手折られぬ花
「彼女がそんなことを?」
「ごまかそうとしているのは、わかるでしょう」
貴族の子女専用の高級喫茶店の奥の間で、俺とベルノストは向かい合っていた。
「楽に稼げる仕事を捨てる、それも僕からの信用もなくすようなことを言って……どう考えても割に合わないですよね」
「ああ」
「本当は、わかっているんじゃないですか」
彼の目を覗き込むようにして、言った。
「言いたくなかった話ですが。最近、殿下の覚えもめでたいとは言えません。実家でも問題になっているんじゃないですか。それで、弟のオギリックが欲を出した」
ベルノストは、口を開きかけて閉じ、それからしばらく考え込んでから、言った。
「だとすれば、私のせいだな。だが」
「だが、なんですか」
「それでは、よくわからないところが残るぞ。ではなぜ、タマリアは仕事を辞めた?」
「はい?」
一瞬、わけがわからなくなった。
「よく考えてみろ。オギリックがこの私、ベルノストを追い落とそうとしている。それはいいとしよう。そのために、タマリアに手を貸せと、そう言ったのだとするぞ?」
「え、ええ」
「なぜ拒絶した?」
タマリアの内心を読み取ったからこそ、そこは俺にとって自明だった。だから、考えようとも思わなかった。
「いや、だって、それはまずいんじゃないですか」
「どうまずい」
「ええと、ああ、そうか……彼女の中では、僕とベルノスト様は友人同士なわけですよ。そうすると、昔からの縁で彼女を気にかけている僕がベルノスト様に肩入れしているのに、ここでオギリックに乗り換えたら、僕がどんな顔をすると思います?」
ベルノストは頷いた。そこまでは想定していたのだろう。
「そうだ。つまり、彼女にとっての本当の保護者はお前であって、私ではない」
「保護者って」
「だったら、私でもなく、オギリックでもなく、お前の味方をすればいいはずだ。つまり、オギリックに何を言われたか、それを包み隠さず話して、あとは全部お前に解決させたらいいじゃないか。なぜごまかす?」
「あああ」
ややこしい。そうだ、ベルノストは、俺のことを中途半端にしか知らない。
サハリア東部の戦争をひっくり返した件は、一応、知っているのだろう。だが、その実態を見たのでもない。人間としてはデタラメに強い、という程度の認識しかないとすると、タマリアの本当の懸念は理解できない。それに、タマリアは脛に疵をもつ身の上でもある。
「ええと、僕が怒るとですね」
「怒ると? なんだ?」
「大変なことになるかも、という」
だが、まだベルノストは納得できていないようだった。
「大変なこととはなんだ? お前がオギリックを殺すとか、そういうことか」
「ええ、だいたいそんな感じです」
「それの何がまずい? 彼女からすれば、身内であるお前の味方、ベルノストを守れることになる。お前のことだ。証拠を残すようなへまはしないだろう」
「まぁ、そうです。消そうと思えば消せますよ。でも、それをしたら、ベルノスト様から弟を奪うことになるじゃないですか」
この指摘に、今度こそ彼は怪訝そうな顔を隠そうとしなくなった。
「この際だから言いますが、ベルノスト様だって気付いてますよね? オギリックがよからぬ思いを抱いていることくらい」
「それはそうだが……だからといって、なぜタマリアがそこまで抱え込まねばならん? 勝手に一人で貧乏籤を引き受けて……そんな責任を背負う立場ではないはずだ。というより、これは私の問題で、だから私が抱え込むべきものだろう? だから余計なことをお前にも言わなかった」
どうしたものか。そうだった。ベルノストは西方大陸の貴族なのだ。いくら頭がよくても、そういう考え方が自然に出てきてしまう。
「あのですね」
「ああ」
「僕はタマリアの保護者ではないです」
「何を言っている」
「あくまで彼女と僕は対等です」
何を言われているのか、まだ理解できないようだった。
「僕が保護者なら、さっさと領地に連れていけばいいでしょう? いくらでも仕事もあるし、望めばですが、縁談だって探してあげられるわけで」
「そうだ。なぜそうしなかった?」
「断られたからです」
彼は首を傾げた。
「前から奇妙だと思っていたのだが……最初は、一年ほど前の殿下の件で顔を見たな。ああした仕事に使えるほど、お前からの信頼があるのかと思ったが、シーチェンシ区に住んでいるところといい、どうにも辻褄が合わなかった。だが、なぜ断る?」
「だから、対等だからです。一方的に人のお世話になろうなんて、タマリアはこれっぽっちも考えてないんです」
「だが」
理解が追いつかないらしい。
「それだと、あのスラムで一生暮らすつもりか? お前が好意で手を貸してやろうと言っているのに、それを断っていたら。ましてや、私の仕事すらやめてしまったのでは、死ぬまであそこから抜け出せないぞ?」
「それも覚悟の上でしょう」
「わからん。なぜそこまで覚悟を決める必要がある?」
