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『正義の追跡者』―hypocritical confidence― 後編

(わ、わわわわわわ)

 真名はショーウィンドウに映る自分の姿を見て、慌てて胸元を隠すように両手を合わせた。

 ウィンドウに映る顔が見る見る赤く染まっていく。

 真名は恐る恐る辺りを見回した。

 (壊れてるものは特に無し…怪我人も…良かった…転がってない)

 真名は少し安心して溜息を吐いた。

 (…頭が痛いことには変わりないけど)

 デパートか何かのショーウィンドウに映る自分の姿を見て、真名は力なく眉間に皺を寄せた。

 心を落ち着けるように、真名はポーニーテールにされていた髪を解き、ピアスだらけの耳を隠すように整える。

 (私、何やってるんだろう…勝手にヘソ曲げて…きっと狩野さんのとこにも行ったよね…)

 (…この格好で?)

 (………………………………うわぁああああああぁぁぁもぉぉぉぉおおぉぉぉ)

 改めて、腹や太ももが惜しげもなく晒された露出度の高い自分の服装を見て、真名は固まったまま頭の中で悲鳴をあげた。

 (うう…なんか涙出てきた)

 恥ずかしさを通り越してなんだか哀しくなってきたので、それを振り払うように頭を振った。

 (ダメダメ…自己嫌悪に陥ったら、またおんなじ事の繰り返しになっちゃう)

 真名は何かを決意するように顔をあげ、ガラスに映る自分を見つめる。

 (私だけで、枯庭さんを見つけ出そう)

 映る自分に頷いて、真名は通りを歩き出した。

 大通りを、決意を込めた眼差しで颯爽と歩く美少女に、行きかう人々が振り返ったが、真名は途方に暮れていた。

 (…ここ…どこだろ?)

 

 翌日、研究所の奥で、狩野はプリントアウトされた資料を眺めていた。

 「枯庭豊の件からは手を引いたんじゃないの?不可解な点はあってもただの殺人事件なんだろ?」

 ミハエルの問いに、ベットに横たわったまま、資料を眺めて、所々で線を引いたりしている狩野は答える。

 「あぁ、奴は自分で手を下してる。どうせ高瀬のボケが捕まえるんだろうが、正義の体現者気取ったエセ聖人様がムカつく事には変わりねぇからな。ま、暇つぶしだ」

 「真名がいないからね」

 「どういう意味だ」

 「そういう意味だよ。全く、暇つぶしに付き合わされる身にもなって欲しいね」

 「お前の無駄な時間を俺の有意義な暇つぶしに使ってやってんだから感謝しろ、崇め奉れ」

 「はぁ、真名がいないと、狩野の凶悪な顔を見なきゃいけなくなるから気が滅入るよ」

 「俺も引き篭もりの陰気なガキの面を見てると殺したくなるね」

 「あぁ、真名、早く戻ってきて!オッサンが超、機嫌悪い」

 「真名真名うっせぇな、ほれ、無断欠勤してる同僚の分も働けヒマ人」

 「はいはい、わかったよボス。次は被害者の犯罪歴、その捜査資料と…ん、狩野、これは?」

 ミハエルは狩野に渡されたメモにある名前を見て首を捻った。

 「あぁ、俺の読みが正しければ、そいつが次に殺される」

 狩野は、死神を連想させる確信めいた笑みを浮かべた。


 (よーし、頑張るぞー)

 表情や動作に全く表れてはいなかったが、真名は意気込んでいた。

 先日、訪れた殺人現場の近くの公園で、真名は深呼吸する。

 そして、普段かけ続けている能力のブレーキを解く。

 枯庭の能力の残滓を追う、彼が行った行動の形跡を追う。それは、猟犬が匂いを嗅ぎわけ追うのに似ていた。

 時間が経てば匂いは薄れていく、同じように枯庭の跡も、世界に与えた影響も時間が経てば薄れていく。

 真名はかすかな匂いを探すように、能力の感覚を広げていく。

 そこで、真名は違和感に気づいた。見られている。

 姿は見えないがこちらを注意深く監視している人間がいる。手を伸ばすように、その人物に能力を合わせる。

 (高瀬さんが付けた監視か)

 高瀬の不快な感触を感じて、真名は顔をしかめる。

 (やっぱり、あの人は信用できない。見張りを付けるなんて…あとで狩野さんに)

 そこまで考えて真名は首を振った。

 (ダメダメ、犯人を見つけるまでは狩野さんには連絡しない)

 うん。と頷いて真名は枯庭豊の追跡を再開した。

 

 さらに翌日。ベットに腰掛ける狩野にミハエルが声をかける。

 「真名、今日もこないね」

 「どこをほっつき歩いてんだかあのガキは」

 「狩野、貧乏ゆすりするの止めなよ」


 人が死んでいた。

 薄暗い闇の中で、真名の目の前に転がるモノは人という存在が血液と一緒にアスファルトに染み出してしまっていた。

 乾ききっていない血溜まりから、まだ熱の醒めない枯庭の殺意と被害者の悲鳴が真名を浸食していくように染み込んでくる。

 (なんで…痛い。殺す。死ね!…間に合わなかった…やめて!悪くない。存在を許さない。誰。死にたくない。許さない!違う!違う…違う!これは私の意志じゃない!)

