彼は挑んだ
港の近く、倉庫が立ち並ぶ一角で、俺達は馬車を降りた。見上げれば、黒々と煙るような空模様だった。
俺も、タマリアも、それにマホも。誰も何も言い出さなかった。二人についていえば、見るからに俺が不機嫌そうにしているのがわかったので、余計なことを言わずにいたのだろう。一方、俺が沈黙していたのは、言いたいことがなかったからでもなければ、言葉が出てこなかったからでもない。話題が話題だから、他人に聞かれたくなかったのだ。
それでも、どこかで切り出さなければいけない。大きな木造倉庫の裏手に回り込んだところで、俺は足を止め、振り返った。
「タマリア」
「う、うん」
「どうしてあんなバカな真似をしたんだ」
俺が本気で怒っているらしいと理解したようで、もう茶化すような態度はとらなかった。神妙な顔で頷くと、まず謝罪した。
「ごめん」
「そういうことじゃない。なぜ先に相談しなかった」
「だって、私のせいで」
「ベルノストに悪評が立つのが許せなかったと」
すると、彼女はまた頷いた。
「だから自分から、汚い娼婦でしたと言いふらすことにしたと」
「事実じゃない。私は……別に、なんて言われたって平気だし」
「そういう問題じゃないことを、すっかり忘れてたわけだ」
「えっ」
やっぱり。これは俺のミスだ。
俺は掌で目元を覆った。
「ゴーファトの件は覚えてると思うけど」
「当たり前でしょ」
「でも、あの事件が知れ渡ったら、どういうことになるかまでは、考えてなかったんだ」
目を瞬きながら、彼女は俺の顔をまじまじと見つめた。
「えっ、知れ……?」
「タマリアが娼婦だったのは、スーディアにいた時のことだ。で、どうしてスーディアで娼婦になったかを突き詰めると、サラハンさんが殺された件に行き着く」
「う、うん」
「そこまで調べられたら……ゴーファトがどうして死んだのか。その答えまで、あと一歩だ」
「で、でも」
タマリアは周囲を見回した。というより、マホの存在が気になるのだろう。
「ゴーファトは、あれは自殺でしょ? 私が悪くないってことじゃないけど」
「直接の死因はそう。でも、それだけで済ませられる話じゃなかったはずだ。タマリア以外で誰がそれを望んでいたのか、いったい誰が何のためにスーディアまで出向いたのか。よーく思い出してほしい」
数秒間、考えてから、答えに至ったのだろう。言おうとして、慌てて手で口元を押さえた。
「そう、それは言えない。もし表沙汰になったら」
「何の話なの?」
マホが、珍しく不安げにそう尋ねた。
「訊かれると思ったが、説明するつもりはない。知らない方がいい」
「ここまで聞かされておいて、黙ってろって?」
「死ぬぞ」
俺が低い声でそう指摘すると、マホは気短なところを見せた。
「なによ! そればっかり!」
「本気で言っている」
「そ、そうだよ、ええと」
タマリアが割って入ろうとして、彼女の名前がわからずに、言葉に詰まった。
「マホ」
「ありがと! マホちゃん? これはね、関わらない方がいいことだから」
「もう首突っ込んでるじゃない」
「ここまでにしといた方がいいってこと。ファルス、私のことは、いざとなったら口止めで」
首を振って、俺は拒否した。
「殿下もこの件は知らない。でも、陛下が命じても、それはしないし、させない」
「だ、だ、ダメだよ! 私はさ、ほら、運よくオマケで今まで生きてきたようなものだし!」
「それでも、だ。でも、とにかく、どれくらいまずい話かは分かったと思う。タマリアにはもう、少しでも早く帝都から出ていってもらう。とりあえずは領地に匿うから」
俺がそう言うと、彼女は俯いてしまった。泣き出しそうな顔で、口元だけで笑みを浮かべていた。
「そう、だよね」
「今後の生活の面倒は見る。心配はいらない」
「うん」
「何か、心残りのことでも?」
