第8話 ノアールへのお礼
家を決めたのは、夕方前だった。
日が傾き始めて、窓から入る光が少し赤くなった頃。
私は居間の真ん中に立ったまま、もう一度だけ息を吐いた。
(……本当に、ここにするんだ)
決めた瞬間に、急に現実味が増す。
ノアールが資料を閉じ、当然のように言った。
「じゃあ契約してくる」
「……今からですか?」
「今からだろ。今日住めるようにする」
私は目を瞬いた。
今日、住める?
そんなこと、できるのか。
「まさか、そんな簡単に……」
「簡単にするんだよ。こういう時こそ権力は使わないとな」
ノアールは、少し悪い顔をした。
淡々としているのに、たまにこういう「貴族」らしい瞬間がある。
でも――ありがたい。
それから契約の話は、早かった。
管理人らしい男が慌てて来て、書類が出て、署名が済む。
何をどうしたのか分からないうちに鍵が渡された。
「……終わりました」
私が呟くと、ノアールが肩をすくめた。
「ああ、終わったようだな」
「……本当に?」
「本当に」
頭が追いつかない。
(これが……私の家の鍵)
胸の奥が、少しだけ震えた。
そして引っ越し作業。
ノアールは引っ越し用に馬車を用意してくれた。
大きめの荷台が付いたもの。
そして騎士団の寮へ戻って、私は自分の部屋を見た。
壁に立てかけた木剣と、手入れ用の布。
タンスの中に入っている服。
……荷物はほとんどそれだけだった。
「……少ないな」
声に出して、ようやく実感する。
自分の荷物が、驚くほど少ない。
(……私は、何を持って生きてきたんだろう)
剣だけだった。命令だけだった。
暮らしも、趣味も、思い出も。
全部、削ってきた。
その削った先にあったのが、処刑台だ。
私は息を吸い、吐いた。
(今度は、いろいろと増やす。増やすために、ここを出るんだ)
自分のために生きると決めたのだから。
布袋に衣類を詰め、木剣と剣帯を持ち、細々したものを一つの箱に入れる。
それで終わった。
馬車の前に立っていたノアールが、私の荷物を見て眉を上げた。
「……それだけか?」
「はい、これだけです」
「馬車、要らないな」
「私も驚いています」
ノアールが笑い、軽く頭を掻いた。
「まあ、身軽なのはいいことだ」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。これから増やせばいい」
彼も同じ言葉を使ってくれて、それが胸の奥に落ちる。
引っ越しが完了したのは、その日の夜だった。
玄関に荷物を置き、居間に入る。
灯りを点けると、薄い光が部屋を照らした。
家具は最低限、最初から付いている物件だった。
小さなテーブルと椅子。棚。
寝室の寝台も、簡素だがある。
でも――質素だ。
(買い足すもの、山ほどあるな)
掃除用具。調理器具。食器。布類。
良い椅子とテーブルも欲しい。
せっかくなら、ちゃんとした暮らしにしたい。
私は居間の真ん中で立ち尽くし、ふっと笑いそうになった。
(まさか一日で、物件探しから引っ越しまで終わるとは)
でも、終わった。
そしてここにいる。
「今日はこれで終わりだな」
「……本当に、ありがとうございました」
言っても、言っても足りない。
ノアールは軽く手を振った。
「問題ない。俺がやりたくてやったことだし、たまには権力を使わないと俺が伯爵家当主だってことを自分で忘れてしまうくらいだ」
また、少し悪い顔。
私はその顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(伯爵家の当主が、ここまで私のために動いてくれた)
そう思うと信じられない。
でも嬉しい。
そして、少し申し訳ない。
言葉だけのお礼じゃ足りないと思った。
(何かお礼を、したいけど)
でも私は、何ができる?
