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僕とりこちゃん

作者: クフフのフ

僕は周りの皆に激しく嫉妬していた。

だって僕の好きなりこちゃんの視線が目まぐるしく動いて、僕以外にも向けられるのだから。

りこちゃんの目は、只の目なんかじゃない。

茶色の潤んだ瞳は、打てば響く心優しい情緒が滲み出ていたから。

そして今、そのりこちゃんの目を―――独占したい!

「頑張れ、翼ーっ!」

僕に声を励ました声援が送られる。

沢山の叫びにりこちゃんの撫でる様に耳を触れる声調は感じられない。

僕は、この場で求められているのだろうか?

自棄にも似たものが、所狭しと胸の中をぐるぐるしている。

「翼、勝負だ!」

「良いよ、一輝」

前には同級生の、小麦色の肌の男児が立ち塞がる。

「翼、こっちだーっ こっちぃーっ!」

パスを寄越せと横から聞こえる。

僕は敢えて無視を決め込んでいた。

このチャンス、誰が譲るもんか!

先に仕掛けたのは一輝だった。

ボールに向けて脚を伸ばす様は、取ってやるという気概を持っていた。

が、その攻めを僕はボールを軽く弾いて(かわ)す。

直ぐボールの上に左脚を置いてキープしつつ、息を吐く様に直感、思索を頭に巡らせる。

運良く思いついて、即実践した。

珠を脚で交互に擦るみたいにドリブルすると、一輝は腰を低くして身構えながら硬直した。

僕が身体を揺らすと、一輝もつられて動く。

今だ!

