第24話 ダンスと異変
ノアールの手は、温かかった。
それだけで、私は少しだけ呼吸が楽になる。
けれど今、私の目の前にいるのはノアールだ。
言葉の裏を読まなくていい男。
変に気を遣わなくていい友達。
音楽が流れ、私たちは輪の中心へ入っていく。
足元の床は磨かれ、滑らかで――剣の稽古場よりよほど怖い。
(転んだらどうしようか)
ノアールが小さく笑った。
「そんなに硬くなるな。俺が失敗させるみたいじゃないか」
「失敗させるつもりなのか?」
「そんなわけないだろう。いい思い出にするさ」
さらっと言われた言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
私は足を出す。一歩、二歩。
ノアールが合わせる。
合わせてくれる――というより、こちらの重心を読むのが上手い。
その導き方が、妙に心地いい。
(……やりやすい)
驚くほど、やりやすい。
ルイーゼと練習した時も踊りやすかったが、ノアールはまた別の意味でやりやすい。
体格の差もあるのに、無理がない。
彼の手が、私の動きを邪魔しない。
ノアールが、ふと眉を上げた。
「……本当に初めてか?」
「初めてだ」
即答したら、ノアールが苦笑する。
「嘘だろ」
「嘘ではない」
私は真面目に言った。
「ルイーゼ様とは何度か練習したが、社交界で踊るのは初めてだ」
ノアールの足が、ほんの少しだけ止まりかけた。
すぐに戻る。
戻ったが、その一瞬で分かった。
(変なところで引っかかったな)
なぜだろうか。
ノアールは、少しだけ視線を逸らしてから言った。
「……そうか。ファーストダンスが俺か」
私は首を傾げた。
「まあ、練習を入れなければ」
ノアールが、ため息を吐いた。
「そういうのは入れないんだよ……」
「そうなのか?」
「そうなんだ」
ノアールは小さく笑って、ぼそりと続ける。
「……あとでお礼をしないとな」
「お礼?」
私はすぐ聞き返した。
「誰に?」
ノアールは一瞬、口を開けて――すぐ閉じた。
そして、いつも通りの顔で言う。
「なんでもない」
「……そうか」
(よくわからない)
でも、追及しない。
追及すると藪蛇になる予感がした。
曲は、私たちを最後まで運んだ。
回転して、止まって、礼。
身体が自然に動く。
(……本当に、型だな)
剣と同じだ。型が分かれば、あとは呼吸だ。
音が終わった瞬間、周囲の拍手が少しだけ耳に入った。
貴族の拍手は音が軽い。指先だけで叩く。
それでも、空気が少し和らいだのが分かる。
ノアールが、私にだけ聞こえる声で言った。
「……今日のドレス姿も、綺麗だな」
心臓が一瞬、跳ねた。
跳ねて、落ち着こうとして、落ち着けない。
(また言うのか)
私は咳払いをした。
して、短く返そうとしたのに。
言葉が少し柔らかくなってしまった。
「……ありがとう」
それだけでは足りない気がして、私は続ける。
「ノアールも、その格好はカッコいいよ」
言った瞬間、ノアールの耳が赤くなる。
わかりやすい。
彼は目を泳がせて、照れくさそうに笑った。
「そう、か。ありがとな」
(……今のはなんか、反応が可愛かったな)
男性に対してそう思うのはおかしいかもしれないが。
胸の奥が少しだけ軽い。
私はそのまま、ルイーゼの方へ戻った。
彼女は会場の端で待っていた――目がきらきらしている。
「お姉様!」
ルイーゼが駆け寄ってくる。
ドレスの裾を踏まないように、ぎりぎりの速度で。
「今度は、私ともぜひ踊ってください」
「こちらこそ」
私はそれを受けるようにお辞儀をした。
練習通りに、今回は私が男性パートを踊るから導くように。
「……練習通りだな」
「はい、練習通りです! お姉様は裏切りません!」
(裏切る裏切らないの話だったか?)
