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動けるデブ、そしてギャル

作者: 埴輪庭
掲載日:2026/03/15

 ◆


 権田原 丈二(ごんだわら じょうじ)は体重百七十五キロである。


 この一文で読者の脳裏にどんな映像が浮かんだか知らないが、おそらくそれは間違っている。確かに丈二は巨漢だ。腹は出ている。顎は二重を通り越して三重に折り畳まれ、首という概念がほぼ消失している。しかし同時にこの男は大学の体力測定で計測機材を三台破壊した前科がある。握力は左右ともに二トンを超え──握力計は当然粉砕した──背筋力は計測不能。背筋力計のフレームごと床から引き剥がしたため測定が中止になった。

 

 反復横跳びは計測した体育教員が「残像が見えた」と証言を残している。

 

 つまるところ権田原丈二は動けるデブなのだが、その「動ける」の水準が生物学を逸脱していた。オリンピック全競技に出場すれば全種目で金メダルを獲れるだろうと大学の運動生理学の教授が真顔で言ったレベルと言えば伝わるだろうか。


 そしてもうひとつ、丈二には特筆すべき身体的特徴があった。運動すると凄まじい熱量を発するのである。真冬のトレーニングルームで丈二が三十分ほど走ると室温が何度か上がる。空調設備が丈二の発熱に追いつけず管理者から出入り禁止を言い渡されたことがある。人間ボイラーと呼ばれた所以であるが本人はこの渾名をあまり気に入っていない。だが途方もない熱が途方もない運動量を喚ぶ事も確かだ。


 超人といっても過言ではない、まさにフィジカル・ギフテッド──それがこの権田原 丈二という男なのだ。


 ・

 ・

 ・


 そして、時は令和──未曾有の登山ブームが日本列島を席巻していた。


 老いも若きもこぞって山へ向かい、「登山レベル」が人間としてのレベルそのものだと信じられているトンチキな、イカれてる、狂った、マッドな世相である。


 就職面接で「趣味は登山です。北アルプス全山縦走しました」と言えば内定が出る。合コンでは「先月、剱岳の北方稜線を単独で抜けました」が最強の口説き文句になる。登山をしない人間は令和の日本では呼吸をしていないに等しかった。


 そしてこの世相にはもうひとつ重要な価値観があった。より過酷な状況で登頂するほど偉い、というものだ。吹雪の中を軽装で突破すれば英雄。悪天候で撤退すれば臆病者。冬山をツェルトも持たずに踏破すればSNSの「いいね」は万単位で跳ね上がる。装備を万全にする行為は「山を舐めている」のではなく「山に対する挑戦を舐めている」と見なされた。──狂っている。だがそれが令和の常識である。


 丈二はT大学の登山サークル『嶺踏会』に所属していた。サークルの中での彼の評価は実力は確かだがいまいち──という様なものだ。体力は無尽蔵、判断力は正確無比、天気図は読めるし地形図も頭に入っている。しかし──装備が過剰なのだ。日帰り登山にツェルトを持っていく。予備の防寒着を二着詰め込む。非常食を三日分入れる。この世相においてそれは「臆病」と同義だった。登山ウェアのサイズが特注であることも相まって合コンの席で隣に座りたい女はいなかった。


 丈二自身もそれを理解していた。しかし「山は装備で登るもの」という信念を曲げる気はなかった。過酷な状況を掛けで突破することが登山の本質だとは思わない。山は突破するものではなく往復するものだ。そういう考え方がこの世相ではダサいらしい。丈二はそれも知っていたが気にしなかった。


 ちなみにこの男の性格は悪くない。いうなれば紳士的な陰キャと言った所だろうか。挨拶は丁寧。後輩の面倒見はいい。遅れた者がいれば必ず待ち、バテた者がいれば荷物を引き受ける。なお、こんな丈二ではあるが、二十一年間彼女ができたことがない。