 耐えるように佇む真名の肩に後ろから手が置かれる。

 「死後、数時間といったところか。あまり近寄るな」

 高瀬が真名の見張りに付けていた男がいつの間にか現れ、現場保持のため真名を端にどけようとする。

 「こんなに早く高瀬さんの言ったとおりになるとはな、お前も参考人として拘束させてもらうぞ」

 そこまで言って、男は気づいた。男は殺人現場を見て固まる少女をどかしたはずだ。少なくとも男が少女の前に出ることが出来るようにしたはずだ。

 体格も良く、日々の鍛錬も欠かさない彼が、それなりに力を込めて少女の肩を押しのけたにも関わらず、少女はその場から少しも動いていなかった。

 少女の悲鳴を堪えるような沈黙は言いようのない威圧感を持ったものに変わっていた。

 悪夢に迷い込んだような気味の悪さに男は思わず唾を飲んだ。

 「お…おい」

 男の声に少女がゆっくりと振り向く。

 「なんだ、まだいたのかよ、このドブネズミが」

 少女の整った唇からまるで別人の様な凄惨な声色が響いた。


狩野は高瀬からの連絡を待っていた。

 机の上には様々な資料とそのコピーが散らばり、それぞれ、線や、丸やメモが書き足されていた。狩野は枯庭の能力に迫りつつあった。

 被害者のデータ、枯庭の行動、事件の状況、証拠、方法、順番、法則。

 その中から導き出される仮定によって、狩野は次の被害者の予測を立てるに到った。

 そして、昨日、ミハエルに出させた次の被害者になるだろう指名手配犯の捜査資料に狩野は引っかかりを覚えた。

 《伊藤洋太》、次に殺されるであろう男の指名手配されるに到った事件の資料を徹底的に洗い直し、ミハエルに当時のシミュレーションモデルを作らせ、新たな証拠を加えたものを高瀬に送りつけた。

