王の役目、罪なる使命
俺が公館を尋ねた時、守衛は目を見合わせた。雨の中、しばらく待たされた後に、やっと建物の中に立ち入ることを許されたが、案内されたのは待合室だった。そして、年老いた執事が暖かい紅茶をトレーに載せてやってきた。なんとも奇妙な対応に、俺は察した。影のように音もたてず、去っていこうとする老執事の背中に、俺は声をかけた。
「立ち入ってよろしいですか」
これに彼は、肩を震わせて立ち止まった。それから、おずおずと振り返り、弱々しく答えた。
「ご容赦いただけますか」
「僕をここに通したことを、まだ殿下にはお伝えしていませんよね。取り込み中なのは、想像がつきます」
要はそういうことだ。
俺がここに来たのは、ベルノストの件について進言するため。だが、それ以前に、新聞社が彼のことを記事にし始めている。それについてグラーブは火消しに追われる立場となった。炎のように怒り狂う彼に、更なる燃料を投下する何者かがいるとすれば、それはきっとアナーニアに違いない。
で、いつもの兄妹喧嘩が収まらない中に、俺という来客があった。執事としては、とてもではないが、俺を招き入れるなどできっこない。だが、俺はそこまで見抜いてしまった。
「……少々お待ちください」
観念して、彼は肩を落としつつ、待合室を去っていった。
少ししてから、また執事は戻ってきて、俺を無言で奥の間へと案内した。
もう何度目だろうか。右手に透明なガラスの壁がある、この部屋。今日は中庭もどんよりとした灰色に染まってしまっている。緑の芝生も、今日は生気がない。室内に立ち入ると、さっきまでの言い争いの余熱のようなものが感じられた。
グラーブは見るからに不機嫌そうだったが、アナーニアはそれ以上だった。余程、感情的になったのか、白い頬がほんのり赤く染まっている。
「ファルスか」
グラーブが、興奮を隠しきれない声色で、呼びかけた。
「済まないが、今は取り込んでいる。話はまた今度にしてくれないか」
「今、殿下が話し合っておられた問題について、恐らく話にきたと思っていますが」
彼の目に、熾火のような怒りの火が点るのが見えた。
「それについては、もう結論は出ている。聞く必要はない」
「何を仰っているか、本当におわかりですか」
口を噤むと、グラーブは続きを話すよう、俺に身振りで促した。
「率直に申し上げて、近頃の殿下は、安定を欠いているように見受けられます」
この一言に、彼は噴火しかけた。だが、どうにか自制心を働かせた。
「それで」
「あらゆる負担を一人で引き受けて、乗り切れるような人物は稀です。殿下には、殿下を補佐する臣下が必要ではないでしょうか」
そこまで言ったところで、アナーニアが口を開いた。
「そうなのよ」
「黙れ。私は今、ファルスの話を聞いている」
「ファルス、あなたからも進言してほしいわ。兄はまったく話を聞き入れようとしないから」
「何を提案なさったのですか」
するとアナーニアは我がところを得たと言わんばかりに、得意げになって俺に熱く語り始めた。
「もちろん、今、あなたが言いかけたことと同じことを、よ。この前はよくなかったけど、今度こそ、あてにできる人を推挙しようとしていて」
「それはどなたを」
「夏の間に会って話くらいはしたと思うけど、ベルノストの弟、オギリックを」
俺は目元を覆って嘆息した。その様子に、アナーニアは顔色を変えた。
「それは……殿下が不機嫌になるのもわかる……ええ、仕方がないです」
「な、どうして」
この姫様、どこまでも人を見る目がない。ジュガリエッタやナリヴァの件然り、今夏の社交の人事然り、そしてオギリックを推挙とか……
タンディラールもわかっているのだろう。だから大事を任せるのは彼女でなく、リシュニアにした。気位ばかり高くて、迎合するものに甘く、短慮が目立つ娘に期待をかけるほど、彼は愚かではなかった。とすると……
「済みませんが、席を外していただけますか」
「なんですって!」
「これから、殿下に大切な話がありますので」
「どうして私が立ち去らなきゃいけないのよ!」
それで俺はグラーブに向き直った。
「では、別室に案内してください。ここはアナーニア様の場所だそうですので」
「誰もそんなこと言ってない! どうして私を締め出すのよ!」
「聞かない方がいい話をするからです」
「馬鹿にしてるの? 私は仮にも王族なのよ!」
「アナーニア」
グラーブが、顎をしゃくって言った。
「部屋から出ていろ。お前の話はあとで聞いてやるから」
「なっ」
「さっさとしてくれ。お前がグズグズすればするほど、僕の休む時間がなくなる」
ここまで言われては、どうしようもない。顔を真っ赤にして彼女は立ち上がり、乱暴に扉を開けると、大きな音をたてて閉じて立ち去っていった。
「それで」
グラーブは、努めて不快感を表に出すまいとしてか、ゆっくりと俺に振り返った。
「はい」
俺は軽く一礼してから、続きを話した。
「結論から申し上げます。ベルノストを殿下の側近として、再度起用なさるべきです」
「ふん、なぜだ」