右脚の斜め前の左脚に、僕はボールを届ける。

素早く反応し行かせまいと、一輝は身体をくっつける。

捨身の守りだ。

しかしこの時には、もう一輝を背にしていた。

すると、今迄で最も大きい甲声が、激励している。

「翼、凄い格好良かったよー!」

りこちゃんの声だ。

心の中で「やった!」と、僕は拳を握り締めていた。


「有難う御座いましたぁーっ!」

結局三対一で、僕の居たチームが勝った。

僕も一輝も一点入れ、活躍としては互角だった。

試合後の挨拶を終えて、選手たちが散り散りになると二つの影が僕に近付く。

一輝とりこちゃんだ。

それぞれ異なる言葉を僕に投げ掛ける。

「翼、本当サッカー上手いよなぁ」

「はい翼、スポーツドリンク!」

「二人とも有難う」

無難に返事を返す。

さっきまで鬱陶しかった一輝も、今は大切な友人だ。

「あっ、そうだ タオル持ってきたから翼使えよ 汗拭き取らないと気持ち悪いだろ?」

「一輝は良いの?」

「えーっと、俺は後でいいや」

()り気無い気遣い。

妹が居る一輝は、細かな優しさが女子に人気だった。

短髪で黒めがちの瞳はキラキラと澄んだ輝きを帯びていて、鼻筋は通ってはいるが小さくまとまっている。

厚い唇は手入れしていないのか、乾燥しひび割れていた。

取り留めて特徴が無い顔立ちがモテているのはこういう部分が受けているのだろう。

タオルのざらざらとした布地が、僕の顔の汗をなぞる。

もう片方は水滴に塗れたジュースのラベルが、掌を冷やしている。

少し濁った透明の液体を飲むと甘じょっぱいが口内に広がって、爽やかな清涼感を(もたら)す。

「ハー、美味しかった! 一輝、タオル返すね」

「えっ、身体は良いのか? みっともないかも知れないけどちゃんと拭いた方が……」

「うん、汗って蒸発すると体温を下げてくれるからその方が良いんだって だから一輝に渡すね」

「ふーん、まっ、良いや サンキュ」

「どういたしまして」

一輝が屈託の無い表情にすると、眉毛まで穏やかそうに垂れ下がっていた。

「二人とも本当に仲良しさんだね」

「え、そんな事ないって」

「いや、僕も一輝もりこちゃんも皆仲良しじゃないの?」

「翼がいうなら、そうなのかなぁ……」

照れ臭そうに目を見開いて笑う一輝、それが三人とも可笑しくて、僕らは目配せをする。

「あんまじろじろ見んなよー」

「ハハハ、フィールドでは目立ち立がりなのに、此処じゃ恥ずかしがり屋だね」

「フフ」

それぞれに相好(そうこう)を崩す。

僕の身体は嬉しさを噛み締める様に、小刻みに震えていた。

一輝は胸を押さえている。

面白くて苦しいのを抑えているのだろうか。

りこちゃんは丸々とした頬っぺたが紅潮している。

幸福で心が満たされるのを、ありのまま享受している様に見えた。

けれど、口を開いて下品に笑ったりしないからか、其の様相は何処か硬くて暗いものに感じられた。


次の日


「お母さん、行ってきまーす」

家を飛び出すと、家の前に無地のピンクのТシャツにチェックのスカートの、垂れた兎の耳みたいに頭の形を沿う豊かな髪を伸ばした女の子が立っている。

りこちゃんだ。

「りこちゃん、おはよう!」

「おはよう、翼」

歩幅が大きくなって、いつの間にか駆け寄っていた。

りこちゃんの目の中心の黒玉は光を吸い込んで、輝きを放っている。

「翼、いこっ」

「う、うん」

素っ気無いりこちゃん。

思わず言葉を飲んで、返事が遅れた。

赤のランドセルの背負い紐を持って、肩を怒らせてずんずん歩き前だけを向いて、僕を置き去りにする。

りこちゃんに悪い事なんかしたのかな。

肩車の時みたいに安定した下半身とぐらぐらする上半身が、心の中に芽生えていく。

絶対……とはいえないけれど、多分事故にはならない、そんな心持ち。

そう、しっかりとした支えさえあれば。

しかし、僕はしっかり支えられているのだろうか。

漠然とした不安。

沈黙に耐え切れず、僕は直接りこちゃんに聞いた。

「ねぇ、もし嫌がる事してたなら謝るから言って」

急に歩みが止まる。

りこちゃんは振り返らず、独り言の様に呟いていた。

「昨日電話したのに……」

昨日か、家族で外食してたっけ。

家に戻ったら身体に芯が無くなったかと思う程の疲れと、何杯も掻き込んだ御飯と濃厚なタレの付いた御肉が隙間無く詰まった満腹感から眠気に抗えず泥みたいに寝入ってしまったんだった。

「御免、昨日は早く寝ちゃって全然気付かなかったんだ!」

激しい声を上げて謝る。

言葉には怒気とも自責とも取れる響きがあった。

すると僕の心が通じたのか、りこちゃんは「もういいよ、私の方こそ御免ね」と湿った音吐を零していた。


「翼にりこ、おはよー!」

「一輝くん、お早う」

「あ、お早う一輝」

りこちゃんへの申し訳無さからか、僕の声だけ周囲のクラスメイトの思い思いに(ざわ)めく教室の中で消えてしまう。

ひとまず黒のランドセルを、広瀬翼と書かれた名札の四角いロッカーに入れ、自分の席に着く。

すると一輝が近づいて、僕に話し掛けてきた。

しかも如何にも「心配してます」とでもいう風に、眉を(しか)めて。

「翼、もしかして元気ない?」

「別に 大丈夫だよ」

「嘘つけ 俺で良ければ聞くよ」

無碍にしようとしたにも関わらず、一輝の真心の有る優しさ。

こう大事に思われて、嬉しくない者などいるのだろうか。

しかし、今は苛立ちが勝っていた。

如何やら昨日僕に負けたのが悔しかったらしく、りこちゃんに電話で「あの時がどうだ……」とか色々愚痴を吐いていたらしい。

本当は一輝が聞いて欲しいんじゃないの?

