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ここではありふれた物語  作者: 越智 翔
第一章 侘しき寒村
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愛情たっぷりの日々

 思えば、現代日本の家屋は清潔感もあったし、実際に衛生的だった。ガラス窓が、部屋の明るさはそのままに、外界と切り離された空間を生み出した。壁の素材にもいろいろあるのだろうが、必ず壁紙が使われるので、見た目が整っていて、きれいだった。

 ここはどうだろう? 小さな窓が、高いところにポツンとあるだけで、それも今は開けっ放しだ。そろそろ蚊の涌く季節になってきた。本当なら、閉じてしまいたいのだが、とてもではないが、手が届かない。

 そして、この家は、農村の端にある。すぐ近くにはちょっとした林が広がっているから、無数の昆虫が飛来する。今も壁にゴキブリを一回り大きくしたような虫が、身動ぎひとつせずにとまっている。っていうか、壁の木材の色と一体化しているから目立たないけど、これ、完全にゴキブリだな。

 だが、この状況を変える力など、今の俺にはない。そもそも、それどころでもない。


 生まれておよそ一年が経ったらしい。何もいちいち、毎日が過ぎていくのを数えていたわけではない。手がかりなら二つある。一つは、育ちかけた麦の様子だ。

 もう一つは、誕生日だ。といっても、お祝いしてもらったのではない。

 ちょっと前に、村でお祭りがあった。どんな内容のものかは、あまりよくはわからない。昼間は、神様の祠のようなところに、みんなで詣でていた。夜は、村の中心の広場で焚き火をして、みんなでご馳走を食べていたらしい。一歳児の俺はというと、最初の挨拶だけ担がれて参加して、あとはお留守番だ。

 そのお祭りから数えて五日目に、例の三人組の女達が揃って家を訪れた。最年長の老婆が、小さな木製の髪飾りを手に、長い説教をした。言葉の意味は、あまりよくわからなかったが、時折、俺を指差しながら、何事かを叫んでいた。そして老婆がその髪飾りを、俺の母親の髪に挿し入れる。すると、後ろに控えていた二人の女が、それぞれ、箒と包丁を手渡した。そうして家の出口まで行くと、一礼して去っていった。

 最初は、俺の母親と仲違いでもしたのかとも思ったが、たぶん、そうではない。もともと母親と彼女らとの関係には冷え切ったものがあったし、最後の別れ際にしても、喧嘩をしているような雰囲気はなかった。老婆の言葉はしつこく響いたが、どちらかというと、あれは何かを説明するような口調だった。また、髪飾りといい、他の二人の箒と包丁を手渡す仕草といい、どこか儀式めいたものがあった。

 以来、彼女らは一度もこの家を訪れてきていない。その代わり、俺に名前がつけられたらしい。俺の母親も、父親も、俺の顔を見ると「ファルス」という。ごくまれに訪れる来客も、やはり俺に向かってそう呼びかけるのだから、たぶんこれが、俺の名前なのだ。

 要するに、こういうことだ。産後の大変な時期をサポートした女達が、一年間を乗り切った母親に対して、家の主としての権限を返した。いつ死ぬともわからない乳児が、なんとか立って歩けそうなくらい、大きく育った。まだまだいつ死んでもおかしくないか弱さではあるものの、とりあえずの危機は脱した。それで子供に正式な名前をつけた。


 ところで、生後一年の俺の成長の度合いはというと、実はあまりよろしくなかった。実は、まだちゃんと立って歩くのもおぼつかない。

 とにかく、腹いっぱい食べていない。実のところ、俺にとって一番差し迫った問題とは、これだ。貧しい農村に生まれたのだから、ある程度はやむを得ないのだが、原因はそれだけではない。

 まずもって挙げねばならないのは、母親の問題だ。たった一年で、彼女は母親としての自覚を、きれいさっぱり投げ出してしまっていた。ろくに食べられるものも残さずに、一人で家を出てしまう。それで農作業でもしているのならまだしも、単に遊び歩いている場合もある。

 遊び歩いている? 発育のよくない一歳児の身の上で、ろくに遠出もできないくせに、どうしてそんな推理が可能なのか? いや、推理でも想像でもない。家からろくに出られずにいる俺だが、それだけに家の中のことならよくわかる。要するに……

 足音がした。一人ではない。またか。


 軽い足音に続いて、重い足音。男女二人分だ。一人は母親で、もう一人は、村の若者だ。家に入るなり、小声で囁きあっている。彼女のほうは、満面の笑みだ。男も、これからのお楽しみに、鼻の下まで伸びきっている。なにぶん娯楽のない田舎の村のこと、デートコースも限られる。二人は余計な道草を食わずに、寝室へと直行した。

 これが毎度のことで、しかも相手の男も頻繁に入れ替わるので、俺は最初、これが彼女の仕事なのではないかと思ったほどだ。というのも、どうやら俺の家は、この村の外れのほうにあるらしく、俺の両親にしても、村では鼻つまみ者らしい。かてて加えて、夫のほうはといえば、とんでもない飲んだくれだ。女の細腕で子育てから生活費まで、何もかもを引き受けるのは大変……となれば、売春も仕方ないと思えた。

 ところが、どうもそうではないらしい。もともと、飲んでは暴れるダメな中年男に、これまた村一番のビッチである俺の母親をくっつけて、厄介払いしただけなのだ。その証拠に、両親ともそれぞれの実家や兄弟から、多少なりとも援助……という名の、一種の手綱……を受け取っていたし、それに以前、彼女がいつものように男を連れ込んでいた時に父親が帰ってきたことがあって、その時には大騒ぎになった。もしかしたら、彼女は性的関係を通して、いくばくかの利益を手にしていたかもしれないが、それが家計の足しにされることはなかったのだろう。


