第2話 第一王子の剣にはならない
「……私は、まだ死んでいない」
私は鏡から目を逸らし、ゆっくり息を吐いた。
まずは、いつも通りに動くしかない。
変に目立てば、余計なものを呼ぶ。
私は粗い寝台から降り、訓練着に着替えた。
寮を出ると、朝の空気が冷たかった。
騎士団の敷地はいつも通り。
訓練場へ向かう足音、誰かの笑い声、鉄の擦れる音。
世界は何も変わっていない顔をしている。
――私だけが、変わってしまった。
訓練場へ入る。
武器を打ち合わせる乾いた音があちこちで鳴っている。
私はいつもの端へ向かった。
目立たない場所。
壁際に近い、少し影になるところ。
(ここなら、余計なものは来ない)
剣を握ると、重さが掌に馴染む。
この感触は、裏切らない。
私は一歩踏み込み、素振りを始めた。
踏み込み、振り下ろし、返し。
身体が覚えている。
五年分どころじゃない。
死ぬまで振ってきた。
剣だけが、私の人生だった。
けれど――。
(これからは、剣だけじゃない)
そう思った瞬間、ほんの少しだけ胸が軽くなった。
不思議だった。
私はこんなことを考える人間だったのか。
ふと、視線を感じる。
遠目で、男たちがこちらを見ている。
何人も、けれど近づいては来ない。
仕掛けても来ない。
……そうか、終わっているのだ。
格付けが。
私は回帰したのは「騎士団に入った直後」ではない。
すでに、ここで勝ってきた後。
女だ、平民だ、と囀られながらも、黙らせてきた後。
だから彼らは、遠巻きに見るだけ。
(……まあ助かるな)
絡まれるのは面倒だから。
その時だった。
訓練場の空気が、変わった。
さざめきが一斉に引く。
誰かが息を呑む。
地面を踏む足音が、近づいてくる。
私は剣を止めなかった。
止めたら、気づいてしまいそうだったから。
「第一王子殿下がお見えだ」
誰かの声。
男たちが一斉に動き、道が開く。
そして、金髪の青年が現れた。
アーヴィン・レグナード。
――あいつだ。
心臓が跳ねると思った。
怒りが湧くと思った。
復讐の炎が、燃えると思った。
……何も湧かなかった。
ただ、冷たく思った。
(関係ない。関わりたくない)
それだけ。
私は剣を納め、訓練場の端で膝をついた。
形式だ。
ここで逆らって目立つ意味がない。
だが、足音は止まらない。
私の前へ来る、真っ直ぐに。
そして私の目の前で、足が止まった。
「この者か。噂の女性騎士は」
上から落ちてくる声。
よく知っている声。
五年、彼の背後で聞き続けた声。
牢で、私を捨てた声。
「面を上げよ」
言われて、私は顔を上げた。
視界に金髪が入る。
整った顔で柔らかな笑み、王子の仮面だ。
(……相変わらずだな)
その顔を見ても、胸は熱くならない。
こんなに無関心でいられるなんて、自分で自分が怖いくらいだ。
私って、こうも冷たい人間だったか。
アーヴィンは、私をじっと見た。
値踏みの視線。
昔はそれが嬉しかった。
見つけてもらえた、と思った。
――それは、嘘だ。
あれは、拾われたんじゃない。
使える道具を見つけただけだ。
「お前、名は?」
「……リュシア・エルフェルトであります」
声は平静でいられた。。
敬語も、姿勢も崩れない。
「女で平民。だが剣が強い。……噂は本当らしいな」
「恐れ入ります」
アーヴィンは口元だけで笑った。
「私の剣になれ」
来た。回帰前と同じ言葉。
私は、息を吸って、吐いた。
「申し訳ございません。お断りいたします」
一瞬、周囲がざわついた。
周りの男たちの顔が引きつる。
当然だ。
王子の誘いを断る者など、ここにはいない。
アーヴィンの眉が、わずかに動いた。
「断る?」
「はい。身に余ります」
「女性だからと遠慮しているのか?」
声は穏やかなのに、圧がある。
昔はその圧すら、守られているように錯覚した。
「私は優秀なら問題ないと思っている」
……嘘だ。
私はもう知っている。
優秀だから、ではない。
駒として使えるから、だ。
そして、従わない女は要らない。
私は膝をついたまま、視線を落とした。
最後まで礼を崩さない。
「恐れながら。私は騎士団の一兵で十分でございます。殿下に仕える器ではありません」
沈黙が落ち、周囲の息が止まる。
その中で、アーヴィンに付き従う男が一歩前に出た。
「第一王子殿下の誘いを断るなど、なんて無礼か!」
怒声を上げるが、私は顔を上げない。