率直に言ってしまえば、毒を持っていただろう。

だが少し考えた後、心の疑問を成るべくオブラートに包んだ言葉に直した。

「ねぇ、一輝は僕に隠し事とか無い?」

瞳を見据えて、真剣に問い質す。

答えに戸惑う一輝に、思わず肘を突きつつずんと身体を乗り出していた。

「どうなのかなぁ か・ず・き・く・ん♪」

「別に無い、無いよっ」

まじまじと見つめると、一輝は僕から視線を逸らした。

頻りに瞬きなんかもして、其の仕草が僕を避けている様に感じられた。

「言えないならいいけど、ねっ」

「な、なんだよー 勿体ぶらずに言えよぉ」

意地の悪い童心が、僕に余裕そうな笑みを浮かべさせる。

狼狽したのか、一輝は一瞬身体を飛び上がらせていた。

次には頭を抱え込んで虚脱したまま、心中の仄暗さが圧縮されたかと思わせる太息(たいそく)を漏らしていた。

「よりによって何で翼に伝えちゃうんだよ、りこぉ…… はぁぁぁ……」

弱弱しい掠れに、(むせ)びに少なからず存在する遣る瀬無さが混じっていた。

この時の一輝の言葉は、ずっと僕の胸で(こだま)していた。


次の日


休みの前日の土曜日。

この曜日に僕はりこちゃんの家に良く泊まる。

夕方家に行くと、りこちゃんが出迎えてくれた。

「翼、入って入って」

「うん、お邪魔しまーす」

木の扉を閉めると、僕は靴箱に目を遣る。

靴箱の上の隅に置かれた写真立てを、正確に言えば御両親とりこちゃんの映る写真を見る為だ。

りこちゃんを挟むみたいに立って、真ん中の愛娘の肩に手を掛けていて、愛されて育ったのがありありと伝わる。

僕の家には、何処にもこんなものはない。

探せばあるのだろうが、きっと飾るのを許してはくれない。

僕の親は、僕を愛するのが恥ずかしいのだろうか。

羨望は、此処に来る度に大きくなっていくばかりだった。

じっくり眺めていると、りこちゃんはハートをあしらった毛皮のブーツを揃えていて、「早く」と急かしていた。

「御免、直ぐ行くから」

靴の(かかと)を踏み、スニーカーを乱雑に脱ぎ捨てて、りこちゃんの後を追い掛けた。

二階のりこちゃんの部屋は整理されていて、とても綺麗だった。

悪く言えば生活感とか人柄だとかが分からない、味気無い部屋だ。

本が置きっ放しなら、読んでいる本で何に興味があるのか分かるし、面倒臭がりだというのも汚さが物語る。

けど僕が来るから、ちゃんと片付けたのかも知れない。

無理に自分を納得させていた。

勉強机に面する壁からは夕陽が射して、癖の無い木目や緑の学習帳を照らしている。

僕の方を向くと、りこちゃんは溌剌(はつらつ)とした笑顔を見せた。

昨日今日見ていなかっただけなのに、随分久しく感じていた。

「りこちゃんが僕に全部話さないせいで、昨日の一輝は変になっちゃったよ?!」、言いたかった台詞も僅かな攻撃欲もいつの間にか消散して、僕の心は喜びの色彩を帯びていた。

「翼、好きな人とかいる?」

そういうのは寝る前にこっそり囁き合うものじゃないの?

規定が覆って、僕は面食らっていた。

「いる? いない?」

提示される二択。

(僕はりこちゃんが好き!)

口にしなければ、いくらでも言える。

けど、今この状況でこの言葉を表出させるのは、答えを忘れたテストの解答よりはるかに難しい。

恥ずかしくて黙り込んでいると、りこちゃんは助け船を出してくれた。

「言葉にし難いなら、身振り手振りで教えて?」

これなら僕の心を伝えられそうだ。

そう思っていた。

しかしいざ首を縦に振ろうとすると、熱した心が僕の鼓動を早くしていた。

もし正直に身体を動かせば、この心臓は破裂しちゃうんじゃないか?

ごくり、唾を飲んでりこちゃんに目を遣ると、茶色の輝きは俯きがちになって、一切の生気が顔から抜け落ちていた。

風に窓のブラインドが揺れたせいか、悲愴に暮れたりこちゃんに時折光が過る。

決心が付かない。

それどころか、僕まで暗闇の深くなった黒い影に身を窶してしまう。

(りこちゃん、りこちゃん!)