 その結果が狩野の予想通りであれば、それは枯庭に対して最大の切り札になる。

 夜が明け、日が高くなっても狩野は一睡もせずに連絡を待っていた。

 大音量の着信音が、徹夜明けの狩野の頭に響く。

 「あぁ、俺だ。で?どうだった?高瀬ちゃんよ」

 『その件についてだが、遺憾だが貴様の言ったとおりだった。貴様から受け取ったものは上に提出しておいた。すぐに正式な通達が行われるだろう』

 「かかか。後は、枯庭のクソがどう出るかだな。本物かそれとも偽物か」

 『残念だが、枯庭はもう行動を起こした後だ。ついさっき伊藤洋太が、死体になって転がっているのを発見した』

 「最高だな!やってくれたぜ!これで完成、完璧!」

 訃報は狩野にとって吉報だった。獲物を追い詰めた喜びが唇を歪ませ、狂喜が体を駆け巡る。

 『もう一つ、殺人現場には私の部下も転がっていた。一条君を警護させていた男だ』

 「警護だ?監視の間違いだろ?お前ならそんくらいやるとは思ってたが、もっと上手くやるべきだったな…で?そいつ死んだのか?」

 『全身骨折といったところか。原因不明の骨折が数十箇所。一条君の能力か?』

 問い詰めるような口調の高瀬に、狩野は答えず、冷徹な声で警告する。

 「死なずにすんでラッキーだったな。これに懲りたら、真名に監視を付けるとか、舐めたまね二度とすんじゃねぇ」

 相手の返事を待たずに狩野は一方的に電話を切った。

 「なに、やってんだ!あのクソガキは」

 イライラを吐き出すように声を上げて、狩野は携帯で真名の番号を呼び出す。

 コール音、一回、二回…重ねるごとに狩野の顔が険しさを増していく。

 『わっ…あ、狩野さん…』

 「…真名か?…お前、どこにいる?」

 『え…えーっと…どうしたんですか?』

 「いいから、どこにいんのかとっとと答えやがれこのボケが!」

 『そ、そんな大きい声出さないでくださいよ…聞いてください、今ですね、枯庭さんの居場所がもうすぐわかりそうなんです…多分、この中のどれ、んっ…~っ…ぁ…』

 「おい!どうした?おい!」

 真名の手から携帯が地面に落ちた音を、狩野の耳に伝えて通話は途切れた。

 「なに…やってやがんだ…あのガキは…」

 狩野は怒りを押し殺すように携帯を握り締める。

 八つ当たりするように奥の部屋のドアをあけ、PCの前の椅子に大きな音を立てて腰を下ろす。

 仮眠用のベットの中で蹲っていたミハエルが抗議の声を上げた。

 「…っるさいなぁ、狩野が、昨日寝かせてくれなかったから…まだ眠いんだけど…」

 「誤解を招く言い方をすんな!真名がヘマした」

 狩野は荒々しくPCの起動ボタンを押すと、乱暴にキーボードを叩き始める。

 「ちょっと、乱暴に扱ったって動作は速くなんないんだけど」

 ミハエルが寝起きの目を擦りながら、狩野の後ろから画面を覗く。

 画面には幾度もウィンドウが開かれ、その全てに狩野はパスワードを入力していく。

 全ての入力が終わり、狩野がエンターキーを押すと画面いっぱいに、どこかの地図が表示され、その地図上には小さい点が赤く点滅していた。

 「PCに未知の領域があるのは知ってたけど、こんなプログラムに使われてたとはね。てっきり、狩野の『厳選!エロ画像倉庫』かと思って調べもしなかったよ」

 ミハエルの言葉を無視して狩野はさらにキーを叩く。

 地図上の赤い点から移動経路を示すかのような黄色い線が伸びる。

 「…第三港の倉庫街か。しばらく移動した形跡は無いな」

 「狩野、なんなの?これ…GPSみたいだけど」

 「飼い犬にはちゃんと首輪と紐をつけとかねぇとな」

 「飼い犬?どういうこと?」

 「こないだメスガキの誕生日に、赤いピアスをやっただろ?」

 「あぁ、狩野から貰ったって真名が毎日つけてる、お気に入りのアレね」

 「アレが首輪、でコレがリード」

 狩野は赤い点が点滅している地図の表示された画面を指差す。

 「つまり、常に真名の現在地がわかるようになってると…」

 ミハエルは、最悪だとばかりに顔をしかめて狩野を見る。

 「狩野、もし、同じようなものを僕にもつけたら…社会的な死が待ってるから」

 「あぁ?お前は引き篭もってて外に出ないんだから必要ないだろ」


 真名はゆっくりと瞼を開いた。ぼんやりする視界、ぼんやりした頭で状況を確認する。

 (狩野さんと電話してて…急に後ろから襲われて…薬?…気を失って…どのくらいの間…)

 触れている感触からベットの上に寝かされていることはわかった。

 両手の親指だけが後ろ手に結ばれていて手は自由にできない。

 薬を嗅がされたせいか、思考がはっきりしない為、真名は急には起き上がらずゆっくりと周りを見回すことにした。

 妙に広い空間。おそらく立ち並んでいた倉庫の一つの中だろう。

 小さい本棚や、机、ソファ、倉庫の一部が居住用のスペースに改造されている。

 そんな秘密基地の様な、それでいてモデルルームのように妙に整理整頓された空間を、薄目で見渡していくと、男の姿があった。

 真名はしっかり眼を開いてその男を見つめる。

 「やぁ、起きたかい?」

 痩せ型で長身のその男は、痩せてるというよりやつれている顔で真名に微笑んだ。

 「枯庭…豊…さん」

 「一応、初めましてと言ったほうがいいのかな」

 起き上がろうとしたが、手の自由が奪われているために上手くいかない。

 枯庭は、真名の上体を支えて、ベットの端に座らせた。

 「大丈夫かい?手荒な真似をしてごめんよ。気分は?」

 「…少し、ぼんやりする」

 真名の言葉を聞くと、枯庭は設置されている冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで、真名の前の背の低いテーブルの上に置いた。それは、具合の悪い妹を看病する兄の様な動きだった。

