花もて打て
その日の朝は、前日の曇り空が嘘のように、からりと晴れ渡っていた。秋雨が過ぎ去って、秋晴れといったところだろうか。
微風の穏やかさに、気持ちが和んでしまいそうなくらいだが、状況はそれどころではない。ベルノストとタマリアの件、今日が決着となる可能性が高い。どうするのが、どうなるのが最良なのかはわからないし、俺にできることがどれだけあるかもわからないが、もう他人事にはできない話だ。
昨夜、泥酔したベルノストをタマリアの自宅に置いてきた。今も仲間達が交代で見張ってくれている。何も変わったことは起きていないはずだが、もしベルノストが起き上がれる体調であれば、裁判所に向かうはずだ。
手早く朝食を済ませ、着替えてから、俺は急いで西の歯車橋の方へと向かった。学園は休みではないが、もうそれどころではない。ヒメノにも、既に伝えてある。
橋の北端に到着した時、まさに一群の人々がこちらにやってくるのが見えた。その先頭にいる人々の顔ぶれには見覚えがあったが、後ろに続く人々の数に、俺は目を丸くした。
「これは、どういうことだ」
俺は慌てて走り寄り、先頭に立つベルノストとタマリアに声をかけた。彼は、昨夜のことなどなかったかのように、元気そうだった。一方のタマリアは、神妙な顔をして、黙りこくっていた。
「私にもよくわからないんだが」
立ち止まり、彼は振り返ってから、また俺に言った。
「裁判所に行く件を正直に話したら、彼女の知り合いがついてくると言い出して」
「こんな、何十人もゾロゾロと」
「多分、守ってくれるつもりだと思うんだが」
それもおかしな判断ではない。ベルノストも、公邸付近にどこかの市民団体の連中が押しかけて、連日連夜、騒ぎ立てていることは知っている。それに、そもそもグラーブがかけている圧力、つまり宗教組織が二人の結婚を受理しないというのは、表の法廷で裁かれれば、明らかに正当性がないという結論にしかなり得ない。とすれば、ベルノストの決断を止める手段としては、あちらとしても実力行使以外にない。
だが、興奮した人々が暴力に訴えることになれば、事態は最悪の状況になる。
「帰ってもらうことはできないのか。僕がいれば、頭数なんか関係ない」
「私も、暴力を懸念している。事件になるくらいなら、タマリアはともかく、私が袋叩きにされるくらいのことは、小さな問題だ。だが、説明したのに、ついていく、絶対に暴れないの一点張りでな」
考えても仕方がない。もし彼らが、仮に二人のためであっても、行く手を阻む市民団体や、グラーブの周りの人々に手を出そうとしたら、俺が制圧すれば済むことだ。
しかし、それにしても異様な集団だった。二人の後ろには、護衛を務めてくれている俺の仲間達。その後ろには、明らかにスラムの住人としか見えない人々が列をなしているのだが、いったい何をするつもりなのか、後ろの方には、荷車を引っ張っているのもいる。
歯車橋を渡り終え、彼らはそのまままっすぐ北に歩いた。裁判所に行くには、このまま東に架けられた橋を越えて、運河を渡らないといけない。比較的空いている道をとるなら、二つ目の橋を越えたところで、北に帝都防衛隊の敷地がある辺り、ちょうど俺の別邸を背にする形で、運河を西に見る南北の通りを進むのがいい。
この異様な集団を、朝の出勤のために行き交う人々は一瞥して、すぐ顔を背けた。奇妙な連中を面白がるというより、厄介事に巻き込まれるのを嫌う気持ちの方が先立っているのではないか。そんな印象を受けた。
二つの橋を越え、進路を再び北に取った。ちょうど、一本東の通りは、冒険者ギルドもある大通りになる。西の運河に近いこちらは、そこまで丈の高い建物もなく、ガランとした印象の道路が続いていた。
そして予想通り、そこには、もう一塊の群衆が待ち構えていた。とはいえ、その内訳は、それぞれ別のところからの寄せ集めに違いなかったが。
まず、グラーブ。そして、彼に付き従う、サロンの面々。恐らく、彼を止めようとして叶わなかったリシュニアとアルタールの姿も見えた。二人の表情には、目に見えて失望が浮かんでいた。それと、カリエラとオギリックの姿もあった。