先程体感した頭が吹っ飛んで胸が小躍りしたり、うねり蠢く哀愁、これらの渦巻く感情は目の前の女の子に向かっていた。

「りこちゃん」

堪らず名前を呼ぶ。

「何、翼」

「えっ?」

何故か僕が驚いていた。

「あー、御免」

「あー」の伸ばし棒は、平坦ではなく低くなったり高くなったり、種々の調子を孕んでいた。

それが滑稽だったのか、りこちゃんは口を歪めて目許に細かい皺を作って、我慢しているみたいに笑った。

いつものりこちゃんだ。

僕は平静を取り戻していた。

ふー、(すぼ)めた口から一度だけ息を吐いてぎゅっと閉じると、僕は意思を含んだ言葉を発していた。

「りこちゃん、明日までには答えるよ それじゃ駄目かな?」

伏し目のまま、返事が返る。

「うん、いいよ 暗くしちゃって御免ね?」

「ううん、気にする事無いよ」

「ありがとっ、翼」

快活な声。

今度は楽しい感情に心が振り切れる。

今の僕は、りこちゃん専用のメトロノームだった。

喜びにも悲しみにも傾いて、思いを共有していたから。


部屋で何時間か寛いでいて、ふと気になった事を聞いた。

「ねぇ、一輝は大丈夫だった?」

「どうかなぁ まだ気にしてると思うけど」

「そうなの? 僕も一輝の話、聞いてあげた方が良いかなぁ」

「駄目、それだけはっ」

思わずびくりとする。

幼く高い頓狂な声が、僕の耳を貫くが如く発せられた。

宵の薄暗い陰気が、重い黒色を(しか)と映す様に感じた。

栞代わりの親指を読み掛けの漫画で挟んで、僕は尋ねる。

「一輝、僕を嫌がってる?」

「そうじゃないんだけど……」

居心地が悪そうに、人差し指で頬を擦る。

それから暫くして、りこちゃんは続きを喋り出す。

「男の子ってプライド高いから、勝った翼に慰められても傷付くだけなんじゃないかな」

「なら仕様がないね、一輝の事宜しく頼んだよ」

「分かってるっ」

首を傾け、唇が綻んだ。

同時に、亜麻色の生い茂る稲穂を束にしたみたいのツインテールが、無骨なカットソーの胸元で(なび)いていた。

無地の白の上で、それが目を惹くものだから、ついつい見惚れてしまっていた。

鼻腔に届く香気は、森林に居る時の穏やかな緑の安らぎで、僕を包んでいた。

「翼、どうしたの 何か付いてる?」

「え、あー」

何と返せばいいのだろうか。

身体が自分の管理下にないのではと疑う程、言うことを聞かない。

背に冷や水を打たれたかと思う寒気を覚えたり、疚しい心の内が発露しないだろうかと熱を持ったりするものだから、「落ち着け!」と命令をしたが、身体は背き続ける。

覚束ない返事とともに開いた口が役割を終えると、胸が脈打って、ひっきりなしに締め付けられていた。

「りこちゃん……」

「翼?」

この思い、伝えていいのだろうか。

喉が、腹の底に溜まっている粘ついた感情を淀ませたままにしている。

目の前の彼女の事を考えると、溺れて気泡を出すみたいに、一挙手一投足からみっともない慕情が浮かんで、全てばれてしまっているのではと、自分自身を勘繰る日さえある。

相思相愛だったなら、どんなに楽だっただろう。

いや、相思相愛になれるかも知れない。

告白さえしてしまえば。

甘美な欲求が、僕の鎌首を(もた)げる。

幾つもの「~かも知れない」「~だろう」で、僕の脳内は埋められていた。

「りこちゃん、僕……」

りこちゃんは下唇を舐めながら、此方を見遣る。

桃色の唇は程良く潤ってひび割れ一つ無く、一輝みたいに手入れしていない男の子との性差を見せ付けてくる。

艶やかで艶めかしく、婉然(えんぜん)とした仕草は、僕の心を指で巧みに弄ぶ様にすら感じた。

けれど、沸騰しそうな程熱くなった頭は、正常な返答など出来そうになかった。

(りこちゃん、りこちゃん!)

