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『アングラ(暗✕2)』  作者: 髙山志行
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4・ in TROUBLE

「だから、きのうも言ったろ。国の極秘の機関の施設だからって…」


 鉄製のドアがあるだけで、窓ひとつ無い・コンクリート打ちっぱなしの殺風景な小部屋。簡素なベッドとテーブルとイスが置かれているここが、俺のここでの生活空間だ。本来は、物置か何かなのだろう。


「俺だって、自分がどこにいるのか、正確な場所がわからないんだから」


 たとえば、インターネットの情報が「どこに保存されているのか?」…考えたことがあるだろうか?

「インターネット」や「グローバル()ポジショニング()システム()(全地球測位システム)」は、もともと軍事目的で作られたものだ。国防上もっとも大切なものだから、大災厄の後も、最優先で復旧がはかられたし・テロなどを防止するため、分散されたインターネットの基地局の所在地などは、最重要機密事項となっている。


「だからって、自由に連絡も取れないなんて…」


 電話のむこうのユカの声は、ちょっと潤んでいる。


「あの一件いらい、管理がいっそう厳しくなったんだよ」


「あの一件」とはもちろん、リカたちが引き起こした毒物混入事件のことだ。


「公営ギャンブルの選手みたいなもんさ」


 競馬・競輪・競艇・オートレースなど公認賭博の出場者は、レースの期間中、八百長などの不正が行われないように宿舎に缶詰めにされ、特別な場合をのぞいて外部との接触も断たれる。


(もっとも現在では、「競輪」以外は、「競走」や「競歩」しか行われていないが)。


「急な用件って、危険は無いんでしょうね? 放射能漏れとか?」


 こういう仕事をしていると、原子力関係の設備にも行かなくてはならない。そういった所では安全上の理由から、そして機密保持や防犯上の対策として、幾重にもゲートがあり、奥へ行けば行くほど、チェックも厳しくなる。


「だいじょうぶだって。そういう施設じゃないから。またあした、同じ時間に連絡するよ」


 午後の7時を回ったところ。


「プツン!」


 俺がそう言い終わると、通話が切られる。手ぶらコードレス・タイプの受話器なので、俺たちの会話は筒抜けだし…


「ギシ・ギシ・ギシ…」


ここのところ(しばら)く、肉体関係(スキン・シップ)の方は御無沙汰だったが…いざ・こんな状況になると、心配してくれるのは、嬉しくもあり・有難かった。しかし…


「フイ~!」


 喜んでばかりも、いられない。と言うより俺には、「(ウソ)をついている」という事実以上に、かなりの罪悪感があった。なにしろ…


「ギシ・ギシ・ギシ…」


 俺の上に馬乗りになっていた「例の女」は、ふたたび腰を振りはじめる。


「ギシ・ギシ・ギシ…」


 俺がここに監禁されて、今日で3日目だ。


「ギシ・ギシ・ギシ…」


 パイプ・フレームのベッドがきしむ。俺は「あの女」が楽しんでいるあいだ、あお向けに縛り上げられていた。そして「その女」は、決まって必ず、こうやって結合している時ユカに電話をかけさせた。


『むかし観た、大昔のアダルトものとは逆のパターンだな』


 そのアダルト・ビデオ(AV)は、「レイプされている女が、その行為の最中に、彼氏の元に電話をかけさせられる」といった内容だった。


(今ではアダルト・ビデオなんて物は、ごくごく一部のマニアが所有している以外、まったく姿を消していた)。


 俺は、画質の悪いビデオ・テープや、大洪水以前に制作されたDVDから複製された裏物を、データーで観たことがあった。そこで繰り広げられる光景は、現代では想像もつかないくらい、過激で刺激的なものだった。


(ケバいが、殺風景な現代の女より肉感的な女優たちが、あらわな姿態を演じていた)。


 俺はそんな交わりに興味も関心もあったが、もちろんユカにそんなことを要求しても断わられるに決まっているし…下手をすれば変人・変態あつかいされ、家庭内暴力ドメスティック・バイオレンスで訴えられかねない。


『分裂型の多重人格か…』


 そんな表現があるのかどうかは、知らなかったが…腰の動きが激しくなる。俺もそれに合わせて、下から突き上げてやる。「この女」は、かきむしるように自分の両乳房をもみしだく。そして…


「イ…ク!!!」


 そう言ったきり、動きを止める。俺は下半身のグラインドを、じょじょにフェード・アウトさせていくが…まだ達したわけではなかった。しばらくの間、眉間にシワを寄せ、恍惚の表情を見せてジッとしていたリカだが…やがて股間の結合をとこうともせず、俺の上に倒れ込んでくると…


「あなたってタフね」


 そう甘えた声を出す。「()つのが不思議なくらい」に・「濡れるのが信じられない」ほどに、俺たちはヤリ続けていた。


(20世紀の「ジャパニーズ・ロックのスーパー・スター」の手記に、「とことんヤリ続けた後の太陽は、黄色く見える」とあるそうだが…俺もヘトヘトになるまで繰り返した後で、「おひさま」を眺めてみたいものだ)。