 そういうわけで、今は絶賛ネグレクト中なのだ。扉の向こうから、嬌声が聞こえてくる。ボロいベッドの軋む音も。やるなとは言わないが、せめて俺に何か、食べるものを一切れでも渡してからにして欲しい。

 前世での俺は、まるで異性には恵まれなかった。まだ一歳の俺だが、果たして将来はモテるようになるんだろうか? この幼い肉体では、快楽を味わうのは、まだ当分先になりそうだが、知識として理解しているだけに、なおさら苛立ちが募る。

 だが、苛立つとか、そんな暢気なことを言っている場合ではなくなってしまった。


 大柄な男の影に、思わず見上げる。こんな真昼間に仕事もせず、何をしているのか。

 ふらりと姿を現したのは、俺の父親だった。よれよれの上着に、ボサボサの茶髪、無精ひげ。だらしのない雰囲気が漂っているのに、目だけは据わっている。開けっ放しの玄関を通り過ぎてここに来た時点で、もう、何が起きているかを正確に悟ったようだ。

 最初、浮気の現場を押さえた時には、大変だった。見境なく暴れる、暴れる。妻を滅多打ちにして、あとちょっとで殺すところまでいった。なんとかこの場を抜け出した間男が応援を呼びにいったので、結局は村人達に取り押さえられてしまった。そういうわけで、もう二度と暴れてはいけないと釘でも刺されているらしい。

 しかし、彼は妻を目の前で寝取られたのだ。この一件については、彼に分があるはずなのだが、もともと乱暴者でもあり、怠け者でもあったから、村で彼の味方になってくれる人はいなかった。もしかすると、彼の妻を味わう権利を手放したくないのもあって、男達が偏った審判を下したのかもしれないが。

 だから、この惨めな状況にもかかわらず、彼は寝室のほうをじっと睨んだだけだった。そして俺は、そんな彼をじっと観察しながら、身動ぎもしない。

 俺の中のベストシナリオは、このまま彼が、台所から現金なり酒なりを、黙って持ち出して、また出て行くことだ。こういう場合、母親もさすがに負い目があるのか、厳しく夫を責め立てたりはしない。

 だが、今回は、少々運が悪かったようだ。


 彼と目が合った。逃げようとして手足をバタつかせるが、もう間に合わない。彼は俺の前でしゃがみこむと、声色だけは優しく、何事か話しかけてきた。意味はよくわからないが、たぶん、ものすごく汚い言葉を口にしている。表情とニュアンスから、なんとなくだが、察することができるのだ。

 恐怖に何も言えずにいると、彼は俺の上着の首根っこの辺りを掴んで、俺を持ち上げた。悲鳴をあげても無駄だ。母親は今も元気に声をあげているから、ちょっとやそっとでは気付いてくれない。仮に気付いても、何もしてくれないだろうが。

 俺は、片手で持ち上げられたまま、どんどん運ばれていった。玄関をくぐり、家の裏手にまわる。ということは、そうか、行き先はあそこだな。


 寝室の反対側、家の裏手には、水甕がある。炊事に洗濯にと、水は生活に欠かせない。だが、水道などないこの世界だ。近くの川のを汲み置きしたのが、この大きな水甕だった。

 木の蓋を、男の手がそっと持ち上げる。そして、俺の胴体を、大きな手が両側から挟みこむ。これでもう、もがいてもあがいても、俺が逃げられる見込みはなくなった。

 俺の頭が、水甕に近づけられる。水面は透き通っていて、波紋ひとつない。だから、俺自身の顔がよく見える。ふっくらした乳幼児の顔だ。

 そっと、なるべく気付かれないように、ゆっくり深呼吸する。だが、深く息を吸い込みきる前に、俺の頭は水中に突っ込まれた。

 最初のうちは、もっと直接的な暴力のほうが多かった。ささくれた木の枝の、尖った部分で肌を刺してきたり、焼けた石を肌に押し付けてきたり。だが、そういう外傷の残る虐待は、すぐに発見されてしまう。さすがに彼も、自分の立場を悪化させ続ける行為は、控えざるを得なかった。

 そこでこれだ。濡れた服など、そのうち乾く。そして一歳児なら、告げ口もできない。死ぬ寸前ギリギリまで溺れさせて楽しむ、というわけだ。なかなかいい趣味をしている。

 つまるところ、この男には、俺を殺すだけの度胸などない。それはわかっているが、万が一ということもある。俺は毎回、ほどほどのところで、適当な演技をすることにしている。つまり、息苦しくて溺れそう、という身振りをしてみせるのだ。

 そんな風に彼を楽しませるのはよくないだろうか? 虐待という行動に見返りがある以上、次も俺をいじめたくなるだろう。しかし、だからといって、もう慣れたからと無反応でいると、余計に彼を逆上させるかもしれない。そうなってからでは手遅れなのだ。

 何度かの潜水訓練の後、俺はようやく引き上げられた。その時、滴る水面に、また俺自身の姿が映る。だから、否が応でも確認できてしまうのだ。俺がこの男から虐待される理由。


 俺は黒髪だった。

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― 新着の感想 ―
作者殿の文章力と語彙力がよく光ってらっしゃるとても良い話。 それに、注意書きを置いているのはいい判断だと思う。虐待シーンで普通に胸が痛くなった。
[良い点] めっちゃ面白いです!描写が上手で読んでて状況を飲み込みやすいです! [一言] 早く最新話まで追いつきたいです〜。1話以前の設定集とかは飛ばしちゃったので。 婆さんとのエッチシーンは流石に不…
[一言] しっかりと顔を覚えておいて、大きくなったら、そのままやり返してあげましょう。手足を縛って、池にでも落とすのが良いですね。
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