喪失と自由
「最悪の結果。他に言葉もないな」
「面目次第もございません」
シーチェンシ区のタマリアの自宅前で、二人の門出を祝したその翌日。俺は朝一番に、帝都中心部の高級ホテルに宿泊していたアルタールの部屋を訪ねていた。言うまでもなく、リシュニアも同席している。
「見事に私の任務も失敗。しかも、手助けをお願いしたはずのファルス殿も」
「いえ、あの、その、そういうつもりでは」
リシュニアも、これには溜息をついた。
「そういうつもりではないと仰られても……ファルス様は明らかにベルノストに肩入れしておいででしたし」
「それは、はい、まぁ、否定しませんが。でも、一応、できる限りのことはしたんですよ」
「そもそものお話をさせていただくなら、ファルス様がタマリアさんを彼に紹介したのが、決定打になってしまったわけですので」
そう言われると、ぐうの音も出ない。メイドとして宛がう女なら、他に当てがないでもなかったのだから。例えば、オルヴィータに任せても、まったく問題などなかった。ただ、タマリアの生活苦が気になって、どうにか楽をさせてやりたいと、そういう思いがあったから、こうした人選になった。つまり、俺のお節介のせいだったと言えなくもない。
「えっと、わかりました、では僕、責任取って爵位を返上しますので」
俺の形ばかりの謝罪に、二人は苦笑するしかなかった。
「それは責任を取ったことになるのか」
「ファルス様はそもそも貴族の身分にこだわっておられないように見受けられるのですが」
バレている。領地も爵位もどうでもいい。オマケに、仮にもし、そうした身分に返り咲きたいと思ったら、ティズもドゥサラも、諸手を挙げて歓迎してくれる。今、タンディラールが与えているものを剥奪されたからといって、俺が本当に困ることなどない。
「どちらかというと」
笑いを収め、腕組みをしながら、アルタールは深い息をついた。
「ベルノストの方が、これから大変に違いないのだがな」
「小さな決断ではなかったはずです。一年前の時点なら、自分がムイラ家を引き継ぐものと考えていたでしょうし、殿下の右腕として働き続けることにも疑問を抱いていなかったでしょうから」
「自分の生まれをそのまま否定したようなものだ。細君がうまく支えてくれればいいのだがな」
彼がそう言ってから、少しの間が開いた。
俺の顔がよっぽど間抜けに見えたに違いない。急にアルタールは噴き出した。
「はっ、そうか。いや、なに、わかるだろう?」
リシュニアも、さっきと違って穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。私達にとっては失敗であり、損失かもしれませんが」
「期待していた愛弟子がこうなってしまったのは、王国の守護者としては失態とするしかないが……一人の青年にとっての指導者としての私からすると、喜ばしいという思いがないでもない」
これまで、次期国王の腹心として生きるべく、一切を束縛されてきたのが、ベルノストだった。大事に大事に鍛え上げてきた資質ある若者だ。なのに、それがこんな事件で失われてしまった。しかし、それで彼はようやく、彼自身のための人生を歩み始めることができるようになった。公人としては彼を責めつつ、私人としては彼を祝福せずにはいられない。
「やむを得ん。陛下には私から、ありのままを報告する以外にない。それに失敗といっても、大元の話をすれば、王太子殿下の過ちも大きい。我々の再三の説得を、まるで受け付けなかったのだから」
「王国を背負う重圧もあって、ああまで頑なになってしまったのでしょう」
「そうかもしれない。若さを考えれば、無理もないことだ。だが、もしかするとこの件」
瞑目し、アルタールは低い声で呟くように言った。
「或いは殿下にとって、人生最大の失敗となるかもわからない」
話し合いが済んでから、登校するには少し遅い時間に、俺は学園に向かった。教室に入ると、ちょうど昼食の時間の前で、みんな戻ってきているところだった。
「おっ、ファルス」
「ギル、昨日はお疲れ」
「おう! お前もな」