 ◆


 十二月の第一週、嶺踏会の部室に二つの派手な影が現れた。


 星野瑠那。白ギャル。染め抜いたプラチナブロンドの巻き髪にネイル、睫毛はバサバサのエクステ。一人称は「るな」。胸は驚くほど薄い。しかし脚は長く顔は整っており肌は陶器のように白い。登山レベルで人間の格が決まる世相に乗じて登山を始めたが実力は初心者も初心者、高尾山すら怪しい。


 黒川あげは。黒ギャル。褐色の肌に金のメッシュを入れたロングヘア、唇にはグロスがてらてらと光る。一人称は「あーし」。瑠那とは対照的に胸が大きい。登山ウェアの上からでも主張が激しい。瑠那の幼馴染で瑠那に付き合って登山を始めたが本人は特に興味がない。低い山を数回歩いただけの完全な素人である。


 二人が部室に来た理由は単純だった。嶺踏会の公式SNSで丈二の登山動画が拡散されたのである。北アルプスの稜線を信じられない速度で駆け抜ける巨大な影。画面越しだと迫力があったが実物を見た二人の反応は辛辣だった。


「え、これがあの動画の人? マジ?」


 瑠那が目を丸くした。丈二は部室の隅で地形図を広げており顔を上げて会釈した。丁寧な会釈だった。


「るなちゃん声でかい。でもまあ、わかる」


 あげはが腕を組みながら丈二を上から下まで眺めた。丈二の体積は二人を合わせてもまだ余る。そして、そんなデブ(丈二)を見た二人は確信した──こいつ、ヤってるな? と。


 動画は加工したものに違いない、今日び、AIを使えば動画などいくらでも加工できる。事実、SNSではそんな動画で公開して持ち上げられてアヘってる者がごまんといる。


「ねえねえ、明後日ウチら秩父の雁坂嶺に登るんだけどさ、一緒に来ない?」


 瑠那が言った。あげはが隣で薄く笑っている。


 丈二は一瞬だけ躊躇しそれから微笑んだ。


「雁坂嶺ですか。いい山ですね。十二月の奥秩父は冷えますから装備はしっかりしたほうがいいですよ」


「装備とか大丈夫大丈夫! 日帰りっしょ? サクッと行ってサクッと帰るし!」


 瑠那が両手を振った。あげはが「せやせや」と相槌を打つ。丈二の眉がわずかに動いた。雁坂嶺は標高二千二百八十九メートル。十二月の奥秩父は積雪こそ少ないが気温は平地より十五度近く低く日没後はマイナス十度を下回る。日帰りルートは片道四時間以上。軽装で行くような山ではない──まあ、一般的にはそう考えられている。


 断ることもできた。しかし丈二は紳士であり同時に登山者だった。この二人を単独で行かせるわけにはいかないと心が囁いた。


「ご一緒します。ただ防寒着と雨具は必ず持ってきてください。ヘッドランプも」


「おっけおっけ! じゃ当日よろしくー!」


 瑠那が軽く手を振って部室を出ていった。あげはが最後にちらりと丈二を見て「ほんとに来んの?」と呟いたが丈二は聞こえなかったふりをした。


 ◆


 十二月七日。土曜日。午前六時。


 集合場所の秩父鉄道三峰口駅に丈二は五時半に着いていた。六十五リットルのザックを背負っている。今の世相ではこの装備量は「ビビり」に他ならない。せっかく山に行くのに過剰装備でリスクを潰すのは「山に失礼」というのが世間の感覚である。しかし中身を見れば丈二の思想がわかる。ツェルト、寝袋のインナーシーツ、バーナーとコッヘル、水二リットル、行動食、非常食、救急キット、予備の防寒着が二着、ハードシェル、地形図とコンパス、ヘッドランプの予備電池、細引き十メートル。山は往復するものだ。そのために必要なものを全部持っていく。丈二の恐るべき膂力はそれらの重量をものともしない。