まるで泡の様に、彼女の名前が浮かんでは消える。

「りこちゃん!」

「はっ、はいっ!」

唐突に叫んでいた。

煮え切らないのが女々しくて、それを(いさ)めるのが「口に出す」という行為だったのかも知れない。

相も変わらず、神秘的とすら思わせる奥行きのある茶色の瞳を向けるが、眉はなんだか頼りなかった。

今しか無い。

そう確信していた。

しかし、僕はタイミングを見計らう事もせず、喋り始めていた。

「りこちゃん、あのさ……」

「……うん 一輝くんの事だよね?」

ああ! そうだった!

僕とりこちゃんの問題じゃない、一輝とりこちゃんの問題じゃないか!

思考がこんがらがって、余計に言葉が詰まる。

「僕さ、そのぉー……」

「りこちゃんの事が好きっ!」

言ってしまった……。

最初に感じたのは恥ずかしさではなく後悔。

これで……終わる。

この関係が。

ああ、あああ……。

溜息は壊れたスピーカー。

言葉にならない響きを乗せて、何かを訴えていた。

「翼は優しいね」

耳が容易く侵入を許す甘い声。

「そう、かなぁ」

りこちゃんの潤んだ目の底には、悲しみが淀んでいた。

「あ……御免 りこちゃん」

「何で謝るの?」

其の問い掛けに、僕は答えらなかった。

いや、答える必要自体無かった。

「だって、辛そうだから」

「そんなこと……」

強く涙を拒む右目から、一筋の雫が零れている。

辛い感情ほど、抑え込むと溢れてしまうものらしい。

りこちゃんは必死に手の甲で滴りを拭うが、気丈さが彼女の影の部分を、より鮮明に映していた。


一時間くらい、りこちゃんはずっと泣いていた。

顔を両手で隠して、身体を小刻みに揺らし頻繁に鼻を啜って。

僕に出来たのは、精々丸まった背中を擦る事ぐらいだった。

けれど次第に歔欷(きょき)が収まって、吐息が聞こえる大人しい泣き方になっていた。

「りこちゃん、もう大丈夫?」

「うん、もう平気」

細くなった目から僕を覗く茶色が、玲瓏(れいろう)たる光沢を放つ。

赤くなった瞼が、両手で覆われていた顔がどうなっていたか、暗に示していた。

りこちゃんの笑顔は、胸が締め付けられる明るい自虐に他ならなかった。

僕は何故彼女が泣いているのか、なんとなくだけど検討がついている。

恐らく彼女を苦しめているのは、僕……なのだろう。

りこちゃんを(つまび)らかに見ていれば、それは明白だ。

りこちゃんの背に回された左手は力が込められていないものの、右手は太腿の弛んだ肉を抉る。

気取って伸ばしていた爪は、憎しみを込める程柔らかい所に食い込んで、鮮烈な痛みを与えていた。

けれど、構わない。

僕がこれを望んでいるのだから。

自らを律する痛みには未来から過去に遡った脳が覚えている、苦渋混じりの決断の重みが有った。

「あの時ああしていれば……」、この言葉は責任という鎖から人間の心を解き放ってくれて、夏の隙間風の如く身に染みる涼しさを感じさせる。

が、同時に心を悄悄(しょうしょう)とさせる膜ともいうべきものが覆い被さって、それが僕の「自制」、最も重要な理性の一片を奪う。

具体的にいうなら抑圧されていた怒りだとか悲しみだとか、暴力性だとか愛情だとかだ。

清濁併せ持つ猛る波は飛沫(しぶき)になると、より攻撃性を増していく。

昂ぶりが終われば、自分は多少さっぱりとしているのに、飛沫は波が大きければ大きい程、轟音を鳴らしながら、海自体を飲み干さんと背丈を高くして、人を海に沈めていく。

感情という名の荒れ狂う海に。

嗚呼、僕の気持ちは彼女の重荷になってしまうかも知れない。

色々考えている内に、身体はぐにゃぐにゃとして無気力になっていく。

強い感情の反動とでもいえばいいのだろうか。

力が……抜けていた。

