惑乱の書状
木の板を打つ軽やかな音が、やけに遠くから聞こえた気がした。けれども、それはすぐ安息に覆われ、忘れ去られるはずだった。それが意識に浮上してきたのは、再び同じような音が響いてきたからでもあり、そこにはっきり聞き取れないながらも、女の声が混じっていたからだ。
どうにも頭が重い。もう朝なのか。そう思って身を起こし、カーテンの隙間に目をやるが、室内は薄暗いままだった。そのことに気付いて、やっと意識が追いついてきた。何かが起きた?
俺は起き上がり、自室の扉を開けた。
「旦那様、早朝より申し訳ございません」
ファフィネだった。
「何があった」
「グラーブ様の使いの方がお見えです」
俺は混乱した。
今日の予定はどうなった? マホの案内で残り二箇所の新聞社に出向いて、問題の火消しをすることになっていた。無論、グラーブも、状況の悪化を座視していたのではない。俺以外にも、人を送って沈静化を図っていたはずだ。といって、他に俺を急に呼びつけるような用事はなかった。
なんにせよ、こんな時間にということは、それなりのトラブルが起きたに違いなく、グズグズしていられるとも思えなかった。俺は頷き返すと、とりあえず手早く着替え、顔を洗ってうがいもして、それだけで一階に降りた。
迎えに来ていたのは、グラーブの身の回りの世話を引き受けていた老執事だった。彼は挨拶もそこそこに、俺をすぐ外へと差し招いた。そこには黒塗りの馬車がひっそりと佇んでいた。
「眠っていたところ、済まないな」
いつもの広間で、グラーブはそう言った。今にも火花を飛ばしそうなくらい、激しい怒りに満ちた、けれどもそれを抑制しているかのような声色だった。
彼は机の前に座っていたが、その机の手前には、膝をついて冷や汗を流す男女がいた。彼らは、俺やリシュニア、アナーニア、それにケアーナに取り囲まれて、何か救いでも求めるかのような視線を向けてきていた。
「急に集まってもらった理由は、これだ」
そう言いながら、彼は手にした紙の束を、乱暴に二人の前に投げ捨てた。内容を既に把握しているらしく、アナーニアは気まずそうに目を伏せた。
「これは」
拾い上げ、その新聞を広げると……
『あの武闘大会の貴公子、ベルノストの裏の顔について』
……そんなタイトルが目に飛び込んできた。
「殿下、こちらは」
「ベルノストが、お前から紹介されたメイドに手を出したことになっているな。それと、不潔な行いが日常茶飯事だったと、それこそ私のサロンの催事のたびに、業者から賄賂を受け取っていたとか、そういう話がたっぷりと並べ立てられている」
そして、俺は視線を足下に向けた。
ベルノストの代わりに側近の役目を果たそうと名乗り出て、夏の間に失態を重ねたリックとポーラ。その二人がガタガタ震えながら、グラーブの顔を見上げた。
「ち、違うんです」
「何が違う。お前達は私の処分に不服だったということだ」
「そうではありません。ぼ、僕とポーラは」
グラーブが乱暴に机を叩くと、リックは身を竦めて沈黙した。
「最後まで言わせましょう、殿下」
「聞くだけ無駄だとは思うが」
「それでも、聞かなければわからないこともあるかもしれません」
既に俺はリックの内心を読み取っている。だから、もう事実はおおよそわかっている。
「だ、だって、僕らは……殿下の命令で」
「私がこんな記事を広められて、喜ぶとでも思ったのか」
「でも、そういうご指示を、お手紙をいただいたからこそ……サロンに復帰したければ、なんとしてもベルノストを側近から降ろす口実を拵えよ、と」
「馬鹿者が」
俺は手振りで割って入った。
「殿下、落ち着いてください。それでリック、その手紙は今、自宅まで行けば見つけられるのか」
「も、もちろんです! 鍵をかけた箱の中に保管しておきました!」
俺はグラーブに向き直った。