 六時十分、瑠那とあげはが現れた。丈二は目を疑った。


 瑠那はユニクロのウルトラライトダウンにスキニージーンズ、足元はスニーカー。あげはに至ってはパーカーにレギンス、靴はランニングシューズ。ザックはどちらも二十リットル程度の小さなデイパックで中身はスマホの充電器と菓子パンとペットボトルが数本。手袋もニット帽もない。登山靴もない。防寒着もない。雨具もない。ヘッドランプもない。今の世相では軽装は「勇敢」の証だがそれにしても限度がある。


「おはよー! 寒くね?」


 瑠那が息を白くしながら言った。駅前の気温表示は三度。丈二は黙って自分のザックからフリースのジャケットを二着取り出した。


「これ、着てください。山の上はもっと冷えます」


「えー、ダサくない?」


 あげはがジャケットを摘まんだ。丈二のサイズなので二人には巨大すぎる。瑠那がそれを羽織ると膝まで届いた。


「ワンピースじゃん! ウケるー!」


 二人はけらけらと笑った。丈二は笑わなかった。山の天気予報を朝四時に確認していた。午後から寒気が流入し夕方以降は降雪の可能性がある。今の世相なら「寒気が来るらしいんですが行きましょう」と言うのが模範回答だ。丈二はそうは思わないが二人の装備と態度を見て別の判断を下した。止めたところでこの二人は自分なしで行くだろう。それだけは避けねばならない。丈二はいい奴なのだ。


 七時、三人は登山口に立った。雁坂嶺への登山道は落ち葉に覆われ早朝の霜が白く輝いている。


「うわ、めっちゃいい感じ! 映える!」


 瑠那がスマホを構えた。あげはがピースサインを作る。丈二は後方で地形図を確認していた。


 ◆


 登り始めて三十分。最初は鼻歌交じりだった二人の足取りが重くなり始めた。


 標高千三百メートルを超えたあたりから勾配がきつくなりスニーカーの瑠那は何度も足を滑らせた。あげはは揺れる胸を押さえながら歩いている。


 一方の丈二は涼しい顔で登っていた。百七十五キロの巨体が嘘のように軽やかにしかし確実に高度を稼いでいく。発熱体質のため身体からは常に熱気が立ち上り丈二の周囲だけ気温が二度ほど高い。


「ちょっ……待って……はぁ……はぁ……」


 瑠那が膝に手をついた。あげはも隣で肩で息をしている。丈二は十メートル先で立ち止まり振り返った。息は全く乱れていない。


「大丈夫ですか? 水、飲んでください」


 丈二がザックからスポーツドリンクを差し出した。自分の分の予備である。二人は無言で受け取り一気に飲んだ。


「……あんたさ、なんでそんな平気なわけ?」


 あげはが丈二を睨んだ。褐色の頬が赤い。息が荒い。対する丈二は汗すらかいていない。


「体力だけは、あるので」


「体力っていうかさぁ、おかしくない? ウチらもう死にそうなんですけど」


 瑠那が地面に座り込んだ。スキニージーンズの膝が泥で汚れている。丈二は何も言わず瑠那のデイパックを自分のザックの上に括りつけた。あげはのデイパックも取り上げて同様にした。六十五リットルのザックに二つのデイパックが加わり総重量は三十キロを超えたが丈二の歩みは変わらなかった。


「荷物は僕が持ちます。身軽になれば楽になりますから」


 瑠那とあげはは顔を見合わせた。礼を言おうとしてけれども言わなかった。まだこの時点ではこの巨漢に借りを作ることが癪だったのだ。


 ◆


 午前十一時。標高二千メートルを超えた。


 気温は零度近くまで下がっている。瑠那のスニーカーは岩場で完全に機能を失い何度も転倒した。三度目に転んだとき丈二が瑠那の腕を掴んで支えたが瑠那はその手を振り払った。


「大丈夫だし! 触んないで!」


 丈二は黙って手を引いた。


 正午過ぎに山頂に到着した。風が強い。体感温度はマイナス五度を下回っている。瑠那のユニクロダウンは風を通しあげはのパーカーは論外だった。二人は丈二のフリースの中で縮こまっている。