あれから、歯車橋をみんなで渡ってシーチェンシ区にまで戻ったのだが、軽く驚かされたのは、そこに食材が運び込まれていたことだった。スラムで売られているようなものではない。かなり上等な肉や野菜がたっぷりと用意してあった。それらをこっそり保管していた住民に尋ねてみると、どうやらリンの手回しだったらしい。
お祝い事、そして食材があるとなれば、もう俺のやることは決まっている。タマリアのために祝ってくれる住民達のために、俺は腕を振るった。
「話は聞いてるぜ」
ラーダイが言った。
「なんか、お前んとこの王子様が、あの……ベルノストと揉めたかなんかで、大変だったんだってな」
「まぁ、そんな感じだったかも」
「いやぁ、けど、大したもんだ。そりゃ、将来の身分をドブに捨てたんだ。バカなことをしたもんだっていうのは簡単だけどよ。そうは言っても、そこまで思いきれるってのは」
フリッカも頷いた。
「ちょーっと憧れちゃいますねー。なかなか真似なんかできることじゃないけど」
ランディは肩を竦めた。
「おっかないね。僕は帝都生まれでよかったよ。普通に結婚するだけでも覚悟がいるのにさ」
「なにそれ」
アルマが口を尖らせた。
「じゃ、私のためには、王子様の側近とかだったら、身分を捨ててはくれないんだ?」
「そうは言ってないだろ!」
教室内に笑い声が響き渡った。
そんな中、一人だけ陰気なオーラを纏った女が、片隅に座り込んでいた。
「マホ、今回は助かった。お礼は言っておく」
「あー……」
だが、俺から声をかけられても、ゾンビみたいな顔をしたまま、呻き声を洩らすばかりだった。
「どうした?」
「ああ、あのね」
深い深い溜息をついてから、マホは説明した。
「昨日の件、いろいろ事実が明らかになってきて、要は新聞社が誹謗中傷してたようなものじゃない」
「ようなものじゃなくて、まさにそれそのものだったな。タマリアが自分であることないこと言った件を書き散らしたのは、まぁ仕方ない。当事者の証言だから。でも、ベルノストの性暴力とか、その辺はもう完全に勝手な創作だったんだし」
「それだけじゃないでしょ? もともとはそういう告発があったらしいんだから。だけど、それも間違いだったみたいだし、いったんおかしいとなってからも、似たような記事を出し続けたもんだから、今、あっちの方で責任問題になってて」
「自業自得だな」
俺としては、鼻で笑うしかない。
「これを機会に、正義党の下部団体も、ちょっとは自浄作用が働くといいな」
「最低の気分よ」
そんな風に話し合っていたところで、教室にコモがやってきた。
「おっ、いたな。ファルス」
「えっ?」
「教授が、ザールチェク教授が呼んでる。執務室まで来るようにって」
それで急いで向かってみると、彼女は執務室の奥、重厚な机を前に、いかにも気怠げな様子で凭れこんでいた。
「やっときたのね」
「今までいろいろあったんですよ」
「わかってるわよ。そこ、閉めて」
俺が前に立つと、彼女は説明を始めた。
「まったく、どうしてこうも問題が起きるのかしらね」
「今回は運が悪かったというか。妙な真似をするのがいなければ、何事もなかったはずなんですよ」
実際、そうとしか思えない。
ベルノストがああなったきっかけは、オギリックが作った。無論、以前より、彼女に対して何か感情が動く部分があったのは間違いない。傍にいるだけで、明るい気持ちにさせてもらえていたのだろう。しかし、彼のくだらない買収工作がなければ、タマリアがベルノストのために身を引くということも起きず、よってベルノストがタマリアの美点に注目することも避けられた。
「その妙な真似をしたくだらないガキが、来年、入学してくるかと思うと、今から頭痛がしそうよ」
「入学試験で落としてしまえば」
「それができれば苦労はないけどね」
それで、俺を呼びつけたのは、何の用事なのか。視線に気づくと、彼女は背凭れに身を預けて、続きを語りだした。
「ベルノストのことだけど」
「はい」