「ねぇ、翼」

「りこちゃん?」

りこちゃんは僕の胸に顔を埋める。

ハーブの爽やかな香味が鼻を衝く。

「翼、私の事ぎゅってして」

「りこちゃん、どうしたの?」

「ただ抱きしめて…… 愛されてるって実感させて欲しいの」

弱弱しい響きが、救いを求めている。

僕は「NO」だなんて言えなかった。

持ち上げる様にすると、小さく「有難う」と呟いていた。

身体が密着すると眠る時の様に、細い息遣いが聞こえる。

生暖かい風が、僕の肌を触る。

しかし、決して颯爽とした風では無い。

寧ろ侘しい風だった。

畳のイラクサが剥げ、部屋の隅には毛髪の混じった埃が溜まって、長年掃除していないのだろうと彷彿とさせる閑散とした独り暮らしの、うらぶれた室内に吹く風……。

其処に気紛れに彷徨う抜け殻の魂。

僕は彼女と繋がっている今でさえ、孤独だった。

僕への気持ちなどない、気持ちなどないと知っているのに心臓は蠢く。

血が這いずり回っている。

「りこちゃん、好きだよ 僕、大好きだよっ!」

静かな逸楽に浸る喘ぎに似た嗚咽が、りこちゃんの僅かな心音になって僕に伝わる。

「翼、キス……しない?」

この上ない御褒美の打診。

未だ「色」を本質的に理解出来ない十一歳の娘が、蜜の様に粘ついた「女」というものを嫌でも思わせる声で囁いた。

危険な遊び。

いや、僕は待ち焦がれていた。

其の筈だった。

「うん、良いよ」

干からびた喉が、言葉を掠れさせる。

もう、僕は元には戻れない。

宛ら僕らは比翼、理想の中を飛ぶ愚かしい雌雄一対の鳥だ。

けれど、一つだけ違う。

比翼が空を翔ける為には、何より(つが)いが必要という事。

僕らは、同じ目的を為そうとしているのだろうか。

違う、向かう先は別々だ。

結局僕が得たものは、彼女が理想にひた走る「今」だけの、仮初めの恋心だった。

勿論片翼が羽搏(はばた)きを止めれば、其の間だけ僕は彼女の全てを独占出来るだろう。

いや、「思い」だけは手に入らない。

それは何より代え難いが故に、僕が求めているのに……。

「りこちゃん、僕達は桜桃(さくらんぼ)みたいだね」

「どうしたの、急に」

「んー、何でもないよ」

「翼って案外、そういう所もあるんだねぇ」

肩を寄せ合うと紅潮した瑞々しい肌同士が触れる。

風や人の手によって揺さぶられでもしない限り、落ちる事もなくずっとくっついたままの実が、草葉に隠れるみたいに(うずくま)って、二つ()っている。

「じゃ、しようか 翼、ベットに寝てて?」

素っ気無く(たお)やかな声。

僕に気が無くとも、行為に対する真摯さは感じられた。

もしかしたら彼女にとって、「初めて」なのかも知れない。

りこちゃんが部屋の照明を最大迄明るくすると、丸く膨らんだ電灯の笠が、部屋全体を白く染めた。

僕は胸に手を置いて目を閉じて、柩の死者の様に物音一つ立てず暗闇で安寧を貪っていた。

しかし、ぴたりぴたりと冷たいフローリングを踏み付けて僕に這い寄る足音に、否が応でも身体が疼いた。

目も開いてしまう。

ギシギシ…… ベットが軋むと、ひょっこり僕の視界にりこちゃんが入ってくる。

赤く腫れ盛り上がった瞼、薄く開いた甘ったるい目付き、血色の良い真っ白の顔、微笑して顔の肉が頬に寄ると肉感的になって、彼女は一層魅力的になった。

「頬っぺた真っ赤だよ 可愛いっ……翼」 

ウフフと家庭のある婦人みたいに、妄りに笑ったりせずに賞詞が送られる。

これは……ごっこなんかじゃない!

情事を心地良くする、前戯其の物。

「可愛い」、たった一言が僕を悶えさせる!?

交差した手は、もう一方の二の腕を掴む。

勝手に身体が、この体勢になっていた。

そうだ、僕は……これを望んでいるんだ!

