美徳の死にゆく街にて
またもやレビューをいただきました。
ありがとうございます m(_ _)m
春の終わりともなれば、一日は長い。もう午後六時過ぎなのに、窓の外はいまだに明るかった。空は晴れ渡っていたが、東の彼方には遠く、まるで軍勢のような雲が犇めいていた。その雲のすぐ上には藍色に染まりかけた空、だがまだほんのりと色づきだしたに過ぎない。窓から目に見える景色のほとんどは、夕暮れ時の、あの黄色い光に包まれていた。
ここからでは水平線は見えない。灰色の雲の下に広がるのは、帝都の街並みだ。まだ灯りがなくても困るほどではないが、この窓のすぐ下、活気ある商店街では、そろそろ気の早い店員が、ランタンを持ち出して軒先に吊るし始めている。
そんな明るい屋外から室内に目を向けると、途端に薄暗く見える。ただ、それは決して貧相な空間ではなかった。柔らかそうなソファ、小綺麗なテーブル、よく磨かれた床。壁の高い位置には、時計も掛けられていた。
「休みの日だというのに、こんな時間に済まないね。わしの都合に合わせてもらって」
「いえ」
「すっかりくたびれているように見えるが、気のせいかのう」
休日の昼間にみんなを招いてお茶会を催した。冷や汗を流しながらの挨拶を済ませた後は、俺はまた裏方に戻り、ただただ大人しくお客様の要望に応え続けた。少し前に解散となり、みんなを見送ってから、俺は早めの夕食を摂って、約束通り、このケクサディブの自宅までやってきた。
「大したことではないんですが、僕の知人達がですね」
「ふむ」
「ほら、僕って世界中を旅して知り合いが大勢いるものですから……帝都で出会った時点で、仲良しとは言えない関係で、でも僕はどちらとも付き合いがあったので……なんとか丸く収めたくて、その、接待? をしていたんです」
ソファの上でのんびりしていた彼は、口角を上げた。
「素晴らしいね。君は帝都の理想を実践に移している」
「帝都のためにやってるんじゃないですよ」
「そうだろうとも。そんな必要はどこにもない。順序が逆だ。まず、君のような人間がいて、それを助けるために帝都がある。帝都があって、それを支えるために人々が、それこそ自分で理解もできない理想を振りかざすなんて、本末転倒だよ。そうは思わんかね」
誰のことだろう、と思わずにはいられなかった。
「そういえば、一応、手土産を持ってきましたよ。もしかしたら夕飯がまだかもしれないと思って。あまりものなんですが」
「ほう?」
「どら焼きと……ちょっと合わないかもですが、コーヒーを」
「ほう! 君が見つけたという新しい飲み物かね」
作り置きしていた水割りコーヒーだ。そこにミルクを加える。どちらも瓶詰にして持ってきた。最後に魔術で氷の粒まで付け加えた。
「ほうほうほう! では、早速」
目をキラキラさせながら、彼は一口味わった。
「おぉ……これはこれは。苦みの彼方にほんのり甘みが。それに香りがなんとも言えん。これは人気が出るぞ。わしが保証する」
「どうもありがとうございます」
彼はちびちびとカフェオレを飲んでは溜息をつき、しばしの間、味の余韻に身を任せて、ソファの上でのびていた。
「おっと、用事を忘れそうになるな。それで、わしに確認したいことというのは、なんだったのかね」
「先日の事件についてです」
既に魔術で心は読み取ってある。ケクサディブが犯人の仲間だったということはない。ティルノックが主犯だったという事実も、彼の自殺の後にやっと知るに至っている。だが……
「心当たりがあったんですか」
「ふむ」
彼は身を起こして、座り直した。
「君なら魔術でわしの心なんぞ、いくらでも読み取れるだろう? 可能性の一つとして、あり得るとは思っていたよ」
「ティルノックのことも、具体的に思い浮かべていたんじゃないですか」
「それはそうさ。だが、彼が帝都にいたかどうかまでは、知らなかった。それに、本当に彼の仕業だと断定できるほど、自信があったのでもないのだよ」
