二人きりのバチェラー・パーティー
あれから、数日が過ぎた。
アーシンヴァルの背に揺られ、今日も曇り空の下、歯車橋を渡る。時間がわかりにくいが、西の空にはうっすら日没の橙色の光が滲んでいる。目指すはシーチェンシ区のタマリアの家だった。
「ああ、ファルスか」
「済まない」
薄暗くなる中、彼女の家の前に座り込んでいた仲間達に、開口一番、俺は詫びの言葉を述べた。特にルークには、そう言うしかない。
「何も悪いことなんかない。これだけ大変なことになったんだから」
「いや、僕が殿下を説得できていれば」
「はん! 無理だし、しなくていいんだよ、んなもんはよ」
ニドが吐き捨てた。
「身分だの、家の立場だのと……んじゃあグラーブ様はよ、ベルノストが今まで、あれこれ押し殺して我慢してくれたってのを、どう思ってんだよ。信じて今までついてきてくれた奴を、てめぇじゃ信じてなかった、信じ切れてなかった、だからこういうことなってんだろが。我儘の一つくらい、聞き入れてやれねぇのか? お偉いさんの考えることってなぁ、まったく……だから、俺はこうなってよかったと思ってるぜ」
実に彼らしいコメントだった。
ギルも頷いた。
「腕を競い合った仲だしな。気持ちだけで言えば、少しでも役に立てるなら、俺としては嬉しいよ。だけど」
そうは言っても、彼はブッター家の出。社会の上層に生まれた人間の責務を知らないのでもない。
「こんなことになって、この後、どう収まりつけるんだって思うのはあるな。どっちも後に引けなくなっちまってるっつーか」
結論から言うと、グラーブの策は、裏目に出た。
ベルノストはこれまで、どんな扱いを受けても大人しく従ってきた。面倒な催事の手続きもすべて引き受け、問題の後始末にも奔走し、グラーブの目の届かないところで、サロンの他のメンバーの動きに注意を払ってきた。それでも昨秋、カバーしきれない事態に陥ってしまったのだが、その後の冷遇にも文句を言うこともなく、甘んじてきた。
その彼の、唯一の我儘、個人的な願い事を、グラーブは全面的に拒否する選択をしてしまった。ベルノストは、今回も彼らしく生真面目で、手続きを軽んじなかった。タマリアを連れて帝都内の女神教神殿、ついでセリパス教会を訪問したが、どこに顔を出しても結婚の承認を拒まれた。そのことが、ついに彼を憤激させた。
とはいえ、これでは彼が不満を感じるのも無理はない。これがまだ、昨秋の時点でベルノストを腹心の地位から降ろさず、今まで通り重用していたというのなら。今後とも国王の側近として立ち働く身分なのだから、個人的な欲望は抑制せよと、それも一定の道理があった。だが、ここまでほったらかしにしておいて、何も与えるものがないのに、邪魔だけはするとあっては。
要するに、グラーブは、肝心のところで判断を誤った。もし、タマリアをベルノストから引き離したければ、恐らく唯一の正解は、彼自身がベルノストに頭を下げる以外になかったのではないか。しかし、自らを次期国王と位置づける彼には、そのような振る舞いなど、選択肢として思いつけなかったに違いない。
「中には?」
「ああ、いるよ」
俺はノックした。内側から扉が開く。開けてくれたのはウィーだった。
「いらっしゃい」
「変わったことは」
そう尋ねながら室内を見回した。部屋の中にいたのは、ウィーの他はディエドラとシャルトゥノーマ、それにタマリア本人だけ。ベルノストはいない。
「ベルノストは?」
「一人になりたいって。今夜は、外で過ごしたいって言ってたから」
「そうか」
あくまで可能性の範囲だが、命の危険があるのは、タマリアだけだ。グラーブが血迷って強硬手段に出ないとも限らない。自分で護衛につくのが最も安全ではあるのだが、俺自身がグラーブに頭を下げて交渉したりしなくてはいけない立場ということもあり、こうしてみんなに手を借りている。
シャルトゥノーマが言った。
「よくわからないのだが、明日、ベルノストは裁判所に行くと言っていたぞ」
「ああ、なるほど」
俺は説明した。
「女神神殿も、セリパス教会も、二人の届け出を拒否したから。それに正当性がないということで、訴えを起こすつもりなんだろう。確かに、殿下が圧力をかけているだけだから、この訴えは通る可能性がある。でも、そうなると」
「今度こそ、実力行使というわけだな」
シャルトゥノーマの確認に、俺は頷いた。
「なに、望むところだ」
ディエドラが獰猛な笑みを浮かべた。