「本当は、これもグラーブに直接言うべきことなんだけど。起きたことが起きたことだし? あの兄妹、話が通じそうなのがリシュニアしかいないけど、今日はまだ登校してきてないし、アナーニアは……ケアーナにこれ以上、背負わせたくもないし、あの子、もういっぱいいっぱいだと思うしね」
「それで僕に、何を? ベルノストのことで何か?」
彼女は頷いた。
「卒業資格を与えるわ。私の一存で」
「それは……助かるんじゃないでしょうか」
このまま、学園をただ退学した場合、ベルノストは移民相当の身分になってしまう。といって、帰国することもできないから、帝都でやっていくには相当な苦労が考えられる。一方、正式な市民権があれば、なんだかんだ就職にもチャンスが与えられる。
「でも、ほとぼりが冷めるまで、帝都にはいない方がいいと思う。コモ君とも相談してね。伝手があるみたいだから、オムノドの警備隊辺りに紹介しようとかと、そういう話になりかかってるわ」
「面倒見がいいんですね」
「タンディラールがベルノストの後見を取り消すとも思えないから」
なるほど、と納得が追いついた。
「うっかり身を持ち崩すようなことになったら、それこそ恨まれそうだったから」
「息子は距離ができても、父親はまだ期待を捨てていないだろうと」
「ベルノストもね、こういうことにはなったけど、長年に亘って培ってきた忠誠心ってもの、そう簡単にゼロになんかならないわよ。だから、いざって時のためにね」
あれだけ新聞社があることないこと書き立てた後なのだし、確かに二人が引き続き、このまま帝都にとどまるのは、いろんな意味で好ましくもない。
なんにせよ、それならタマリアの暮らし向きも、少しはよくなるだろう。オムノドは気候も快適で、街も美しい。きっと二人にとって、居心地のいい場所になるだろう。
「じゃあ、僕も、できる範囲で旅立ちの準備を手伝ってあげないとですね」
「そうしてちょうだい」
「昨日もかなり頑張ってお祝いしたんですが」
ずっとフライパンを振りっ放しだった。食材を余らせるわけにもいかなかったから、休みようがなかった。
「そういえば、昨日は結構なご馳走になったんですよ。多分、リンさんだと思うんですが、おいしい食材をたっぷり届けてくれて……あ、ええと、ほら、覚えてます? セリパス教会の」
「ええ」
フシャーナは頷いた。
「昼前にちょうど知らせが届いたの。彼女、今朝の船で、帝都を出たそうよ」
「えっ!?」
これには驚かされた。
やっぱり、あれは相当な無茶ではなかったか。義侠心から二人のために手を貸してくれたのに、俺はお礼もできないのか。
「まぁ、当然の結果じゃないかしら」
「無茶しすぎですよ、あれは」
「ええ。前から決まってたみたいだし」
前から?
話が嚙み合っていないことに気付き、俺はフシャーナを凝視した。彼女もそれで、俺の困惑を察したらしい。
「ちょっと、何の話をしているの? まさか、昨日の事件で彼女が教会から干されたとか、逃げ出したとか、そんな風に思ってるの?」
「そうでしょう? グラーブ殿下があちこち圧力かけてたのに、思いっきり無視したんですから」
「それはそれでマズいけど、その前から、彼女はもうクビが決まってたのよ?」
「ハァ?」
つまりはこういうことだった。
リンは魔宮の秘密を知る一人ということで、ドーミルの監視対象になった。また、それを前提にこなせる任務もあるということで、当初は昇進も視野に入っていた。だが、リンはそもそも強欲より怠惰が勝る女なので、枢機卿の椅子ですら欲しがらず、怠けられる身分を優先した。それで仕方なく、教皇は彼女に帝都でのファルス監視の任務を与えた。
特殊任務だから、という理由で、彼女は遊び呆けたらしい。ファルスを監視するという教皇の特命、しかもその詳細は誰にも説明しなくていいことになっていたので、教会関係者は誰もリンの行いを咎めることができなかった。
しかし、千年祭のゲーム大会に堂々と出場し、しかも優勝までしてしまったことで、さすがにごまかしが利かなくなってしまった。これにはハッシも庇いきれず、ついにリンの免職が決まってしまった。
