第15話 侯爵令嬢の訪問
誘拐未遂事件から、数日が経った。
私は変わらぬ日々を送っていた。
騎士団へ行き、鍛錬をし、巡回をし、帰って寝る。
ただ、それだけの生活――のはずなのに。
(家があるって、やっぱり違う)
引っ越した一軒家にも、ようやく慣れてきた。
慣れてくると、この家の音が分かるようになった。
朝の鳥の声、風が窓を撫でる音、階段が軋む癖。
自分の生活が、少しずつ「家」に馴染んでいく。
今日は休日だった。
メイドのダリナさんが来ない日だ。
彼女が来る日は、台所から香りが溢れて、朝からとても良い気分になる。
でも今日は来ない。
(豪華ではない……けど)
私は台所で、簡単な朝食を用意した。
数日前に見つけたパン屋のパン。香りが良くて、思わず買い込みすぎたやつ。
硬めのパンと、甘いパンと、バターの香りがする小さな菓子パン。
袋を開けると、ふわっと匂いが立つ。
(……いい匂いだ)
寮で出るパンより、ずっとちゃんとした味がする。
騎士団の食堂で食べるよりも、落ち着いて食べられる。
誰にも見られずに、ゆっくり噛める。
それだけで、少し贅沢な気がした。
私は椅子に座り、パンをちぎって口に入れた。
「……美味しい」
思わず声が出る。
誰もいない家で独り言を言ってしまうのにも慣れてきた。
その時だった。
――コンコン。
玄関の扉が、控えめに叩かれた。
私は手を止める。
(誰だ?)
ここを訪ねてくる人なんて、そういない。
ノアールは事前に言うし、ダリナさんも鍵を持っているからノックしない。
近所付き合い? まだしていない。
騎士団の誰か? 休日に?
私はパンの欠片を皿に置き、立ち上がった。
剣は寝室に置いている。休日だからだ。
でも、手癖で腰に手が行きそうになって、空を掴む。
(……落ち着け。扉を開けるだけだ)
玄関へ行き、扉の向こうの気配を確かめる。
足音は一つ。呼吸は軽い。
護衛がいる気配は――外にはある。少し離れた位置に、複数の気配。
(……貴族?)
私の家の前に、貴族が?
扉を開ける。
そこに立っていたのは――見覚えのある顔だった。
艶のある金色の髪。整った服装。華奢そうに見えるのに、目の光が強い。
そして、あの時と同じ「輝き」。
「おはようございます、リュシア様!」
勢いよく頭を下げたのは、ローディア侯爵家の令嬢――ルイーゼだった。
「……お、おはようございます」
声が少し詰まった。
心臓が一拍遅れて動く。
(なんでここに?)
疑問が先に出る。
次に、現実味が来る。
(侯爵令嬢が、私の家の玄関にいる)
私は一瞬、扉を閉めて夢だったことにしたくなった。
でも現実だ。気配も、ちゃんとある。
ルイーゼは顔を上げ、私を見る。
今日も目がキラキラしている。
怖いくらい元気だ。
「……あの、ルイーゼ嬢。どうしてここに?」
尋ねると、彼女は胸の前で両手を握りしめた。
「もちろん! お礼のためですわ!」
何がもちろんなのか分からない。
いや、彼女の中では当然なのだろう。
助けられたのだから。
私は咳払いをして、言う。
「お礼なら、もういただきました。謝状も、特別給金も」
謝状は立派だった。
文字の癖が貴族のそれで、読みにくかったが。
特別給金も、規定の上限だと聞いた。
私はほとんどを寄付してしまったが。
孤児院に。あと、騎士団の負傷者の家族に回るように。
ルイーゼは即座に首を振った。
「足りませんわ!」
「……足りない?」
「はい!」
勢いが凄い。
私は一歩引きそうになった。
「謝状など父からのものです! 特別給金も規定の上限だなんて、感謝を伝えるには少なすぎます!」
「そう、ですか?」
「はい! 私の命を助けてくださったのに、私はまだ……ほとんど直接お礼ができていませんの!」
顔が真剣だ。
貴族の令嬢が、ここまで真っ直ぐに言うのは珍しい気がする。
