第5話 生活を変えよう
定食屋で食事をした翌日。
騎士団の食堂は、いつも通り騒がしかった。
私は端の席に座り、いつものものを口に運んでいた。
黒パン。薄いスープ。硬い肉。
必要最低限の食事。
腹が満たされるならそれでいい――そう思って、ずっと生きてきた。
だが。
(……昨日のあれを思い出すと)
口に入れた瞬間、じわりと身体の奥が温まった、あの感覚。
今、口に入れたスープは――水みたいに薄かった。
肉は噛み切れず、パンは乾いて喉に引っかかる。
(……質素だな)
実際、質素だ。
騎士団の食事は、戦うための燃料でしかない。
美味いかどうかより、量と栄養。
そういう場所だ。
けれど昨日を知ってしまった。
比べると、今まで自分がどれだけ何も見ていなかったのかが、嫌でも浮き彫りになる。
私は咀嚼しながら、ぼんやり考えた。
思えば、私の生活はずっと無頓着だった。
食事は最低限。
寝るところは寮の一人部屋。
机と椅子とベッドとタンス。
それだけで十分だと思っていた。
服も、騎士団の制服と動きやすい服が二着ほど。
それ以上いらない、と。
(……本当に、最低限しかないな)
それで困らなかった。
剣を振って、命令を聞いて、眠って起きて、また振る。
生活なんて、考える余地がなかった。
でも、私は決めたはずだ。
自分のために生きる、と。
それなら……。
(変えるなら、まず衣食住だ)
まずは住む場所。
寮に住んでいたら、食事はずっとこの食堂だ。
ここでは最低限しか出ない。
自分で選んで食べるという発想すら、浮かびにくい。
第一や第二騎士団の食堂なら、もっと良いものが出るのだろうが。
そう聞いたことはある。
――騎士団には、第一、第二、第三がある。
第一騎士団が一番上。
貴族がほとんどで、名家の子息が当たり前にいる。
そこに入るだけで「選ばれた」扱いだ。
第二騎士団は、その次。
才覚のある者、叩き上げの者、家柄はなくても実力で上がった者が混じる。
けれど、やはり貴族が多い。
平民で第二騎士団に上がるのは、珍しい。
第三騎士団が普通。
兵のように働く者が多く、平民はほとんどそこにいる。
私は今、第二騎士団に所属している。
実力があるから上がった。
上がったはずなのに――最初は舐められた。
『女のくせに』
『平民のくせに』
そう言われるのは当たり前だった。
けれど、もう格付けは済んでいる。
私に仕掛けて勝てる者がほとんどいないことを、彼らは身をもって知っている。
だから今は、遠巻きに見てくるだけ。
それでも、仲のいい者はほとんどいない。
第二の食堂にも、制度としては行ける。
けれど行かない。居心地が悪すぎるからだ。
(……回帰前も同じだった)
回帰前、私は第一騎士団にいた。
王太子の近衛騎士。
立場としては、偉い部類だったのだろう。
でも、私は第一の食堂にも行っていない。
行く必要がないと思った。
人と食べる意味がないと思った。
剣だけ。命令だけ。
それ以外は、どうでもいい。
――その結果が、処刑台だった。
(……寮を出るか)
街に住めば、あの定食屋にも行きやすいだろう。
他にもあれほど美味しいお店があるのかも気になる。
幸い、金はある。
貯めていた……いや、ただ使わなかっただけか。
回帰前は、ほとんどを寄付していた。
いや、寄付してもらっていた、という方が正しいかもしれない。
第一王子のアーヴィン様に、給金をもらう前に言ったのだ。
『私は高い給金はいらないので、その分孤児院に回していただけると幸いです』
『……わかった、お前が言うならそうしよう』
自分の金を、自分のために使うという発想がなかった。
今は、まだ寄付していない。
いずれするだろう。
もともと孤児院暮らしだったから、孤児院には特に寄付したい。
でも――今は。
(まずは自分だ)
自分の生活を整える。
それが、回帰した私の最初の仕事だ。
そう考えたところで、ひとつ問題が浮かんだ。
(……住居って、どうやって借りるんだ?)
探し方も知らない。
どこに行けばいいのかも分からない。
契約? 保証人? 金はどう払う?