尋ねられると、彼女は顔を上げて否定した。
「ううん! 大丈夫!」
見るからに大丈夫ではない。マホも、何か言いたげな顔で、そのやり取りを見ているだけだった。
どうあれ、これ以上、問題を拡大させないためにも、彼女には帝都から出ていってもらうしかない。そのことに納得もしてもらえた。だから、そうする。頭ではわかっていても、どこか何か引っかかるものがあって、それが俺を苛立たせた。
とにかく、やるべきことをやってしまわなくてはいけない。そこの倉庫の狭間を潜り抜ければ、リンガ商会の船が係留されている西の外港の端に出られる。人目につかない裏通りなので、少々薄汚れていたりもするのだが、そこが最短距離だ。俺は前に立って踏み込んだ。
そして、そこで立ち止まった。
「……間に合った」
目の前には、髪を振り乱し、息を切らしたベルノストの姿があった。
「なっ、どうしてここに」
さすがにこれには、俺も驚かされた。だが、すぐにわかった。要はタマリアについての暴露記事を、どこかで目にしたのだろう。それで、事情を確認するために、俺の別邸に駆けつけた。だが、ノーラは船を出航させるべく、指示を下すために、一度別邸に戻ったのだろう。だから、そこに留まっていた人から、何が起きようとしているかを聞き知ることができてしまった。
「ファルス、彼女をどうするつもりだ」
「どうもこうもありません。あんな記事を書かれて、どうして帝都に置いておけると思うんですか。このまま船に乗せて、遠くに連れていきます」
「やめてくれと言ったら」
俺は、彼を睨みつけて言った。
「それで誰が苦しむと思ってるんですか」
「全部私のせいにすればいい」
「そんなこと、許されるわけがないでしょう」
タマリアが悪評をすべて背負ってくれた方が、まだグラーブにとっては都合がいい。とにかく、周囲から醜聞を遠ざけてしまいたいのだろうから。
「ご自分の立場をお忘れですか。それに、わかっているでしょう。殿下の懐刀の役目を果たせるのは、あなたしかいない」
「そうだな、殿下にもご迷惑をおかけした。お詫びはしたいと思っている」
「お詫びどころでは済まないでしょう。これもわかってますよね。これ以上、問題を起こしたら、本当にオギリックがムイラ家の次期当主になるんです。どうもこうもなく、終わりなんですよ」
俺の指摘に、彼は少しの間、沈黙した。
「そうかもしれない」
だが、それでも翻意させることはできなかった。
「それでも、できる限りのことをする。正しいと思ったことをする」
「正しい?」
俺は問い質した。
「何が正しいんですか。今、自分が何をしようとしているか、わかっていますか」
「無論だ。何の罪もない貧しい女性に一切の不都合を押し付けて、我が身を庇うなど、この上ない生き恥ではないか。それをやめさせて何がおかしい」
認識が追いついた。ベルノストは、記事を見て、タマリアが自己犠牲を選んだことは理解した。だが、そこに書かれていることに事実が含まれているなどとは、これっぽっちも考えてはいないのだと。
「悪いことは言いません」
これは厄介なことになった。いや、いつかは避けられないことだったに違いない。
「全部忘れてください。元通り、殿下の近侍の役目を果たせるよう、僕もリシュニア様も口添えします。あなたには大事な仕事があるはずです」
「殿下が受け入れてくださるなら、どんな仕事でもするとも。だが、だからといって、なぜ忘れなくてはならない」
「知らない方がいいことがある。知られない方がいいことがある。心を押し殺す痛みはあるでしょう。でもそれは、避けがたい事実に心を抉り取られる痛みと比べれば、なんてことはない」
「私のことを、お前が決めるな!」
その通りだ。俺は今、俺の言葉で話していない。自分で言っていて、嫌になる。それでも、他にどうすればいい?