 真名はコップの水を能力で調べる。水道水と感触は違うが特に違和感は感じられなかった。

 「大丈夫、毒は入ってないよ」

 「わかってる」

 「そうか、すごいな」

 「?何がですか?それより手がこのままじゃ飲めないんですけど…」

 「あぁ、ごめん。でも、まだ解くわけにはいかないんだ。逃げられると困るし、何より君と話がしたいんだ」

 枯庭は真名の要求をやんわりと拒否すると、真名の隣に座り、コップを真名の口元に当ててきた。

 物凄い不快感に真名は吐きそうになったが、何とか堪えて冷たい水を喉に通すと、幾分か頭がすっきりした。

 真名はコップを離した口元が、枯庭に押さえるようにタオルで拭かれた瞬間、鳥肌が立つのを感じた。まるで幼い兄弟の世話をするかのような、親愛の情が伝わってくる行動。

 枯庭が兄弟に対する愛情、慈しみや情を真名に向けているのが、真名には不気味で不愉快で、不快だった。

 「…ありがとうございました」

 不快感を顔に出しながらも、真名は形式的な礼を言った。そうしなければならないような危険性が枯庭からは感じられた。

 「どういたしまして…と言ってもこうなってるのは僕のせいか。話を聞いてもらえればすぐに解くから、申し訳ないけど少し我慢して欲しい」

 そう言うと枯庭は真名の向かい、テーブルを挟んで向かいにあるソファに座った。

 「改めて自己紹介からさせてもらおうかな、僕は枯庭豊。君の名前を聞いてもいいかな?」

 枯庭は前かがみになるように足の上で手を組んで静かに語りかけてくる。

 いきなり危害を加えられることは無さそうだと考え真名は枯庭と話してみることにした。

 同情できる面もある。同じ、人とは違う能力を持っている。話をすることによって悲惨な結果を避けることが出来るかもしれない。

 「私は一条真名…」

 「マナか…どういう字を書くんだい?」

 「真実の名前…です…」

 「そうか、真名ちゃん。単刀直入に言おう…僕の仲間になって欲しい」

 「嫌です」

 沈黙が流れる。参ったという風に枯庭は苦笑いをこぼした。

 「少しは考えてくれてもいいんじゃないかなぁ」

 「仲間になれなんて、なんでそんな話になるのかわかりません」

 「わからない?君と僕は同じだからさ」

 「同じ?」

 「しらを切るのはやめようじゃないか。僕と君は同じ。他人が持たない特別な力をもっている。そうだよね?」

 真名は黙って枯庭を睨みつける。

 枯庭はあくまで静かに、しかし興奮を滲ませながら続ける。

 「先日、死角になっていて見えないはずの僕を君は見つけた。覚えてる?僕は忘れない。君と眼が合った時…すぐにわかった。君は人とは違う力を持っているって、それぐらい特別で、不可解で、異質で、恐ろしく、素晴らしい瞬間だった。どんなに逃げても僕は君に捕まる、そう思った。そして、予想通り、君は今日、僕を見つけた。僕が君を見つける方が早かったけどね。全てひっくるめて神様に感謝したい気分だよ」

 「…私は神様を呪い殺したい気分です」

 「そう邪険にしないでくれよ。確かに手荒な真似をしたことは謝る。本当に申し訳ない。だけど、それは君とこうして話し合うためには仕方の無い事だったんだ。それに僕の話を聞けば君だって僕に賛成してくれるはずだ」

 そこまで言うと枯庭は一度、言葉を区切って息を吸う。今まで真名を見つめていた優しい眼差しは、深く遠くを見るような、ここに存在しない何かを睨みつけるような、覚悟を決めたものに変わる。

 そして、静かに、枯庭はあらためて言葉を口にする。

 「年間、どれだけの人が犯罪に巻き込まれているか知っているかい?その中でも殺人や強盗、強姦、誘拐、監禁、人の体や心、命さえも踏み躙る凶悪犯罪がどれくらい起きていて、どのくらいの被害者がいるかわかるかい?そして未解決の事件、犯人が未だ見つからない事件がどれくらいあるか…いいかい?罪を犯しながら、未だに警察の手を逃れ、罪を償わない、償おうとしない人間は君が思った以上にいるんだ。彼らを野放しにしてしまったら、殺されてしまった人はどうなる?肉体的、精神的に大きな傷を負わされた被害者はどうなる?直接、被害者になってしまった人たちだけじゃない、周りの家族や友人、遺族の怒りは?恨みは?悲しみは?」

 「だから、あなたが変わりに恨みを晴らしていると?」

 「僕はね…二年前、妹を殺されたんだ。仲は特に良いほうでもなく、普通だったと思う。僕が実家を出てからは、特に連絡を取り合ったりもしていなかった。でもね、妹が殺されたって連絡を受けて、殺された遺体を見て、僕の中にどうしようもない悲しみと、妹を守れなかった不甲斐無さと後悔が溢れてきた。涙がとめどなくあふれてきた。感情を流してしまわないように涙を集めて飲んだ。それでも涙は止まらなかった。部屋に篭って独りで絶望を眼から流していた。いつまでそうしていたかはわからない。涙が枯れ切った後の僕の中で次に生まれたのは憎しみだった。言葉に出来ない。自分の中にも溜めておけないおぞましい何かが僕の体を支配し始めたんだ。そのときまだ捕まっていなかった妹の犯人を四六時中探し回った。生活が壊れても、体が壊れても、構わずに探し回った。しばらくして犯人は別件で逮捕された。犯人が逮捕されたニュースを見て僕は愕然としたよ。おそらくは無期懲役。僕が見つけ出していたら必ず殺していたのに、妹の無念を晴らしていたのに。それに僕が犯人を見つけていれば犯人が捕まる原因になった別件、その被害者も出さずに済んだのに…妹を殺した犯人が捕まったというのに、僕は苦しみにのた打ち回っていた。僕は許せなかった。不甲斐無い自分が、全ての悪が許せなかった。そんな僕にある時、神様が特別な力を授けてくれた。正義を体現する力を、悪を裁く力を…僕は選ばれた」

 枯庭はうっすらと眼に涙を溜め、それでも悟ったようにうっすらと笑っていた。

 真名は自身の力をなるべく引っ込めるようにしていた。枯庭に触れるのは、かなり危険な事だと真名は認識していた。

 「あなたに裁く権利なんてない。犯人を捕まえるのは警察の仕事、裁くのは法律」

 「そうかもしれない。でもね、時に犯罪者は警察の上を行き、彼らを出し抜く、法律の穴を抜け罪を逃れる。人の手に負えない悪を僕が裁いているんだ」

 「警察が嫌いなの?犯罪者を捕まえられない無能な集団だと?」

 「そんなことはない。勘違いしないで欲しい。警察は優秀だよ。だけどいくら有能でも人間に出来る事なんて限られているんだ」

 「神様にでもなったつもり?自分に酔ってるだけじゃないんですか?」

 「そうかもね。でも、僕の力は本物だよ。少なくとも悪い人間を見つけ出し、正義の鉄槌を下すことが出来る」

 「あなたにだって人を殺す権利なんて無い!」

 「そう思うよ。だけど、これは僕や君みたいな選ばれた人間にしか出来ない事なんだ」

 真名は相手にわからないように溜息を吐いた。

 (話にならない)