 丈二は温かい紅茶をコッヘルで沸かし二人に渡した。自分用のカップは一つしかないので二人に交互に飲ませた。甘い紅茶が冷えた身体に染みたのか瑠那が小さく「……おいしい」と呟きあげはも無言で頷いた。


「下山しましょう。来た道を戻ります」


 丈二が言った。当初の計画では別ルートで下る予定だったが二人の体力と装備を考えれば同じ道を戻るのが最善だ。


「えー、でもさ、こっちの道のほうが近くない?」


 瑠那がスマホの地図アプリ──『YAMAPON』を見せた。画面には別の下山ルートが表示されている。確かに距離は短い。しかし丈二はそのルートを知っていた。


「そのルートは岩場が多くて危ないです。この装備では厳しい」


「でも近いじゃん。あーし、もう足痛いし」


 あげはが言った。丈二は少し考え折れた。二人の体力が持たない可能性を考えれば短いルートのほうがまだ安全かもしれない。ただし自分が先頭を歩き危険な箇所は一人ずつ通過させる。


 この判断が三人の運命を大きく変えることになる。


 ◆


 下山を始めて一時間。道が怪しくなった。


 スマホの地図アプリはとっくに圏外で使い物にならない。丈二は紙の地形図とコンパスで現在地を確認しようとしたが岩場を巻くために何度かルートを逸れたことで正確な位置が掴めなくなっていた。


「ねえ、道これで合ってる?」


 あげはが不安そうに訊いた。


「……少し外れているかもしれません。引き返しましょう」


 丈二が冷静に言ったとき瑠那が足を滑らせた。短い悲鳴。ガレ場の斜面を三メートルほど滑り落ち岩に腰をぶつけて止まった。


「いったぁ……っ!」


 丈二が斜面を駆け下りた。百七十五キロの巨体がガレ場を音もなく降りる様は異様である。瑠那を抱き起こし腰を確認する。打撲はあるが骨折はなさそうだ。


「立てますか?」


「痛い……歩ける、けど……」


 瑠那の目に涙が浮かんでいた。強がりの殻にひびが入った瞬間だった。丈二は瑠那を背負った。百七十五キロの男の背中に四十六キロの女がひっついた。丈二にとって瑠那の体重は誤差である。


「あんた……マジで化けもんだね……」


 あげはが呆然と呟いた。


「よく言われます」


 丈二は淡々と答え、来た道を戻り始めた。しかし岩場の景色は均一でどこを通ったのか判然としない。太陽はすでに西に傾き木々の影が長く伸びている。ちなみに丈二は小学校六年生の時、トラックにモロに轢かれたことがあるが軽傷で済んだ。骨、内臓には異常なし。また、丈二の骨密度は常人の七十倍あるらしい。


 午後三時半。日没まであと一時間半。丈二は静かに判断を下した。


「今日中の下山は難しいかもしれません。ビバークの準備をしましょう」


「ビバーク? なにそれ」


「山で一夜を明かすことです」


 瑠那とあげはの顔から血の気が引いた。


 ◆


 丈二の行動は迅速だった。


 風を避けられる岩の窪みを見つけツェルトを張った。過剰装備と笑われた六十五リットルのザックが、ここへきて自らの存在価値を十二分に示した。中から出てきたのは軽量の簡易テントである。三人が入るには狭いが、無いよりは遥かにましだ。地面に枯葉と枝を敷き詰め断熱層を作る。バーナーで湯を沸かし非常食のアルファ米を戻した。


「食べてください。体力を維持しないと」


 二人は震える手でアルファ米を受け取った。味など分からなかったろうが温かい食事は確実に体温を奪われる速度を遅らせる。


 午後五時。日没。気温はマイナス七度まで下がった。空が曇り始めていた。丈二は空を見上げ唇を引き結ぶ。予報通りだ。雪が来る。


「二人とも、ツェルトの中に入ってください。僕は外で見張ります」


「はぁ? あんたも入んなよ! 凍死すんだろ!」


 あげはが声を荒げた。震えが止まらない。褐色の肌に鳥肌が立っている。


「僕は大丈夫です。体温が高いので」


 丈二がフリースの裾をめくった。腹から湯気が立っていた。文字通りの湯気である。十二月の奥秩父でマイナス七度の外気に晒されながら丈二の体表温度は四十度近くを維持していた。人間ボイラーの面目躍如である。