「あちらが暴れないというから、こちらも手をあげないだけのこと。もし、先に手出しをするのなら」
「お前はまったく」
シャルトゥノーマが呆れたように溜息をついた。
「その、すぐ戦いたがるのを、どうにかできないのか」
「そちらの方が手っ取り早い。やっぱり人間の世界は面倒だ。手続きだの、法に訴えるだのと」
それから俺に向き直った。
「ファルスもそう思わないかニャア?」
「思わない」
このタイミングでいきなり語尾をニャアにするとか。空気を読め、と言いたくなる。
「でも」
ウィーが不安げな顔をして、俺に尋ねた。
「これ、もう、ファルスも完全にベルノストに肩入れしてるっていうことになっちゃってるよね。殿下とは」
「難しいことになってる。実は、今日、公邸に出向いて、また面会をお願いしたんだけど、門前払いされた」
「えぇっ」
俺の提案は、とにかくどうにかベルノストを許してやれ、でしかないから。でも、それはグラーブには呑めない話で、だからどこまでいっても平行線でしかなかった。
「今は、アルタール様とか、リシュニア殿下が、説得にあたってくれているけど」
「ここまでこじれると、ちょっと厳しそうだね」
「それに」
状況はもう、誰にも制御できないほど悪化していた。
「組織の上の方の人間は、さすがにもう動いてないっていうか、やめさせようとしてるみたいなんだけど……昨日も、公邸の前に、市民団体の連中が」
「去年が去年だったし、殿下も我慢ならなさそう」
「こんなに収拾のつかない話になるとまでは、正直、思ってなかった」
このやり取りの中、タマリアは一人、身を固くして、座り込んでいた。
「いいのかな」
思いつめたような顔をして、ポツリと呟いた。
「私のせいで、こんな」
「タマリアのせいとは、さすがにこれはもう、言えないと思う。だって、もとはと言えばムイラ家の事件なんだし、タマリアは騒ぎを大きくしないために、黙って身を引いているんだし」
「うん。でも、やっぱり、私のために……もしかしたら、ベルノストが何もかもを失うかもしれないって思うと」
といっても、その辺についての答えの持ち合わせは、今のところ、誰にもなかった。
「それこそ、殿下の責任だ。こっちは妥協案をいろいろ挙げているんだ。いっそ家督は譲ってもいいとか、タマリアをせめて側妾にということで、とか。でも、全部拒否して圧力だけかけてきたんだから、もう仕方がない。今日のうちに、あちらが折れてくれれば、話は変わると思うけど」
「そうは言ってもさ。私なんかのために、今までの人生が」
「タマリア、私なんか、なんて言っちゃダメだ。ベルノストが選んだ人なら、それに相応しくないと」
実のところ、彼女が彼に相応しくないとは、あまり思っていない。それは社会的立場の面からすれば、タマリアなんて最底辺の貧民で、貴族の下働きすら過分な身分でしかない。だが、彼女がこうなるに至ったのは、絶望的な境遇の中でも、なお自身の心の在り様を保ち続けたからではないか。どんなに賤しい身分に落ちても、決して下劣な人間にはならなかった。
ただ……いくら頑張っても、自分一人の力だけでは抜け出ることのできない困難というものがある。
「ベルノストはどこに?」
「えっと」
「居場所は」
「一人になりたいって……行先は聞いてるけど、トンチェン区の近く、競技場の方に出かけてくるって」
「わかった」
俺は身を翻した。
トンチェン区を一通り見て回っても、ベルノストの姿は見つけられなかった。それで、東の歯車橋を渡って、競技場方面に向かってみた。既に頭上は真っ暗になっている。とすれば、ベルノストもどこかの飲食店に落ち着いているのかもしれない。長時間の滞在となれば、居酒屋くらいしか行けるところはない。
それで俺は、この界隈の一人用の店に狙いを定めて、片っ端から踏み込んでみた。すると……
とある安居酒屋の奥に、彼の姿を見出すことができた。
それは、一目ではベルノストとはわからないほど、だらしのない姿だった。居酒屋の奥のテーブルを一人で占拠し、そこに靴を履いたままの足を載せていた。並んでいるのは、飲み終えた木のジョッキ。普段は不潔感の出ないよう、それなりに纏められていた黒い巻き毛も、今はまるで浮浪者のように乱れ切ってしまっている。息苦しくないよう、胸元のボタンも中途半端に外されていて、上着もその辺に脱ぎ散らかされていた。そしてもちろん、顔に赤みがさすまで、酒を飲んでいた。