剣を振るうことならできる。
誰かを守ることならできる。
でも今、ノアールに剣でお礼をする場面なんてない。
少なくとも今は。
私は考えて――はっとした。
(食事だ)
私は顔を上げた。
「ノアール」
「ん?」
「ぜひ、お礼に食事をご馳走させてほしいです」
ノアールが瞬きする。
「リュシア、料理できるのか?」
「できません」
「だろうな。調理器具もないし」
私は頷いた。
できないのは事実だ。
でも、私は胸を張った。
「美味しい定食屋を一つ知っています」
「ああ、なるほど。そういうことか」
「はい、案内します」
家から定食屋までは、十数分だった。
店に着いて、扉を開けると、湯気と匂いが迎えた。
「いらっしゃい……って、おや! あんたかい!」
あの女性が、笑って顔を上げた。
娘さんも、すぐに気づいて目を輝かせる。
「リュシアお姉ちゃん!」
「こんばんは」
私が言うと、女性が手を叩いた。
「また来てくれたのかい! 嬉しいねえ!」
娘さんが私の手を掴む。
「今日は一人じゃないの!? この人だれ!?」
娘さんの視線がノアールに刺さる。
ノアールは一瞬、固まったあと、軽く会釈した。
「……ノアールだ」
「ノアールお兄ちゃん!」
娘さんは勝手に決めた。
私は思わず目を瞬く。
(お兄ちゃん……)
ノアールもなんだか複雑そうな顔をしていた。
店内は夕食時を少し過ぎているからか、落ち着いていた。
客は数人。声も静か。
「適当に座っておくれ」
女性に言われ、私は端の席に向かった。
ノアールも当然のようについてきて、向かいに座る。
そして――彼が、店の中を見渡した。
さっきまでの私と同じように。
私は小さく聞いた。
「どうしました?」
ノアールは少し照れたみたいに視線を戻す。
「俺、こういう店来るの初めてだ」
「……そうなんですか」
「貴族街の料理店ならあるが、こういう平民の店はない」
なるほど、と思う。
私は少しだけ笑った。
「さすがは伯爵家ですね」
言うと、ノアールが一瞬だけ顔を曇らせた。
「いや、俺は十歳まで……まあ、なんでもない」
言いかけて、止める。
聞かない方がいい、か。
なんとなく、その空気が分かった。
ノアールが視線を私に戻す。
「リュシアは、なんでこの定食屋を知ったんだ?」
「前に、ひったくりと暴漢を捕まえたでしょう」
「ああ」
「あの時に助けた人が、あの女性です」
「なるほど……ん?」
ノアールの眉が少し上がる。
「じゃあ、前に『いい出会いがあった』って言ってたのは?」
「はい。あの人のことです」
「……へえ」
「素晴らしい定食屋を見つけましたから」
ノアールは数秒黙って――小さく呟いた。
「なるほど、そうか。男じゃないのか……」
「……?」
私は首を傾げた。
「何か言いました?」
「いや、なんでもない」
彼の視線が少し逸れた。
不思議だ。
でも追及しない。
今日は、楽しく食べたい。
そして定食が運ばれてきた。
「はいよ! 今日はこれがおすすめ!」
前に食べたものと少し違う。
焼き魚が煮魚になっている。
小鉢も変わっている。
私は箸を取って、口に運んだ。
(……やっぱり美味しい)
胸の奥がほどける。
身体が温まる。生きている感じがする。
ふと、視線を感じた。
ノアールが、じっと私を見ている。
私は箸を止めてしまう。
「……どうしました?」
ノアールは少しだけ目を細めた。
「いや。本当に美味しそうに食べるな、って思ってな」
言われて、急に気恥ずかしくなる。
「……見ないでください」
「悪かったよ」
そう言いながら、ノアールの口元が少しだけ緩む。
「……可愛いな、おい」
「えっ?」
私は聞き返した。
「何か言いました?」
「……なんでもない」
今度は彼が咳払いをした。
さっきと同様に聞き返してしまったが、彼が喋りたくないのなら追及しない。
私は食事に戻った。
ノアールも、ゆっくり食べ始める。
彼は最初、少しだけ戸惑っていた。
それでも、味噌汁を飲んだ瞬間、目がわずかに開いた。
「……うまいな」
彼の小さな声に、私は少し嬉しくなる。
「でしょう」
「ああ」
それだけの会話が、妙に心地いい。
そして私達は食べ終え、女性と娘さんにお礼を言って店を出た。
「またおいでよ!」
「次はもっといっぱい話してね!」
「はい」
夜道を歩きながら、ノアールが言った。
「美味しい店を紹介してくれてありがとな、リュシア」
「いえ。こちらこそ今日はありがとうございました。少しでもお礼になったのなら、よかったです」
私が言うと、ノアールは少しだけ黙った。
それから、ぽつりと。
「……なあ、リュシア」
「はい」
「そろそろ敬語を外してもいいだろ」
私は足を止めた。
「えっ?」
驚いて、思わず声が裏返りそうになる。
ノアールは私の方を見て、真面目に言った。
「俺は、リュシアと仲良くなっていると思うし」
一拍置く。
「さらに仲良くなりたいと思っている」
胸が少しだけ跳ねた。
(伯爵家当主が、私に?)
普通なら、身分が違うし距離がある。
でも、ノアールは違う。
どこかで会ったような安心感。
理由は分からないけど……。
私は小さく頷いた。
「……わかりました」
口を開き直して、言い直す。
「いえ、わかったわ、ノアール。これからよろしくね」
言った瞬間、ノアールが少しだけ固まった。
そして、耳が赤くなったのが見えた。
「……ああ。よろしく」
短い言葉で、気恥ずかしそうな声。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
(私は、家を手に入れたけど……それだけじゃないみたいだ)
人との距離も、少しだけ変わった。
夜の道を歩く足取りが、ほんの少しだけ軽かった。