「口から出まかせであれば、こんなことは言えないでしょう。家探しして手紙がなければ、殿下を騙したことになります」
「手紙があっても、嘘かもわからんぞ? こうして引っ張り出されることまで予想して、偽物の手紙を用意した、ということも」
「となりますと、この二人は、ここに引きずり出されて怯えながら言い訳することになると、最初から織り込み済みだった、というお話ですが」
本気でサロン追放の件を根に持っていて、破れかぶれでグラーブに仕返しをするつもりで、ベルノストへの誹謗中傷を記事にしたのであれば、こうなることも見越していなければおかしい。逆にまったく見通せていなかったとするなら、彼が言ったような手紙の準備など、不可能だ。
しかし、そんな手紙があったからといって、グラーブが二人にどれだけ親切になるかといえば、そこには疑問符がつく。こうして身元を明らかにされてしまった時点で、二人の復讐は半ば失敗に終わったというしかない。
つまり、こんな行動に出るのであれば、今頃、リックは開き直って、グラーブに向かって悪態をついているべきなのだ。
彼らの思慮の浅さからすると、別の可能性を探った方がいい。それで俺は、リックに尋ねた。
「手紙で命令を受けた、といったが」
「は、はい」
「その手紙が本物であると、なぜ信じることができた?」
この言葉に、彼はハッとした顔をした。それからジワジワとその顔に、改めて恐怖が浮かび上がってきた。
「なるほどな」
グラーブは、納得した。それは感情面で彼の言い分を受け入れられるということを意味しなかったが。
仲介業者の見積書をそのまま受け入れて、賄賂じみたお金も受け取ってしまうような、間の抜けた二人だった。なら、怪しげな手紙一つで惑わされてしまうのも、これまた無理のない話だった。
「お兄様」
リシュニアが進み出て言った。
「なにとぞ穏便に」
「別に首を刎ねたりはしない。ここは帝都なのだから」
それから、彼は深い溜息をついた。
リシュニアがなぜ彼らを庇うようなことを言ったのか。その理由の深いところに、彼は気付いてしまった。これは、もとはと言えば、グラーブの処分が原因だったからだ。
リックとポーラは、確かに大きな失敗をした。それに対してグラーブは、いかにも公平に決定を下した。ほぼ再起不能といっていいほどの重い処分、つまりサロンへの出入り禁止だ。これは学生時代を孤独に過ごすという程度の処罰ではない。帰国してからも、ろくに椅子など与えられない。人生は終わったも同然だった。
だから彼らは、どうにか救われる機会を夢見続けた。学園に通うのも苦痛で仕方なかったに違いない。毎日、後悔と絶望の中で過ごしていた。そんな中、一通の手紙がやり直しの機会を指し示してくれたとしたら? 既に二人には冷静な判断力など残っていない。殿下の密命を果たせば、赦免を得ることができるとなれば……
では、彼らの絶望を誰が利用したのか。そこまでには、グラーブもリシュニアも辿り着けていないのではないか。
だが、俺にはわかる。恐らく、オギリックがやらかしたのだ。これは、俺が甘かったのがいけなかったのかもしれない。あの日、俺はベルノストの部屋まで行き、オギリックに思い知らせたつもりでいた。お前が兄を追い落とすためにやったことのせいで、グラーブはますます負担を背負い込むことになる、そうなれば原因となったお前に対する処遇も厳しいものになるぞ、と。なるほど、彼は俺の指摘を理解はした。しかし、だからといって方針を転換するほどの柔軟性など、持ち合わせていなかった。今更、兄が自分を許すわけもないし、兄への劣等感も居残ったまま。となれば、我が道を行くしかない。とはいえ、このまま自分が主役で兄への誹謗中傷を繰り広げたなら、確かに火の粉をかぶる恐れは少なからずある。であれば、どうするか?