分からないが、嬉しそうだからいい。
私たちは輪の中へ入った。
今度はルイーゼの手。
彼女の指先は、ノアールよりも柔らかい。
踊りは、やはり踊りやすい。
ルイーゼは上手い。
練習の時も思ったが、彼女はちゃんと相手に合わせる。
社交界の中心にいる令嬢は、皆こうなのだろうか。
そう思って、すぐ否定した。
(……いや、違うな)
ルイーゼはルイーゼだ。
勢いがある。押しが強い。感情が忙しい。
でも、踊りは丁寧だ。
曲が終わる頃には、ルイーゼの頬が少し赤くなっていた。
息が上がっているわけではない。
たぶん、楽しいのだ。
礼をして、私はルイーゼに言った。
「ルイーゼ様」
「はい!」
「こんなところに連れてきてくださって、ありがとうございます」
ルイーゼの目が丸くなる。
すぐに、嬉しそうに細くなる。
私は続けた。
「私は、いろいろともらってばかりです。だから……」
言いながら、言葉を選ぶ。貴族の礼儀は分からない。
でも、気持ちは伝えたい。
「いつか、きちんとお礼をさせてほしい」
ルイーゼは、ふわっと笑った。
いつもの社交界の笑顔ではなく、家で見る笑顔。
「その言葉だけで十分ですよ」
「……そうなのですか」
「そうです」
断言されると、引っ込むしかない。
ルイーゼは少しだけ声を落とした。
「それに……私がいなくても、お姉様は社交界に参加できたと思います」
「……どういう意味ですか?」
私は眉を寄せた。
それは、今日の話ではない気がする。
今後の話の気がする。
聞き返そうとしたが――曲が終わった。
拍手が起き、次の波が来る。
そして、その波は私に向かってきた。
「リュシア様! ぜひ私ともダンスを!」
「いえ、私も……!」
「次は私が……!」
三人。さっき私を囲んでいた令嬢たちだ。
目が潤んでいる。頬が赤い。
(……何が起きているのか)
私は一歩引いた。
引いたが、彼女たちが詰める。
ルイーゼが横で、口元を押さえて小さく震えている。
笑っているのか、耐えているのか分からない。
ノアールが少し後ろで、微妙な顔をしている。
「えっと……」
私は困った。
困っている間に――会場の空気が変わった。
入口の扉が、乱暴な音を立てて開く。
楽団の音が一瞬、途切れる。
ざわめきが、波のように広がった。
騎士のような者が一人、息を切らして駆け込んできた。
彼は叫んだ。
「緊急伝令! 王都の城壁周りで魔物が大量出現! 至急、避難を!」
瞬間、会場が凍った。
次の瞬間、爆発した。
「魔物!? 王都の周りに!?」
「そんな馬鹿な、騎士たちは何をしている!」
「子どもは!? 家族は!?」
「城壁は大丈夫なのか!?」
叫び声。悲鳴。怒号。
令嬢たちの群れが崩れ、男たちが動き出し、使用人が走る。
警備に当たっていた騎士たちが避難誘導を始めるが――混乱が勝っている。
私は反射で、背筋が伸びた。
(……行かなければ)
私は今日、休日だ。今は社交界の参加者だ。
でも、そんなの関係ない。
王都の周りに魔物が出るなんて、初めてだ。
初めての事態は、最悪になりやすい。
だが、私の視線が落ちた。
自分のドレス。白と青の刺繍。
軽くて動きやすい。動きやすいが――騎士服ではない。
(この格好で行っていいのか。邪魔にならないか)
迷いが、ほんの一拍だけ遅れを作る。
その一拍を、ノアールの声が切った。
「リュシア。行くか?」
私は振り返った。
ノアールももう、社交界の参加者の顔ではない。
宮廷魔術師の顔、戦う側の目だ。
「ああ、行きたい」
私は即答した。
そして、正直に聞いた。
「だが、この格好で現場に行っていいのか?」
ノアールは肩をすくめた。
「緊急事態だ。格好なんてどうでもいいだろ。普段着で来るやつもいる」
「そうか」
確かにそうだ。
市民が避難しているのに、こちらだけ体裁を気にしている場合ではない。
私は頷くと、ノアールの視線が私の裾に落ちた。
「だが、その格好で戦えるか?」
「問題ない」
私は即答した。
「あとで裾を破けば――」
言って、止まった。
(……あっ)
これも、ルイーゼが用意してくれたものだ。
お姉様のために、特別に用意してくれた。
破くのは――さすがに。
私はルイーゼの方を見た。
彼女は、すべてを察している顔をしていた。
怖いくらいに早い。
ルイーゼは微笑んで言った。
「もちろん、破いても切っても大丈夫です。緊急事態ですし」
「……ありがとうございます、ルイーゼ様」
私は短く礼をした。
「このお礼は、また今度」
ルイーゼは少しだけ口元を緩めた。
「ええ。今日は踊っていただいて、大変嬉しかったです」
そして、顔を上げる。
社交界の令嬢の顔で、でも、芯のある声で言った。
「ノアール様。お姉様。ご武運を」
私は頷いた。ノアールも頷く。
その瞬間、さっきまでの煌びやかな空気が、遠くなる。
私とノアールは会場を出た。
夜気が頬を打つ。馬車の列が乱れ、護衛が走り、遠くで鐘の音が鳴り始めていた。
私はドレスの裾を一度だけ握りしめてから、走り出した。
王都の城壁外に、魔物の群れへに早く到達しなければ
戦うため、守るため、生きるために。