『この女、もしかして…「犯したい」願望があるんじゃねーかな?』


 俺はそう感じたが…こんな暮らしも、まんざら悪くない。俺は、けっこう満足していた。

 それに、セックスの最中はベッドに固定されていた俺だが、その他の時間は…もちろん「好き勝手に歩き回る」というわけにはいかず、行動範囲に制限はあったが…わりと自由に、振る舞わせてもらっていた。


『やっぱりな』


 そのアジトには、さまざまな人間が出入りしていたが…例の「新世界プラント・サービス」の男も、やはり・その一味だった。だが…


「今やらなきゃダメなんです。じゃないと、奴らの思うツボだ」


『奴ら…? 何のこった?』


 その男は相変わらず丁寧だが、しかし激しい口調で語りはじめた。


「あなたにだって、守るべき何かがあるでしょう?」


『俺が守るべき何かって、何だ?』


 俺は今の今まで、そんな事を考えたことなど無かった。


「家族とか家庭とか…財産や人権・自由とか」


『なるほど。でも、守るって言ったって、何から守るんだよ?』


 何のことやらチンプン・カンプンだ。


「だから今、戦わなければならないんです!」


『戦えって言ったって、いったい誰と?』


 その男は顔を赤らめて、熱く語っていた。そんな連中ばかりだった。


『俺は洗脳されているんだろうか?』


 とらわれの身という、特殊な精神状態。監禁された人質と犯罪者の間に、不思議な連帯感が芽生えるというのは、よく聞く話だ。

 とにかくどちらにしろ、ここに出入りしている連中は、クーデターや革命を画策する反乱分子と言うより、強権や独裁に抵抗する地下組織(レジスタンス)といった雰囲気だった。


『どいつも・こいつも、あの女にダマされて、いいように操られてるだけじゃねーの?』


 ナゾは深まるばかりだ。


     *     *


 四日目の晩だった。 


「ツー! ツー! ツー…」


 俺は前開きの・紫がかった灰色の作業服の上着だけを着て、胸を開かれ・あおむけに縛りつけられていた。


「ツー! ツー! ツー…」


 いつものように女王様の相手をさせられていた俺は、いつもの時間にユカに電話をかけさせられる。


「ツー! ツー! ツー…」


 何度かけても、通話中の発信音が流れるだけだ。事務所の方にもかけてみるが、留守電にも切り替わらない。


『どうしたんだろ?』


 俺は、少しばかり不安になった。


「なにか盛り上がらないわね」


 俺の上に乗ったリカは、さっきまで口に含んでいた俺の息子に保護帽をかぶせながら、つまらなさそうに電話を切る。


「きょうは服を着たまま」


 そう言ってリカは…白いワイシャツをブラジャーごとまくり上げ・左足に黒いストッキングごとおろした紫のパンティーをからめたまま・濃紺のスカートをたくし上げて、またがってきた。


「ん・んんん~」


 そんな低いうめき声をもらしながら、天をあおぐように首を伸ばして、腰を沈めてくる。

 スイッチひとつで真っ暗闇になる地下世界なのに…ここに来てからというものリカは、照明をしぼることすら無く、結合部はいつも丸見えだ。


『だいたいアンタは露出狂なんだよ』


 俺がそう思った時だった。通話を切ったのと入れ替わりに、インター・フォンのコールが鳴る。


「所長! ちょっとマズい事態に…」


 男の声がそこまで聞こえたところで、俺の肉棒を挿入したままリカは、スイッチを切り替え受話器を耳に当てる。


「お前ら、ユカに何かしたんじゃないだろうな?」


 急に不安になった俺は叫ぶ。


「ちょっと静かにしてて」


 彼女は、そう言って通話を続けるが…相手の話に合わせて、うなずくばかりだ。


「ちょっと待ってて。今そっちに行くから」


 リカは最後にそう伝えると、急いで服を正して出て行く。俺はしばられたまま、しばらく放置されていたが…


「早く服を着て」


 やがて戻ってきた彼女は、まだ硬度の残っている俺の股間からゴムをはぎ取り、あわてて縄をほどき始めた。


「どうしたんだよ?」


 (いまし)めがとかれ、身体が自由になる。


「マズいことになったの」


 俺は手首の縄の跡をもみながら…


「マズいことって?」


 そう訊ねると…


「潜り込ませていた仲間が、捕まったらしいの」


『はあ?』


 いきなり、そんなふうに言われても…


「潜り込ませていたって…どこに?」


 俺には、何のことやらサッパリだ。


「地表の上の奴らの所よ」


『地表の上?』


 今の時代、『地表の上』とは、「海抜0メートル」より上の、山の内部などを意味していた。


「早く服を着てよ!」


 ピンと来なかった俺は、尻をたたかれるように()かされる。


「ここは危ないわ。奴らの手先が、こっちにむかっているらしいの」


『奴らの手先?』


 その時、大きな爆発音とともに、一斉に明かりが落ちる。


『救世主現わる!』


 助けが来たのか? それにしては、ちょいと荒っぽすぎる。


「しまった!」


 リカが、舌打ちするように叫ぶ。すぐに非常用電源が入るが、非常灯の明かりくらいしかついていない。


「こっちよ」


 リカは、ズボンのジッパーを上げる俺の右腕を引っ張り、あたりの様子をうかがいながら廊下に出る。煙りが流れ込んでくる方向とは反対の・左側に歩き出し、階段にたどり着く。