とはいえ、リンとてまるっきりのバカではない。そうなる可能性も見越して、あれこれ手を打っていた。ちょうど彼女の故郷のフォンケニアのとある村に、資産家の男性が後添えを探しているという情報を得ていたので、彼女は人伝に自分を推薦するよう、依頼していたという。だから、今回はお見合いのために帰国、結婚が決まれば、そのままあちらで暮らすことになるはずだという。
「結婚? あのリンが?」
「お相手の男性、もういいお年だそうで、ほぼ寝たきりなんだって聞いたわ。看護を何年かすれば、財産も丸々相続できそうだって」
「ああ……そういうことか」
ピュリスで理想の結婚相手を尋ねたら、あの女、お金がいいと言っていたっけ。そういう奴だった。
でも、本当は、数年間の介護もしたくない。というか、男は不潔で臭いらしいので、そんな年寄りには触れたくもないだろう。それでも性的接触はないから、我慢することにしたに違いないのだが。
だから俺のところまでやってきて、楽な仕事の斡旋を陳情してきていたわけだ。できればそんな男の世話もせず、寝そべったまま暮らしていきたかったから。そして、最後に派手にベルノストとタマリアの結婚をサポートしたのも……
「教会の方からの連絡もあってね。大事な昼食会に使うはずだった食材が行方不明になったとか」
「えっ」
「あなたは知らずに使ったんでしょうけど」
「これ、彼女をクビにした連中への意趣返しに、こっちが巻き込まれたっていう」
やっぱり、リンはどこまでもリンだった。
変だと思ってはいた。妙にカッコつけていたし。でも、あの女がキャラブレなんかするわけがなかった。
日常が戻ってきたと実感したのは、その日の夕方だった。学園の校舎を出ると、もうすっかり夕暮れ時だった。本当に、秋は日が落ちるのが早い。
一連の騒動に巻き込まれて、あちこち駆け回っているうちに、いつしか夏の名残はまったく消え去って、季節ははっきりと入れ替わってしまっていた。
「お疲れ様です」
いつものようにヒメノが、そこで待っていてくれていた。けれども、もう、ここでベルノストと鉢合わせることはないのだろう。
「お待たせ」
それから、いつものように一緒に正門を出て、学園脇の道路を南に向かって歩く。
「また何か、いろいろ大変だったみたいですね」
「学園内でも噂になってるみたいだし、まぁ、本当に面倒な事件だった」
今回の一件は、グラーブにとって小さくない打撃になったと思う。ベルノストの喪失も大きいが、彼が圧力をかけても、側近一人、傍にとどめておくことができなかったと、そういう実績が残ってしまった。この事件の報告がタンディラールに届いたら、彼はどれほど失望するだろうか。
「外野から見たら、今回の件は、どう見えてるのかな」
「それは、そうですね」
ヒメノは、のんびり歩きながら、何もない行く手に目を向けた。
「あくまで個人的にはですけど」
「うん」
「やっぱり、憧れちゃいますね」
「憧れ、か」
身分も立場も、何もかもを放り出して、愛する人を選び取る。すべてのしがらみから逃れて、自分の思いを貫く。
確かに、憧れずにはいられまい。そして、そんな夢が叶うのは、ここが帝都だから。大陸の論理では逸脱でしかないし、みんながこれをやったら、世の中は滅茶苦茶になってしまうかもしれない。それでも、ただ心の裡に燃え盛る愛だけを選び取れるというのは、他では決して見出すことのない夢なのだ。
「強くないと」
「えっ?」
独り言のように、ヒメノが呟いた。
「強くならないと、自分の足で立てないと。そんな夢は叶えられないし、また、叶えようともしてはいけないんだと。改めてそう思いました」
そこには何か、決意のようなものが滲んでいたように感じられた。
いったい、それはどういう意味なのかと、小さな疑問が胸をよぎったが、次の瞬間、彼女は俺の手を取って言った。
「せっかくですし! 今日はちょっと寄り道しませんか? ほら、『金の梢』にでも!」
それもいいかもしれない。ここしばらく、彼女を放り出してきたのだし。積もる話もあるだろう。
気付けば、難しいことを考える気分でもなくなっていた。
「行こうか」
それから俺とヒメノは、金色の光に満たされた大通りを、並んで歩いた。




