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「ラーツさん!」
「よっ」
喫茶店の扉の前。
ばったり鉢合わせたラーツに、ミケが驚きの声をあげる。
「次のシナリオに行ったんじゃなかったんですか?」
「いや、そうしようかなと思ったんだけど。アタシ常連だからさ、最終日ぐらい他の人に譲ってもいいかなって」
「ラーツさん……親切なんですね」
「あっはっは、そんなんじゃないって。さ、入るよ。何がいい?ここで会えたのも何かの縁だ。一杯おごるよ」
ぽんぽん、と機嫌よくミケの肩を叩いたラーツが、颯爽と赤髪をなびかせて喫茶店に入って行く。
その後を追ってミケが店に入った途端、カシャン、と鍵のかかる音がした。
「へっ?」
「えっ?」
ラーツとミケの声が重なる。
急いで振り返ると、扉に「LOCKED」の文字が表示されていた。鍵の下には四桁の数字を入れる枠。
モールの店舗にこんな扉はない。これはシナリオ内だけで登場する、パスワード式の扉だ。
さあっと二人の顔から血の気が引く。
「ちょ、ちょっと。アタシ、シナリオ蹴って来たんだぜ!?」
慌てて扉に飛びついたラーツが、ガチャガチャとノブを回す。けれど開かない。血相を変えるミケの前で、ラーツが数歩、後ろに下がって拳を構え、
「でやぁっ!」
殴った。けれども扉はびくともしない。
「ら、ラーツ……さん?」
おそるおそるミケが尋ねる。
「ラーツさん。手……痛くないですか?」
「あー、大丈夫大丈夫。このシステムにそう言う概念ないから」
ぷらぷらと片手を振りながら、ラーツが笑顔で扉から離れる。見れば、ラーツの腕にあるはずの残時間表示も、ミケと同じく消えていた。
プレイヤーにヒットポイントの概念がなく、扉も壊れない──となると、ここを支配している法則はあくまでもROのシステムという事になる。
「まいったなあ。運営が何かポカやらかしたか」
ラーツがガリガリと頭をかく。ログアウトや運営へのコールは、本来、残時間表示の部分からアクセスするものだ。なのにそれが出来ない──となると、ログアウト不能という事になる。
最も、法則がゲームと同等のままに保たれているのは幸運と言えるだろう。リアル世界に等しい空腹や病気のパラメーターがあった日には、シナリオは全て、生きるか死ぬかの殺伐としたものになってしまうのだから。
「どうします?」
「クリアするしかないんじゃね?」
ラーツが笑う。
シナリオの中には、先ほどクリアしたようなカウントダウンありのものや、アクションを要するもの、怪しげな呪いをかけられて制限時間以内に脱出しないと──なんていうものもあるが、幸いにして、そう言うシナリオはそれほど多くない。
大半はのんびりと公園で宝物を探したり、何かを手に入れたりするというシチュエーションだ。謎解きぐらいゆっくりやらせてくれよ、というプレイヤー達の希望がそうさせたのかも知れない。
「これ、何のシナリオでしょう?」
「『美味しいコーヒーは如何?』だな。うん、シナリオそのものは正常みたいだ」
宙を見上げ、そこに浮かび上がらせたパネルを確かめてラーツが鼻を鳴らす。
運営との連絡断絶と、プレイ残時間の消失を除けば、特に不具合が起きたようには見受けられない。
「ミケ、ウィスパーをオンにしときな。他のプレイヤーか、メイト(協力者)が助けてくれるかも知れないから」
「ラーツさんは?」
「オンだよ。この状況に気付いた奴がいたら、助けてもらいたいしね」
危機感もなく、のんびりと笑うラーツの肩で、鸚鵡の姿をしたウィスパーがクルルと自慢げに喉を鳴らした。
「さて、それじゃ解きますかね……と。まずは、この辺りからかなー」
無人の喫茶店に入り、机の下に落ちていた紙を拾って、ラーツがミケを振り返る。紙には、右下に水滴マークがついているだけで、他に何も書かれていない。
「私も探してみますね」
言ってミケも調べ始めた。まず、砂糖やペーパーは変化なし。
シックなデザインの内装は、全体的にダークブラウンの木材で統一されている。奥にはキッチンがあり、彫刻がほどこされた棚に食器が収められている。
ガス台の後ろの壁には大きな四角い鏡があって、蔦と花の彫刻が透かし彫りされている。
流しの横には小さなアナログ時計が七個。
電池はなく、針の向きは現在時刻と無関係で、一個ずつ色が違って赤、橙、黄、緑、青、藍、紫となっている。
丸いフォルムの可愛い時計だ。
「水……は出ないか」
蛇口を回してみて猫耳を寝かせる。