「とにかく、タマリアはこれから、帝都を離れます。そこを通してください」
「それは見過ごせない。少なくとも、濡れ衣を着せられたままで、というのなら」
「言ってわからないのなら」
俺は指先を向けた。
「……う?」
「そこでしばらく夢でも見ていてください」
魔術で眩惑して、脇を通り抜けようとした。
だが、彼の手が、俺の肩を掴んだ。
「今、何をした」
俺は黙って彼の顔を覗き込んだ。
これは困ったことになった。俺の精神操作魔術が通用しないほど、強烈な意志が働いているとなれば……
「このまま行かせるなど、納得できない」
「納得してください」
「しない。ファルス」
俺の肩を掴む手に、力が込められる。
「すべて、説明してもらうぞ!」
次の瞬間、彼のもう片方の手が、俺に向かって振り上げられた。
間一髪、飛びのいて避けた。
「……絶望することになりますよ」
「それも私の運命だ」
無謀にも、ベルノストは戦いを挑むことにしたらしい。だが、常人にとっては脅威たり得る彼も、今の俺には指一本触れられない。
「何をやっているんですか」
彼の拳をかいくぐり、軽々と鳩尾に一撃。それだけで、彼は膝をついてしまう。
「まさか、力尽くでどうにかできるとでも?」
「できようが、できまいが、他に手がなければ」
死なない程度に痛みは与えた。だが、この程度で心が折れるはずもなかった。膝に手を置き、彼は立ち上がった。
「やるしかないだろう?」
「このまま家に帰るという手もありますよ。オギリックは、僕がなんとかしましょう」
「それこそ筋違いだ。ファルス、そこをどけ。何が真実かは、私が自分で確かめる」
「お断りします」
だが、彼の拳は空を切るばかり。振り向きざまの雑な反撃一つで、彼は撥ね飛ばされ、路傍に放置されていた空の木箱に背中を打ち付け、盛大に転倒した。
そうして少しだけ見通しの良くなった路地の向こうから、黒い人影が近付いてくるのが見えた。
「何か起きてると思ったら」
ノーラだった。いつものように、黒いローブと帽子、それにあの長い杖も携えていた。
「ノーラ、船の準備は」
「急過ぎるって。今日の出航は、天気も悪くなるし、難しいみたい」
「それはよかった」
ようやく、ベルノストはよろめきながら、まるで地の底から這い上がるかのように、木箱に取りつきながら、立ち上がった。
「朗報だな。時間はたっぷりあるということだ」
「いい加減にしてください」
「そうはいかん」
懲りもせず、ベルノストは俺にとびかかり、一蹴されて汚れた路面を転がった。
「これは何をしているの?」
「追い返そうとしている」
「なるほどね」
苦痛に悶えるベルノストを見下ろしつつ、ノーラは顔色を変えずに言った。
「まぁ、好きにしたらいいんじゃないかしら」
「冷淡だな」
「そうでもないけど。こういうのもいいんじゃないかってだけ」
力みも何もなく、彼女はベルノストのすぐ横を通って、俺の後ろに回った。そこには、苦痛に満ちた表情を浮かべるタマリアと、目を見開いたまま硬直するマホの姿があった。
「どうでもいいって意味じゃない。せめて、見届けるわ」
「そうか」
いかにもノーラらしい判断だ。ベルノストやタマリアにも意志がある。と同時に、俺にもまた、意志がある。俺がこうして、ベルノストの道を妨げているのは、皮肉にも、彼をこれ以上、不幸にしたくないからなのだ。しかし、彼に言わせれば「私のことをお前が決めるな」ということになる。まったくもって、その通りだ。そういう意志のぶつけあいを、彼女は否定もしないし、軽んじもしない。
「ありがたいな」
貴公子ともあろうものが、と言いたくもなる。なんと泥臭い姿なのか。汚れた裏通りに這いつくばりながら、何度も立ち上がってくる。
「邪魔はしないでくれるというのだから」
「手助けもしないけど」
「それだけで充分」
