「君の名前は要らない」と婚約者が言うので、私の名前で交わした約束は全部ほどいておきました
「君の名前は要らないよ、ノエミ」
ジェラール様はそう言って、私の書いた計画書の末尾に、ご自分の名前だけを書きこんだ。
ジェラール・ド・ヴァランス。流れるような、きれいな署名だった。字だけは、昔からお上手な方だ。乾ききらないインクに軽く息を吹きかける横顔には、これが私の三日徹夜してひねり出した数字だという自覚は、たぶんこれっぽっちもない。
「女の名前が載っていると、それだけで中身まで軽く見られる。僕の名前で出したほうが、君の仕事のためにもなるだろう」
「はい、ジェラール様」
五年前、婚約が決まった年から、ずっと同じやり取りをしている。
最初は、侯爵家の領地の収支報告だった。数字の欄が埋まらずに頭を抱えていたジェラール様の横から、見かねて少しだけ手を出した。翌年は、王太子殿下に出す視察の報告書。その次の年は、私の名付け親でもある王太后陛下のお口添えで得た、補佐官候補としての論文。そして今年は、王都の東を流れるラヴェル川の治水計画書。
全部、私が書いた。下書きから、清書の一歩手前まで。最後にジェラール様が清書して、名前を書く。
おかげで私の右手の中指には、硬いペンだこと、石鹸でこすっても落ちきらないインクの染みがある。
「夜会では手袋を外さないでくれよ。婚約者の指が黒いなんて、僕が恥ずかしい」
(その黒い指で書いた論文のおかげで、あなたは補佐官候補になれたのですけれど)
とは、言わなかった。言えば「だから感謝しているじゃないか」と返ってくるのは分かっていた。ジェラール様の感謝はいつも言葉だけで、その言葉も、年々少なくなっていた。
計画書を書くのに必要なものは、机の上だけでは揃わない。
古い水位の記録は、王立文書院の地下にしかない。地下の台帳を読むには、閲覧簿に名前と日付を書く決まりがある。ジェラール様は「地下は黴臭い」と言って、一度も降りなかった。だから閲覧簿には、毎年、私の名前だけが並んでいる。
ついでに言えば、私は算用数字の七に、真ん中へ短い横棒を一本引く癖がある。隣国から来た家庭教師の老先生の書き方が、うつったまま抜けなかった。閲覧簿の日付にも、たぶん、横棒つきの七が並んでいるはずだ。誰も見ないので、どうでもいいことだけれど。
それから今年の春には、川の下流のソール村まで、馬車で二日かけて出かけた。
堤の工事が始まれば、村の水車はひと冬止まる。粉がひけなければ、村の冬は越せない。それを説明して、頭を下げるのも私の役目だった。ジェラール様は「村の年寄りと話すのは君のほうが向いている」と言って、王都に残った。
村長のブノワさんは、日に焼けた太い腕を組んで、長いこと黙っていた。
「侯爵家の坊ちゃんのことは知らん。会ったこともない」
それから、私の黒い指先を見た。
「だが、アルノーのお嬢さんが自分の名にかけて言うなら、信じよう」
「私の名にかけて。冬のあいだの粉ひきは、上流の村に頼めるようにいたします」
ブノワさんは、そこでようやく腕をほどいて、私の手を握った。
その約束は、どの紙にも書いていない。けれど、計画書の別紙にある「下流の村の同意」は、あの日の握手でできている。
* * *
王太子殿下の誕生祝いの夜会は、王宮の大広間で開かれた。
私は白い手袋をはめて、ジェラール様を待っていた。約束の時間を過ぎても迎えの馬車は来ず、父の馬車で王宮に着くと、ジェラール様はもう広間にいた。
隣に、桃色のドレスの令嬢がいた。
ボワ男爵家のミレーヌ様だ。笑うたびに、耳飾りがしゃらしゃらと鳴る。
「ノエミ・アルノー」
ジェラール様が、広間じゅうに聞こえる声で私を呼んだ。近くの楽団の弓が止まり、グラスを手にした貴族たちが一斉にこちらを向く。
「君との婚約を、今夜かぎりで破棄する」
ざわめきが、波のように広がった。ジェラール様は、少し顎を上げて続けた。
「君は地味だ。口を開けば数字と書類の話ばかりで、社交の場ではいつも壁の花。来月から僕は王太子殿下の補佐官になる。補佐官の妻には、華が要るんだ。ミレーヌのような」
ミレーヌ様が、ジェラール様の腕にそっと頬を寄せた。
「ごめんなさいね、ノエミ様。でも、ジェラール様がどうしてもって」
甘えた声に満足そうに頷いてから、ジェラール様は私に向き直った。
「五年間、ご苦労だった。だがもう終わりだ。君の名前なんて、僕の人生にはもう要らないんだよ」
