リシュニアの誘惑
重い扉が呟きながら緊張を解く。道を譲った彼の横を通り抜けて一歩踏み込むと、動きのない、どこか息が詰まるような空気を感じた。もちろん、お香のような匂いも漂っているし、汚れもなければ、何か散らかっているということもない。また、石造りの建物の奥ということもあり、部屋の中は外より涼しかった。快適なはずではあるのだ。ただ、室内には、言葉にしがたい何かの重苦しさがあった。
リシュニア王女の私室なのだから、清掃は行き届いている。彼女が外出するたび、この施設の責任者は、すぐさま掃除係を送りつけているはずだ。彼女の身分を考えれば、いつどこで、どんな来客を伴って帰るかもわからない。その時に恥をかかせたら大問題になる。
だから、目に見える問題が何かあるのではない。ただ、なんとなく、見咎められているような気分にさせられた。
「済みません、お茶をお出しする前に、少しよろしいですか」
「はい」
普段は使っていないという左手の部屋。そちらの扉を、彼女が開いた。
「ただいま、ムトゥルク」
そこは巨大な犬小屋と化していた。床には敷物、部屋の隅には水と餌を供するための器。その真ん中で、アイリッシュセッターのような、深みのある茶色の毛色の犬が、伏していた。けれども彼は、主人の声にもほとんど反応しなかった。
リシュニアは、そっと足音を殺しながら近づき、ゆっくりと膝をついた。そして頭を撫でようと手を伸ばす……
「危ない!」
俺が声をかけると同時に、リシュニアもその手を引っ込めていた。というのも、急にムトゥルクは半身を起こして、彼女に噛みつこうとしたからだ。
「怖くないですよ、ムトゥルク。私です、私。わかりますか?」
それからもう一度、彼女は手を伸ばした。今度は、ムトゥルクもおとなしく撫でられていた。だが、このやり取りを見て、俺は気付いてしまった。ピアシング・ハンドで確認した結果も、その推測を裏付けている。
「もしかして、目が」
「ええ、もうあまりちゃんと見えていないはずです」
「でも臭い……ああ、そうか」
「ファルス様のせいではないですよ」
この老犬は、死にかけている。犬は元々、視力が良くないのだが、ムトゥルクは更に視力を失ってしまっている。ただ、耳と鼻は機能しているはずだ。それでも、今回は俺がリシュニアに同伴してやってきた。慣れない臭いが混じっているのに気付いて、彼は警戒心を高めていたのだ。そこで、薄ぼんやりとした影が近づいてきて、頭上に手をかざしたのだ。不安に駆られて、反射的に牙を剥こうとした。
「ムトゥルク、ファルス様とは以前、お会いしてるでしょう? お客様ですよ、怖くありません」
彼は答えず、おとなしく撫でられていた。
「では、そろそろ」
一通り、ムトゥルクの相手をしてから、彼女は立ち上がった。
座卓の上で、ソーサーが冷たい硬質な音をたてた。薄い上質な、幅広のカップからは、微かに湯気が立ち昇っている。少しだけ冷めるのを待った方がいいだろう。
彼女は、俺の向かいにではなく、丸い座卓を囲んで、九十度の方向に腰を落ち着けた。この位置取りは、意図したものだろうか? 警戒心が静かに引き上げられていくのを感じた。
「やっぱり、こうしてお茶をお出しするのは、いいものですね」
「そうなんですか?」
「ええ。お仕事同然の社交でもなく、振る舞いたいから振る舞うというのは、心が楽しむものですよ」
言葉の上ではお仕事ではない、などと言っているが、本当はどうだろうか? 取引ならざる取引とは、即ち最上位の取引なのだから。少し考えればわかる。金と契約だけで結ばれた相手と、個人的な信頼による繋がりと。どちらが重いだろうか。
「ファルス様は、あと一年半ですよね」
「そうですね」
「留学が終わったら、どうなされるおつもりですか?」
少し考える。モーン・ナーの呪いのことは省いて、無難に答えるとすれば……
「とりあえず、ティンティナブリアの復興が思いの外、早く済みそうですから。この夏にもイーセイ港が開くので、秋から冬にかけて、少しずつ商人も集まりだすと思いますし、留学を終えて領地に帰ったら、まずは復興事業の確認からですね。だいたい問題なさそうとなったら、陛下に領地を献上しようかと思います」
「献上、ですか?」
「陛下も、最初からそういうお考えだと思いますよ。自分としても、特に不満はありませんし」
