牢獄の窓から見た太陽
ベルノストを見つけないといけない。だが、もう手遅れなのかもしれない。
考え得る限りで最悪の状況が迫ってきているように思われた。ベルノストがタマリアに再度会いに行った時、それを周囲の住人に見られてしまっていた。しかも、確実に誤解を招く形で。これが新聞社に嗅ぎつけられようものなら、今度こそスキャンダルになるのは避けられない。
しかも、悪いことに彼は無名の人ではなくなってしまっている。武闘大会に出場したことで、特に多くの女性ファンができてしまった。あの美貌と成績からすれば自然なことではあるが、これでは注目が集まるのも無理はない。
とにかく、人を探すとなれば、頭数が必要だ。もう、彼が行きそうな場所をピンポイントで見て回るのでは、間に合いそうにない。自宅もおらず、スラムにもまた行くということはないだろう。といって、手を借りられそうな誰かとなると、今は限られる。アスガルがハリジョンに向けて発ってしまっているので、迂闊にサハリア人のネットワークに頼るわけにもいかない。旧公館にいる郎党達なら駆り出しても構わないだろう。あとは……
ニドだ。人探しなら、彼の得意分野だろう。それで俺は、繁華街に出向いた。問題は、ニド自身も、いつもふらついていて、決まった場所にいないことなのだが、今はまだ午前中だ。真夜中まで酒に女と、退廃的な暮らしをしている彼のこと、今ならまだ、寝ているに違いない。
昨夜からの雨は、一向に止む様子がなかった。バケツをひっくり返したような激しさはなかったが、途切れ目なく、しとしとと、まるで纏わりつくように降り続けた。
ニドの居場所も、いくつかは把握している。繁華街の脇にある高層住宅の部屋。ここで働く娼婦達の住居なのだが、ニドの別宅でもある。彼は、自分の愛人同然である彼女らの家々を渡り歩いている。最初の部屋、次の部屋にはいなかった。だが、三つ目の部屋の扉をノックして、声をかけると、眠そうな顔をしたニドが出てきた。
「ニド、済まない。人探しを頼みたい」
「お前急に人んとこ来て、いきなりそれか」
「だから、済まないと言っている。ベルノストが行方不明なんだ」
「あ?」
俺は、扉の向こうに視線を向けた。奥には女がいる。声を小さくした。
「このままだとタマリアが巻き込まれる」
「なんだって?」
「噂が広まるのがまずいんだ。一刻も早くベルノストを確保して、火消しをしないと」
これだけでは情報が足りていない。だが、三秒後には彼は舌打ちして、事態を飲み込んでくれた。
「クソがよ。これだからお貴族様っつーのは……簡単に言え。何があった」
「ベルノストがタマリアに……愛を告げた。で、断られた。それを近所の人達が見てしまった」
「はぁ?」
頭をバリバリ掻きながら、ニドは理解しがたい状況を理解しようとした。
「あー、そっか。あの野郎、もう有名人だもんなぁ。武闘大会の準々決勝? の件、新聞にも載ってやがったぜ。美貌の剣士ってな」
「これに、弟の件も関わるんだ。オギリックというのがいて、わざと兄の身辺を騒がして……要は追い落とそうとしている」
「くだんねぇ。勝手に兄弟で殺し合いでもさせとけよ」
「でも、タマリアが」
また舌打ち。
「お前のこった、もう自宅も学園も探したんだよな? けど、あの野郎の行動範囲なんか、そう広かねぇ。個人的な付き合いのある知り合いだって、そんなにはいねぇんだろ? あと、馴染みのある場所っつったら、せいぜい迷宮くらいだが、さすがに自殺するんでもなきゃ、そんなとこ、ろくに装備もなしにいきなり行ったりはしねぇ。となると」
顎に指をあてて考えること数秒、ニドは考えを纏めた。
「案外、近所にいるかもな」
「えっ」
「家に帰ってねぇんだったら、家に帰りたかねぇんだ。けど、この帝都で真夜中にウロついてて文句言われねぇ場所なんざ、そうそうありゃしねぇ。ここ繁華街なら、別だけどな」
「そういうことか」
「俺も探すが、お前もこの近くを集中して見て回れ。案外、その辺で酒飲んでるかもわかんねぇぞ」
ニドの部屋を出てすぐ、『透明』の魔術を用いつつ、通りの上を浮遊して移動することにした。歩行者は決して多くないが、素早く見て回るのなら、この方がいい。
繁華街が最も静かな時間帯、それがこの午前中。しかも、外は雨。こうなると人通りは少ないし、だから飲食店も閉じているところがほとんどだ。もしベルノストがこの近辺まで流れ着いていて、ヤケ酒を飲んでいたとしても、普通は店から叩き出されている頃だ。そうなると、その辺の路上で転がっていたりするのかもしれない。
それにしても、前世でもそうだったが、こちらでもこういう盛り場というのは、本当に午前中の空気が澱んでいる。路上には、なんとも形容しがたい汚れのようなものがこびりついているところがあったりするし、小汚いホームレスのようなのが通りの片隅に身を縮めていたりもする。営業時間中に焚かれたお香の残り香が、そうした路傍の乞食……何日も入浴していない……と混じりあって、この独特の空気を醸し出しているのだろう。
しかし、こんな場所に貴公子中の貴公子であるベルノストが、本当に放り出されて転がっているなんて、そんなことがあるのだろうか?
