第20話 妬みに黙り込む必要はない
――ルイーゼ嬢のお礼は、もう十分にいただいた。
そう言い切りたい。
だが、現実はそうではない。
というか、全く言えない。
(お礼って、何だ……?)
そもそも、あの日別れた時点で、私はドレスを返すのを忘れていた。
頭の中が料理の余韻でいっぱいで、帰宅したあとに服を脱ごうとして――そこで初めて気づいた。
翌日、私は返しに行こうとした。
だが、貴族の屋敷に騎士が一人で行くというのは、思った以上に敷居が高い。
門で止められて、説明して、取り次いでもらって。
その間、変な誤解を招きそうだ。
だから機会を待った。
会えないなら、手紙で――とも考えたが、そういう作法も私は知らない。
そして、悩んでいる間に――ルイーゼ嬢のほうが先に来た。
翌日の朝。
いつも通り起きて、パンを温めていたところで、玄関がノックされた。
(……まさか)
扉を開けたら、まさかだった。
「おはようございます、お姉様!」
金髪が揺れた。
朝日みたいに明るい笑顔が目に刺さった。
「……おはようございます」
私は反射で返したが、頭の中は混乱していた。
どうしてここに? という疑問が、口より先に湧く。
ルイーゼ嬢は当たり前のように玄関へ足を踏み入れ、きょろきょろと室内を見回して――深呼吸をした。
「はぁ……お姉様のお家の香り……」
「それはパンです」
「生活の香りですわね!」
昨日も聞いた気がする。
聞いた気がするが、今日も訂正は無駄だった。
(あ、そうだ、ドレスだ)
私は慌てて部屋の奥へ行き、吊るしていたドレスを丁寧に畳み、戻ってきた。
「ルイーゼ嬢。これ、返します。昨日は忘れていて……」
渡そうとした瞬間、ルイーゼ嬢は両手を胸の前で組み、きっぱりと言った。
「それはお姉様専用で買ったので、返却は不要です」
「……はい?」
私専用? このドレスが?
「いや、でも……これは、貴族の服でしょう。私が持っていても……」
「持っていてください」
「……なぜ」
ルイーゼ嬢は、少しも迷わず言った。
「お姉様のために買ったからです」
(……意味がわからない)
私は咳払いをして話題を変えた。
「それで……今日は、何の用で?」
そう問うと、ルイーゼ嬢は少しだけ頬を染めて、あっさり言った。
「私がお姉様に会いたかっただけです」
私は言葉を失った。
(……どうしようもないな)
お礼だの返却だの、こちらが考えていた理屈が全部消し飛ぶ。
会いたかった、で来るのは――貴族の令嬢に許される行動なのか?
いや、許されるかどうかというより、彼女はやる。
そして、その日以降。
約二週間が経ったが、私はルイーゼ嬢に振り回される生活になった。
数日に一回は、彼女が家に来る。
来るときは必ず手土産がある。焼き菓子、果実の砂糖漬け、香りの良い茶葉。
逆に招かれることも増えた。
招かれると、紅茶と茶菓子が当然のように用意されている。
「もうお礼は良いです」
そう言うたびに、ルイーゼ嬢は笑って返す。
「お邪魔する時は手土産。お招きする時はおもてなし。礼ではなく、作法ですわ」
(貴族ってそういうものなのか……?)
わからなくなってきて、私はノアールに聞いたことがある。
「貴族って、そんなに頻繁に家に行ったり招いたりするのか?」
ノアールは一拍置いて、呆れたように言った。
「そんなわけがないだろ」
「……違うのか」
「違う。普通は距離を取る」
ノアールは少しだけ視線を逸らして、さらっと言った。
「まあ、どう見ても気に入られたんだろう」
「……気に入られた」
言われて、私は胃のあたりがむずむずした。
嫌ではない。嫌ではないが、戸惑いが勝つ。
「まあ、女性の友人ができたってことで、喜ぶべきじゃないか?」
そう言われて、私は返事に詰まった。
友人。友人、なのか。
いや、彼女はお姉様と呼ぶが。
(……友人って、こんなに来るのか?)
