言葉を操ってみた
扉をノックすると、すぐ足音が聞こえてきた。
彼女は俺と目が合うと、無言で顔を伏せ、だがすぐに切り替えて、笑顔を作った。
「ごめんね、迷惑かけて。入って!」
無理して明るく振る舞っているのは見え見えで、それが痛々しかった。だが、努めて表情には出さないようにして、俺は室内に踏み込んだ。
「なーんか面倒なことになっちゃったみたいだねぇ」
別邸の一室。先日までリーアが使っていた西向きの部屋を割り当てた。もうそこまで蒸し暑い時期でもないし、こちらは運河に面しているので、見晴らしもいい。
タマリアは冗談めかしているが、自分という存在の危険性をどれだけ把握できているだろうか。本人の認知としては、逃亡した犯罪奴隷で、貞操もへったくれもない汚れた女、だから恋愛などしていはいけない、という程度でしかないのかもしれない。それはそれで深刻な問題ではあるが、それよりゴーファト暗殺の件が広まる可能性の方が、ずっと恐ろしい。彼を穢して死に追いやったことが彼女の中で重要な事件でなかったはずはないものの、その政治的な意味については、そこまで熟考してないのではないかと思われる。だが、それを改めて告げて考えさせるのは……
「悪いけど、やっぱりティンティナブリアに渡航して貰わないといけないかもしれない」
「う……そ、そう? しょうがないね」
「タマリアが悪いわけじゃないけど、あちこちに迷惑がかかってしまう」
「いやー、私が悪いんだよ」
ベッドの上に腰かけ、足をブラブラさせながら、彼女は言った。
「ほら、こう、大人の色気っていうか? 惑わせちゃったみたいだねぇ」
「タマリア、つらいだろうけど、真面目な話だ。正直に答えてほしい」
この一言だけで、仮初の明るさが翳ってしまう。それが胸を刺すようだった。
「ベルノストのことを、どう思っている?」
「ど、どうって」
答えようとして、言葉を詰まらせた。
「ルークから聞いた。あの日、夕方にもう一度やってきて、戻ってきてほしいと言われたんだって。どうして拒絶した?」
「そ、それはだって」
こうなってしまっては、一切をごまかしで済ませるわけにはいかなくなった。
「最初、ベルノストの世話は肩が凝るから、みたいなことを言っていたけど。そうではないよね。オギリックが何を求めてきたか、その話を聞いて、意味が分かったから、拒絶したんだ」
「う、うん、まぁね?」
「どうして僕に相談しなかった?」
問題の中核に切り込むと、彼女は目に見えて動揺し始めた。
「い、いやー、だって、ファルスが怒ると怖いし……」
「僕もその怖さくらい自覚してる。武闘大会だって見ただろう? あれだけバカにされても、僕は誰にも仕返しをしなかった。冗談では済まなくなるのがわかっているから」
俺は空いていた椅子を引っ張ってきて、タマリアの正面に座った。
「オギリックとも会ってきた」
「えっ」
「ご丁寧にも、婚約者のカリエラを侍らせて、ご馳走を用意して。兄の醜聞を垂れ流してやったぞ、これで僕が跡取りだってふんぞり返っていたよ。でも、僕は別にオギリックを殺したり、脅したりはしなかった。そこまで見境ないわけじゃない」
俺がじっと瞳を覗き込むと、彼女は怯えたかのように肩を竦めた。
「要するに、タマリアがそこまでベルノストの都合を考えてやる理由なんて、ないはずだ。雇い主側の問題じゃないか。お家騒動に巻き込まれる筋合いはありません、と僕に言えば済む。そうすれば僕も、ベルノストにこういえば片付いた。あなたの家のことはあなたの家族で解決してください、うちの人間を巻き添えにしないでくださいって」
「そ、そうかもだけど」
「ベルノストが戻ってきたときもそうだ。タマリアはお金を貰って仕事をするだけなんだから、頼まれた仕事だけすればいいはずだ。別に、オギリックがベルノストを叩き出したって、それはそれだけのこと。タマリアを罰したりなんてできない。ただの雇われメイドなんだし、ここは帝都なんだから」
俺の指摘に、彼女は俯いてしまった。だが、心の傷に塩を擦りこむことになっても、ここは明らかにしてしまわなくてはならない。
「夕方にベルノストがもう一度戻ってきたときに」
「やめて」
やっぱり、か。
「ファルスなら、わかるでしょ? 私はもう、そういうまともな人の世界には戻れない。私は、みんなが幸せそうにしているのを見ているだけで、よかったのに」
ベルノストの魅力は、美貌だけではない。知的で、鍛え抜かれていて、それなのに驕るところもなく、誠実で勤勉でもある。こうして彼の長所を並べていくと、改めて並外れていると評価するしかない。境遇ゆえに、常に限界まで自らを高め続けるしかなかったためではあろうが、それにしても、欠点らしい欠点がほとんどない。ほとんどあらゆる方面で、大半の人間を圧倒する完璧ぶりだ。