水も、単に回すだけでは出ないリドルなのだろう。
シンクから離れ、耳をすませば、ゆったりとした、クラシカルなBGMが流れているのが聞き取れる。
あたりに漂っているのは、焙煎した珈琲の良い香りだ。
「挽きたてっていいなあ…」
ミケがうっとりと目を細める。
一つ前のシナリオでは、こんな匂いはしなかった。
視覚以外に関わる部分は、開発コスト削減のためか、大抵「良い香りがする」とか「甘い味だ」なんてシステムメッセージで代行されていたのだ。
モールにメモリを当て過ぎたせいかも知れないが、とにかく、味気ないメッセージだった。
それが、今やリアルに嗅覚を刺激している。最終日と言う事で運営が奮発したのかも知れない。
「んー」
芳香を堪能し、息を吐く。
それでも空腹を感じないあたりからすると、あくまでも演出が現実味を増しただけなのだろう。
演出に関係ない部分は、見事に無視されている。
さっき扉に拳を向けたラーツがいい例だ。
「これは、解くの楽しみかもっ……」
思わず笑みがこぼれる。
このリアリティなら、メッセージでしかなかった「美味しいコーヒー」の味を本当に楽しめるかも知れない。
そんな期待を胸に、カウンターの奥へと足を運ぶ。
それから引き出しを開けたり閉めたりしていると、ふと、食器棚の中のコーヒーカップが目についた。
「ラーツさーん、コーヒーカップがありますよー」
「おーう。取れそう?」
「いいえ。三桁の数字で解く鍵がかかってます。そちらは?」
「こっちは取れそうだな。132435…の次だから──…誰か”ヘルプ”。──あ、何?一つ飛びだから4?あんがとジェイリー。って、そっちもログアウト不可なんだろうな。んん、そっちもヘルプ・コール出してるのか。宝石の並びでサンストーンの次?そりゃムーンストーンだ。日と来たら月だろ。じゃあな、頑張れよ」
肩の上の鸚鵡と早口で言葉を交わしたラーツが「4」を選ぶ。
ガチャリと棚を開けてケトルを取り出す彼女の会話は、ミケにも聞こえて来ていた。
ヒントと無関係な会話にはノイズが入るので通常会話をするには向かないが、ヒントの発信者──ブレイン名──は受信中に表示されるので、誰からのヒントかは分かる。
「あっちもログアウト不可っぽいな。宝石店のシナリオに入ってるみたいだ」
「宝石店、ですか?」
「そうそう、お嬢様の好きそうなシナリオだよ。アタシはこっちで良かったけどね。さて、後はこれに水を入れて湯を沸かして、コーヒーを入れればOKなんだけど……」
施錠された棚の中、硝子窓ごしに見えるカップを眺めてラーツが肩をすくめる。
「水を出す方法を考える方が先だな。とりあえず一休みしよ、時間制限もないし」
「あはは、そうですね」
「いい返事だね。アンタ、この世界に向いてるよ」
たかがコーヒー一杯飲むのでも、余興として謎解きを楽しむ。
これが、この世界のシナリオスタイルだ。
それを回りくどいと思うか、粋だと思うかはプレイヤー次第。
もっとも前者のタイプは早々にゲーム離れしたので、歴の長いプレイヤーは後者ばかりなのだが。
「とりあえず、後々のために種類でも選ぼうぜ」
窓際のテーブル席の椅子を引き、腰掛けたラーツがメニューを開く。
最初はカウンタテーブルの椅子に腰掛けようとしたのだが、カウンターが水で濡れていたのでこっちにした。
「カフェラテ、ウィンナーコーヒー…いろいろありますね」
「だな。『決まりましたらテーブルのコールボタンを押して下さい』か。……十字型してんのか、このボタン」
テーブルの上に設置されていたのは、半球状の土台の上に+型のボタンがついているものだった。
土台はテーブルの色に合わせたタイガーアイ。十字は水晶。ずいぶんと芸術的だ。
「コントローラーみたいな形ですね」
「コントローラーの上ボタンに《N》はねえよ。マーク出てるって事は、これも何かの仕掛けだろうな」
足を組み、寝かせていたメニューを立ててラーツが椅子にふんぞり返る。
その拍子に見えたメニューの背表紙──NEWSの文字を見て、ミケが首をかしげた。
なぜメニューなのにニュース?
「どした?」
「いえ、別に」
「そっか。アタシは決まりだ。はい、メニュー」
「ありがとうございます」
ラーツからメニューを受け取り、開く。
品目の中からシナモンコーヒーを選んで、ミケはぱたんとメニューを閉じた。
NEWSの背表紙が、コールボタンと並ぶ。NEWS。Nが上──
それが気になって仕方ないミケの周りを、シアンがふらふらと受信待ちモードで飛び回っていた。