店内には、少ないながらも他の客もいた。だが、彼らもベルノストの異様な雰囲気に押されてか、見て見ぬふりをしていた。
「何をしている」
俺が声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。それから、俺を見上げて、溜息をついた。
「ファルスか」
「こんなになるまで酒を飲んで」
記憶の中のベルノストは、そういえば飲酒などほとんどしなかった。形ばかり飲まなければいけない場合でも、一口だけで終わり。泥酔するまで飲むなんて、まず考えられなかった。
「どうしたんだ」
「ああ」
彼の眼差しから、正気の色が見て取れなかった。本当に理性を吹っ飛ばすまで、飲んだのだろう。
「私の人生、なんだったんだろうな」
腑に落ちた。
何をすべきか。どうあるべきか。ベルノストの歩んできた道は、ほぼそれがすべてだった。王子の腹心となるべく育てられ、鍛えられてきた。本人も、それ以外に自身の存在意義など見出すことなく、また他に拠り所とするべきものもなかった。
それなのに、間もなくそのすべてを失おうとしている。今までなら考えもしなかっただろう。自分の主人であるはずのグラーブと、事実上、対決しようとしているのだ。
「そうじゃない。これから新しい人生が始まるんだ。そうだろう?」
口ではそう言ったが、彼の葛藤がわからないわけもない。
大義のために生きるはずだった。王国のために身を捧げるつもりだった。だが、その正しい人生の中には、実体が、根拠がなかった。なんのための大義、王国なのか。そこに生きる人々の安寧のためと言われても、ベルノスト本人は、それを知ることがなかった。父の激励も、母の抱擁もない中で、ただ足掻く以外になかったのだから。
だからこそ、初めて知った安息の中に、抗いがたい幸福を見出してしまった。もう、彼は元のベルノストには戻れない。
とはいえ、そこに迷いが生じないわけもなかった。今までそうすべきと信じてやってきたことを、自らの手ですべて否定しなければならない。本当にこれでいいのか。途轍もない逸脱に身を置こうとしているのではないか。
けれども、そうでもなければ、待っているのは石の牢獄のような人生だ。彼のことを、ほんの少しも愛さない妻。愛すべき我が子にも、自分と同じ使命を背負わせなくてはならない。そして我が家を出て王宮に身を置いたなら、あらゆる貴族達や官僚達の厳しい視線を浴びつつ、内心の恐れを覆い隠して強権を振るう。それが本当に自らの望みだといえるのか。
だからこそ、グラーブは間違ったといえるのだ。彼は自らの腹心に全幅の信頼を寄せるべきだった。少なくとも、そうした姿勢を崩すべきではなかった。人生におけるすべてを捧げるに足るだけの主君でなければならなかった。だが、彼は部下の小さな失敗で、そこに疑念を抱いてしまった。一度決められた道筋を、覚悟をもって歩き通すことができなかった。
「ファルス」
もう、半ば呂律がまわらなくなっていた。
「お前のせいだ」
こんな情けない姿、かっこ悪い言いざまがあるだろうか。だが、俺はそのことに小さな安堵を覚えていた。
品行方正なベルノストに、感情の出口など、なかなかあるものではない。彼自身、内心のわだかまりのようなものをどう片付けたらいいのか、わからずにいたに違いない。といって、この悩みだけは、タマリアには相談できない。彼女をますます追い詰めてしまう。だから一人で外に出た。弱く愚かで醜い自分と向き合うために。そして、ありきたりな手段を見つけた。酒だ。
「お前と、模擬試合なんかしなければ……あの日、お前が顔を出さなければ」
彼の人生の歯車が狂いだしたのは、確かに俺との遭遇をきっかけとしている。王子の近侍として、それまで傷一つない経歴を保っていたのに、ここで初めての黒星をつけることになった。
「二度目も、惨めに負けた。何もかもを賭けて挑んだつもりだったのに。なんて、なんて俺は」
それでいい。すべて吐き出してしまおう。
ようやく彼は人間になれるのだから。彼はやっと、恐らく生まれて初めて、本当の意味で弱音を吐くことができた。
「弱い……弱い、自分が、許せ、ない……」
そう呟きながら、ついにベルノストは意識を手放したらしい。
そんな彼を見下ろしながら、俺も呟いた。
「弱くなんかはない」
俺は手早く、代わりに飲み代を支払うと、彼を背負って店の出口に向かって歩き出した。
「三度目には、俺に勝っただろう?」