突き詰めると、それはスーディアの一件に結びつく。だが、それを俺の口から言うことはできない。
「納得できない。そんな生き方をできるものか?」
「では、実際に見に行きましょうか」
「見に行く?」
俺は頷いた。
次の休日の朝、俺とベルノストは連れ立って貸し切り馬車に乗り、歯車橋を渡った。御者を橋の付近に待たせておいて、俺達はまず、タマリアの自宅に向かうことにした。
彼女の家が近くなったところで、俺は立ち止まり、ベルノストに言った。
「どうします? 彼女と話したいのか、それとも彼女の普段の様子を観察するか」
「なに?」
「あちらに気づかれないまま、様子を見ることにしたいというのなら、そういう魔法をかけますが」
数秒間、彼は立ち止まったまま、考えていたが、すぐ答えた。
「それでいこう」
タマリアの自宅に到着したが、案の定、もぬけの殻だった。もし、彼女が以前のベビーシッターの仕事を得ていたのなら、今頃はここにいたはずだが、やっぱりそう簡単にそういう仕事は貰えない。だが、自宅にいないとすると、その他の仕事をしている可能性が高い。
「いないようだが」
「そうなると、あれですかね」
「あれ? とは?」
「千年祭も終わってちょっと経った頃ですし、ラギ川に土砂が溜まってそうですから」
イベント会場だったチュンチェン区は、広場になっていた。少し前までは、ここにテントが林立し、そこで観光客向けにいろんなものを売っていた。ティンティナブリア物産展も、この辺りで客引きをしていたのだが、今はすっかり様子が変わっていた。
「後片付け中か。しかし、これはひどいな」
「結局、余所者がそこに住む人の気持ちや都合なんか、ろくに考えるわけないってことですよ」
テントを建てるのに使った柱が引っこ抜かれ、横倒しにされて纏められているのはいいとして。屋根代わりの布も折り畳まれて、脇に置かれているが、それも問題ない。しかし、そのすぐ横に、うず高く積まれたゴミの小山ができていた。それがほのかな悪臭を放っている。
そして、始末が済んだとは言えない状況だった。というのも、このゴミの塊は、目の前のラギ川から回収されたものだったからだ。いつか見たように、川の南岸にいくつもの小舟が浮かんでおり、そこにみすぼらしい身なりの男達が乗っていた。彼らは桶や網に縄を括り付け、濁った川の底へと投げ込む。それから少し待って、みんなで縄を引く。川底のゴミや土砂が引っかかってくるので、それを回収する。
重労働だ。そして、スラムにいる労働者のすべてが、若く逞しい男とは限らない。年嵩の男などは、顔を真っ赤にして、今にも倒れそうに見える。
「いました。あそこです」
俺が指さした先、とある小舟の上に、タマリアはいた。汚れてもいいように、ボロボロのワンピース一枚で、川底のヘドロに塗れながら、男達と一緒に縄を引いていた。
「なん……だと」
どう考えても、ベルノストのメイドをやるよりつらい、割に合わない仕事。男でも、こんなきつい仕事は引き受けたくないものだ。だが、タマリアはそこに混じって黙々と働いていた。
「思った通りです。口入屋から乳幼児の世話の仕事を貰うにしても、すぐとはいきませんから。そうなると、政府がやっている、こういう日雇いの仕事が一番、手っ取り早いんです」
「ファルス、お前は彼女がこんな厳しい仕事をしていると知っていて、何もしないのか」
「だから、断られてるって言ってます」
それからしばらく。一定量のゴミを回収したところで、作業監督が今日の仕事の終了を宣言した。いつかのように、彼らは列をなして並び、頭から水をぶっかけられた。タマリアも同じようにびしょ濡れになって汚れを落とし、金貨一枚の報酬を受け取った。
「あれだけ働いて、たったの金貨一枚か」
「スラムでは、割のいい仕事なんだそうですよ」
タマリアは、いつかのように、帰り道の途中、ギリギリ食べられる品質の野菜とか魚とかを購入し、自宅に引き返していった。それから大鍋を引っ張り出すと、家の前で火を起こし、材料の一切をごった煮にし始めた。
「あれは何をしている?」
「何って、料理でしょう? 腕は悪いけど、食べられなくはないです」
「そういうことじゃない。どうしてあんなに」
「金貨一枚、稼ぎとしては大きいですからね」
俺は理解できるが、初めて目にしたベルノストにとっては不可解そのものだろう。やがて材料が煮えてくると、あちこちの扉が次々開き、そこからいろんな肌の色をした老若男女が這い出てきた。
「おっ、みんな来たね!」
タマリアが、翳のない明るい笑みを浮かべて、彼らを歓迎した。
「はいはい、並んで! 御馳走だよ! おいしくないけど!」
ベルノストは、今度こそ目を丸くした。
「稼いだ端から遣ってしまうのか!」
「別の財産に変換しているという見方もできますけどね」
「どういう意味だ」
「こんなところで暮らしているのに、自宅にたっぷり金貨を貯めこんで、無事で済むと思ってるんですか。女一人なのに」