だが、勇気と覚悟だけでは、いかんともしがたいものがある。またしても彼の渾身の一撃は空振りし、槍のようなカウンターが突き刺さる。倒れまいと踏ん張るものの、肉体が彼の意志を拒否する。息を詰まらせながら、彼は崩れ落ちるようにして膝をついた。
「諦めてもらえませんか。無駄です」
「それは、私の、台詞だ」
頬に冷たい水滴が触れた。どうやら一雨くるらしい。
仕方がない。心にも小さな痛みを与えるしかない。
「じゃあ、一つだけ。今朝見た記事は、事実です」
「な、に?」
「スーディアで娼婦をしていた件は、本当です。仮にも貴族のあなたが……臨時の使用人以上の立場の何者かとして、傍に置くわけにはいかない人間です。わかりましたか」
言いたくなかった。というより、それを告げる資格が、俺自身にあるとは思えなかった。それでも、他にどうすればよかったのか。
「……そうなのか」
一瞬、目を見開いたベルノストだが、やることは変わらなかった。立ち上がり、俺に挑みかかっては、ひっくり返される。
「物わかりの悪い」
こんなに気分の悪いことがあるだろうか。庇いたい相手を叩きのめしている。守りたい人を悲しませながら。でも、だからといって、他にどんな解決方法があるというのか。
「な、何が起きてるの……」
ようやくマホが、戸惑う思いを言葉にした。ノーラが振り返った。
「何がって?」
「だって、ベルノストでしょ? 武闘大会でも実力で準々決勝まで勝ち抜いた人なのに、どうして顔だけのファルスなんかに」
マホの言葉に、ノーラは、少し間を空けてから、答えた。
「勘違いしてるみたいだけど……人間では、ファルスに勝てないわ」
「えっ」
「力では、という但し書きがつくけど」
二人が喋っている間にも、ベルノストはまた立ち上がっていた。
「まだわからないのか」
「生憎、何がわからないのかも、わからないのでな」
「こんなことをしても、得られるものなんかない」
「悪いな。そう言われても、やっぱりわからない」
殺してしまうわけにはいかない。後々まで残る傷を負わせるのも駄目だ。ただただ、心を折るために、打ちのめしている。
こんなの、どうにもならない。雨も徐々に本降りになってきた。何度も地べたに叩きつけられたベルノストは、一足先に水浸しだった。それなのに、目の輝きには何の曇りも見て取れなかった。
「このっ」
「ぐふっ」
「しつこい!」
苛立ちもあって、少し力を込めて吹っ飛ばしてしまった。さっきの木箱と衝突して、また派手な音をたてる。
ベルノストは仰向けになったまま、少しの間、動かなかった。やりすぎたか、と思って、俺は内心で不安を感じた。と同時に、苛立ちも募った。
「ふっ……ははは」
だが、彼は起き上がれないのではなく、こみあげる笑いに身を委ねていただけだった。
「何がおかしい」
俺の問いに、彼はゆっくり起き上がってから、答えた。
「思わぬ副産物だ」
「なに?」
「ようやくお前の素顔を垣間見られた気がするよ」
その顔には、不敵な笑みが貼りついていた。
「いつもいつもベルノスト様、とかなんとか呼んで、形ばかりの敬意を払っておいて……お前が内心、どういうつもりでいるかなんて、まるで磨りガラスの向こう側を見ているような気分だった」
「なんだと」
「今は本音だな。そうでなくては」
そうはいっても、既にベルノストの膝は震えている。立つだけで精いっぱいなのだろう。精神は苦痛を克服しても、肉体が損傷に耐えられるのでもない。
「私は、絶対に、諦めない!」
その彼の挑戦は、けれども、次の瞬間には……弾き飛ばされ、木箱に背中を打ち付けて、横たわる結果にしかならなかった。
仕方がない。意識を刈り取るしか、止める方法はない。だが、静かに一歩を踏み出すと、背後から足音が俺を追い抜いていった。
「もう……やめて!」
タマリアだった。
倒れこんだままのベルノストにしがみつき、絞り出したような声で言った。
「私が、全部……話すから」