くすくすと、どこかで笑い声がした。
私は、手袋の中で指を握った。
不思議と涙は出なかった。かわりに、いくつかの顔が浮かんだ。
名付け親の王太后陛下。ソール村のブノワさん。
(私の名前。ジェラール様の人生の、どこに入っていたかしら)
紙の上には、一つもない。
紙の外には、案外、あちこちに入っていた。
「かしこまりました」
私は膝を折って、礼をした。
「では、私の名前で交わした約束は、ジェラール様のところから全部ほどいておきます」
「好きにしろ」
ジェラール様は鼻で笑った。ミレーヌ様が、扇の陰で首をかしげる。
「まあ。ほどくほどの約束が、おありなの?」
あります、とは言わなかった。
どうせ数日のうちに、嫌でも分かることだったので。
* * *
翌朝、私は便箋を二枚、机に並べた。
一枚目の宛先は、私の名付け親である王太后陛下。ジェラール様を補佐官に推してくださった方だ。陛下のお言葉は、こうだったと聞いている。
――ノエミの夫になる者なら、間違いはなかろう。
夫にならないのなら、その言葉の前提はなくなる。
私は、婚約が解消されたことだけを、短く丁寧に書いた。お詫びと、これまでのお礼を添えて。余計な愚痴は一切書かなかった。陛下は、それだけで全部お分かりになる方だ。
二枚目は、ソール村のブノワさんへ。
春にお約束したのは、ノエミ・アルノーの名にかけてのことでした。けれど私は、もうこの計画に関わる立場ではなくなりました。ですから、あのお約束は、お返しいたします。工事に同意なさるかどうかは、どうぞ村の皆さんで、改めてお決めください。
嘘は一つも書かなかった。ジェラール様を悪くも書かなかった。
ただ、私の名前だけを、約束の中から引き取った。
それから、机の引き出しの奥にある白い紙束を見た。
来週の御前審議で、ジェラール様は治水計画について王太子殿下の問いに答えることになっている。その想定問答をまとめた答弁書を、私はまだ書いていなかった。
書かなければ、そこに私の名前は入らない。
パタン、と私は引き出しを閉めた。
* * *
ほどいたことを、一つだけ自分の足で確かめに行った。
王立文書院の地下の台帳から、春に借りていた写しを返しに行ったのだ。私の名前で借りたものを、私の名前のまま置いておくわけにはいかない。
古い紙とインクの匂いがする、天井の高い建物だった。窓口で返却の欄に日付を書きこんでいると、奥から背の高い男の人が出てきた。無造作な黒髪に、少し目つきの鋭い灰色の瞳。黒い上着の袖口に、私と同じようなインクの染みがあった。
「書記官長のベルナールです。地下の写しなら、私が受けます」
クロード・ベルナール様。文書院の主だと、名前だけは聞いたことがある。滅多に笑わない、仕事に厳しい方だとも。
ベルナール様は写しを受け取って、それから私の顔を見た。
「アルノー嬢。ヴァランス殿との婚約を解消されたと、今朝、噂で聞きました」
「お耳が早いのですね」
「では、あの治水計画は、これから誰が見るのですか」
私は、返事に詰まった。
ベルナール様は、窓口の脇から古びた閲覧簿を引き寄せて、ある頁を開いた。
「地下の水位台帳、第四冊。この五年間でこれを開いたのは、あなた一人です」
並んでいるのは、私の名前ばかりだった。
「ヴァランス殿の計画書には、二十三年前の大水の記録が使われている。あの記録は、この台帳にしか載っていません。……台帳を読まずに、どうやってあの数字を出したのか、ずっと不思議でした」
五年間、誰にも気づかれていないと思っていた。
気づいている人が、こんなところにいた。
「毎年、閲覧簿の同じ欄に、同じ名前が書かれていくのを見ていました。いつか、この計算をした人に会ってみたかった」
灰色の目が、まっすぐに私を見た。笑わない方だと聞いていたのに、口元が、ほんの少しだけゆるんでいた。
「アルノー嬢。文書院は、人手が足りません。ここで働いてみる気はありませんか」
「私が、ですか」
「ここでは、書いた者が自分の名前を書く決まりです」
その言葉が、胸のどこか深いところに落ちた。
「……来週の御前審議が終わるまで、お返事を待っていただけますか」
「では、その審議の記録係を臨時でお願いできますか。人手が足りないのは本当なので」
ベルナール様は、真顔でそう言った。
* * *
審議の前日、ジェラール様が屋敷にやって来た。
客間にも通されないうちに、玄関の広間で私を呼びつけた。
