彼女は道化になった
殿下の馬車に旧公館まで送り返されてからも、俺はどこかぼんやりしていた。簡単に挨拶を済ませると、食事もせずに自室に引き篭もり、二度寝した。
何が正解なのか、俺にもわからない。どちらにせよ、脛に疵持つタマリアが、これだけ騒がれる状態で、なお帝都に留まって暮らすなんて、無理な話だ。近々出発するイーセイ港行きの船に乗せて、俺の目の届くところで静かに暮らすのがいい。ただ、それはベルノストの気持ちを無視することで、けれども、彼の思いを無視して何が悪い? だが、この問題についての決定を下すべきは誰か? 俺? グラーブ? タンディラールやアルタール、リシュニアか? それとも……タマリア自身?
やたらと気分が悪かった。納得できなかった。なるほど、人生には思い通りにいかないことがたくさんある。自分の意志より周囲の都合に動かされるのも、しばしばだ。だが、俺がそれを強制する側になる? いや、俺だって今はティンティナブリアの領主で、だからその下で働く人々の自由を制限する立場ではある。でも、それとこれとは、何かが質的に違う。
少し考えて、どう違うのかがわかった。領民が自由を縛られるのは、俺という領主が最小限の労力で、うまく彼らの生活と安全を守れるようにするためだ。互いの利益のため、法という契約に基づいて、それぞれの自由を制限しあっている。でも、ベルノストとタマリアの件はどうだろう? 二人の何を俺が守っているのか、どんな約束があるのか。あくまで自由に生きている彼らなのに、どうして俺がその意志を妨げなくてはならない?
いや、ベルノストについては、その自由は制限されるべきかもしれない。貴族の生まれで、王子の近侍だったのだ。とはいえ、その理屈も半分くらいは突き崩されている。既に側近の役目は解かれ、家督を継げるかも怪しくなってきている。それに、いずれにせよ、彼と契約の糸を結び直すべきは俺ではなく、グラーブだ。
ノーラの意見を思い出す。どうだろうが本人が決めればいいことだと。俺も心のどこかでは、それが正しい気がしている。
でも、それでは困るのだろう。特に、グラーブの現時点での能力に懸念を抱いているタンディラールとしては。彼ももう、若いとは言えない。自分に何かあった時、頼りになる後継者がいてくれなくては困る。そして、王の働きぶりは、即座に万民の生存と幸福に直結してしまう。だから、ベルノストをグラーブの横に残す努力というのも、これも正しい。
考えても答えが出ない。だからとにかく、休みたかった。
頭がすっきりすれば、少しは思考を整理できるだろうと思った。
目を覚ましたのは、すっかり日が高くなってからだった。しかも、今朝と同じく、部屋の扉をノックする音でだった。
「旦那様」
「タウラか。どうした」
「ノーラ様がお越しです。急ぎ、お伝えしたいことがあると」
今度はいったい何が起きたというのか。動き出そうとして、軽い苛立ちを覚えた。それで朝から何も食べていないことを思い出した。
一階の広間に顔を出すと、ノーラは即座に立ち上がった。こちらの様子など気遣っている余裕もないと言わんばかりに。
「ファルス、大変」
「どうした」
「タマリアが、家から」
「はぁ!?」
勝手に外に出て、帰ってこないということか。今、騒ぎを拡大させないために自宅に留まっていてもらう必要があるというのは、彼女自身、理解していたはずだ。場合によっては、このままイーセイ港にこっそり送るという話にも、一応は同意していた。そうでもしなければ、ベルノストに迷惑がかかるということも……
いや、まさか。
「ノーラ、もしかして、今朝の新聞が、タマリアの目に触れた可能性は」
「ごめん、あると思う。私は出しっぱなしにはしておかなかったんだけど」
「外の様子を気にしないでいるはずがなかったってことか」
「旦那様」
座布団の上に座っていたヒジリが言った。
「お急ぎなのはわかりますが、ただいまミアゴアに握り飯を用意させております。気が急くのは無理もありませんが、体調が整わないでは、判断を誤りかねません。一口だけでも召し上がっていかれませ」
「む……いや、そうだな」
今にも探しに走り出ようとしていたのがわかったのだろう。だが、闇雲に駆け回ったところで、そう簡単に見つかるはずもない。
俺は腰を下ろした。
「どこに行ったか、考えよう」
「三つの可能性があります。タマリアさんが自分で出ていったか、それとも連れ去られたか、或いはその両方か、です」
「であれば、先の二つの可能性から考えないといけないな。自分で出ていったとすれば、やっぱり新聞のせいだ。あれを見て、解決しようとした……」
ノーラは息を呑んだ。
「だとしたら、行先は、新聞社よ」
「僕もそう思った。元々、自分の身の上のことは二の次だ。そうなったら、ベルノストを庇うために、何を言い出すかわからない」
「旦那様、ですが慌てず。攫われたとすれば、誰にでしょうか」
「ベルノストが外をほっつき歩いているとは考えにくいが、彼に出会った場合。そしてもう一つが……殿下の手の者が動いた場合、か」
ヒジリは頷いた。
「こっそり始末なんて、むしろまずいことになると言ったはずなんだが」
「ファルス」
ノーラが俺の手を握った。
「落ち着かないと」
「わかってる。タマリアを監禁しただけならまだ我慢する。でも、殺していたなら」
俺も頭ではわかっている。俺がグラーブを殺したら。エスタ=フォレスティア王国は大混乱に陥る。そのせいで死ぬ人間がどれだけ出るか。隣国と戦争になるかもしれない。
「その時は」
「旦那様、どうか思いとどまってください」