 会話を通して、枯庭は一度は真名の意見を受け入れる。しかし、それは言葉だけで彼の意見、彼の思想、彼の信念はなんら変わることは無かった。

 真名は諦める事にした―枯庭豊という人間を。

 真名は押さえつけていた感覚を解放し、振るう。

 真名の眼が全てを飲み込む海に変わる。

 「あなたは狩野さんとは違う。あなたとは仲間になれない」

 「狩野?」

 突然、真名の口から出てきた名前に枯庭は戸惑う。

 「あなたも見たでしょ?こないだ私と一緒にいた二人のうちの一人、私の上司です」

 「上司?どちらを指しているのかは解らないが、彼ら二人からは特別なものは感じなかった。君とは違う。それとも何か特別な力を持っているのかい?」

 「いいえ、ただの普通の一般の人間です」

 真名は青く、光を吸い込む眼を枯庭に向ける。

 枯庭は、その眼に魅入られながら、飲み込まれまいと必死に言葉を紡ぐ。

 「上司?なぜ君は普通の人間に従っているんだ。彼らと僕らは違う。僕と一緒の方が君にとっても幸せなはずだ!」

 「狩野さんはあなたと違って嘘はつかない!あなたは嘘だらけ」

 「僕が?君に僕の何がわかるって言うんだ?」

 動揺する枯庭に対して、あくまで真名は冷静に告げる。

 「わかりますよ…あなた以上に」

 「き、君の力は…なんだ?」

 「狩野さんにも本当のことは言って無いんですけど、まぁ、言ったところで『なんでもいい』とか言われそうですけど…私の力は第六の感覚で世界を感じること」

 枯庭は黙って唾を飲み込むことしかできない。

 「人間が複眼や超音波を駆使した世界がわからないように、持たない感覚を説明する事は不可能に近いのですが、あえて五感にたとえるなら、私は―」

 真名は飲み込むように眼を見開いて続ける。

 「―何処で何が起こっていても目を凝らすようにその出来事を見ることができ、最小のものも最大のものも触れるようにその存在を感じられ、耳をそばだてるように過去を聞き分け、嗅ぎ分けるようにその因果を調べることができる。そして―噛み砕き、味わうように人間の中身を知ることが出来る」

 枯庭は悟ってしまった。彼我の圧倒的な差を、自分が何を相手にしているのかを。

 「そ…そんな…そんなのまるで世界…世界そのものじゃないか」

 枯庭の恐怖と畏れに飲み込まれた表情を見て、真名は哀しくなって笑った。

 普通の人間はもちろん超能力者からも恐れられる能力。

 しかし、本当に恐れているのは、怖くて怖くて泣き出してしまいそうなのは真名の方だった。否が応にも恐ろしい出来事、目をつぶりたくなるような人間の内面が真名には見えてしまう、感じられてしまう。人は騙されるから生きていける。勘違いするから生きていける。真名にはそれは許されない。ニコニコと笑う人間の憎悪に満ちた声、人当たりの良い人間の心の空洞。本音と建前、嘘と本当、裏表裏表裏表。

 恐れているのは真名のほうだ。それなのに他人は真名を恐れ―

 「君の力は…君は危険すぎる」

 ―排除しようとする。

 枯庭の目に敵意が宿る。真名を攻撃対象とすることで枯庭は自身の恐怖を押さえつけているようだった。

 真名は哀しくなって目を閉じた。

 真名の抱える問題は簡単なものではない。人間の裏を見たくないなら目をつぶって見ないようにすればすればいいと思うかもしれない。しかし、目をつぶったまま生活はできない。見えてたものが見えなくなるのは恐怖でしかない。真名は自身の能力を嫌い、疎み、忌み、呪っていたが、一方で、縋り、求め、頼り、必要としていた。能力なくして生きてはいけない。能力の存在は真名の存在そのものといえた。

 アイデンティティ―誰もが恐れ、真名自身でさえも持て余し抱え込んだそれを―真名という力そのものを必要としてくれた人間を、真名は思い出し目を開く。

 「狩野さんは自分勝手で、怒りっぽくて、だらしなくて、いい加減で、不真面目で、ダメ人間でクズだけど、私の力を本当に必要としてくれる。あなたみたいに嘘は吐かない!悪を裁くなんて嘘…妹の仇だなんて嘘…あなたは自分の弱さが許せないだけ、妹さんを守れなかった後悔に縛られてるだけ…私を仲間にしようとしたのだって、選ばれた人間だと言いつつその孤独に耐えられなかっただけ…嘘嘘嘘…最悪なのはあなたがそれに気づいていないこと」