「……あんた、ほんとに人間?」


 瑠那が丈二の腹を凝視した。湯気が立ち上る太い腹。この状況でなければ滑稽だったかもしれないがいまとなっては命綱にしか見えない。


 午後八時。雪が降り始めた。最初は粉雪だったものが次第に勢いを増し一時間もしないうちにツェルトの上に白い層が積もり始めた。


 ツェルトの中で二人は身を寄せ合っていた。瑠那のユニクロダウンも丈二のフリースもこの寒さには太刀打ちできない。あげはのパーカーは論外だ。歯の根が合わないほど震えている。


「さむい……さむいよ……るなちゃん……」


 あげはが瑠那に抱きついた。瑠那もあげはを抱き返すがどちらの身体にも熱がない。冷えた体同士をくっつけても温まらなかった。


 丈二がツェルトのフラップを開けた。


「入ります。すみません、狭くなりますが」


 百七十五キロの巨体がツェルト内に潜り込んだ。物理的に破綻しそうな空間に三人が押し込まれる形になったが効果は劇的だった。丈二の体温がツェルト内の空気を急速に暖めたのである。


 それは魔法のようだった。マイナス七度の外気の中ツェルト内の温度は丈二が入った瞬間から上昇を始め十分もしないうちに十五度を超えた。


「……あったかい……」


 瑠那が呟いた。その声から強がりが消えていた。


「うそ……なにこれ……こたつじゃん……」


 あげはが丈二の腹に顔を押しつけた。柔らかい。そして熱い。人間の腹ではなく温石を抱いているような感覚だった。というか、これほどに外気温が低下しなければ丈二に触れ続けているだけで火傷しかねないだろう。


 丈二は身動きが取れなかった。左にあげは右に瑠那。二人がぴったりと張り付いている。あげはの豊かな胸が丈二の脇腹に押しつぶされる形で密着し瑠那の細い脚が丈二の太腿に絡みついている。


「ごめん……離れらんない……あったかい……」


 瑠那が丈二のフリースの中に潜り込んだ。直接肌に触れようとしている。丈二の横腹に瑠那の冷たい手が触れ、丈二の身体が跳ねた。


「我慢して! 死んじゃうから!」


 あげはも反対側から丈二のフリースの中に手を突っ込んだ。褐色の指が丈二の腹の肉を掴む。柔らかい脂肪の下にある硬い筋肉の層。あげははそれを握りしめるように掴んだまま目を閉じた。


 ◆


 午前二時。


 丈二は眠っていなかった。二人は丈二の両脇で眠っている。瑠那は丈二の右腕にしがみついたまま静かに寝息を立てていた。あげはは丈二の左脇に顔を埋め両腕で丈二の胴を抱え込んでいる。二十一年間彼女のいない丈二にとって女性が二人同時に密着している状況は未知の領域だったが、今はそれよりも二人の呼吸が規則正しいことに安堵していた。


