第8話 挫けぬ心
「よし、終わったな」
セシリアがこちらに歩いてきた。
彼女は倒れたトロールの方を見て、完全に活動を停止していることを確認した。
「それにしても、ここでこんな魔物が現れるなんてな」
「これから、村の安全対策を強化させる必要がありますね」
冷静に戦ってはいたものの、レオンもセシリアも、この状況には驚きを感じていた。
「何か……嫌な感じがするな」
「ええ、これまでこんなことは無かった。村にトロールが現れるなんて」
「これで終わりだといいんだが、それは甘い見方だろうな」
「そう思います。今回だけの突発的な事象だと考えるのは、楽観的でしょうね」
見事強大な魔物を打ち倒したものの、二人の戦士は言いようの無い不安を覚えているのだった。
そしてレオンは同時に、また別のことに思いを巡らせていた。
——姉上をはじめ、家族の協力が得られれば、ブラッドウィン家ともだいぶ戦いやすくなるだろう。
シルヴァンデールの家系には、代々優れた魔法の使い手が多い。
それは、とても心強い味方となり得た。
——しかし、奴らとの戦いに、なるべく家族を関わらせたくない。
相反する思いが同時に存在していた。
レオンの中では、家族を殺されたことは強烈な印象となって刻まれている。
それがまた起こることを、何より恐れているのだった。
——この先どうするべきだろうか? 家族に話すべきなのだろうか?
当主である父には、いずれ伝えるつもりである。
しかしながら、その他の家族に話すかどうかは決めていなかった。
その答えは、いまだ出ていない。
「ここのところ、何か考えていることが多いな」
「え」
セシリアの言葉にレオンは驚く。
「見てりゃわかるさ」
彼女は意外と、家族のことをよく見ているのだった。
「レオン、お前はその能力のずば抜けた高さもあってか、なんでも一人で解決しようとする癖がある」
それは彼の昔からの性格であった。
自立心が強いとも言えるし、一人で抱え込みやすいとも言えた。
「しかし、お前がいくら強くても、一人で出来ることには限界があるぞ」
レオンは黙って彼女の言葉を聞いていた。
「自分だけではうまくいかないと思った時は、誰かを頼ってみるのも一つの手だ。まあ、その見極めが難しいところではあるがな」
「分かりました。ありがとうございます、姉上」
彼はただ感謝を述べた。
緊張していたその表情は、いくらか和らいでいた。
そして少しだけ、肩の荷が降りた様な気がするのだった。
「さて、それじゃあモニカにも知らせないとな」
セシリアはそう言うと、地面の小石を拾った。
彼女はその手に魔力を集めると、強い風圧で小石を空中へと打ち出した。
小石が飛んで行く先にあるのは、教会の鐘楼であった。
そして、打ち出された小石は、教会の鐘へと勢いよくぶつかった。
すると辺り一帯に、教会の鐘の音が響いていく。
その鐘の音を聞いたモニカは顔を上げた。
「これは……お姉様の合図ね」
そして彼女は、張り続けていた魔法の障壁を解除する。
教会の周りに張られた光の壁は、空中に分散して消えていった。
程なくして、レオンとセシリアが教会の中に入って来る。
「お姉様、お兄様!」
二人の元にモニカが駆け寄っていった。
「ご無事ですか?」
「ああ、問題無い。ご苦労だったな」
「良かった」
そしてモニカは、村人たちの方へ向けて声を上げる。
「皆さん、魔物は無事に退治しました! もう大丈夫です!」
すると、一斉に歓声が巻き起こった。
村人たちはお互いを励まし合い、そしてシルヴァンデール家の面々に感謝と称賛を送った。
その場には、安堵と歓喜の声が広まっていた。
突然の魔物の襲来というアクシデントを、なんとか無事に乗り切ったという喜びで溢れていた。
その時であった。
「誰か……誰か助けて!」
教会の入り口の方から、助けを求める声が響いた。
皆の視線がそちらに向けられる。
そこには少年が立っていた。