 真名の言葉に枯庭は額に血管を浮かべ激昂した。

 「違う!僕は崇高な使命のために戦っている!…はっ、君だって自分が見えてないじゃないか!君はね、君はその狩野ってやつに利用されてるだけなんだよ!」

 「そうですよ」

 あっさり肯定した真名に枯庭は肩透かしを食らったように呆けてしまった。

 真名は強い眼差しで枯庭に向かって告げる。

 「狩野さんは私を利用してる。私だって狩野さんを利用してる。感情なんてものはあやふやで実体が無く、すぐに変化し、常に変化し、裏切り、変わる。愛情も友情もすぐに反転して、簡単に恐ろしい別の何かに変わる。だけど、利益はその必要性がある限り変わらない。お互い利用しあう、お互いにとって利益がある関係は、理由のない感情と違って信用できる」

 「利用しあう?君の能力を彼が利用したとして、それで、君には?君には何の得がある?」

 「私は狩野さんを信じることが出来る。誰も信じられない世界で、私は人を信じるという安心感をもてる。私の能力を知った人は、みんな私を畏れ、遠ざけて、殺そうとする。あなたみたいに…でも狩野さんは私を利用する。私を必要としてくれる。誰も信じられない孤独から私を救ってくれる」

 悲しみに目の端を濡らしながら、それでも嬉しそうに真名は言う。

 「狩野さんは私を利用してくれる。だから信じられる。あの人は私の力を、自分のためだけに、自分の利益のためだけに、自分の目的のためだけに使ってくれる。だから信じられる!嘘は吐かない!聞こえのいい言葉でごまかしたりなんかしない!だから私はあの人を信じてる。あの人は私が利用できる限り私を必要としてくれる。だから、私があの人にとって利用価値があるなら必ず―助けに来てくれる」

 その瞬間、倉庫の扉が大きな音を立てた。

 体に振動を与えるほどの轟音をたててゆっくりと開いていくその様は、地獄の門が開いていくような禍々しさがあった。

 「よう、殺人鬼、未成年を監禁する趣味があるとはとんだ変態野郎だ」

 へらへらと他人を見下すような声は狩野のものだった。

 「あんたが、狩野か?」

 開いた扉の先に立つ人影を認め、枯庭はそちらを向いて構える。

 「ん?なんだぁ?ガキから俺の名前を聞いたのか?そっかー、それなら消すしかねぇなぁっと」

 狩野は、ふらふらと気だるげに倉庫内に足を踏み入れ―瞬間、その足を踏み込み、一気に枯庭の懐まで駆ける。

 狩野の急な動きに対応できず、動きが遅れた枯庭の鳩尾に狩野のつま先が突き刺さる。

 息を詰める枯庭に、狩野はテーブルの上に置かれたコップを掴むとその勢いのまま体を回転させ叩きつけた。

 骨を叩く鈍い音が響く。

 「っあ…」

 コップの底を打ちつけられた肩を押さえながら枯庭はとっさに下がって、間合いをとる。

 狩野は握り締めていたコップを投擲、枯庭の頭を掠めたガラス製のコップは床に落ちると砕けて派手な音を立てた。

 痛みを堪えながら枯庭は反撃に出る。

 狩野は狂喜に目を輝かせながら、構えも取らずに無防備なままで笑う。

 「俺に攻撃してもいいのか?」

 狩野の言葉に、拳を振り上げた枯庭の動きが止まった。

 一瞬の隙を見逃さず狩野はカウンターを浴びせる。

 「俺を殺していいのか?」

 枯庭の膝に狩野は踵を打ち込む。

 「俺は悪人か?俺に何の罪がある?お前に俺が裁けるのか?裁く権利は?理由は?お前が人を殺す前提は?条件は?正義は?信念は?あるわけねぇよなぁ、わかるわけねぇよなあぁぁ」