「私怨で多くの人を死なせるわけにはいかない。もう、そういう過ちは繰り返したくない。ただ、もしそんなことになったら……そうだな、明日にでも領主はやめる。リンガ商会のみんなも、出国させる。それくらいなら、いいだろう」
ヒジリは、数秒間、俺の顔を見つめていたが、ほっと息をついた。
そこへウミが握り飯を載せたお盆を持ってやってきた。時間もない。作法も何もなく、俺は手を伸ばした。
「とりあえず」
少し腹に入れただけで、頭が少し回るようになってきた。
「ノーラ、最悪の場合に備えないといけない。イーセイ港に向かう船、急かもしれないけど、とにかく少しでも早く出航できるよう、手配してくれないか」
「わかった」
「旦那様は、どうされるのですか」
「タマリアを探す。まずは新聞社から。僕だけでは通してもらえなかったりするといけないから……気が進まないけど、予定通り、マホと落ち合うつもりだ。本当なら今日、他の二社にも立ち寄るはずだったから」
新聞社の方に出向いているのでなければ、次はグラーブに問い合わせることになる。あちらの事情も理解はできるから、拉致監禁しただけであれば、事を荒立てたりはしない。
「では」
俺達は頷きあって、腰を浮かせた。
「急になによ、午後の授業だってあるのよ?」
「済まない。でも、急ぐんだ」
昼休み前に、ちょうど教室に引き返していたマホを捕まえた。そのまま昼食を摂る時間も与えず、学園の敷地外に引っ張り出した。
「今日、行く予定の新聞社二箇所と、昨日のところ。急いで案内してほしい」
「あんたね、バカじゃないの? あっちの人だって予約された時間以外に来られても迷惑がるだけよ?」
「全部僕が悪い。それでいい。でも、今はそれどころじゃない」
先に立って歩きながら、俺は説明した。
「行方不明になったんだ」
「は?」
「だから、例の……別宅に匿ってた女性が」
「それと私と、何の関係があるのよ?」
速足で歩きつつ、俺は手短に説明した。
「今朝、ベルノストを中傷する記事が出た。ついにとうとう名指しだ。それを何かきっかけがあって、目にした可能性がある」
「その女の人が? でも、見たからどうだっていうの」
「わからない。でも、多分」
いや、俺の中では、ほぼ確信になりつつある。
「ベルノストを庇おうとして、自分から泥をかぶりにいく」
「どうしてよ。そこまでする理由なんかないでしょ」
「今までそうしてきたんだ。お家騒動で兄弟が揉めそうになったからって、自分からメイドの仕事を辞めなくたってよかった。僕に文句を言ってもいいはずだった。でも、一人で抱え込んだんだ。だとしたら、同じことを今回も……でも、それはまずい」
やっぱり釘を刺しておくべきだった。タマリアの情報を辿れば、ゴーファトの死の真相にも至り得る。そんな彼女が目立つ場所に立つなど、あってはならなかった。でも、そこまでのことを考えてなどいなかったに違いない。
俺の横で小走りになっているマホが、少しの沈黙の後、尋ねた。
「その、記事を出した新聞は、どこの?」
それからしばらく。泣き出しそうな空の下、俺とマホは、灰色の大きなビルの前で立ち尽くしていた。というのも、そこには人だかりができていたからだ。
「タマリアさん、済みません、もう一言、もう一言いただきたいのですが!」
「これは大変だ、急いで記事にしなきゃ」
「もう遅い、最初のはもう」
「それでタマリアさん、元々、そういう夜の女をやっていたというのは、本当なんですか」
手遅れ、だった。
恐らく、彼女はほぼまっすぐこの新聞社にやってきて、あることないことぶちまけた。どんな事実を語り、作り話を拵えたのかはわからないが、いずれにせよ、最初の記事はもう、出回ってしまっているのではないか。でなければ、他社の記者達がここに殺到している理由が説明できない。
「どっ、どうするのよ、これ」
「引き剝がす」
「えっ」
もう、スマートな解決なんかできない。俺は大股に踏み込んでいった。それで、その場に集まっていた記者達の視線が向けられる。タマリアも俺に気付いて、少々ばつの悪そうな顔をした。
「あっ、ファルス、ごめーん」
わかっている。彼女はわざとこういう態度をとっている。さっき、記者が夜の女だと言っていた。大方、ベルノストへの悪評を揉み消すため、自分が不潔な売女だと説明したのだろう。であれば、俺相手にしおらしい態度なんかとりようがない。ふてぶてしく、軽薄そうな振る舞いをしなくてはいけない。彼女は、道化になるべく、ここまでやってきたのだから。
だが、そう承知していても、苛立ちは止まらなかった。まったく、なんてことをしてくれたのか。どうして相談してくれなかったのか。いや、突き詰めれば、この苛立ちは、俺自身に向けられている。前もってタマリアに警告しておくべきだった。彼女の存在がどれだけのリスクを伴っているかについて、よく理解させておくべきだった。
人混みを掻き分け、俺はタマリアの腕を掴んだ。
「帰るぞ」
「えっ」
どうしても口調も乱暴になってしまう。
「道を空けてください! そろそろ彼女を家に帰します!」
行先は家ではない。西の外港だ。ノーラが船の準備に出向いているはずだから。もっとも、すぐ出航できる保証はないが。
「あなたはどなたですか? 彼女とはどんな関係で」
「あの、ファルス・リンガさんですか? これはどういう」
質問が殺到するが、俺はすべて無視した。
「どいてください! 説明は後日、僕の方からしますので! 今は急ぐんです!」
ということにしておく。
とにかく、これ以上、タマリアに注目が集まるのはよくない。
新聞社の敷地を抜けて、大通りに出た。そこで、たまたまやってきた流しの馬車を呼び止めると、そのまま俺とタマリア、マホは乗り込んだ。