と思って探し始めて数分、違和感のあるホームレスのようなものが視界に映り、そこで立ち止まった。
本当に、いた。
ひどい状態だった。全身ずぶ濡れのまま、飲み屋の壁を背に、斜めに凭れていた。腰に敷いているのはクッションではなく、薄汚れた土嚢だ。顔色は青白く、縮れた黒い長髪は汚泥に塗れ、虚ろな半開きの眼、その瞳が鈍色の空を映していた。
「ベル……おい! しっかりしろ!」
名前で呼びかけるところだった。今、それはかなりの問題になりかねない。
「起きろ! 今、運ぶぞ」
彼は意識こそ保ってはいたが、俺のすることなすことに興味関心を示したようには見えなかった。彼を持ち上げ、とりあえずは急いでさっきのニドの部屋に戻った。
「おうおう、ひでぇザマだな」
「済まないが、いったんここで」
「ああ。秋口たぁいえ、これだけ濡れてると、ヤベェしな。服脱がして、乾かして、あっためねぇと……おい! ジーナ!」
ニドが怒鳴りつけると、キャミソール一枚、だらしない雰囲気の女が、奥の部屋から這い出てきた。
「手伝え。こいつ脱がして体拭いて、寝床に寝かせてやれ」
「えーっ、なんで私がそんなこと……んっ、でも、なにこれ、結構いい男」
「おう、そうだろ。エロい目で見ていいから、さっさと手ぇ貸せ」
それで、俺達は三人がかりでベルノストの上着を脱がせた。
「わーっ、腹筋、きれいに割れてんじゃん。顔もいいけど、体もいいわぁ」
そんなどうでもいい感想を聞き流しつつ、俺達は手早く彼の体を拭い、さっきまでニド達が寝ていたベッド……何かの香水の匂いがしみついた、狭苦しくてやけに散らかっているように見える寝床へと運んだ。
「ひとまずはこれで良し、だな」
「助かった」
「じゃ、ジーナ」
振り返ると、ニドは数枚の金貨を取り出した。
「ちょっと出てろ」
「なによそれ」
「いいから。これから俺とファルスは大事な話があるっつーの」
「私もいていいでしょ」
「だーめーだ。今回はどうもシャレんなんねーから。お前、死ぬぞ?」
ニドは適当にそう言っただけだろうが、もしかすると本当にそんな規模の話になるかもしれない。特にタマリアの素性が広まるのは、大変にまずい。ゴーファトの死の真相が知れ渡った場合、タンディラールが蒙る政治的ダメージは、極めて深刻なものとなり得る。パッシャの関与があったとはいえ、国王自ら地方領主の暗殺を命じたとなれば、国内の貴族達の不安は否が応でも高まる。
「頼むから、今回は出ていてくれ。別に他の女にちょっかい出すとか、そういう話にゃ見えねぇだろ」
「まぁねー」
「マジな話だから。頼むからちょっと出ててくれ」
押し問答の末に、彼女はやっと部屋から出て行ってくれた。
「ベルノスト様」
やっと問い質すことができる。彼は横たわったまま、弱々しい眼差しをこちらに向けた。
「どうしてあんなことを。タマリアを困らせるだけだと思わなかったのですか」
「何も」
かすれた声が漏れ出てきた。
「何も、考えられなかった」
「あなたらしくもない。いつもの冷静さはどこへいったんですか」
それからまた、沈黙が続いた。彼は天井を見上げつつ、呟いた。
「……ずっと、冷たい石の牢獄にいるかのようだった」
乾ききった声。訥々とした語り口。けれども、だからこそ、雄弁だった。
「初めて、初めて窓から、黄金色の陽光を……仰ぎ見たような……」
ニドは眉根を寄せた。なに言ってんだ、こいつ、というように。
けれども、俺は理解してしまった。
ベルノストの人生には、自由も安息もなかった。長い歴史を持つ功臣の一族の生まれということもあって、彼は五歳の頃から、王子の側近候補として厳しく育てられた。学問でも武術でも、常に他者より勝っていなければならなかった。未来の国王を支える重責を担うと定められている以上、その労苦は国王のそれに近いものだった。
普通なら、音をあげてしまうような試練の日々。だが、彼は乗り切った。それは、彼が資質に恵まれていたから、ということもあったのだろうが、それだけではない。彼がまさに、誰からも心から愛されることがなかったのが、その理由だったのではなかろうか。