 そのとき瑠那の目が開いた。暗闇の中で蒼白い顔が丈二を見上げている。涙の痕が頬に残っている。


「……ごめんね」


 瑠那が囁いた。


「バカにしてた。デブだって。山なんか登れるわけないって。笑い者にしようとして誘った。装備多すぎとか、ビビりだとか思ってた」


 丈二は黙っていた。知っていた。最初から知っていた。


「でもあんたがいなかったらウチら死んでた。あんたの装備がなかったら。ほんとに、ごめん」


 瑠那の声が震えている。寒さだけではない。丈二はそっと瑠那の頭に手を置いた。巨大な掌が瑠那のプラチナブロンドの頭をすっぽりと包む。


「いいですよ。無事に帰りましょう」


 瑠那の目からまた涙が溢れた。声を殺して泣いている。丈二のフリースの胸元がじんわりと濡れた。


 あげはも起きていた。丈二の左脇で目を開けたままずっと二人のやり取りを聞いていた。褐色の頬を温かい涙が伝う。あげはは何も言わず丈二の胴をきつく抱きしめた。


「あーしも……ごめん。マジで」


 三人は暗闇の中で黙った。吹雪の音だけがツェルトの外を叩いている。


 そしてその沈黙が何かの蓋を外した。


 ◆


 きっかけは体温だった。


 丈二の発する熱がツェルト内を暖め二人の身体から強張りが溶けていくにつれ別の感覚が頭をもたげ始めたのだ。極限状態で感情が剥き出しになった三人が密着している。泣いた直後の高揚感。暗闇。死の恐怖の直後に訪れる圧倒的な生の実感。それらが化学反応を起こした。


 最初に動いたのは瑠那だった。


 丈二の胸元で泣いていた瑠那がふと顔を上げ丈二の顎に唇を押しつけた。丈二が固まった。


 あげはが丈二の首筋に顔を埋めた。褐色の唇が丈二の耳の下に触れた。


 暗闇のツェルトの中で何が起きたか──それを子細に語る必要はないだろう。ただ一つ確かなことがある。死の縁で吊り橋のように震えていた三つの魂は互いの体温を分け合うだけでは足りず、もっと深い場所で繋がることを選んだのだ。


 極寒の奥秩父の夜、薄い布一枚を隔てた向こう側では雪が白く世界を塗り潰していた。しかしツェルトの中だけはまるで別の季節だった。丈二という恒星から放射される熱は、消えかけていた二つの火を煌々と燃え上がらせた。


 やがて嵐が去り、声が途切れ、呼吸だけが残った。

 

 ◆


 明け方。雪は止んでいた。


 丈二は仰向けに横たわっていた。左脇にあげは右脇に瑠那。二人は丈二の腕を枕にして眠っている。乱れた衣服の下で三人の肌が直に触れ合っておりツェルトの中には汗と体温が籠もった甘い残り香が漂っていた。


 丈二はそっと二人を起こさぬように身体を起こしツェルトの外に這い出すと──まさに銀世界。地形図を取り出し地形と太陽の角度から現在位置を割り出す。ここから東に稜線を辿れば登山道に合流できると丈二は判断した。

 

 救難要請はしない。なぜなら、丈二はこれを遭難だとは欠片も考えていないからだ。


「下りられます」


 ツェルトに戻った丈二がそう言うと瑠那とあげはが目を覚ました。二人とも昨夜の自分の行動を自覚しているのか頬が赤い。


 バーナーで湯を沸かし残りのアルファ米を三人で分けた。昨日までの「デブに指図されるのが癪」という態度は跡形もない。


 瑠那の腰はまだ痛んでいたので、丈二は再び彼女を背負った。瑠那を背負いザックを前に抱えそしてあげはのデイパックまで持った。総重量はゆうに八十キロを超えている。それを百七十五キロの人間ボイラーは淡々と運んだ。


 雪の中を三時間歩いていく丈二。のしのし、どしどしと雪を蹴散らして突き進んでいく。吹き付ける凍風も、足元の重い雪も──ただの一度としてこの男の進軍を止める事ができなかった。


 ・

 ・

 ・


 瑠那は丈二の広い背中に頬をつけたまま目を閉じていた。昨夜のことを考えていたのか、帰ったら何を食べようかと考えていたのか、それは瑠那にしか分からない。


 そして午前十一時、登山道に合流。


 正午過ぎ、登山口に到着した。


 駐車場にはパトカーと救急車が停まっていた。嶺踏会のメンバーが捜索届を出していたのだ。瑠那とあげはは軽度の凍傷があったものの命に別状はなかった。丈二に至っては凍傷の兆候すらない。