 狩野の問いかけに、戸惑うように枯庭の動きが鈍る。

 動きの鈍った枯庭に狩野は一方的に暴力を浴びせかける。

 嬉々として殴りつけ、憎しみを込めて嬲る。

 「狩野さん!」

 真名の声に狩野は動きを止める。

 我に帰ったのではなく、興をそがれたといった目で狩野は真名に視線を向けた。

 狩野が目を離した隙を突いて枯庭が転がるようにして間合いをとる。

 「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉあぁぁぁぁぁぁ」

 叫び声と共に枯庭は近くの戸棚から大型のナイフを取り出して構えた。

 「ついに殺る気になったのかぁ?ってことは俺は悪人だと判断されたわけか」

 狩野は蔑むように、無防備に両手を広げる。

 その姿からは、刃物を向けられている事に対しての緊張や怯えは微塵も感じられなかった。

 射殺すように枯庭は狩野を睨みつける。

 「そうだ…あんたは悪人だ」

 「おいおい、酷いな。俺は勇敢にも大量殺人犯で未成年略取の変態野郎の極悪人を捕まえに来た善良な一般市民だぜ?お前が悪人、そんでもって俺様は正義の味方ってとこよ?」

 「あんたが正義の味方?ハハ…」

 枯庭は乾いた声で笑うと、唾を吐いた。床に落ちた唾が赤い染みを作る。

 「あんたは悪人だ!正義の味方なんかじゃない」

 「根拠は?」

 枯庭の叫びに、狩野は冷たい声で問いかけた。

 「僕の能力さ、僕の能力は邪悪を打ち滅ぼす為のものだ!」

 「お前なんかの能力でわかるのか?」

 「わかるさ!僕にはね!僕にはわかる。あんたは悪だ…僕達を惑わす悪魔だ!」

 「あなたなんかにわかる分けない!」

 興奮が極限に達した枯庭に冷水を浴びせるように、唐突に真名が叫んだ。

 場が静まり返り、空気が冷える。

 枯庭は目だけを突然割り込んできた邪魔者に向ける。

 「わかるわけない…だってあなたの能力はー」

 真名は青く澄みきった奈落の底のような瞳で枯庭を捕らえ、告げる

 「ー『名前がわかる相手の居場所がわかる』ってだけの能力」

 「なっ…」

 枯庭の目が見開かれ、信じられないものを見るような目線が真名に注がれる。

 枯庭の意識がそれたのを逃さず、狩野は回し蹴りを打ち込む。

 意識の外から打ち込まれた蹴りが枯庭の手を打ち、握っていたナイフを吹き飛ばす。

 金属の刃が床に当たって欠ける甲高い音が響いた。

 「ぐっ、あっ…」

 手を押さえてかがみ込む枯庭を狩野が見下ろす。

 「ったく、クソガキが空気読まないで言っちまうから、俺の見せ場がなくなっちまったじゃねぇか」

 文句を言いながら狩野はジャケットの内側からプリントの束を取り出した。

 「まぁ、でもよぉ、せっかく作って来たからさ見てやってくれよ。これからは探偵物でいうところの解説編って奴だ」

 狩野は、プレゼンを始めるかのように手に持ったプリントの束を掲げた。

 「まずは一枚目、まぁ、てめぇのチンケな能力はこの一枚で説明できるんだけどよ」

 狩野の手には指名手配犯の名簿が掲げられていた。

 「枯庭君にはおなじみのこの名簿、五十音順に指名手配犯がリストアップされてるんだけども、まずはここから関東圏内で起きた事件の犯人だけを抜き出します」

 狩野は関東で起きた事件以外の犯人をマーカーで潰していく。

 「次に、この中から、罪状が無期懲役または死刑の人間以外を排除します」

 さらに推定される罪状が無期懲役または死刑以外の容疑者の名前を狩野は塗りつぶしていく。

 「で、犯行当時の年齢から考えて、死んでるっぽい奴も消しちゃうと」

 狩野が引いた線でプリントはほとんどが黒くなっていく。

 「さぁ、この名前に見覚えがあるかなぁ?あるよねぇ?」

 狩野は残った名前を丸で囲んだ。

 「はい。この名簿は五十音順です。で残った名前を上から順に見てくと、枯庭君が殺っちゃた一人目、二人目、三人目、四人目、五人目ってこと」

 狩野の説明に、枯庭は堪えるように歯を食いしばる。

 それを見て、狩野はますます愉快そうに口を歪める。

 「つまり、名前を見るとそいつの居場所がわかるのか、GPSみたいに地図上で確認できるのかわからねぇが、名簿を見て順番に殺していっただけって事だ。同じように犯行現場の周辺の家の名前を調べ犯行時に目撃者が出ないように調整し、現場の捜査官を確認、なんかしらの手で名前を調べりゃ逃げる事も簡単。鬼の位置が一方的にわかる鬼ごっこみたいなもんだ。いやぁ、今まで警察の捜査を逃れてきた奴をあっさり見つけたり、悪を見つけ出して裁く、悪人がわかるとか言うからどんなもんかと思って蓋をあけてみれば…くだらねぇ。大層な事を言っても名前が解んなきゃ何にもできねぇクズってこった」

 嬉々として狩野が説明を終えると、枯庭は自らを静めるように息を吐き出して、狩野を睨む。

 「確かに、僕の能力は、名前がわかる人間が何処にいてもその居場所を知ることが出来るというものだ。しかし、僕が裁かれずにいた悪を裁いたことに変わりは無い!僕は正義を代行したんだ!僕が正義を体現したんだ!」

 「でかい事言ってるけどよ。お前の正義なんてのは、正義ですらないんだよ。正義ってのはなぁ、信念をもって虐殺する事なんだよ。なのにどうだ?てめぇは空っぽだ。信念も無く受け売りの嘘っぱちでえらそうな事言ってんじゃねぇよ」

 狩野は蔑むような目を枯庭に向けると持っていたプリントの束を枯庭に放り投げた。

 「読んでみろ」

 枯庭は不審に思いながらも、プリントの束に目を通していく。

 一枚一枚読み進めていくごとに、枯庭の顔は青ざめ歯の根が合わなくなっていく。

 「神はいなくても悪魔はいるように、この世に悪は存在してても正義なんてこれっぽっちも存在してねぇんだよ」

 「うそだっ…こんなのは…こんなものはでたらめだ…」

 縋るような枯庭の視線に狩野は、破滅を楽しむ悪魔のように笑い―銃弾を放つ。

 追い詰めた獲物の、肉を抉り取り、骨を砕き、命を奪う銃弾―思想を破壊し、信念を殺し、心を終わらせる言葉を放つ。

 「お前が殺したばっかりの男《伊藤洋太》は冤罪だ。そのレポートに捜査ミス、見落とされていた証拠、アリバイ、歪曲された捜査方針。全て指摘してある。そのレポートの内容は真実だ。じきに正式な通告がなされる。いいか?《伊藤洋太》は冤罪だ」