彼らがここにいるということで、特に関係もないくせに事件に首を突っ込む市民団体の中年女の群れも、いくらかここまで駆けつけてきていた。一連の事件の内容を記事にするために、新聞記者らしき連中も、この場にいた。最後に、大勢の野次馬が、彼らを取り囲んでいた。
ベルノストが立ち止まると、背後にいた群衆も足を止め、道路の両脇に身を寄せた。
グラーブが進み出て、その脇に立つ俺を一瞥した。それからまっすぐベルノストの正面まで、足早に歩み寄ると、そこで立ち止まった。
「殿下、お久しぶりです」
「もうやめにしないか」
声色は押さえている。うんざりしているのが明らかにわかる態度だった。
「充分暴れただろう。だが、道を踏み外すのもこれまでだ。お前は自分の果たすべき役割を忘れてしまったのか」
「片時も忘れたことはありません。高貴の身分に生まれついた者は、人の世の安寧に尽くすのが務めでしょう」
「ならばなぜ、下民のような振る舞いをやめようとしないのか」
ベルノストは、タマリアに、そして背後に立つ人々に振り返り、それから答えた。
「知らなかったからです」
「なに?」
「人の世の安寧と言いますが、では、人の世とは? 人とは? どうして彼らの安寧に価値があるのか? 私はそれを全く知らなかった」
グラーブには、返す言葉がなかった。ベルノストの述べるところがなんであるか、思いもよらないのだろう。というより、考えたことがなかったのかもしれない。
「そして、わからないということが、ずっと苦しかった」
「お前には、それがわかるのか」
「それをまさに目の当たりにしているところです」
グラーブの視線が、タマリアに突き刺さった。
「殿下」
声をかけられ、彼はまた、ベルノストに振り返った。
「私の気持ちは変わりません。変わっていません。もし、世のために働けと言われるなら、それを厭うということはありません。お望みなら、この命も差し出しましょう。ただ、たとえ務めに身を置くにせよ、今からもう、たった一つの大切なものを手放すということは、考えられない。それだけです」
「何を」
「あくまで、殿下が私を必要となさるかどうか。それだけです」
戸惑いを隠せないグラーブを前に、ベルノストはまるで透き通った水のようだった。
「ムイラ家の家督は、どうするつもりなのだ」
「小さなことです」
「お前はコタリッシュ家にも恥をかかせるのだぞ」
「私はカリエラの幸せも望んでいます。けれども、私では彼女の役には立てないでしょう」
意志は固い。それを確認したグラーブは、後退った。
「だが、無駄なことだ。お前が勝手なことをしようとも、誰もそれを認めなどしない。裁判所が何を決めようと、自分で泥をかぶりたい者などいはしない。少し頭を冷やすがいい」
遠巻きにしている人々の大半には、何を話し合っているかなど聞こえていない。だが、その態度から、交渉が決裂したらしいことだけはわかる。
人混みの中にいるアルタールは険しい表情を浮かべ、リシュニアは珍しく狼狽えた様子を見せていた。対照的に、オギリックには、どこか焦燥感の滲むような顔ではあるものの、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。カリエラはというと、無表情を取り繕ってはいるが、やはり不機嫌そうに見えた。
「その気になれば、お前を帝都から出さずに済ませることだって、できなくはない。自由があると思うな。お前は、ただ悪い遊びをしているだけ、自分で自分の身を汚しているだけなのだ」
「汚れたなどとは思っていません」
「だが、どの女神がお前を祝福するというのか。誰も仲立ちなど、引き受けはしない。汚れたくないのなら、お前は元居た場所に戻るしかない」
その時、グラーブの背後から人混みを割って姿を現した女がいた。頭からすっぽりと僧衣をかぶって、髪を隠している。あれはセリパス教の女司祭の正装だ。そして、その顔には見覚えがあった。
「汚らわしいことです」
リンは、涼しい顔でそう呟いた。
「お前はなんだ」
「申し遅れました。セリパス教パドマ支部に所属する司祭、リン・ウォカエーと申します」
