることを期待するしかない。ただ、今すぐはやめてほしくもある。逃げ場のない海の上では、運が悪いと犠牲が出るかもしれない。
一応、そうした危険を小さくするため、この船にはマルトゥラターレも乗っている。彼女が無事なら、水中に落ちた人はすぐ、救出されるはずだ。濡れた衣服からもすぐ水分を除去してもらえるので、冬の海の冷たさにショックを受けて即死するのでもなければ、命だけは助かる。それに水中なら、熱線や槍の投擲の威力も減衰されるだろう。それと、少しでも早く到着するために、シャルトゥノーマの手も借りて、風を絶やさないようにしてもらってもいる。
襲撃者がどうやって俺の予定を調べているのかはわからない。だが、こちらに目を向けてもらう必要があるので、今回はあちこちに伝達した。学園にも、領地の見回りのために短期休学を申請した。わざわざ目立つように船を借りての移動を選んだ。俺が一人で空を飛んだのでは、あちらが追いかけるのに差し障りが出るかもしれないから。
無事に港に着きさえすれば。着いたら、どうする?
そこから先の思考は、とにかく散り散りになってしまい、整理がつけられなかった。
軽い足音が聞こえた。
「何してるのかと思ったら」
ウィーだった。風に帽子を吹き飛ばされないよう、頭を抑えながら、こちらに歩み寄ってきた。
「ここ、結構寒いでしょ。日当たりも悪くないけど」
「まぁね」
「何してるの?」
「襲撃があったら、防がないと」
「一応、対策はしてあるんでしょ」
「そうだけど」
片手を腰に当て、彼女は短く溜息をついた。
「見張るのはボクらがやるよ。ファルスは休んで」
「でも、狙われてるのは僕だし、恨まれているのが僕なら、僕の責任で、みんなはそれに巻き込まれて」
「そういうのいいから」
そう言われてしまうと、なんと言ったらいいか、どんな顔をしたらいいか、わからなくなる。
「それよりさ」
帽子を押さえたまま、彼女は南に目を向けた。
「眩しっ」
「そりゃ真昼間だから」
「せっかく海に出たんだし、きれいな空気でも吸ってさ。眺めの良さを楽しむとか、そっちのがずっと有意義だよ」
海、か……
そういえば、かなり昔に、ウィーと海を眺めたことがあったっけ。あれはどこだったか。そうだ、ピュリスの南、ブルカンの浜辺だった。
「ウィーは、今は、どう思っている?」
「ふぇっ?」
「その、弓のこと。前に言ってたよね。これは殺す道具なんだって。責任はついてまわる。逃げられないって」
俺にそう尋ねられると、目を丸くして、それから数秒間、硬直していた。
「あー」
「どう?」
「なんだったっけ?」
崩れ落ちそうになった。
「ほ、ほら! ブルカンの! だから、例の疫病、ピュリスがああなる前に、リンさんに言われて見に行ったでしょ!」
「あ、あぁ! 言われて思い出した!」
わかってはいた。ウィーはそんなに物覚えのいい方ではない。
「うん、なるほど、そっか」
だが、記憶が甦ったのだろう。もう頭を押さえるのはやめたようで、諦めて帽子を手に取った。途端に髪の毛が風に吹かれて、白い頬に絡まる。
「うっ……うざったいなぁ、髪の毛、こういう時は、男のが楽だなーって」
「戻る?」
「戻らない!」
それから彼女は俺の真向かいに置かれていた木箱に腰を下ろした。
「そうだね。そういうこと、言ってたね」
「今はもう、そんなことでは悩んでない?」
「ううん」
これから行く先にある西方大陸を視界に収めようとしてか、目を細めて、水平線の彼方を眺めやりながら、ウィーはポツリと言った。