そんな彼が、とにかく明るいタマリアにうっすら好意を寄せるとして。そのことを感じ取りながら過ごす彼女の思いはどうだったろうか。そんなことはあり得ない、と心の中で一線を引きつつ、けれども、どこか夢を見ているような気持ちになれたのかもしれない。
「でも、だったら、やっぱり」
タマリアの運の悪さというのは、どうしたことだろう。オギリックが余計なことを考えるのでなければ、或いは違った結末があったかもしれなかったのに。もしかしたら、ベルノストは卒業と同時に、タマリアを連れていくことを望んだかもしれず……でも、それはそれでまずかったのか。彼女の身分のロンダリングそのものは、俺が領地でやれば済む。でも、彼女が抱えている秘密……辺境伯暗殺の密命……これが彼女についてまわる以上、どちらにせよ、ベルノストの傍に置いておくとするなら、危険と隣り合わせとなることは避けられなかった。
なんにせよ、ベルノストは貴族だ。一方のタマリアは、犯罪奴隷ということを差し引いても、トーキアの貧民の娘でしかない。側妾とするにしても、あまりに立場がまずすぎる。
「やめてよ」
スカートの裾を握りしめて、彼女は苦しげに声を搾りだした。
「嬉しくなかったはずがないじゃん。だけど、あの人は、私のこと、何も知らない……知ったらきっと、耐えられない」
「ベルノストがそんな奴だとは思わないけど」
「だったら、余計にまずいよ。私のことを、こんな厄介な女のことを、背負わせるの? そんなの……」
なんという苦しみだろうか。
もし彼女を愛する人が現れたなら、彼女が相手のためにしてやれることはなんだろう? 身を引く以外の選択肢があり得るだろうか? 近付こうと手を伸ばせば伸ばすほどに、相手に犠牲を強いることになるのだから。ゆえに、善くあればあるほどに、内心の痛みは大きくなる。一度穢れに染まったら、二度とまともに生きようなどと思ってはならないのだ。
「とにかく……わかった」
どうするのが正しいのかはわからない。だが、とにかく、できることはやる。少なくとも、誰のためにもならないことだけは、やめさせる。
「ここだけど」
「助かる」
帝都中心部の、とあるビルを、俺はマホと一緒に見上げていた。
この際、頼れるものはなんでも頼る。それがマホであっても。俺のことは相変わらず嫌っているようだが、それでも、帝都の正義がお家騒動に利用されるとか、軽はずみな報道のせいで多くの人が犠牲になるかもしれないとか、弱い立場の女性をよってたかって辱めるとか、そういう状況を看過することはできないらしい。
それで彼女は、今回の事件についての情報提供者という名目で、俺を記者達に紹介する機会を設けてくれた。
「念のために言っておくけど。貴族だからって、その威光がここで通用するなんて思わない方がいいから。居丈高になってあれこれ言ったら、悪い方にしか話は進まないと思った方がいいからね」
「わかってる。いっそ、恥をかいても構わない。頭だって下げるよ。どうにかこの件を鎮静化させられるんだったら」
「そうね。あなた、見下されるのは慣れっこだものね」
そういうマホも、相変わらず俺のことを見下していそうだが、それはこの際、どうでもいい。
「だけど、どう説得するつもり? 私だって話の全体像を聞かされてないのに」
「悪いけど、なんでもかんでも本当のことは話せない。それを記事にされたら、何人死ぬかわからないから」
「そこがスッキリしないんだけど」
「スッキリのために無責任なことをされたら困るって話なんだけど」
マホは溜息をついた。
「じゃあ、せめて私をスッキリさせてよ。ぼかしていいから、何があったの」
「なら、ごく手短に。とある貴族の暗殺」
「はい?」
「言っておくが、これは殿下もご存じない。陛下が一人で死ぬまで抱える問題だ」
マホは口をパクパクさせた。
「そんな、殺さなきゃいいじゃない」
「やらなかったら、国内でパッシャが暴れまわることになってた。それでもか?」
「え? ええ? で、でも、だったら、どうして公表しないのよ。堂々と処刑すればよさそうだけど」
「証拠が足りなかったし、武力で抵抗されるし、そういう理由があっても、国内の貴族が疑心暗鬼になるし。あのな、正しいことを正しくやれば、常に正しい結果が返ってくるほど、世の中うまくできてないんだ」
また、マホは口をパクパクさせた。
「じゃあ、どうして顔だけ口だけ男のあなたが、そんなことまで知ってるのよ。殿下も知らないとかいう話なのに」
「そこまで知ったら、お前も幽冥魔境行きだな。お前一人が死んで終わりなら、それもいいかもだけど、お前が口を滑らせたら、そいつらも次々死ぬ」
彼女はじっと押し黙り、少しだけ考えを纏めた。
「どこまで本当かはわからないけど、そうね、少なくとも、あなたの言うスラムの困窮した女性が、より追い詰められているっていうのだけは、本当なのよね? 裏をとれるお話なのよね?」