「何しに出てきた」
グラーブの問いに、彼女は淡々と答えた。
「セリパス教の司祭の役目は一つしかございません。殿下はご存じありませんか」
彼女はベルノストとタマリアの前に立ちはだかった。そこで気付いたのだが、彼女の左腕には、小さな籠がぶら下げられていた。
「そう、罪を裁き、正義を明らかにすることです」
いったいどういうつもりなのか。だが、俺に視線を向けられても、彼女に動揺はなかった。それで察した。
「殿下、セリパス教の法の下では、人は逸脱を戒められます」
「そうであろう」
「人は欲望に身を委ねて生きてはならず、常に規範に従うことをよしとすべきなのです。それは特に、男女の結びつきについて、重要なこととされています。人は誰しも教会の仲立ちなしには結び合わされることはなく、愛し合う喜びもまた、女神の赦しの下でのみ、与えられるべきものなのです」
彼女は二人を見据えた。
「そして、そこから逸脱した者は、どのように処分されるべきか……モーン・ナーは、このようにせよと教えています」
大仰な身振りで、リンは二人を指差し、声を張り上げた。
「おお、見よ、人々よ」
俺は知っている。彼女がどんな手続きを踏もうとしているのか。つまり、教会や神殿といった場を必要としない……いや、正しくは貸し与えられないという「例外」があるとするなら……
咄嗟に振り返り、俺は背後にいる仲間達に目配せした。余計な手出しはするな、と。
「罪穢れに染まった二人の、なんと醜いこと」
だが、ここはセリパシアではない。誰もこの宣言についていこうとはしない。だから、リンは付け足した。
「唱和せよ! 罪穢れに染まった二人の、なんと醜いこと!」
異様な雰囲気に押されて、この場に集まった野次馬が、唱和する。自信なさげな声色で。
「なんと醜いこと」
「道を踏み外した者は、悪臭芬々たり」
「悪臭芬々たり」
「邪悪の誘惑に屈した魂は、清められねばならぬ」
「清められねばならぬ」
……やっぱり、そうだ。
明らかに二人を罰し、貶すようなことをしているのに。ベルノスト達についてきたスラムの人々は、黙って事の成り行きを見守るばかり。それどころか、通りの端をこそこそと動き回る何者かの姿まで垣間見える。彼も籠を持っているようだが、その中身は……
「穢れしベルノストの友、ファルスよ」
「ここに」
ぶっつけ本番はやめてほしかった。
「ベルノストに妻はいるか」
「おりません」
「穢れしタマリアの保護者、ファルスよ」
しかも連続でご指名。いくらなんでもやっつけ仕事にすぎるのではないか。
「ここに」
「タマリアに夫はいるか」
「おりません」
「彼は妻を持たず、彼女は夫を持たぬ。ならば何故をもって、彼は彼女に触れ、彼女は彼を許したのか」
それから、リンはタマリアを正面から見据えて尋ねた。
「既に穢れしタマリアよ、聖女の名において、ただ一度だけ、真実を述べる機会を与える」
「えっ、ええっ? は、はい」
「そなたはベルノストを望むのか」
本来の言い回しとは異なる表現だ。そうでなければ、この後に繋げられないから。
タマリアは、躊躇を覚えてしばらく沈黙したが、俯きながら、遠慮がちに答えた。
「……はい」
「既に穢れしベルノストよ、聖女の名において、ただ一度だけ、真実を述べる機会を与える」
「はい」
「そなたは何故にタマリアを欲したのか」
ベルノストは、まったく迷いなく答えた。
「それは彼女が、私の全身全霊をもって愛するに足る女性であると、そう確信したからです。たとえ身体は塵芥の中を彷徨おうとも、その魂には、決して穢しきれない何かが残っていたから」
「この場に居並ぶ信徒らよ」
リンは頷いた。
「今の言葉を聞かれたか。かの者は人の世の定めを捨て去り、獣の如く、欲望に身を委ねた」
リンの裁きを目にしていたオギリックの顔に、醜悪な笑みが浮かんでいるのが見えた。
彼の望みは既に半ば、叶えられている。兄がこのまま、グラーブと決裂すれば、どう転んでも自分にムイラ家の家督がまわってくるのだから。