憶測で具体的な個人に疑いをかける。それも、過去に冤罪で傷つけられた人を? だから、何も言えなかった。
「残念なことになった。本当に、残念だ」
確かめたいというのは、ただこれだけのことだった。だが、用件ならぬ用件がある。
「なぜ、こんな事件が起きたのでしょうね?」
「ふむ?」
「金欲しさでもない。食べるのに困ったのでもない。でも、殺さずには済ませられなかった」
俺の問いを聞いてしばらく、ケクサディブはじっと黙っていたが、急に笑い出した。
「そんなことをいちいちわしに問うのかね? 君の中で、もう一応の答えならあるんだろう? わしを答え合わせに使おうってハラかね!」
だが、笑い飛ばされても俺は真剣、彼もまたそうなのだ。
「ザールチェク教授に宿題を出されました」
一見、何の関係もないはずの話が、こうして繋がっていく。
「善とは、美徳とは何か、と」
「うむ。君の答えはなんだね?」
「確かにすることです」
俺は、壁にかかった時計に目を向けた。その時針は運命の女神モーン・ナーの象徴、そして同時に、彼女が指し示す正義のありようでもある。
「現実の世界で、実体があるのは今、この瞬間だけです。過去も未来もあやふやで、確かなものはありません。それを少しでも確かにするものが、美徳なのではないでしょうか」
「ふぅむ?」
わからない、という顔をしているが、本当は彼も理解しているはずだ。構わず続けた。
「善悪とは、社会的なものです。社会を共有する者同士でやっと通用する基準であって、それ以外には意味をなしません。サラトンさんが仰ってましたよね。山から下りてきて人を殺す熊に善悪はないと」
ただ、無論、人間社会の側では、それを害獣と看做すし、駆除するためには殺害を含む極めて厳しい手段がとられることだろうが。
わかりやすいのは戦争だ。どちらも人間なのだが、いずれの側も正義を掲げる。別に間違ってはいない。それぞれの社会の中での正義は、その一方の国の中でしか通用しないのだから。
「では、社会とはなんでしょうか。それは契約の集合体です。契約とはなんでしょうか。文字通り、約束事です。過去にこう決めたから、未来にこうしますと定めることです」
ケクサディブの笑みが深くなる。
「でも、約束を守るのは大変です。約束をするのは怖いことです。今、この場にあるものを手放して、どうなるかもわからない未来に託さなければならないからです。だから、善とは、美徳とは、正義とは」
俺は改めて時計を見上げた。
「流れ去っていく時間というものを俯瞰して、変化に耐えて踏みとどまることを意味するのです。そうではないですか?」
これはアイドゥスが俺にした、お金の話と地続きだ。
彼はお金を介した取引とは、どれも先物取引だと言った。通貨それ自体に価値などない。ただ、みんながなんとなく承認しているだけのものだ。しかし、未来において価値を発揮するであろうと、そう薄っすら信じられている。実際には、今、手元にあるお金は、未来において約束されたそれより価値がある。遠い未来になるほど、一切が不確実になるから。約束の力が薄れていくから。
お金の価値と同じように、約束事もまた、実はあやふやなものだ。しかし、契約は守られなければいけない。そうでなければ、協調は崩れ去ってしまう。
協調の最も単純な形を突き詰めると、まず不戦条約であり、次に負債になる。それは通貨に先だって存在したに違いない。
例えば、原始的な村で、二つの家が別々に麦を栽培している。だが、一方の畑が凶作だったら、どうするべきだろう? 農地がすぐ傍にあり、同じ川の水で農業を営んでいるのなら、無視を決め込むのは、あまりいい考えとはいえない。飢えた側が何をしでかすか分からないから。
だから、来年の収穫で返済するという約束によって、余裕のある側が麦を貸し与える。そう、来年だ。
一年間という長い時間、相手を信用することで乗り切らねばならない。それはつまり、借り手にとっては、相手に信用される必要があることを意味する。どうやってこの信用を創出すればいいだろうか?