 体温は三十九度八分。平熱である。


 ◆


 救急車の中で瑠那があげはとアイコンタクトを取った。あの意味のあるやつだ。女子が無言で意思決定をするやつである。


 三日後。大学の学食で丈二が一人で昼飯を食べていると、瑠那とあげはが両側に座った。


「権田原くん」


 瑠那が真面目な顔で言った。


「付き合って」


「は?」


「あーしも」


 あげはが反対側から言った。丈二の箸から唐揚げが落ちた。


「え、えっと……二人、同時に……?」


「もう一回言わせんなし。三人で付き合おうって言ってんの」


 瑠那がぷいと横を向いた。耳が真っ赤だ。


「あんた、あーしらの命助けてくれたし……それに、あの夜……」


 あげはが小声で付け加えた。学食にいた数人の学生が振り向いたがあげはは気にしない。


 丈二は唐揚げを拾った。三秒ルールで口に入れ咀嚼し飲み込んだ。


 その間、あの夜という言葉について吟味する。


 確かにそうだ。


 あのツェルトの中で起きたことは三人の間だけの秘密であり三人の間だけの真実だった。しかし二人同時にというのは──


 そこまで考えた所で、眼前に立つ二人の白黒の肌が圧倒的質感を以て迫ってくる。じり、じりりと二人が距離を縮めてきているのだ。


 丈二の胸にあの夜の体温が甦り、そして。


「……よろしくお願いします」


 二十一年目の冬。権田原丈二、百七十五キロ。彼女が二人できた。


 登山レベルが人間のレベルに直結するこのトンチキな世相において、権田原丈二の登山レベルは既に人類最高峰であったが──そこに恋愛レベルが加算されたことでもはや手のつけようがないハイスペック巨漢が完成してしまった。


 嶺踏会のメンバーは、丈二の両脇に白ギャルと黒ギャルがぶら下がっている光景を目撃しておよそ人生で味わったことのない種類の衝撃を受けたという。


 なお二人はそれぞれ登山靴と防寒着とヘッドランプを購入し、丈二の指導の下で真面目に登山を始めた。


 翌春には二人とも雪山装備を揃え、丈二と三人で北アルプスの稜線を歩くまでになった。もちろんテント泊の夜は毎回三人で過ごしている。丈二のテントは常に室温二十度以上を維持するため他のどのテントよりも快適であり、そして三人の関係もまた誰よりも温かかった。


 過酷な状況を賭けで突破することが登山ではないと丈二は今も信じている。登山とは試練ではなく、人生なのだと彼は思う。人生を人生なりに歩んでいく事は極々自然だ。ゆえに、そこに報酬を求めてはならないとこの男は考えている。どんな高く険しい山を登っても人生は変わらない。()()()()で人生を変えてはならない──それが丈二の信念だ。


 しかし今回の件については少しだけ考えを改めた。あの夜、過酷な状況で得たものは確かに人生を変えた。


 結局のところ山は何が起こるか分からない。


 だからこそ準備をする。次に三人で山に行くときも、丈二のザックは六十五リットルだ。中身は少しだけ増えた。二人分用の予備の手袋と、ちょっと良い紅茶の茶葉と、三人で食べるための非常食が余分に二食分。そして──まあ、手のひらサイズの箱である。その中には個包装された例のあれが入っている。


 そう、丈二という男は準備を怠らない。まあ別に準備なんかしなくたって裸一貫で大抵の山を踏破してしまう怪物なのだが、それでも準備はきちんとする。


 ・

 ・

 ・


 ところで、丈二がなぜこうも慎重になったかにはちゃんと理由がある。


 権田原 猛──丈二の父親は世界的な登山家だった。ヒマラヤの八千メートル峰を四座無酸素で登頂し、冬季のK2北壁に単独で挑んだ男である。日本の登山界にその名前を知らぬ者はおらず、海外の山岳雑誌にも繰り返し特集を組まれた。