騎士団の寮にいる限り、そういうことを考える必要がなかった。
私はスープを飲み干し、皿をまとめた。
私は食器などを片付け、食堂を出た。
私は歩きながら、頭の中で住居のことを反芻した。
(住む場所を変える……でも方法が分からない)
考えても、答えが出ない。
その時、前から足音が近づいてきた。
淡い魔力の気配をまとった男。
ノアール・レイモンド。
私がこの世界で数少ない「普通に話せる」相手。
彼は私を見つけると、足を止めた。
いつもの淡々とした顔だが、目が少しだけ探るように細まっている。
「リュシア」
「ノアール……」
「昨日、ひったくりと暴漢を捕まえたんだってな」
噂は早い。
騎士団の中だけで終わると思っていたが、宮廷魔術師の耳にも入ったのか。
「休みの日だったのに、大変だったな」
労うような声。
私は一瞬だけ、言葉を探した。
回帰前なら、こういう言葉に「問題ありません」と返して終わりだった。
けれど昨日。
あの定食屋で、笑っていた。
困るくらい美味しい、と言って、笑われて、私も口元が緩んだ。
それを思い出したら、自然に表情が変わった。
「いえ……むしろ、あれがあったから、いい出会いがありました」
自分の声が、少し柔らかい。
そして、私はほんの少しだけ笑った。
ノアールが、ぴたりと止まった。
足も、瞬きも、わずかに遅れる。
「……やっぱりなんか変わったな、リュシア」
困惑と、警戒と、確かめるような気配。
私は肩をすくめたくなった。
(変わったのは事実だ)
死んだのだから。
変わらない方がおかしい。
でも説明できない。
そして、ふと思った。
(そうだ)
今の問題は、剣では解けない。
生活の問題、私が知らない世界の手続き。
それを知っていそうな相手が、目の前にいる。
私は、少しだけ躊躇った。
こんなことを人に頼むのは初めてだ。
頼む、という行為自体が、私にとって馴染みがない。
けれど、決めた。
自分のために生きると。
「ノアール」
「ん、なんだ」
「住居の借り方を教えてほしいんです」
言った瞬間、ノアールが目を丸くした。
「……はっ?」
間の抜けた声。
彼からそんな音が出るのは珍しい。
私は少しだけ申し訳なくなった。
いきなりすぎた。
「驚かせてすみません。……寮を出て、街に家を借りたいと思って」
自分で言いながら、胸の奥が少しだけざわつく。
怖いのかもしれない。
知らないことに足を踏み入れるのは、怖い。
「でも、借り方が分からなくて。どう探すのかも、契約も……」
ノアールは私をじっと見たまま、数拍黙った。
そして、息を吐く。
「なるほど。確かに、寮を出た方が人間らしい生活ができるだろうが……」
ノアールの視線が、少しだけ柔らかくなる。
「本当に変わったんだな」
どうやらまだ疑われていたようだが、確信を持ってそう言われた。
ノアールは肩を軽くすくめた。
「わかった。協力するよ」
「……ありがとうございます」
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
頼っていいのだと、どこかで許された気がした。
ノアールは、少し考えるように目線を上げる。
「次の休みはいつだ?」
私はすぐ答えようとして、少しだけ止まった。
(休み、か)
回帰前は、休みという概念がなかった。
あったとしても、使う理由がなかった。
でも、制度としては知っている。
「有休があるので……たぶん、いつでも休めるはずです」
言ってから、自分で可笑しくなる。
いつでも休める、なんて。
今までの私なら、口が裂けても言わない。
ノアールが眉を上げた。
「まさか君が有休を使うなんて……今まで使ったことないだろう?」。
確かに、一度も使っていない。
回帰前も使っていなかった。
(……そうだな)
使う意味がないと思っていた。
休むくらいなら剣を振るう。
そうやって削って、削って、最後に捨てられた。
私は小さく息を吐いた。
「ありませんね。たぶん、一度も」
「たぶんじゃないだろ」
ノアールが軽く突っ込む。
その調子が、妙に普通で、少しだけ救われる。
「わかった。じゃあ……三日後で頼む。俺も都合をつける」
三日後か、思ったより早い。
でも、早い方がいいだろう。
決めたことを、先延ばしにしたくない。
「はい。三日後、休みを取ります」
ノアールは頷いた。
それから一瞬だけ、言いたそうな顔をする。
けれど結局、何も言わずに踵を返した。
「じゃあ、また」
「はい」
ノアールの背中が遠ざかる。
私はその後ろ姿を見送り――廊下を歩き出した。
胸の奥が、少しだけ落ち着いている。
(……住む場所を変える)
小さなことのはずなのに、私は今、とても大きな一歩を踏み出した気がした。
「どんなことがあって心変わりしたのか。いい出会いがあったと聞いたが、男か? いや、リュシアに限ってそんなことは……くそ、聞けばよかった」