「前にリリアーナちゃんに詰められた時には開き直ってみたけど、本当は罪悪感、なくなってなんかないよ。処罰を受けろっていうのは、至極まっとうな話だし、そりゃ怖いけど、楽にもなるかなって思いもある」
「じゃあ、どう折り合いを?」
「折り合い、じゃないかな。ボクの場合は、勝手に死ねないってだけ。だって、ファルスにも助けてもらったし、何より、全力で生きようとしなかったら……」
それで理解が追いついた。
「じゃあ、クレーヴェ様のために」
「ために、っていうのでもないんだけど、なんだろう? がっかりさせちゃうかなってくらいかな? ボクは多分、悪い奴で。恨んでる誰かもきっといて。だけど、それひっくるめて全部、抱えていかなきゃいけない」
見上げれば青い空。反り返る白い帆。世界はこんなに明るいのに。
「多分、ボクの弓の餌食になった動物は、ボクが生きる事なんて、望んでくれてない。命を粗末しないためにちゃんと食べようとか、そうすれば少しでも罪滅ぼしになるとか、そんなの嘘だよ。だってそうじゃない? 殺された挙句に、ボクにおいしい思いをさせて、養分にまでされてさ。ボクが獲物だったら、せめて自分の肉がまずくなれば、お腹でも壊せば、って思っちゃうよ」
「じゃあ、僕も共犯だ。そんなことにならないよう、丁寧に調理するから」
そう言うと、彼女は小さく笑った。
「でも、いつか……それができるかどうかわからないけど、もし、ボクが倒れる日が来たら。その時は、難しいけど、どう思うかもまったくわからないけど。ボクは、ボクの命を奪った何者かを祝福しなきゃいけないのかな。そんな風に思うこともある」
「確かに難しい、ね」
「でしょ。理屈だけ考えたらそうなるんだけど、どうすればそんな気持ちになれるかなんて、全然見当もつかないから」
まるで矛盾する振る舞いだ。ウィーは命を惜しむ。それは、自らが手をかけたもののために。でも、クレーヴェはともかく、その他の彼女の手にかかった者達は、彼女の生存をきっと望まない。だから、彼らのためにも生きるんだと宣言するのは、奇妙なことだ。その奇妙さを承知で、でも、そうするのが正しいのではないかと考えている。だけどその延長線上にあるのは、いずれ彼女を死に追いやる何者かへの祝福と……確かに、そう繋がらなければいけなくなる。
「まぁ、薄情なのかもね、ボクは」
「そんなことは」
「仇討ちのためにピュリスにいた頃は、やることを済ませたら本当に死ぬつもりだったし、欲もそんなになかったんだけど、今はそうじゃないから」
「えっ?」
俺が間抜けな声を漏らすと、ウィーは口を尖らせて、爪先で俺の脛を蹴飛ばした。それからスッと立ち上がる。
「まさか、逆の立場になるなんてね」
恨みを晴らすために仇を追っていた側が、今では仇討ちに追われる側と一緒にになっている。
「どうしたらいいと思う?」
「それは、だって、わからないよ。話に聞いただけだと、どうしてそこまで恨むのか、サッパリだもん」
「うん、そこは」
「案外、別の恨みかもだよ? 大勢、女の子を惑わしてきたから」
「笑い事じゃ」
俺の反論を受け付けず、ウィーは笑いながら言った。
「それくらい、肩の力を抜いた方がいいってこと。それより、うまく捕まえる方法を考えるのが大事なんだし」
「あ、うん」
「休みなよ、本当に」
「わかった。ありがとう」
ウィーが船室に戻るのを見届けてから、俺はまた、さっきのように青空を見上げて過ごした。
答えが出ない。
俺は今、人として生活している。それも、この世界の基準で言えば、相当に上等な暮らしを楽しんでいる。だが、それは許されることなのか?