 そんな猛だが、丈二が十二歳のとき猛は厳冬期のナンガ・パルバットに挑んだ。ルパール壁──標高差四千六百メートルの世界最大の岩壁。過去に何人もの登山家を呑み込んできた殺戮の壁である。そして猛は敢えて最小限の装備でそこに挑んだ。酸素ボンベは持たず固定ロープも張らず高所ビバーク用のテントすら省いた。嵐の予報が出ていた。誰もが危険だと言った。過酷な登山が褒めたたえられる狂った世相においても、明確な自殺行為は掣肘されるのだ。物事には限度がある。たとえ、この様なマッドな世界に於いても。


 しかし猛は笑って出発し、当たり前の様に死んだ。


 死因は滑落である。まあまあ、スタンダードといえるだろう。


 遺体は翌春の雪解けまで見つからなかった。


 世間は泣いた。テレビが特集を組み新聞が一面で報じた。「命を賭して極限に挑んだ登山家の勇気」「山に愛された男の最期」「不屈の挑戦者、遂にヒマラヤの神に召される」──そんな見出しが躍った。追悼式には千人を超える弔問客が訪れ元首相が弔辞を読んだ。SNSには「カッコよすぎる」「本物の漢」「あの装備で挑むとか人間じゃない」という賛辞が溢れた。今の世相を煮詰めた先に猛の死があり人々はそれを美談として消費した。


 しかし丈二だけが違った。


 十二歳の少年は追悼式で泣かなかった。泣けなかったのではない。泣く気にならなかったのだ。千人の弔問客が涙を流し「お父さんは勇敢だった」と口々に言うのを聞きながら丈二の胸にあったのは悲しみではなく困惑だった。やがてそれは明確な違和感に変わった。


 おかしい、と丈二は思った。


 嵐の予報が出ていた。装備を削る合理的理由もなかった。テントを持っていけば生きて帰れたかもしれない。酸素ボンベがあれば判断力を保てたかもしれない。固定ロープを張っていれば滑落を防げたかもしれない。それは「勇気」ではなく「選択」だ。帰ってこられる可能性を自分で摘み取っておいて死んだ。その行為を「勇敢」と讃えることがどうしても丈二には理解できなかった。


 父を嫌いになったわけではない。むしろ丈二は今でも父を尊敬している。幼い頃に父の背中を見て育った。父に連れられて初めて高尾山に登ったときの興奮を覚えている。父の太い手に引かれながら山道を歩いたときの安心感を。八千メートルの無酸素登頂を成し遂げた父の力は本物であり技術は本物であり山を愛する心も疑いようがなかった。


 だからこそ分からない。なぜ帰ってくる準備をしなかったのか。


 丈二が登山を志したのは父の葬儀から三日後だった。父と同じ山を見たい。父が見た景色に立ちたい。その衝動は十二歳の少年にとって抗いがたいものだった。しかし父と同じ道を歩くつもりはなかった。山は往復するものだ──この信念が丈二の中に芽生えたのはおそらくあの追悼式の日である。千人の賛辞の中でたった一人だけ「おかしい」と思った少年は、父のようになりたいと願いながら父と正反対の登山者に育った。


 体力は父譲りだった。いや、父を凌ぐ。しかし装備に対する考え方は真逆だった。父が削ったものを丈二は全て持っていく。父が省略したプロセスを丈二は全て踏む。父が無視した天気予報を丈二は朝四時に起きて確認する。過剰装備と笑われようが臆病と罵られようが、丈二は一切気にしない。


 六十五リットルのザックに詰め込まれたツェルトも予備の防寒着も非常食三日分も──それは全て、十二歳の少年が父の死から学んだ一つの答えだった。


 山で死ぬのは勇気ではない。山から帰るのが登山だ。


 そう丈二は考え、今も実践している。


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― 新着の感想 ―
軽装で遭難する阿呆達に聞かせてやりたい話だね。
謎の感動を覚えました・・・
ラノベかと思っていたら登山哲学恋愛小説だった。  ……なんだこれ(凄い面白い怪作でした!)    自分も仕事に対する準備を改めてシッカリしようと思いました。  下準備大事。  帰るまでがワンセット。
感想一覧
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