ここまでは既定路線だ。タンディラールの計画を妨げたり、歯向かったりするつもりはない。少なくとも彼が、平和に王国を治めようとする限りにおいては。
「では、その後は? ファルス様は武名がおありですし、アルタール様の下で、軍団を率いるとか、そういうお仕事をなさるのでしょうか?」
「いえ」
タンディラールとしては、その後をどうするつもりなのだろうか? 少なくとも、俺に高位の将軍職を宛がう選択肢はなさそうだ。今はアルタールが大将軍、だが、それに次ぐ護国将軍の地位を俺に与えてしまうわけにはいかない。なんだかんだいって、グラーブにとっての一番の側近はベルノストなのだ。まずは近衛兵団の一軍団を預けて、身辺を守らせるだろう。そのうちにグラーブが王としての地位を固め、信頼できる他の部下が育ってきたところで、ベルノストを上位の将軍職に就ける。それが無難だ。
俺みたいな怪物には、何かの仕事をさせること自体、意味がない。それこそ適当に年金でも食らわせて、王都の片隅に転がしておけばいいのだ。判明している限りでも、東部サハリアの戦争をひっくり返した大量破壊兵器なのだから、保有していると示すだけでも周辺勢力への牽制になる。少なくとも、ティズとの対立は回避できる。ミール王やドーミル教皇が接点を持っていることも承知しているだろう。逆に、俺を実際の軍事力として利用することはできない。防衛戦争ならいざ知らず、侵略目的で運用しようとしても、まず逆らうからだ。
そう考えると、タンディラールの外交方針を、俺の存在が強く規定してしまっている。彼は外に向けて進出することができなくなってしまったのだ。もっとも、だからこそ、内に対して全力をかけることもできている。ただ、それが性急すぎる動きにも見えてしまうのだが。
「正直に言いますが、貴族の地位についての拘りはありません」
「そんなような感じはします」
「リンガ商会のみんな、それと領地で復興を手伝ってくれている人達の身分を保証してもらったら、旅に出るのもいいかなと思ってます」
「旅? ですか? でも」
彼女は真顔になった。
「ファルス様が訪問していない土地なんて、もういくらもないかと思いますが」
「ああ、えっと、確かにシャハーマイトとか、ワディラム王国とか、まだ見てないですが、そういうことではなく」
コーヒーや醤油の普及という、人としての夢を叶えたら。あとは、この世界に迷惑をかけない選択をしたい。それ以上のことは何もない。
「誰にも迷惑をかけないところで、ひっそりと静かに暮らしたい。それだけです」
「それは」
彼女は少し、考え込んだ。
「おできになることなのでしょうか」
「と言いますと?」
「力を持つ者が、そんなに簡単に自由になれるはずがないと思うのです」
「だからこそ、弁えようとしているのです」
少なくとも、世俗の世界の戦争なんかには、もう参加したくない。それこそ使徒が魔物の軍勢を率いて世界を滅ぼそうとしてきたとかであれば、俺も立ち向かわなくてはいけなくなるのだろうが、そういう状況でもなければ、もう戦うつもりなんかない。ラーダイあたりに、腰抜けの色男と笑い者にされているくらいが、ちょうどいい。
ただ……
その時点で、解決しなければいけない問題を突きつけられる。地位や身分、仕事やお金さえ確保すれば手を放しても問題ない人達については、どうにでもなる。だが、俺自身を目的とする人、これとどう向き合うか。具体的にはまずノーラが思い浮かぶが、どうやら、彼女一人では済まないらしい。
「それでも、行く先がおありなのですね」
「一応は」
「羨ましいことです」
王女という身分の不自由は、並大抵ではない。同情する思いがないでもないが、裏を返せば、安定しているともいえる。
「殿下は帰国したら、きっとそれなりの貴族との縁組ということになるのではないでしょうか。確かに、気儘には過ごせないでしょうけれども」
国内の貴族なのか、それとも外国に出されるのか。後者の可能性も大いにある。国内の貴族に、王の血筋を与えたくはないだろう。変に影響力を行使されてはたまらない。
だが、彼女は小さく首を振った。
「おいやですか」
「そうではないとしても、きっと、そうはいかないでしょう。少なくとも、簡単には決まりません」
無論のこと、タンディラールも降嫁先を厳選しなければならないだろうが、そこまで難しい話だろうか?