 「うう嘘だ…こんなの…信じない…」

 「そんな事言う時点で信じちゃってんだろ?往生際が悪いぜ。捜査資料とレポートを照らし合わせてみりゃあ、いかに恣意的な捜査がなされていたかアホでもわかるんだからよぉ」

 「こんなのはっ…こんなのは間違いだ!」

 「だから間違いだって言ってんだろ?警察とお前のよ」

 「ぼ…僕は……」

 「自分の信念も持たず法律と権力と常識と公式を鵜呑みにすっからそういうことになるんだよ」

 狩野は獲物に止めを刺す。満面の笑みで息の根を止める。

 「罪無き人間を殺したお前は、ただの、殺人犯だ!」

 「          」

 枯庭豊は声にならない声をあげ、崩れ落ちた。

 魂を失ったかのように蹲るその姿は、生理的な嫌悪感を覚えるほど、惨めで、卑しく、虚しいものだった。

 「しっかり、裁きを受けるんだな、犯罪者」

 枯庭の背中を叩くと、狩野は背を向けた。

 遠くに聞こえるサイレンの音が、倉庫内にも小さく聞こえた。




 男は光の無い暗い階段を降りていた。

 二段先も見えない暗闇、踏み外したら何処まで落ちるかわからない闇、奈落の底に向けて男は階段を降りていく。

 まるで通い慣れた道のように男はしっかりとした足取りで階段を降りていく、そこからは恐怖も、迷いすらも感じられない。

 やがて、階段を降りきった男は真っ黒なドアを開けて中に入る。

 その部屋には窓が無く、闇に包まれていた。

 その部屋の真ん中、椅子に座った男がスポットライトに当てられたように浮かび上がっている。

 椅子に座る男の前には取調室の様な簡素な机、部屋に入った男はそれを挟むように椅子に座る男と対面した。

 「彼庭豊君だな?」

 枯庭豊と呼びかけられた椅子に座る男が生気の抜けた顔で対面に座る男を見る。

 「私は貴君を買っている。貴君は我々が力及ばず裁くことの出来なかった悪を見つけ出し、自らが法を犯すこともかえりみず、勇敢にも正義の鉄槌を下した」

 男の言葉に、枯庭は大きくかぶりを振る。

 「僕はそんな大層な人間じゃありません。正義を語り罪の無い人間を殺した…僕こそ悪です」

 「《伊藤洋太》の事を言っているのかね?」

 「僕は!僕はどうしたら!どうやったら…償える!彼を殺した!僕は!どうしたら!」

 半狂乱で頭を掻き毟り、血を流す枯庭に、男は優しくそれでいて芯の通った声で語りかける。

 「確かに《伊藤洋太》は冤罪だった。しかし、その件だけだ。彼には多くの前科があり、ゆえに容疑者として上げられた。前科の中には許しがたい罪状も多い。悪人といって差し支えない犯罪者だ。つまり、貴君の判断はなんら間違ったものではなく正しく悪を罰し、正義を遂行した」

 男の言葉に枯庭は言葉を失い、男を見つめた。

 その瞳には生気が戻り光が宿りかけていた。

 男は枯庭に語り続ける。

 「貴君は決して間違っていない。悪は裁かねばならない。正義は存在する。正義のために貴君の力を我々に貸して欲しい。貴君の特別な力を貸してもらえないか」

 魅入られたように見つめる枯庭に男は事務的に説明を始める。

 「貴君の事件は報道されないし、裁判も行われない。もちろん貴君は服役することは無く、私の指揮下に入ってもらう、詳しいことは後日担当の者に説明させる」

 枯庭は男の言葉に目を彷徨わせる。

 「まだ決断できないようだな」

 男がそういうと部屋のドアが開き、何者かが塊を枯庭の足元に転がす。

 悶えながら動く塊は手足を縛られ口を塞がれた人間だった。

 それも枯庭には見覚えのある人間、忘れたくても記憶にこびりついているその顔。

 「貴君の妹を殺した男だ」

 男が目を移すと、枯庭の顔には今まで抜け落ちていた感情がめまぐるしく走っていた。

 男は懐から一丁の銃を取り出し、枯庭に握らせた。

 「両手でしっかり持って引き金を引けばいい。初心者でも扱える代物だ」

 「ぼ、僕を試しているのか?」

 「あぁ、試している。君がこの男を殺すかどうかを返事として受け取ろう。殺すなら是。生かすなら否」

 条件だけ告げ立ち去ろうとする男を、枯庭は呼び止める。

 「あ、あんたの名前は?」

 「高瀬明。枯庭豊君、いい返事を期待している」

 高瀬は部屋から出ると階段を上り始めた。

 暗闇の中の階段を―

 ―しばらくすると高瀬の耳に闇の底から慟哭と銃声が聞こえた。


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