(……真っ直ぐすぎて、眩しい)
私はどう返せばいいのか分からず、少しだけ視線を逸らした。
扉を開けたままなのも落ち着かない。
近所に見られたら、面倒な噂になる。
「……とりあえず、中へどうぞ」
そう言うと、ルイーゼの目がさらに輝いた。
「まあ、王子様……! いえ、リュシア様のお家に入ってもよろしいのですか?」
「王子ではありません」
反射で訂正する。
「すみません! 癖ですわ!」
癖なのか。少し困る。
「質素な家で、そんなにいいものじゃありませんが……」
私が言うと、ルイーゼは大袈裟なくらい首を振った。
「いえ、素晴らしいお家です! では失礼しますわ!」
そう言って、彼女はするりと入ってきた。
ルイーゼは玄関で一度立ち止まり――そして、深呼吸をした。
「はぁ……」
「……?」
何をしているのか分からない。
彼女は目を閉じて、幸せそうに言った。
「これがリュシア様のお家の香り……とても良い匂いです」
(……パンの匂いだと思う)
良い匂いではある。でも、家の香りと言われると妙な気分だ。
私はどう反応するべきか迷って、結局、正直に言った。
「それは……パンの匂いです」
「まあ! 生活の香りですわね!」
勝手に良い方向に解釈された。
助かるような、助からないような。
私は居間へ案内し、椅子を引いた。
応接用のソファなどない。質素な椅子とテーブルだけだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
ルイーゼは座ると、背筋をまっすぐ伸ばした。
私は向かいに座り、改めて問う。
「それで……本当に、お礼だけですか?」
「もちろんですわ!」
即答。
その「もちろん」は信用していいのか。
私は少し疲れた気持ちになって、額を軽く押さえた。
「私は……自分の仕事をしただけです。過剰なお礼は必要ありません」
ルイーゼは頬を膨らませた。
「過剰ではありません!」
「過剰です」
「いいえ!」
押し問答になる。
私はこういうのに慣れていない。
ルイーゼは机の上に身を乗り出す勢いで言った。
「だって、考えてくださいませ! 私は暗闇の中で攫われて、口を塞がれて、縛られて……本当に、怖かったんですのよ!」
言葉は勢いがあるのに、声が震えていない。
怖かったのは本当なのだろう。
でも、その怖さを飲み込んで、前に出てくる強さがある。
「そこへ――あなたが来たんですの」
ルイーゼの目が、また光る。
この目の輝き。
私はどう扱えばいいのか分からない。
「謝状は父から。特別給金は規定の上限。そんなものでは足りませんわ。私は、あなたにちゃんと……感謝を伝えたいんですの」
私は言葉を失った。
感謝を伝えたい、と真っ直ぐ言われると、断りづらい。
ルイーゼは勢いよく立ち上がった。
「だから、ぜひ! うちへ来てください!」
「……うち?」
「ローディア侯爵家へ!」
私は反射で背筋を伸ばした。
(侯爵家の屋敷……)
響きが重い。
私が入っていい場所ではない気がする。
いや、仕事でなら入ることはある。でも、招待されて行くのは違う。
「ご遠慮します」
即答したつもりだった。
ルイーゼは即座に一歩詰めた。
「遠慮しないでください!」
「いや、遠慮します」
「しないでください!」
また押し問答。私はため息を吐いた。
「ルイーゼ嬢。私は……そういう場所に慣れていません」
「慣れればいいんですわ!」
押しが強い。
「それに、今日はお休みですよね?」
ルイーゼがさらっと言った言葉に、私は固まった。
「……なぜ、私の休日を」
ルイーゼは悪びれずに微笑む。
「調べました!」
(調べた)
侯爵令嬢の「調べました」は、重い。
調べ方の規模が違う。
でも、彼女ならそれくらいするかもしれない。
(怖いな、この令嬢)
私は内心でそう思いながら、表情は崩さないようにした。