結論は出ないまま、今日。
朝、私は目を開けた。
そして――視界の端で金色が揺れた。
「お姉様、おはようございます!」
私は一瞬、状況を理解できなかった。
理解できなかったが、身体は勝手に起き上がる。
「……おはようございます」
ダリナさんが入れたのだろう。
メイドのダリナさんは、ルイーゼ嬢の来訪にもう慣れた。
最初は驚いていた。
当たり前だ。侯爵令嬢が急に家に来るのだから。
だがダリナさんは強い。
数回で「そうなのですね」と受け入れた。
今日はダリナさんが朝食を用意してくれていた。
湯気の立つスープ、焼きたてのパン、卵料理。
いつも通り丁寧で、豪華だ。
ルイーゼ嬢が、うっとりした顔で言う。
「ダリナさんの朝食、今日も素晴らしいですわ」
「ありがとうございます、ルイーゼ様」
ダリナさんは微笑んで礼をする。
自然だ。貴族相手の応対が、すでに自然だ。
伯爵家のメイドだから、当然かもしれないが。
私は黙々と食べた。
美味しい。美味しいが――視線が落ち着かない。
向かいでルイーゼ嬢が、私が食べる様子を幸せそうに見ているからだ。
(……じっくり観察されている気がする)
食後、私は身支度を始めた。
騎士服に着替え、今日はダリナさんに髪を整えてもらう。
「リュシア様。もともと綺麗でしたが、さらに綺麗さに磨きがかかってきましたね」
「……そうですか?」
「はい」
淡々と肯定されると、否定しづらい。
ルイーゼ嬢が食いついた。
「ですよね! さすがダリナさん、違いが分かってくれますか!?」
「ええ。髪の艶も、肌の整いも」
そう言われる理由は、なんとなくわかる。
ルイーゼ嬢が、貴族御用達の美容品などを私に与えるからだ。
それを肌や髪に使っていて、綺麗になっているのだろう。
(……まあ、害はない)
ダリナさんが私の髪に整髪料を使って整えてくれる。
香りがする。甘すぎない、清潔な香り。
身支度を終え、玄関へ向かう。
ルイーゼ嬢が、騎士服姿の私を見て目を輝かせた。
「騎士服も、いつ見ても素敵です!」
「……ありがとうございます」
素敵と言われても、返し方がわからない。
だが悪い気はしない。ただ少しだけ、落ち着かない。
ダリナさんとルイーゼ嬢に見送られ、私は家を出た。
騎士団本部に着き、挨拶をして、鍛錬場へ出る。
――視線が刺さった。すれ違う者が振り向く。
(理由はまあ、匂いだろうな)
そして、髪の艶。肌の整い。
自分では分からないが、周りはわかるらしい。
鍛錬を始める。
剣を振り、足を動かし、汗をかく。
いつも通りだ。いつも通り、手は鈍っていない。
だが、近くで声がした。
小声で、陰でコソコソ言う声。
「色気づきやがって」
「侯爵令嬢に好かれたみたいだな」
「そのうち騎士を辞めるんじゃないか?」
「はっ、軟弱になったな」
(……またか)
最近、増えた。
ルイーゼ嬢と関わるようになってから、妬みの声が多くなった。
回帰前も、陰口はあった。
その時は、私は耐えていた。
騎士とは耐えるものだと思っていたから。
アーヴィンに言っても「放っておけ」と言われたから。
もし回帰前だったら、おそらくルイーゼ嬢の美容品も断っていただろう。
仕事に支障が出る、と。
余計な匂いは付けない、と。
そうやって、自分を削って、波風を立てないようにした。
だが今は違う。
(私は自由だから)
女性の友人が、自分のために持ってきてくれたものを。
他者の難癖で捨てる理由はない。
私は剣を納め、汗を拭いて――声の方向へ歩いた。
陰口を言っていたのは、三人。
若い騎士。鍛錬はしているが、いつも群れている。
私が近づいた瞬間、三人の動きが止まった。
空気が変わる。彼らは私の強さを知っている。
知っているから、目が泳ぐ。
私は落ち着いた声で言う。
「私に何か言いたいことが?」
三人は黙った。黙ったが、引くに引けない顔をしている。
そのうちの一人が、苦し紛れに言った。
「……最近、色気づいて。騎士として本分がなってないんじゃないか」
私は首を傾げた。
「私が鍛錬を怠ったことは?」
「……」
「巡回を怠ったことは?」
「……」
返事はない。あるのは、苦い沈黙だけ。
私は視線を一人に向ける。
さっき「軟弱になった」と言った声の持ち主。
彼は、わずかに肩を引いた。
「私が軟弱になったと言っていたのは、あなたでしたね」
指名すると、周囲の空気がさらに冷える。
彼の顔が引きつった。
「ち、違……」
私は続けた。
「ここで弱くなったか、あなたと戦って証明しますか?」
その場の騎士たちが、気配で集まり始めた。
視線が集まる。鍛錬場の空気が、少しざわつく。
指名された騎士は、口を開けたまま固まった。
そして、目を逸らし、絞り出すように言った。
「け、結構だ……です」
私は小さく頷いた。
「そうですか」
格付けは済んでいる。戦う必要はない。
私は三人に向けて、騎士として礼をした。
「では、私はこれで」
背を向ける。背中に視線が刺さる。
だが、もう気にしない。
(我慢しない、と決めた)
回帰した今は。
私は、自分の暮らしを守る。
香りがする髪も。磨かれたと言われる肌も。
誰かの妬みで、手放すものではない。
剣を取り、私はまた鍛錬に戻った。
いつも通りの動きで。
けれど胸の奥だけは、いつもより少しだけ軽かった。