「それは無論のこと、彼以上に殿下をしっかりと支えられる臣下は、他にいないからです」
俺がそう言い切ると、彼は身を起こして座り直し、頭蓋の中の火の光を、その窓たる眼に映し出した。
「支える? 支えるだと?」
「そうです。殿下は支えられる必要があります」
「馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な」
彼は、他に言葉を選べなかったのだろう。
「私を誰だと思っている」
「無論のこと、未来の国王陛下です。フォレスティアの人民を導く王とならねばならない身の上です」
「そうだ。その通りだ。その私が、支えられる?」
俺を指差し、彼は乱暴な口調で言い放った。
「私が、私が国に住まう者どもを支えるのだ。私が。わかるか、私は守られる側ではない。支えられる側ではない。それはお前達臣下、臣民の話だ。父上がいなくなったら、その重責を私が担うのだ」
「ごもっともです」
俺は頷きつつ、彼についての評価……マリータやリシュニアがどう言っていたかを思い出していた。二人とも、彼のことを臆病だと言った。けれどもリシュニアは、自分では兄には及ばないとも言った。なぜなら、グラーブには、王としての責任感と覚悟があるからだ。そこは間違っていない。
「殿下がどう思われようとも、王となられるのなら、そのような重い責任から逃れることはできません。最後にはすべて、殿下が引き受けるのです」
「そうだ。なのに、その私が誰かを頼るとすれば、どういう結果を招くのか」
グラーブは、椅子から立ち上がった。
「昨年の秋の件は覚えていような」
「はい」
「まさか、あの件でベルノストの無能さに腹を立てたから、傍に置くのを辞めたと、そう思っているのではあるまいな」
正直なところ、少しはそう思っていた。
「違うぞ。無論、腹立たしいとは思っている。だが、感情だけであれを遠ざけたのではない」
「では、どのような理由があってのことでしょうか」
「私の振る舞いと行いは、王に相応しくなかった。それを反省したのだ」
彼は指を一本立てて、説明し始めた。
「私が昨年、リー家のレノと婚約しようとした件。だが、あれはなぜ動いた話だった?」
「陛下が」
「そうだ。父上が、跡継ぎが絶えるのを恐れて、早めに世継ぎを得ようとして、私に強制したのだ」
「それ自体、間違いではないかと思われますが」
彼は頷いた。
「私もそう思った。だからベルノストとケアーナに命じて、候補者を選ばせていた。だが……見ただろう。あの馬鹿な妹が割り込んできて、二人はその意向を無視できなくなった。気付けば、あのジュガリエッタのような、どうしようもない女を推挙するに至ったわけだ」
「失敗は失敗です。その点で、ベルノスト様を庇うつもりはありません。が、これを教訓に、臣下に事業を委任する際には、その権限をも正しく規定するべきだと、そのような学びはあったはずです」
「ファルス」
彼は首を振った。
「そんな態度は、私には許されない」
グラーブは真剣だった。
「王は間違えてはならない。なぜかわかるか」
「それは……確かにそうです」
「なぜかと言っている」
「万民の力を束ねて運用する者だからです。殿下が玉座についた時、その命令一つで何千何万という人々の暮らしが変わります」
「そうだ」
彼は頷いた。
「ファルス、お前のことを多少は聞いている。サハリアの戦争で、赤の血盟に手を貸して、勝たせたらしいな」
「そうですね」
「大きな力を持つ者というわけだ。だが、それを言うなら、私も同じだ。ただ、その力の源泉は、私を支持する人々によっている。私はその力を正しく用いねばならん。だからこそ、私は無私であるだけでなく、公平であることを求められる」
ゆっくりと手を握りしめ、それを下ろしつつ、彼は窓際に向かって歩き、そこで立ち止まって、灰色の空を見上げた。
「いいとも、意に添わぬ婚約であろうとも、種馬のように扱われようとも、それは受け入れよう。そう思ったから、あのレノとかいう……およそ何の魅力もない女でも、引き受けることにした。あのジュガリエッタにしても、最初からどこか妙な感じがして、うっすら拒まれているような印象はあった。だが、好き嫌いではない。王統を保ち、王国を安定させるための使命なのだから。無私であれという要求に、あの時の私は精一杯、応えようとしていた」
「その通りです」
「あの一切が失敗に終わったこと自体も、大変不愉快ではあったが……最大の問題は、その経過だ。あれやこれやと周りの人間の思惑で、公平であるべき私が、そのように振る舞うことができなかった。間違った決定へと押し流されて、どうにもならなかった。なぜそうなったのか? 根本的には、私の責任だ。監督不行き届きだ。そうではないか」
振り返った彼は、俺に詰め寄るようにして言った。
「最初、私はベルノストを責めた。アナーニアも責めた。だが、そうではない。私は、誰も信じてはならなかった。ただただ公平であるべきだった。それができていなかったからこそ、ああいった結果を招いた」
「殿下」
それは違う。いや、半ばは正しいと思う。だが、それがすべてではない。