「身分が身分ですから、慎重にせざるを得ないのはわかりますが」
「そんなことではっ……」
珍しく、語気が荒くなった。見れば、膝の上で拳を固く握りしめていた。
「いったい、何が」
「ファルス様」
一瞬で彼女は感情を立て直したらしい。自分の中の緊張に気付いて、それを意図的に緩めた。
「もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「なんですか」
おかしい。どういうわけか、胸騒ぎがする。いや、これは多分、厄介事を持ち込まれる。そんな気がしてならなかった。
最初、リシュニアは言葉を発しようとして、唇を震わせた。だが、なかなか言い出せなかったのか、最初は声も出なかった。それでも、俺をまっすぐ見据えながら、ついに言った。
「……私の想いを受け入れていただきたいのです」
内心で警報がけたたましく鳴り響く。
これは、言葉通りに受け止めるなら、愛の告白だ。女が男を自室に一人連れ込み、邪魔の入らないところで告げているのだ。他に前提とする「私の想い」なるものが説明されていない以上、暗黙的に示されるのは、そのような意味になる。
「ファルス様」
リシュニアはそっと肩を寄せ、冷たい指先で俺の手に触れた。
「私には、望まれること以上の望みはありません」
彼女の柔肌と俺とを隔てるものは、もはや薄い夏服だけ。体温が直に伝わってくる。これ以上、明確なメッセージはない。言葉など、もはや不要だろう。あとは俺が欲望のままに彼女を毒牙にかけるだけ。
「先のことなど考えないでください。私は望んでいるのです。意のままになされませ」
だが、その時、微かな香水の香りが、俺の鼻に纏わりついた。それが俺に気付きを与えてしまった。
あまりに整い過ぎている。申し出そのものは唐突ではあるものの、彼女は準備を済ませて、俺をここに呼んだ。
では、リシュニアは以前から俺に思いを寄せていた?
そんなはずはないのだ。いくら俺でも、本気とそれ以外の区別がつかないということはない。もし本当に俺のことが気になって仕方がないのなら、こんな振る舞いには出られない。
本気の女とは、例えばマリータだ。俺と話したくて仕方がないのに、まともに言葉が出てこない。だから、不自然に高笑いをしてみせたり、尊大な態度をとったりする。そうでもなければ、目を合わせることもできない。
なぜなら、相手を激しく求めれば求めるほどに、自分の無価値を突きつけられるからだ。白い肌、豊かな髪、細い腰、それが何の役に立とうか? 私は美しい、私は気高い、私は賢い……何百回繰り返しても、安心には手が届かない。それでもなお、愛する人がもっと素晴らしく見えてしまうから。真剣になればなるほど、臆病になる。
私を抱いて欲しい、好きにしてもいい……こんなことを言いだせてしまう時点で、もうおかしいのだ。自分の美貌が、何かの取引材料になると思っている時点で、多少なりとも冷静さが残っている。真心から恋する乙女にとって、自らの肉体は、相手に与える報酬などではなく、受け取っていただく荷物のようなものなのだ。
ノーラがそうだった。俺が帝都に旅立つ直前の夜に迫ってきて、でもすぐに「ごめんなさい」と言って逃げ去ってしまった。後知恵で客観的に考えれば、もう少し冷静に、段階を踏んでやればよかったのに、ということはできる。でも、それができないのが本気の恋というものではないか。
リシュニアは、違う。何かがおかしい。これはできすぎている。俺の心を推し量り、試みる余裕がある。
「……えっ?」
俺は、身を引いた。
「殿下は何をお望みなのですか」
「それは今、申し上げた通り」
「本当のことを仰ってください。でも、前もって言っておきます。僕はグラーブ殿下に背くつもりはありません。たとえ疎んじられても、それどころか人前で侮辱されても、それは変わりません。身分を捨てて立ち去ることはあっても、剣を向けて害するような真似は、絶対にしません」
申し訳ないが、王家の内側での権力闘争に首を突っ込むつもりはない。そんなもの、知ろうとさえ思えない。それはそっちで、内々で片付けて欲しいことだ。
「私は、そんなつもりは」
「では、どういうおつもりですか?」
だが、彼女は俯くばかりで、何も言おうとはしなかった。
俺は腰を浮かせた。
「今日はお招きありがとうございました。ですが、そろそろ失礼させていただきます」
「ファルス様」
彼女も慌てて立ち上がった。
「私は、ただ」
「なんですか」
「……いいえ」
それ以上、やはり何も言いだせず、彼女は俯いた。
「ご心配なさらないでください。何もなかったと思うことにします」
「お慕いしているのは、本当です」
「それは恋慕の情ではないのですよね」
返事はなかった。
「失礼します」
俺は玄関の扉を押して、彼女の部屋から立ち去った。