彼の黒髪を忌み嫌った実母。側妾とその子ばかりを愛する冷淡な父。今も兄を追い落とそうとする弟とその母。この居心地の悪い家庭は、何も昨日からあるのではない。もっと以前、ずっと昔からそうだったのだ。思えば、初対面の時の、あの異様なほどの察しの良さも、そのように考えてみると整合性が取れる。幼くして人の顔色をよく見分ける子供には、それなりの共通点があるものなのだ。
そして、そんな中で生きるからこそ。ベルノストの拠り所は、まさに王子の側近であるという一点にのみあった。誰からも愛されなくても、誰もが一目置く優れた少年であるなら、彼は自分が何者であるかについて、悩み苦しまずに済んだ。
だから、俺が出現してからの彼の人生は、更なる苦悩の中にあったということができるだろう。奴隷出身の少年に打ち負かされ、唯一の心の在処すら危機に瀕した。ただ、俺がイレギュラーであろうことはタンディラールも承知していたし、二度にわたっての敗北を理由に、王子の側近からおろされることもなかった。
だが、昨年の事件が、主従の関係に亀裂を入れた。いや、もしかすると、その前から少しずつ綻び始めていたのかもしれない。というのも、ベルノストは優秀だが、それだけにグラーブにとっては息苦しい存在でもあったに違いなかったから。どちらも生真面目で、余裕のない性格をしていた。となれば、いずれも互いの失敗を許容などする余地もなかった。
いったん風向きが怪しくなると、世界は一気に彼に牙を剝いた。婚約者は堂々と彼を罵倒し、ついにはその弟に靡いて、一緒になってベルノストを打ちのめそうとしている。実家の父も、廃嫡を前向きに検討している。そして長年仕えてきたグラーブも、厳しい視線を向けてくるばかりだ。
王家に仕えるべく、何もかもを犠牲にした生涯をこれまで歩んできたのに。そこには人の温もりのようなものが、何一つなかったのだ。だからこそ、彼は女性にも、特に興味を抱かなかった。若者が普通に感じるような人並みの性欲すら忘れるほどに……彼の世界はあまりに冷え冷えとしていた。
だが、そこにそれまで見たこともなかった何者かが紛れ込んだ。タマリアは、作法にも囚われず、見た目には元気いっぱいで、笑顔の絶えない女だった。
いつも楽しげにしている彼女を目にするベルノストの気持ちは、どんなだったろう? 遠慮なく喋って、笑いたければ笑う。暗い気分で自室に引き返しても、タマリアは彼を陰気なままにはさせておかない。
いうなれば、ベルノストは、ここで初めて感情を解放することを知ったのだ。タマリアの陽気さに、これまで見たこともない喜びを感じていた。それも、最初は無意識のうちに。
しかし、そこでオギリックの陰謀が動き出した。タマリアは、ベルノストの迷惑になるまいとして、給料を返上して仕事を放りだした。そして、ラギ川の汚泥の処理という重労働にも、厭わず従事した。
ここでまた、ベルノストは発見してしまったのだ。彼女はただ、明るく楽しいだけの女ではなかった。利益だけを考えるなら、オギリックの手先にでもなった方がよかった。なのに、ファルスにも頼らず、彼に告げ口するでもなく、自ら苦労する選択をした。
それを知っておいて、ただ看過するなどできようものか。黙って犠牲になろうという彼女を捨ておいて、どうして誇りなど抱けようか。彼女と過ごした日々の、それ自体は小さな喜びの断片と……そこから生じた好意の欠片、そして新たに芽生えた敬意のようなものが混じりあって、ついにベルノストを動かした。いや、暴走させた。
愛を告げたとて……いや、その自覚は希薄だったのだろうが……その後、どう始末をつけるつもりだったのか。カリエラとの婚約は? 側妾にでもするのか? その辺り、順序をつけて考えたようには、まるで見えなかった。
考えられなかったのだ。何も。
生まれて初めて知った激しい衝動ゆえに、ベルノストは狂気に陥った。それをどうして責められようか。
「眠っちまったみたいだな」
「悪いが、ここに置いてもらっていいか。あとで回収に来る」
「ああ。なんかややこしいことになってそうだし」
ニドと話をつけると、俺は一切を報告するべく、学園に駆け戻った。