「……侯爵令嬢って、すごいですね」
「褒められましたわ!」
褒めていない。
それから私は、少しだけ思い出した。
事件の後、耳に入ってきた噂を。
(ルイーゼ・ローディア嬢)
社交界で目立つ令嬢。
中心にいて、誰もが名前を知っている。
私が回帰前に彼女を覚えていないのは――たぶん。
(回帰前は、誘拐が成功していたのかもしれない)
その後のことは知らない。
知りたくない想像もできる。
でも今は、彼女が目の前で生きている。
(……よかった)
目を「生き生き」させすぎている気もするが。
それでも、生きている。
私は一度、話を戻す。
「……本当に、お礼は結構です」
ルイーゼは唇を尖らせた。
「結構じゃありません!」
やはり押し切る気だ。
私は少し困り、別の方向から攻めようとする。
「私が行くと、あなたの家の方々が困るでしょう。平民の女騎士が突然……」
「困りませんわ!」
即答。
「父も母も、皆、あなたに感謝しておりますもの。むしろ喜びますわ。恩人ですもの!」
「……それでも、私は」
言いかけた時。
ルイーゼが、にっこり笑って言った。
「ぜひ、うちの料理人が振る舞った食事を食べていただきたくて」
私は固まった。
「……食事?」
「はい!」
ルイーゼは嬉しそうに頷く。
「我が侯爵家抱えの料理人が、腕を振るいますの。あなたのために」
(……侯爵家抱えの料理人)
それは、強すぎる言葉だ。
強敵だ。
ルイーゼは畳み掛けるように言う。
「リュシア様のために、数日前から仕込んでいる料理もあります」
数日前から。
(情報が早い)
私は喉が鳴った。
自分でもわかる。誘惑されている。
多分――私が食べることが好きだという情報を掴まれている。
あの定食屋の件か。パン屋を見つけた件か。
(仕込んでいる料理……)
想像してしまった。
私は一度、視線を逸らし、咳払いをした。
これは断るべきだ。過剰なお礼は受け取らないと決めた。
でも――もう準備しているなら。
(食材にも、料理人にも失礼だ)
私は自分に言い聞かせる。
言い訳を用意して、受け取る形にする。
そして、なるべく真面目な顔で言った。
「……し、仕方ありませんね」
ルイーゼがぱっと顔を明るくする。
「すでに準備していただいているのに、それを食べないのは食材にも料理人の方にも失礼ですから」
私は言い切った。
少しだけ胸がわくわくしているのが自分でも分かる。
(うん、これは、仕方ない)
ルイーゼは両手を合わせた。
「ええ、その通りですわ! では早速行きましょう!」
「早速?」
「早速です!」
勢いが止まらない。
私は立ち上がりながら、ふと机の上のパンを見た。
(……まだ残ってるのに)
私はパンを布で包み、台所に置いた。
帰ったら食べよう、と自分に言い聞かせる。
玄関へ向かうと、外に馬車が止まっていた。
やはり護衛もいる。気配が多い。
ルイーゼは当たり前のように言った。
「こちらですわ」
「……はい、行きましょう」
「はい!」
馬車に乗り込む。
内装が柔らかい。座席が沈む。寮の硬い椅子とは別物だ。
扉が閉まり、馬車が動き出した。
窓の外に、私の家が小さく離れていく。
(……本当に、行くんだな)
侯爵家へ。私が。
不安はある。場違いだろう。
変な作法を求められるかもしれない。
でも――胸の奥で、小さな期待が跳ねた。
(仕方ない)
私はもう一度、自分に言い聞かせる。
(仕方ない。料理が仕込まれているのだから)
私は窓の外を見ながら、思った。
(回帰前にできなかったことを、今、少しずつやってる)
救えなかったものを救った。
家を持った。誰かに見送られた。
そして今、侯爵令嬢に連れられて、侯爵家へ行く。
(……よくわからない人生になってきたな)
でも、悪くない。
私は気づかないうちに、口元が少し緩んでいた。