だからもっと―――もっとして欲しい!

水気を含んだ身体で、言葉で、肌で、僕と絡まり合って欲しい!

性への熱狂が、脳へ注がれていくっ!

まともじゃない、けどまともじゃいられないっ!

「早く、御願い 早く、早くぅぅぅぅっっ……」

両手を回してりこちゃんを逃げられない様にしてから、僕はただただ懇願していた。

何も言わず唖然とした面持ちで、僕は見下ろされている。

ぽかんと口が開いていたものの、今の僕がどうだったとか喋る事は無かった。

それとも言葉も出せないくらい、気持ち悪がられたのだろうか。

どちらにせよ僕の身体は燃えた様になって、含羞(がんしゅう)を浮かべていたのには違いない。

りこちゃんはどう感じたのだろうか。

彼是(あれこれ)考える僕の心に、りこちゃんは不意を突く。


眼前迄近付く顔。

肌は遠巻きに見る雪、一点の濁りも無い白。

その時彼女のツインテールが、僕の顔や肩を(くすぐ)った。

普段であれば、スキップ程度の喜びであっただろう。

しかし今のそれは、正に愛撫!

いかせてやろうとか、そんな驕りは一切無い自然の愛撫!

草木の萌える草原に棚引く緑、僕は其の中に居るかの様だった。

上品に、僕を快楽に導いていく。

線の細い不健康な身体が、僕の肉質的で筋の有る身体に埋まる。

「大丈夫、重くない?」

服の上からでも分かるりこちゃんの柔らかさ。

全く鍛えていない脆弱な身体で、僕のごついのを全て包んでいる。

「女子」じゃない、これが「女性」なんだ。

その上、好きな(ひと)に抱かれるなんて、何物をも勝る慰め!

自分全てが飲まれる感覚だ!

胸の奥に在る心さえ委ねてしまいたいという情動すら、湧いてくる!

それらをひっくるめて、彼女は僕に向かってくれる。

今だけは、誰にも渡しはしないよ……。

たとえ一輝にも……。

「つばさぁ……」

りこちゃんは目を瞑り、口を窄める。

僕も同じ様にした。

暗闇の中、スースーと鼻息が聞こえる。

真っ暗でも徐々に顔の形の影が、闇を濃くして其の動きを知らしめる。

キスは一瞬だった。

気負い無く軽やかに、別段僕を求めていた様に感じられない。

けれど唇の仄かな濡れが、僕とりこちゃんの接吻が嘘ではないと証明していた。

一人、一人堕ちていく。

比翼は所詮、想像上の動物。

どうせ二匹の鳥が連なって飛んでいるのを、偶々目撃されたのが最初に決まっている。

一人、一人なんだ。

くすんだものが僕に宿る最中、少しばかり顔を上げると、彼女の豊富な髪だけが見えた。

僕に興味が無い。

ずっとずっと分かっている。

なのに、なのに……。

何で、僕を見ないんだっ!?

昂奮に秘めていた感情を、半ば強引に顕わになる。

それは膝を叩くと脚が勝手に上がる反射と、何ら変わらない。

僕が心の汚い部分を開いた訳じゃない。

りこちゃんが、僕の皮を剥いだのだ。

しかし、これを抑え付けねばならないのだということは、想像に難くない。

僕は心に幾度となく、釘を打ち付ける。

現実という、鋭利で粲然(さんぜん)とした釘を。

だが、自分で自分に幕を下ろすのは憚られた。

その後暫く重なったまま時が経つ。

気だるげにりこちゃんが身体を起こすと、虚ろに誰も居ない方向に、誰に投げ掛けているのか定かでない言葉を、誰かに突き刺した。

「翼が男の子だったら良かったのになぁ」

「ハハ、御免」

僕の瞳に暗澹(あんたん)とした涙が噴出していた。

うるうるには、(おぼろ)げな光が映る。

船員達の生を保証する希望宛らの、夜の灯台の光とでも、僕の見た景色を許容すべきだろうか。

だが僕にとって、それは憎たらしい灯しでしか無かった。

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