「おい、ノエミ。答弁書はどうした、まだ届いていないぞ。審議は明日だ」
私は、階段の途中で足を止めた。
「婚約は、破棄されたのでは」
「それとこれとは別だろう。計画書を書いたのは君なんだから、最後まで面倒を見るのが筋じゃないか」
(書いたのが私だと、今、ご自分で仰いましたね)
「心配しなくていい。君の名前は要らないんだから、気楽に書けばいいんだ」
「ええ」
私は、階段の上から彼を見下ろして笑った。
「ですから、もう書きません。私の名前で交わした約束も、全部ほどいておきましたので」
ジェラール様は、意味が分からないという顔で眉をひそめた。
「何を言ってるんだ。……チッ、まあいい。計画書の中身くらい、僕だって頭に入ってる。君の手なんか借りなくたって、審議くらい乗り切れるさ」
吐き捨てて、ジェラール様は帰っていった。
玄関の扉が乱暴に閉まる音を聞きながら、私は思った。
(頭に入っているのなら、どうしてわざわざ前日に、答弁書を取りに来たのかしら)
* * *
御前審議は、王宮の西の間で開かれた。
長い卓の正面に王太子アンリ殿下。両脇に大臣たち。末席に、新調した礼服を着たジェラール様。
私は、壁際の小さな机で、文書院の記録係としてペンを構えていた。少し離れた部屋の隅には、上役として書記官長のベルナール様が静かに控えている。入ってきたジェラール様は私に気づいて目を見開いたが、何も言わなかった。言える場ではなかった。
「ヴァランス」
殿下が、手元の計画書をめくりながら口を開いた。
「見事な計画だ。だから直接聞きたい。堤の高さを七尺とした根拠は何だ」
「は。それは、過去の水位から計算いたしまして……」
「どの年の水位だ」
「……その、何年か前の、大きな水が出たときの」
「何年前だ、と聞いている」
ジェラール様の額に、じわりと汗が浮いた。
(二十三年前です。王都の東門まで水が来た年)
私は、ペンを動かしたまま黙っていた。記録係の仕事は、聞いたことをそのまま書くことだ。
「では、もう一つ」
殿下は、卓の上の封書を一通、指で叩いた。
「今朝、ソール村の村長から嘆願が届いた。村は工事に同意しない、とある。別紙には『下流の村の同意を得た』と書いてあるが、これはどういうことだ」
「ど、同意しない? そんなはずは……村とは、話がついて……」
「誰が話をつけた」
ジェラール様の口が、開いたまま止まった。
殿下は封書を開いて、一行を読み上げた。
「――我らが春に信じたのは、アルノーのお嬢さんの名であって、侯爵家の坊ちゃんの名ではない。お嬢さんが手を引かれるのなら、村の水車は止められない」
西の間が、しんと静まった。大臣たちの視線が、一斉に末席へ集まる。
「この計画書の末尾には、起草者としてお前の名前しかないが」
「か、書いたのは私です! そこに名前が書いてあるでしょう!」
ジェラール様が椅子を鳴らして立ち上がった。
殿下は視線を上げ、部屋の隅に控えていた人物に軽く顎を引いた。
進み出たのは、ベルナール様だった。その腕には、古びた閲覧簿が一冊抱えられている。
「書記官長のベルナールです。殿下、計画書の七尺の根拠は、文書院地下の水位台帳にしか載っていない記録です。こちらが、その台帳の閲覧簿です」
閲覧簿が、殿下の前に開かれた。
殿下は頁をめくった。一年目。二年目。三年目。四年目。今年の春。
「ヴァランスの名が、一度もないな」
「はい。五年間、第四冊を開いた者は、お一人だけです」
殿下は、閲覧簿の名前を指でなぞって、それからゆっくりと顔を上げた。
壁際の、私の机のほうへ。
「記録係。名は」
「ノエミ・アルノーと申します」
ジェラール様が、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
「アルノー嬢。七尺の根拠は」
「二十三年前、王都の東門まで水が来た年の記録でございます。文書院の地下の水位台帳、第四冊の三十七枚目に、最も高かった日の水位が残っております。そこに、川底が土砂で年に指一本ずつ上がっている分を足しました」
「では、村の水車は」
「一度に築くと、下流の村の水車が一年まるごと止まります。堤を三つに分ければ、止まるのは農閑期のひと冬だけで済みます。その冬の粉ひきは、上流の村に頼む取り決めを、春に私がソール村でお約束いたしました。――私の名にかけて」
大臣たちの間から、小さな声が漏れた。