「ああ。なんなら会うか? 嘘はついてない」
「いいわ。そういうことなら、私も悪事に手を染めることにはならないんだろうし」
こうして直前の話し合いを済ませると、俺とマホは建物の中へと踏み込んでいった。
マホが入口で身分を説明すると、すぐ応接室に案内された。古びたソファ、どことなく薄汚れた壁、埃っぽい空気。背後の本棚には、何かの資料がぎっしり詰め込まれている。そんな中、透明なガラス窓だけが、奇妙に浮いているような印象を与えた。
「というわけでして」
ひたすら平身低頭、俺は卑屈な笑みを浮かべて、ここまで用意してきたストーリーを並べ立てた。といっても、嘘で塗り固めたのではない。
帝都に留学して間もなく、件の女性と再会した。彼女は貧乏だったので助けてやりたかったが、自分は入り婿の身でもあり、ワノノマの姫の口利きもあって貴族になっただけの人間なので、強く出ることはできずに悩んでいた。そんな中、ベルノストが王国の公邸を出て、外で一人暮らしを始めることになったので、彼女をメイドとして用いてくれないかと提案し、彼がそれを受け入れてくれた。
ところが、これまで堅物でやってきたベルノストが気の迷いを起こしてしまった。女性の方も、別に彼を嫌っているわけではないが、貴族の相手なんてとても務まらない。それで恐れて仕事を放り出してしまった。それで彼は彼女に戻ってくるように言ったのだが……
要するに、ほとんど事実を述べた。ただ、大事なところをいくつかすっ飛ばしただけで。
「いや、僕としても迷惑してるんですよ。そんなつもりで紹介したんじゃないんです」
「あなたのお話をそのまま受け止めますと」
眼鏡にロングヘア、細身の編集長が、険しい目つきで俺を見据えていた。
「一連のお話は、ただの自由恋愛ということになりますが」
「そう、そうなんです」
「どうにも信憑性がない気がしますね。どうしてあんな美貌の貴公子が、スラムの移民の女性に……そんなに美人なんですか?」
「あ、いや、明るくて気立てはいいんですが、まぁ普通の範囲内です。ですからそこは、あくまで彼の気の緩みというのもあってのことではないかなと」
俺の説明に、彼女は首を傾げたが、追及は続いた。
「で、そうだとしたら、どうしてあなたがこの報道に横槍を入れようとするんですか」
「いや、だって、ほら、このままだと、僕がベルノスト様にですね、娼婦を紹介したことになりかねないんです。武闘大会でも散々笑い者にされて……ご存じでしょう? いやまぁ、笑い話で済むうちはいいんですが、これ、その、ええと、だからワノノマの姫君を射止めた僕へのですね、嫉妬とかそういうのもあって、足を引っかけたいのがいるんでしょう、きっと」
「ふーん、まぁ、辻褄は合うかしらね」
この際、俺の名声なんかはどうでもいい。貴族なんか、領地の復興が済み次第、やめてしまっていいと思っているのだから。
「でも、記者としては、あなたの言うことを鵜呑みにもできません」
「それはそうでしょう。だけど、誰かが持ち込んだ噂話をそのまま記事にするのもまずいんじゃないですか」
編集長は、少し考えるようにしてから、改めて俺に告げた。
「では、その女性への取材は可能ですか」
「えっ、ええ、本人に伝えてみます。ただ、できれば匿名でお願いしたいです。だってそうでしょう、貴族の子女とかでもない、一般人ですよ。大騒ぎになったら、この先ろくに生きていけなくなるんです。その辺、なにとぞご配慮を」
「そうですね、私達の使命は社会正義ですし、女性、それも特に弱者の立場にある方を追い詰めるというのは、本意ではありません」
……という、表向きの言葉をそのまま信用して済ませるほど、俺は気を抜いてはいなかった。魔術で心の中を覗いてみる。
《好色王と名高いファルスがここまで来るということは、自分の愛人を横取りされそうになって焦っている、ということではないのかしら?》
座ったままずっこけそうになるような、失礼な思い込みをもたれてしまったらしい。
だが、今回に限っては、むしろ好都合だ。ベルノストが貧困女性を搾取する悪党になるのは大変にまずいが、俺にとっては、さしたる問題ではない。帝都の人々の嘲笑と関心を一身に集めてしまえば、却って二人への好奇の視線は弱まることになる。
「よかった、ご理解いただけたようで嬉しいです」
「一応、私達も、真実を見抜いて、そのままにお伝えすることを使命と心得ておりますので」
「ぜひともそうなさってください。宜しくお願い致します」
この後、どんな取り扱われ方をするかを思い浮かべつつ、俺は笑顔で席を立った。マホに、編集長の思惑に沿った「ファルスの本当の姿」を伝えるように吹き込んだのは、言うまでもない。