きれいごとを抜きにするなら、まず暴力だ。俺から麦を借りておいてバックレたら、ブッ殺す。しかし、それが容易にできるほど力の差があるのなら、そもそも麦を貸す必要もない。飢えた相手が何かしたら、一方的に叩き潰せばいい。
そんなの、今の俺でもあるまいに、普通の人には簡単とは言えまい。だが、それを簡単にする方法がある。みんながその暴力に同意すればいいのだ。一人の裏切り者を十人で取り囲めば、あっという間に血祭りにあげることができる。
互いの安全を保障し合う不戦条約は、暴力的な背景を伴っている。認めたくないが、剥き出しの生存においては、これが平和の実態だ。
だが、そもそも、負債の存在は、血みどろの不戦条約をカーテンの向こうに隠すものだ。貸し借りができる限り、そしてお互いが約束を守りあう限りにおいて、暴力が実際に行使される必要はなくなる。また、そうでなくてはならない。
少し考えてみればわかる。飢えるからと麦を借りた。でも、返済しないかもしれないと疑われたら、今夜にでも隣の家の連中が鉈を手に殴りこんでくるかもしれない。そうなるくらいなら、こっちも返済なんかしないで、今すぐ棒切れをもって隣の家を襲撃した方がいい。だが、こんな物騒な世界のコストパフォーマンスは最低だ。そんなことは『状況を俯瞰すれば』すぐわかる。
そう、物事を長い目で見ること。認知範囲を広げて、この場の快不快、目先の損得だけで判断せず、とりわけ時間の流れに伴う変化に耐えることが、この場合、互いの利益になる。
それが美徳だ。
誠実であるとは何か? 過去と現在、未来に対して一貫性を保つことだ。特に、過去の負債を未来において返済すること。
勇敢であるとは何か? これは誠実さの反対側だ。誠実であると信じて、先に貸し出すことだ。
慈愛とは何か? これらの取引を成り立たせようとする態度だ。具体的に言えば、できるだけ長く待つことだ。
こうした徳は、本質的に独立したものではない。相互に関わり合っている。その共通点……それが果たす機能というのは、どれも同じものの別の側面でしかない。つまり、時空間におけるギャップを、人の意志で埋めるということだ。
その意味で、ケクサディブが今、俺を帝都の理想の実践者と褒め称えたことは決して間違ってはいない。俺がリリアーナとウィーを、ヒジリとシャルトゥノーマを同じ場所に招き、心を込めてもてなすというのは、まさに彼女らの間にあった大きな間隙を埋め、一つの社会に迎え入れることなのだから。帝都が、全世界の融和と統合を目指す場所であることを思えば、俺の行いはまさに、その理念に沿ったものと言える。
「素晴らしい」
ギラつく、と言ってもいいような笑みを浮かべて、ケクサディブは俺を賞賛した。だが、俺は首を振った。
「わざとでしょう?」
「ふん?」
「僕に答えを与えようとしていたから、だからわざと機会を見つけて……ちょうどマホとコーザの言い争いが利用できそうだったから、あれを口実にして、僕をサラトンさんのところまで連れて行った」
「そこまで見抜いていたとはね」
つまりケクサディブは、最初から俺に問いを投げかけておきながら……いったい何がモーン・ナーの呪詛を招き寄せたのかと問いながら……実はもう、彼の中ではその答えが明らかになっていた。だが、彼は自分の考えを説明して終わらせるのをよしとはせず、俺に考えさせ、自ら納得できるようにさせようとした。その目的があったからこそ、以前は競技場に遊びに行ったのだし、今回もサラトンと引き合わせたのだ。
「回りくどくなりましたが」
そして、俺は結論を口にした。
「なぜティルノックは殺人者になったのか。どうしてサラトンさんは、自らスラムに引きこもって人生を締めくくろうとしたのか。していることはまったく別でも、原因は同じところにある」
ケクサディブは頷き、答えの続きを待っていた。
アイドゥスの最終講義を思い出す。取引にはいろんな通貨がある。そして、支払い手段を間違えてはならないのだと。だがもし、本来の通貨が枯渇したら、それはどんな結果を招くだろう?
「ここが帝都だから。あらゆるものをお金で買うことができてしまう街だから。ここに住む人々は、美徳で負債を貸し借りすることができなくなってしまった。信じて待つことができなくなってしまったから」
「そうとも」
彼は頷いた。その静かな笑みは、しかし、夕暮れ時の無人の公園のように、どこか寂しさを感じさせるものだった。
「ここは世界の果て、その終わりの場所。年老いた美徳が、まさに死のうとしている街なのだよ」
彼はソファから立ち上がり、改めて窓の外に視線を向けた。
灰色の雲の軍勢の上には、寒々しい夜の藍色が広がりつつあった。そのすぐ下、商店街には光と喧騒が満ちていた。けれどもそれは、どこか調子外れで能天気な様子に見えた。大いなる闇が迫ろうとしているのに、そこを行き交う人々は、まるで恐れを忘れてしまっているかのようだった。