「その約束を、なぜ取り下げた」
「私の名前は要らないと、言われましたので」
私は、ペンを置いて立ち上がった。
「私の名で交わした約束を、私の名を要らないと仰る方の計画に、置いておくわけにはまいりません。村の皆さんには、ありのままをお伝えして、改めて決めていただきました」
長い沈黙のあと、殿下はパタンと計画書を閉じた。
「ヴァランス。補佐官の任命は見送る」
「殿下、それは……! 私はただ、清書を……」
「清書をしただけの者に、補佐官は務まらん。お祖母様からも、今朝、推薦の前提がなくなったので取り下げると言われている。……私も今、その意味がよく分かった」
殿下は、閉じた計画書を卓の端へ押しやった。
「この計画は、起草した者に預け直す。アルノー嬢、ソール村とは、もう一度話ができるか」
「私の名前で、でしたら」
「それでいい」
ジェラール様は、血の気の引いた顔で私を振り返った。
「君が……君がやったのか!」
「いいえ」
私は、手袋をしていない右手を胸に当てて、膝を折った。一番きれいな礼だった。
「私は、私の名前を引き取っただけです。要らないと、仰いましたので」
* * *
それから、ひと月のことを少しだけ。
ヴァランス侯爵家では、補佐官就任の祝いの宴が取りやめになった。仕立てていた礼服も、頼んであった新しい馬車も、取り消しの違約金だけが残ったそうだ。ジェラール様は、激怒した侯爵様から、領地に戻って帳簿の付け方を一から学ぶよう言いつけられた。
ミレーヌ様とのご婚約の話は、いつのまにか立ち消えになっていた。
「だって、補佐官になれないんでしょう? 領地で帳簿つけなんて、ごめんだわ。数字と書類の話ばかりする人は、退屈だもの」
ミレーヌ様がお茶会でそう話していたと、侍女のニナが教えてくれた。
一度だけ、領地のジェラール様から手紙が届いた。
領地の帳簿がどうしても合わない。来年の作付けの計算が分からない。昔のよしみで、少しだけ手を貸してほしい。君の名前は表に出さないから――。
私は、便箋に一行だけ書いて返した。
――私の名前は要らないとのことでしたので、お力にはなれません。どうぞご自身のお名前で、立派に帳簿をおつけくださいませ。
署名は、しなかった。それっきり、手紙は来なくなった。
* * *
王立文書院で働きはじめて、最初の仕事は、ソール村へ行くことだった。
ブノワさんは、村の入り口で腕を組んで待っていた。
「今度は、誰の名にかけて来なすった」
「私の名にかけて。今度は、文書院の書記として」
ブノワさんは、長いこと私の顔を見ていた。それから、黙って太い腕をほどいて、私の手を握った。春と同じ、硬くて温かい手だった。
王都に戻って、改訂した計画書の最後の頁を書き上げた。下に、起草者の欄があった。
空白の欄を前に、私はペンを持ったまま、しばらく動けなかった。
「どうぞ」
隣の机から、ベルナール様が言った。
「ここでは、書いた者が名前を書く決まりです」
私は、ゆっくりと書いた。
ノエミ・アルノー。
ジェラール様ほどきれいな字ではない。少し右に傾いて、少し角ばっている。それでも、五年間で初めて、私の書いたものの下に、私の名前があった。
インクが乾くのを見ていたら、なぜだか、視界が少しにじんだ。机の上に落ちそうになった雫を慌てて指で拭うと、ベルナール様は何も言わずに、乾いた吸い取り紙を一枚、書類の脇にそっと置いてくれた。
* * *
翌年の秋、ラヴェル川の最初の堤ができあがった。
ソール村の水車は、約束どおり、ひと冬だけ止まって、春にまた回りはじめた。
竣工の記録を台帳に綴じる日、ベルナール様――クロードが、私の机の横に立った。
「日付は、私が書いても?」
この頃には、彼がそう聞くときは、だいたい何か言いたいことがあるときだと分かっていた。
クロードは、ペンを取って書いた。
――十月、7日。
その数字の七には、真ん中に短い横棒が一本引いてあった。
私は、思わず顔を上げた。
「閲覧簿の、あなたの日付です」
クロードは、耳の先を少し赤くして、ペンを置いた。
「五年分、毎年見ていたら、うつってしまって。……今さら、直せそうにありません」
閲覧簿の日付。誰も見ないと思っていた、あの欄。
「直さなくていいです」
私は、黒い指先で、その横棒をそっとなぞった。
「その七は、もうあなたのものですから」
クロードの長い指が、その上から、私の指を静かに包んだ。
(了)