言い返す必要がない。
アーヴィンは、その男を片手で制した。
「よい」
短い一言で、場が凍る。
そしてアーヴィンは、私を見下ろしたまま言った。
「……ふん。つまらん」
その声に、苛立ちが混じったのが分かった。
仮面が少しだけ剥がれる瞬間。
「出世欲もない奴に用はない」
そのまま踵を返す。
金髪が揺れ、護衛が続く。
周囲の騎士たちは一斉に頭を下げた。
私も、膝をついたまま頭を垂れた。
足音が遠ざかり、空気が少しずつ戻る。
……行った。
(興味を失った、か)
よかった。
私は安堵して、息を吐いた。
本当に、心の底から。
確かに私は出世欲がない。
回帰前も、今も。
私はただ剣を振り、命令に従い、役に立つことで価値を示す――それだけだった。
でも今は違う。
人のためじゃなく、王族のためじゃなく。
自分のために、生きたい。
私は剣を握り直し、また素振りを始めた。
今度は、少しだけ呼吸が楽だった。
――その日の鍛錬が終わり、私は寮へ戻ろうと訓練場を出た。
汗が冷えて、肌着が肌に張りつく。
「リュシア」
後ろから、落ち着いた声がした。
私は足を止めて振り返る。
そこに立っていたのは、細身の男だった。
黒に近い濃紺の髪、灰色の目。
騎士ではない。
ノアール・レイモンド、宮廷魔術師だ。
「ノアール……様」
「様はいらない。ここは堅苦しい場所じゃないだろう」
淡々とした口調。
彼は平民の私にも分け隔てなく会話をしてくれる数少ない人だ。
「第一王子に声をかけられたんだって?」
噂は早い。
騎士団の中だけでなく、宮廷の耳にも届く。
「はい。ですが、お断りしました」
「……断った?」
ノアールが珍しく目を見開いた。
驚いた顔。
回帰前に何度か見たが、いつもより分かりやすい反応だ。
「君なら、そういう話は受けるものかと思っていた」
私は、少しだけ視線を逸らした。
確かに回帰前の私は、受けた。
受けて、忠誠を誓って、剣になって、最後に捨てられた。
――あの日、ノアールは言ったのだ。
『アーヴィン様は、君を守らないよ』
今さら思い出して、胸がきゅっと縮む。
あの時の忠告を聞いていたら。
でも、もう今さらだ。
私は一度死んだ。
その現実は、変えられない。
だからこそ、今がある。
「私は変わりました」
口から出た言葉は、思ったよりも自然だった。
「今は、自分がどうしたいか考えたい気分なのです」
ノアールは一拍置いてから、ふっと息を吐いた。
「……そ、そうか」
どこか安堵したように、少しだけ肩の力が抜ける。
「まあ、いいことだな」
私は、その言葉に少し驚いた。
反対されると思っていたから。
王族に仕えることは、名誉だ。
その名誉を蹴る私を、愚かだと言う者は多い。
さっきもアーヴィン様の誘いを断った直後、周りの声や視線がそう言っていた。
でもノアールは、愚かだとは言わなかった。
私は小さく言った。
「私を心配してくれたのでしょう? ……ありがとうございます」
思えば、回帰前で私のことを純粋に心配してくれていたのは、彼くらいだっただろう。
ノアールの眉がわずかに動く。
「本当に大丈夫か? リュシアじゃないみたいだ」
その言葉に、私は思わずクスッと笑ってしまった。
笑うつもりなんてなかったのに。
「そうね。そうかもしれないわ」
自分の声が、少し柔らかい。
それが可笑しかった。
私の中に、こんな余裕が残っていたなんて。
「……いったい何があったんだ?」
ノアールは呟くように言った。
答えられるわけがない。
処刑されて、回帰した、なんて。
信じてもらえるはずがない。
私は首を横に振る。
「秘密です」
「……そうか」
ノアールはそれ以上踏み込まなかった。
その距離感が、ありがたい。
「じゃあ、気をつけて戻れ。王子の誘いを断ったんだ。変な噂が立つかもしれない」
「はい」
私が踵を返すと、背中に視線が残った。
振り返らなくても分かる。
ノアールはまだ私を見ている。
「……」
私は一瞬だけ振り返った。
ノアールと目が合う。
彼は、ほんの少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。
……不思議な人だ。
回帰前も、こういうところがあった気がする。
私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じて、今度こそ歩き出した。