だからこそ、リックとポーラを利用するという選択肢を思いついたのだ。うまくいけばよし、しくじったらまた別の手を考えればいい。さほどのリスクもない妙案ではないか。
なるほど、ベルノストも言うわけだ。私にはない長所もあるだろう、か。確かにそうだ。
「もうよい。わかった。そなたらの処分については、保留とする。だが、先ほどの言葉が事実かどうかは確かめる必要があるな。二人とも、公邸に部屋を用意しよう。しばらく外出は禁じるが、何不自由ない暮らしを約束する。但し、自宅の鍵は預からせてもらう。良いな」
「は、はい」
「この件はもう仕方がない。この新聞はもう、帝都中に出回ってしまうだろうが……ファルス」
「なんでしょうか」
彼は俺に、焼け残った薪のような昏い眼を向けた。
「お前が世話した女の件だが、事実か」
「身の回りの世話をするメイドは、一人、紹介しました」
「領民か」
「いえ、僕の昔の……知り合いです」
この回答に、グラーブは眉を寄せた。
「なら、帝都の住民ということか」
「市民権はありませんが」
「では、勝手に処分もできんな」
冗談ではない。だが、俺は道理を通して説得する方を選んだ。
「殿下、この新聞が出回ってから、当事者の女性を殺すなんて、そんなことをすれば」
「わかっておる」
さすがに彼も、そこまで短絡的でもなかった。
「それにしても、移民相当の身分であれば、帝都にい続ける理由もないはずだが」
「はい、まぁ」
「お前には商会もあれば、領地もあるはずだ。なぜそこに連れて行ってやらない?」
「とっくに申し出ました。帝都に到着して間もなく。ですが、自活したいという本人の意思があったので」
静まり返った室内、彼の鼻息だけが聞こえてくる。怒りを噛み殺しているのがよくわかる。
「だが、この状況だ。資金が必要なら用意しよう。急ぎ帝都から連れ出してしまえないか」
「そのつもりで、本人は別邸の方に匿っておりますが」
「身柄を抑えているのなら、話は簡単だな。明日にでも船に載せろ」
「殿下、それは」
空気の密度が増したような気がした。
「なんだ」
「説得が済んでおりません」
「説得だと!」
ついに怒りを爆発させ、彼は椅子から立ち上がった。
「スラムに暮らす乞食女一人、どうして説得などせねばならんのだ! 金くらい出すと言っているだろうが!」
「本人にも、人付き合いもあれば生活もあります」
「だからどうだというのだ!」
「彼女は、僕の領民でも、部下でもありません」
彼は机を乱暴に叩いた。
「建前はいい! 建前は! わからんのか、この状況が」
「建前ではなく、真面目な話です」
「なんだと!」
だが、そこでグラーブは感情を抑え込んで、再び腰を下ろした。
「それで、ベルノストもお前が預かっているらしいが」
「そうです」
「人前には出してくれるな?」
「そちらは、知人に見張ってもらっていますので」
彼は頷いた。
「それで、最後に確認だが、ファルス」
「はい」
「この記事に書かれていることは、本当か? ベルノストは、お前の紹介したその女に、手を出したのか」
ベルノストが、俺の紹介したメイドに迫った。これは、性暴力という意味で言えば、嘘になる。
「いいえ、そんなことはありません。淫らな振る舞いは、私の知る限り、一切なかったはずです。ただ」
「ただ、なんだ」
「ベルノスト様は、その」
「はっきり言え」
仕方がない。
「……彼女に、特別な関心を抱き始めているように思われます」
俺の回答に、グラーブは目を見開いた。しばらくの沈黙の後、彼は俺に尋ねた。
「その娘の家柄は。出自は」
「トーキアの貧民の娘です」
「それがなぜ帝都に」
「いろいろあった、としか申し上げられません」
「余程の美貌なのか」
「醜いとは言えませんが、なにしろ移民相当の身分です。朝から屋外で働くこともあり、肌は日に焼けています」
「話にならん」
細部を追及するまでもない、と彼は考えた。
「そのような身分の娘では、貴族の側妾にも相応しくなかろう。引き離せ」
「お兄様、お待ちください」
俺が口を開くより先に、リシュニアが割って入った。
「なんだ」
「そのような形でベルノスト個人の交際に介入なさるということは、つまり、彼を再び横に立たせるつもりがある、という理解でよろしいでしょうか」
「なに? なぜそのような約束をせねばならん」
「そうでないのなら、どうして彼が、自分を切り捨てた主人の命に従う道理がありましょうか」
リシュニアは、アルタールと共に、ベルノストをグラーブの側近に戻すために立ち働いている。だから、釘を刺したのだ。この機会を逃すわけにはいかないのだから。
彼は口元を引き結んだ。それから、俺に向き直って言った。
「リシュニアの言うことにも一理ある。ファルス、やはりその娘は早々に領地に引き取るなどして、帝都から連れ出してしまえ」
「では、ベルノスト様には」
「諦めさせろ。いいな」
俺が、彼らの心の自由を縛る鎖になる? なんのために?
だが、リシュニアの言う通りではある。それに、ただでさえタマリアは、とんでもない爆弾だ。この状況で、ベルノストが彼女に手を伸ばそうものなら……
「善処は致します」
こう答えるしかなかった。