その背には、もう一人の少年がおぶわれている。
そして、背負われている者は、明らかに瀕死の重体だった。
彼らは、森の中で最初にトロールと遭遇した少年らであった。
慌てて人々が駆け寄ると、彼らを中へと運んでいく。
お医者様! お医者様! といった声が響いた。
村の医者が駆けつけて来ると、床に寝かせられた少年の様子を確認した。
「これは酷いな……」
その容体が危機的なものであることは、誰の目にも目にもすぐにわかった。
肋骨の辺りが潰されており、骨折や臓器の損傷を起こしていることは疑いようがない。
出血も多く、もはや一刻の猶予も無い状況である。
「すみません、通してください」
そう言いながら、モニカが前へと出てきた。
彼女は少年の様子を確認すると、すぐさま手をかざして魔法を発動した。
「私の回復魔法で、どれだけ出来るか分かりませんが」
そう言いながら、一心に魔力を集中していった。
その手からは淡く輝く魔力が放たれ、少年へと注がれていく。
回復魔法は高度な技術である。
高い精度と集中力を要するものであり、術者には高い技量が求められる。
生まれつきその才能がある者でないと、身につけることはなかなか困難なものでもあった。
「子供がやられていたのか」
「トロールにやられては、ひとたまりも無いな……」
レオンとセシリアは回復魔法を使えない。
この場はただ見守ることしか出来なかった。
(いくら強くても、一人で出来ることには限界がある)
レオンは、先ほどのセシリアの言葉を思い返していた。
——姉上の言う通りだ。いくら英雄ともてはやされていても、俺に出来ることなどたかが知れている。目の前で死にかけている子供一人救えない。
モニカは懸命に回復魔法を掛け続けるが、いかんせん傷の具合が重すぎた。
なかなかすぐには、傷が癒えていかない。
その間に、少年の体力が尽きてしまう恐れもあった。
「私の力じゃ……もうこれ以上は……」
血にまみれた少年の呼吸は浅く、今にも途絶えそうだった。
周囲には諦めの表情や雰囲気も漂い出していた。
そしてモニカも、もはや手遅れだという決断を下そうとしていた。
すると、彼女に声を掛けて来る者があった。
「モニカ、どんな時も希望を捨ててはいけませんよ」
いつの間にか、すぐ側にエレノアが立っていた。
「お母様……」
モニカは悲壮な顔を上げると、エレノアを見た。
母は凛とした佇まいで、この状況でも落ち着いている。
「シルヴァンデールの者ならば、挫けぬ心を身につけなさい」
エレノアはそう言うと膝をつき、手を少年の体の上にかざした。
彼女の手から柔らかな光が放たれ、周囲の空気が静かに振動し始めた。
それから精神を集中させ、魔力を体内から引き出していく。
すると、放たれた光は少年の体を包み込み、ゆっくりと損傷部位に浸透していった。
潰れた内臓が、折れた骨が、破裂した血管が、裂けた筋肉が、みるみるうちに修復されていく。
「すごい……」
その様子を見て、モニカは感嘆する。
驚くほど高度な回復魔法であった。
エレノア・シルヴァンデール。
シルヴァンデール家の現当主リチャードの妻であり、侯爵夫人である。
回復魔法と支援魔法に長けており、特に回復魔法は並ぶ者のいない高みに達していた。
優しくも強い意志を持ち、シルヴァンデール家の支柱として家族を支える存在である。
彼女の顔には真剣さが増し、額には汗が滲んでいた。
回復魔法は、非常に消耗が激しいものである。
高度で繊細な魔法ほど、多くの魔力や体力を必要とするからであった。
しかし、彼女は決して手を緩めることなく、魔法の力を注ぎ続けた。
やがて、少年の呼吸と脈拍が安定し始め、その顔にわずかな色が戻ってきた。
すると少年はゆっくりと目を開けた。
「ここは……」
彼は弱々しい声でつぶやいた。
エレノアは微笑み、彼の手を優しく握り返した。
「もう大丈夫ですよ」
彼女の声には、優しさと温かさが満ちていた。