シュライ人の少年、ハンファン系の老婦人、それに片足のないフォレス系の中年男。スラムに流れ着いた人々が、彼女の指示に従って、一列に並んでいく。彼らが持参した器を、タマリアは鍋の中のスープで満たしてやる。
「いらっしゃい! しっかり食べな!」
シュライ人の少年は、白い歯を見せて、はにかみながら笑みを見せた。
「姉さん、今日も済まねぇなぁ」
ハンファン系の中年男が、頭をボリボリ掻きながら、そう言った。
「そうだよ。手足が動くんだったら、働かなきゃ!」
「どうにも朝一番、早起きってのができねぇんだ。それに、運河の掃除はきっついからなぁ」
「頑張らなきゃ。フォレス語もハンファン語もできるんでしょ? 帝都では無理でも、ほら、オムノドとかでいい仕事あるかもって言ってたじゃん」
「あー、また仕事が流れちまって」
「もう。でも仕方ないね、次、次!」
「悪ぃな。いつかちゃんと返すから」
次は片足のない男だった。
「はいよ! 大丈夫? こぼさない?」
「ああ、俺はいいよ。けど、姉御、あんた」
彼は疑問を口にした。
「確か、どっかのお屋敷のお手伝いさんか何かの仕事を貰ったんじゃねぇのか? なんでまた、ゴミ拾いの仕事なんかしてんだよ」
「あはは! クビになっちゃった!」
「クビィ!? 姉御をかい? ひでぇな、そりゃ」
「ううん、あっちは全然悪くないよ。私がヘマをしたせいだからね!」
その次は、年老いた女性だった。杖を突きながら、ようやくタマリアの前までやってきた。
「済まんのう」
「いいのいいの。おばあちゃん、大丈夫? 前みたいにひっくり返したりしない?」
「すぐそこで食ってから帰ることにするでの」
「うんうん、それがいいよ」
タマリアは手を貸してやり、すぐ近くに老婆を座らせてやった。足腰の弱った老人となると、いったん座ると立ち上がるのも大変なものだ。食べ終わったら、また助け起こしてやらねばならない。
「さ、次」
「おぅ、お前がタマリアって女かよ」
順番など関係ない、と言わんばかりに、行列の横から、大柄な男が割り込んできた。
「食べるんだったら、ちゃんと並んでよ」
「うっせぇこのボケ。誰の許しを得て勝手なことしてんだオラ」
見るからにチンピラだった。
そいつは、俺とベルノストの目の前で、いきなりタマリアに手を伸ばし、軽く小突いた。それだけで彼女はよろめき、尻餅をついた。
「なっ、あの無頼漢」
「いいところに立ち会えましたね」
思わず低い声でそう応えていた。
俺もニドもいないところでとはいえ、こんな馬鹿な真似をするのが、まだ居残っていたとは。ちょうどよかった。思い知らせてやろう。
そう思ったのだが、すぐその必要がないらしいことに気づかされた。
「何してくれてんだ、てめぇ、おい」
列に並んでいた人々、特に男達が進み出た。
「ブッ殺すぞ、てめぇ」
「やっちまえ」
彼らの手が伸びる。男は、今更ながらに自分の愚かさを悟ったが、もう遅かった。左右から掴まれ、集団の真ん中に引きずり込まれた。
「やめな!」
だが、そこで動きが止まった。
「私が売られた喧嘩だよ」
タマリアは、もう立ち上がってきた。ただ、右の頬を見ると、さっき殴られたところが赤くなっている。
「放して」
「けど、こいつよぉ」
「いいから」
列に並んでいた男達が手を放すのを確かめてから、タマリアは大股に歩み寄り、男の顔面に拳を見舞った。
「なっ、こ、このアマ!」
「人のこと殴っといて、今更驚くわけ?」
男は一瞬、怒りを露わにした。それから、周囲の視線を思い出して、動きを止める。それから最後に、タマリアの顔を見た。
そこには、恐れを知らないかのような、力強い笑みがあった。これを見て、彼の腕は徐々に下がっていった。
「どこかで聞きつけたのかもだけどね。食べたきゃ、あんたはあっち。一番後ろ。並んで」
それでわかった。彼女を殴りつけた男も、みすぼらしい身なりをしている。列の最後に並んでも、ろくに恵んでもらえないかもしれない。だからこうして割り込もうとしたのだろう。
だが、こうなってしまっては、気まずいばかりだ。そそくさと逃げ去ろうとしたが、背を向けた時、後ろからタマリアに肩を掴まれた。
「ほら、そっち。そこ」
手を引かれ、最後尾に立たされてしまった。こうなっては是非もない。そして、列に並ぶ人々も、彼女が選んだ決着には文句をつけなかった。
よくよく思い返してみれば、スラムのチンピラごとき、彼女が恐れるような相手ではなかった。あのゴーファトと比べたら、本当にちっぽけな敵でしかない。そして、死ぬより苦しい思いなら、もう乗り越えてきた。殺すぞ、などと凄まれたからといって、今更、怯むようなこともないのだろう。
結局、タマリアは、さっきの男を含めた全員にスープを分かち与えてから、最後に残り物を自分のものとして、慎ましい食事を済ませた。
「こ、こんな……」
俺の横で、ベルノストは身震いしていた。
「どうして、こんな生き方ができるのだ!」