いい悪いではなく、そうすべきという理屈はわかる。俺がまた、不幸の中で苦悩し、そこを使徒達に付け込まれたりしたら、どうなってしまうのか。それならいっそ、贅沢でもして、きれいな女達に取り巻かれて、面白おかしく過ごしていた方がいい。モーン・ナーの呪詛につけ入る隙を与えないためにも。
ただ、それなら、他の方法だってある。モゥハの管理下に身を置けばいい。事実上の囚人として、ヌニュメ島の中で過ごす。もちろん、いずれはそうなるだろうと思っていたし、だから俺は、自分と人生を共にする人をもつことができないと考えてきた。留学前にノーラの思いを拒絶する形になったのも、突き詰めれば、俺に先がないからだ。
というより、俺に未来なんて、あってはならない。行きがかり上、ティンティナブリアの領主にはなった。でも、貴族として栄耀栄華を楽しむつもりなんてない。いずれは死んだように生きねばならず、だからこそ、この世に未練を残したくなかった。ただ、それならせめて、許された時間の中で、生きた意味を残したい。それもあって、コーヒーと醤油の生産と普及に取り組んだ。あれらで利益を得られるのはいいことだが、それが俺の儲けになるのは、オマケみたいなもの。なんなら、発見者、発明者として名を残したいとさえ思っていない。ただ、あれを世界中の人々に味わってもらえたなら。本当は、それだけが望みだった。
そしてもちろん、そんな願いを実現できたことさえ、俺には過分な幸せだ。
だが、この考えを更に深掘りすると、俺にはますます逃げ場がないように感じられてきてしまう。
俺はモーン・ナーの呪詛を受けてこの世に生まれてきた。それ自体は、罪悪とまではいえないかもしれない。俺の前世がひどかったから、というのは言い訳にならないとしていいが、裏を返せばそれは、その程度の不幸は誰にでも起き得ると、例外的事象に含めることはできないという判断と不可分でもある。つまり「言い訳にできない程度の不幸」でもモーン・ナーの呪いを引き受けることは可能だったのであり、俺の側が特異的でないといえるのだから……偶然、俺のいた世界に、俺が死んだタイミングで、モーン・ナーの呪詛が滑り込んできた……こちらの方こそ、逆に避けようのない不運だったという結論になってしまう。なにしろ神の力が相手なのだ。ただの人間でしかなかった俺に、どうにかできた代物なのか。
といって、では、サハリアで大量虐殺に手を染めた俺が、全部呪いの影響でしたと言えば、そして残りの人生はすべてモゥハの監視の下、誰にも危害を加えないよう静かに過ごしますと、そう宣言すれば、その罪悪は許されるのか。許されていいのか。こちらの世界に生まれ変わることについて、俺自身の意志が介入しなかったとはいえないし、その後の人生にしても、与えられた条件下においてではあるものの、都度、意思決定をしてきた。その結果があれなのに、本当に人としての責任から逃れることができるのか?
それだけではない。贖罪のためにヌニュメ島に幽閉される未来を引き受けますと、それは必要な措置ではあるにせよ、だからといってこれが謝罪として十分であると言えるのか? でも、だからといって、では俺がヌニュメ島に渡ってから、毎日毎日、反省の言葉を唱え、犠牲になった方々のためにと地に伏して祈り続けたとして。それが何の役に立つ?
反省とか謝罪とか、要するにそれは便宜上のもの、社会的な文脈においてのみ意味をなすものではなかろうか。処罰は罪人を赦し、人の世に連れ戻すためにある。だから前世の刑法にも一事不再理の原則があったりするのだが……この赦免は、両面的だ。外部から見れば、一定の処罰をもって逸脱による利益を上回る不利益を、罪人に与える。それによって罪人の不当な利益を無として、社会復帰を許す。そして本人も、進んで処罰による不利益を受け入れることで、今度こそ人の世に再度、参加することができる。でもそう考えてみると、社会が裁こうにも人の枠から外れすぎているこの俺には、処罰を通して自己を納得させるという手順を踏む余地が失われてしまっている。
誰かに罰してもらうことで清められるという道筋は、俺にはもう、残されていない。それでも常人の生であれば、過去から目を逸らし、どうにか折り合いをつけて、生きるなんてこんなもんだと言い放っても済んでしまうのかもしれない。だが、俺にそんな中途半端は許されない。そんな気がする。
俺は今まで、いつかヌニュメ島に幽閉されるという事実に安心していた。そうとしか言えない。罰してもらえるのだと。でも、それはいかにも甘い考えではなかったか。
フシャーナを魔王の手先だと誤解した時、俺は戦う覚悟を決めて、彼女の地下室に殴りこんだ。あれは、この世界の秩序を保つための、正義の戦いだ。あれが勘違いでなく、事実だったとしたら、そのような献身が間違いであるということにはならない。だが、そのような選択をする俺の中に、罪悪から逃れたい、少しでも正しいことをして、自分の過ちを帳消しにしたいという、さもしい考えはなかったか。
でも、それらを偽善であるとするなら、では、俺はどうすればいいのか。ただ、俺はアナクと思しき例の襲撃者の黒い槍を目にするまで、この問題を心の倉庫に置き去りにしていた。
出口のない考えだった。
俺は身を起こした。ウィーの言う通りだ。いくら気に病んでも、それで何かが改善することはない。ここにいても、体を冷やすばかりだから。