「ベルノストが今、オギリックに陥れられようとしていることも知っている。我が国からこれ以上の醜聞が広まるのは好ましくないから、できる限りはそれを食い止めるつもりではいる。だが、結果としてベルノストが弟にその地位を追われるのなら……それはムイラ家内部の問題だ」
「それでいいのですか」
「それでいいも何も……なぜ王家が、臣下の家の事情に踏み込まねばならん。またそうする権限がどこにあるのか」
俺は真正面から彼を見据えて、その欠落を指摘した。
「公平であるべきだと仰いましたね」
「その通りだ」
「であるなら、王など必要ありません」
この若さを思えば、タンディラールと比べるのは酷であろうとは思う。だが、やはり差はある。
「なんだと?」
「公平とは、差別がないということです。差別をしないというのなら、何より簡単な方法は、何もしないことです。殿下がいてもいなくても、何も変わらない。だから、王などいらないと言ったのです。帝都の真似事をすればいいじゃないですか」
「お前は何を言っている」
「わかりませんか?」
タンディラールは、恐らく相当に公平な王だ。だが、その彼がなんと言ったか。
『人は皆異なる。ゆえに不平等だ。互いに異なるがゆえに取引を必要とする。その取引は必ず不公平だ。だが、そんな契約でできた網こそが社会なのだ。ならば社会は必ず差別の体系となる』
ならば、王の役目とは何か。政治家の仕事とは何か。
社会を維持するということは、なんらかの差別を創り出すというのと同義だ。誰かに不利益を押し付け、そこから得たものを別のところに投資する。それを政府の強制力で実現する。
タンディラールもそうしている。年金貴族の首をどんどん切って、王領の経済力を高めるためにレーシア水道の工事を推し進めた。中央森林を通る道路も、強引に開通させようとしている。これまでの既得権益を脅かされる貴族達からすれば、彼は最悪の王だろう。結局のところ、彼のやっていることとは、今ある差別を別の差別に置き換えると、それだけではないか。差別という言葉が悪いなら、党派性というべきか。
だが、最終的にそれが、全体として王国の安定性を高め、そこに住む人々の幸福に寄与すると、そのように考えているから、やりきろうとしている。それが公平かといえば、そうでない部分はある。あるが、何も決められないよりずっといい。
「殿下はさっき、責任を取るのはご自分だと、そう仰った」
「その通りだ」
「何かにどこかに偏ることがないのなら、どうやって責任が発生するというんですか。殿下の仰っていることは、競技場の戦車競走を見物に行って、なのに馬券をまったく買わずにいるのと同じです。見ているだけで、儲けも損もない。それで意味があるのですか。赤でも黄でも、どれかの戦車に賭けなければ、何しに出かけたのか、わからないではないですか」
「それで勝ったのが緑だったらどうするのだ」
「どうしようもありません。だから責任を取るのでしょう?」
俺の言葉を受けても、グラーブからは返す言葉がなかった。
「今回の件も、どうするかは殿下次第です。正直なところ、僕自身、中立でも公平でもないようです。僕はベルノストのことが気にかかっています。彼が守られたらいいと思っていますよ。だから、この件がうまく収まった後、本当に今後とも王家のために働き続けるのが、彼の幸せなのかどうか……それもわからないです」
「な、に?」
「でも、彼は殿下にとっては必要な人です。黄金でできた右腕で、代わりになるものはありません。だから、殿下と……殿下の先々を気にかける方々に対する誠意でもって、今のお話はさせていただきました。いずれにせよ、殿下もベルノストに対する騒ぎは抑えたいご意向とのこと、大変結構でございます。ぜひとも、そのようにしていただければと思います」
「お前」
やや早口にそう言ってから、俺は付け足した。
「それと、今回、噂になりかかっていることは、殿下が考える以上に大きな話になる危険性があります」
「どういうことだ」
「念のためにお伺いしますが……スーディアでの事件を、どこまでご存じですか?」
グラーブは怪訝そうな顔をした。
「その反応で充分です。だとしたら陛下は、何も伝えていないのですね。それも結構です。知らない方がいいこともある」
「なっ」
「陛下を責めないでください。殿下のために、敢えてご自身だけで一切を抱え込んで済ませるつもりだったのでしょう。知るということにも、責任は伴うからです……ただ、今回のベルノストの一件は、陛下も予期しない形で、王国を揺るがす危険と繋がってしまいました。いいですか、なんとしても、この騒ぎの関係者を表舞台に引っ張り出されてはいけません。僕もできることはしますが、殿下もしっかり片付けてください」
「だっ、誰にものを言っておるのだ!」
混乱しながらも、彼はそう叫んだ。だが、俺はもう、いちいち恐縮したりもしなかった。ゆっくり首を振りながら、静かに告げた。
「僕から尽くせる誠意はもう尽くしました。あとは善処をお願い致します」