けれども、それでは半分でしかない。何かにつけ優秀だった兄、これを完膚なきまで叩きのめすことこそ、彼の本当の望みだった。その意味では、正義の女神に拒まれる姿、これ以上の見世物は存在しないに違いない。
「既に穢れしベルノストよ、そなたは何を望む」
「なんとでもいうがいい。女神は真実をご存じだ」
「よろしい。モーン・ナーは慈悲深くあらせられる」
彼女は背後に立つ俺に向けて尋ねた。
「ベルノストは穢れた獣であり、タマリアもまたその片割れである。このまま二人を人の世に放つなど、許されようか」
「……許されません」
これは仕上げだ。
「人は人と、獣は獣と番うのが道理。清き人々よ、穢れを遠ざけよ」
ついにオギリックの顔に満面の笑みが浮かんだ。だが、対照的に、グラーブの眉間の皴は、むしろ深くなった。何かがおかしい。そのことに気付き始めているようだった。
「本来であれば、獣は石もて打つのが法の定め……さりながらここは帝都の公道、馬車の通行の妨げとなってはならぬ。ゆえに、野の獣に相応しく……居並ぶ人々よ」
リンは、二人の背後に集まっていたスラムの人々に呼びかけた。
「草もて打て!」
その瞬間、紺碧の空に、真っ白な花が舞った。
次から次へと、降りやむことのない雨のように。これまで、タマリアが世話をしてきたスラムの人々は、ついに芝居をやめ、心からの笑みを浮かべて、花を撒き散らした。手に持っていた分をすべてなくしても、今度は地面に散らばったのを拾い集めて、夢中になって放り投げた。
「女神は寛大である」
リンは厳かに言った。
「よき花婿と花嫁は、頭上に草花よりなる冠をいただく。だが、獣には……」
彼女は、脇に抱えていた籠から、それを取り出した。
「……藁の冠こそが相応しい」
二人はまだ、認識が追いつかないらしい。跪こうとしない彼らの頭上に、リンは腕を伸ばして藁の冠を置いた。
「この両名、ベルノストとタマリアを、獣の夫妻として認めるものとする。これは女神の赦免である」
呆然とする二人に、リンは小声で尋ねた。
「わかりませんか? 私は今、獣の『夫妻』と言ったのですよ」
ハッとして、二人は目を見合わせた。
偽りの処罰。だが、そこに伴うのは、聖職者の仲立ちによる婚姻の成立だった。二人が望むならばだが、これがその根拠となる。
「ど、どういうことだ! 貴様、これでは」
女神神殿にはもちろんのこと、セリパス教会にも、余計なことをしないようにと圧力をかけてきたはずだった。なのに、目の前でこうもあっさりと裏切られるとは。
グラーブは、驚き戸惑い、振り返ってリンに向かって叫んだ。
「おや? 殿下、一つ、重要なことを教えて差し上げましょう」
「なんだ!」
「唾の届くところに立ってはいけません。聖典の御言葉です」
涼しい顔でそう返されたのでは、もう何を言ったらいいかもわからない。グラーブは顔を紅潮させて、言葉を失った。
「殿下」
ベルノストは、今度こそあらゆるしがらみから解き放たれて、頭上の青空のように透き通った笑顔を浮かべていた。
「これまで長らくお世話になりました。本当にありがとうございました」
「お、前」
「オギリック、貴族の家の跡取りとしての責任は重大だ。殿下にお仕えするなら、尚更のこと。私はお前の成功を願っている」
彼はそっとタマリアの肩を抱いた。タマリアの目尻には既に涙が滲んでいたが、そこには見たことのない微笑みが浮かんでいた。いつもの、あの向日葵のような明るい笑顔ではなく、まるでたった今、蕾を開いたばかりの、初々しい野の花のような。
ベルノストが彼女の手を取り、振り返ると、既にそちらでは準備が完了していた。
「姉御! こんなボロですが、乗ってくだせぇ!」
行きは花を積んできたのだろう荷車。お世辞にもきれいとはいえない代物だったが、今はそれで十分だった。
ベルノストは、そこに足をかけ、最後にもう一度だけ、振り返って言った。
「殿下、お元気で」
それきり、彼らは背を向けて去っていった。
だが、こんな真似をしでかして、リンはどうするつもりなのか。心配になって目を向けると、彼女は気付いて、俺にそっとウィンクした。俺はこれ以上、この場に留まるのをやめて、仲間達に言った。
「行こう。みんなで祝ってやろう」