「どこに行くんだよ」


 階段を降りようとしたリカを制止する。価値観の逆転した今の人間は、何かあると下へ・下へと逃げようとするわけだ。


「上に出たほうが、早いし安全だぜ」


 リカのことを信用したわけじゃないが…ここは様子を見たほうが良さそうだ。


「さ、早く!」


 俺たちは、最上階にあるゴミの最終処理場に出る。焼却されたゴミの灰がためられる巨大なスペースが、眼下に広がる。石が切り出された後の、石切り場の空洞を連想させる光景だ。はるか下方には、いくつもの山と積もった灰色のかたまりが見えた。


(高温で完全燃焼させてしまえば、不完全燃焼ゆえに発生していた「ダイオキシン」などの有害物質も残らない。核廃棄物も、「マントルに流し込んでしまえばよい」といった荒っぽいことを叫ぶ連中もいたが…最近では、もともと地下に建設され被災を逃れた素粒子研究用の高速加速器を、核廃棄物焼却に転用するための計画が立案されていた)。


 俺たちは、そこをグルリと取り囲むように張られた手すり付きの通路を、左回りで走っていた。


『どこに行けばいいのか?』


 かいもく見当がつかなかったが、自然と俺は地表を目指していたのだろう。


「タン! タン! タン! タン…」


 薄暗い構内に、俺たち二人の靴音が響き渡る。


「?」


 と、その時、行く手の途中のドアが開き、腰だめにマシン・ガンのような物をかまえた、数人の黒スーツの男たちが出てくる。


「奴らよ!」


 リカが叫ぶ。俺たちは立ち止まった。後ろを振り返ると、いま俺たちが通ってきた所を追いかけてくる人影が見えた。


「ヤベ!」


 まだ十分な距離はあったが、横にそれる扉は無い。


「おとなしく捕まるか…」


 俺は、すぐ後ろに従うリカの方を見て…


「飛び降りるしかないぜ」


 両膝に両手をついて・荒い息をしながら俺を見上げたリカは、コクリとうなずく。迷ったり・ためらったりしているヒマはなかった。俺たちは手を取り合って、手すりに足をかける。


「死ぬときゃいっしょだ。行くぜ!」


 俺のひと言を掛け声がわりに、高く積もった灰の山めがけて一気に踏み出した。


「・・・!」


 下の方からグワッと突き上げてくるような感覚で、俺は声も出なかったが…


「ボフン!」


 とても長く感じたが…ほんの数秒にも満たない滞空時間の末、今度はボワッという感触が伝わってくる。ゴミの灰の上に到達したのだろう。粉のようにフカフカな(チリ)の山は、とても柔らかかった。クッションとしては十分だ。


『…?』


 しかし俺の身体はズブズブと沈んでいき、なかなか止まらない。


『これなら花粉のほうが、まだマシだぜ』


 やっと静止したところで眼を開けるが…こぼれ落ちてくる灰色の粉と・巻き上げた白いホコリで、何も見えない。


「ゲホッ! ゲホ…」


 物が燃え尽きた後の灰の粒子は、とても細かい。俺は咳込みながら、手探りでリカを探す。


『!』


 すぐに手と手が触れ合うが…グズグズしてはいられない。早くしないと、上からマシン・ガンの弾が降ってくる。


「チッキショー!」


 でも灰の中は、踏み固められていない粉雪(パウダー・スノー)の上でもがいているようなものだった。なかなか前に進めない。おまけに、まだクスぶっている灰もあり、そこはかなりの高温だ。間違ってそんな所に足を踏み入れたら、ヤケドをおってしまう。


『このままじゃヤバいぜ』


 俺がそう思った時だった。目の前に、ゴンドラのような形をした物が降りてくる。


『?』


 天井に備えつけられた、クレーンのバケットだ。下方の口を開いて灰をかき集め、口を閉じて運び出すための物だろう。


『!』


 俺は天をあおいで、操縦席を見る。天井クレーンの中央に突き出た運転席で、あの「新世界プラント・サービス」の男が手を振っている。


『助かったぜ!』


 コクンとうなずいた俺は、まず焼却炉のエントツを思い浮かべた。煙突内側の清掃用の手掛かり・足掛かりを伝えば、外界に出られる。でもリカは、この清掃工場は24時間稼働していると言っていた。まさか、燃えさかる炉の中に飛び込むわけにはいかない。それにエントツ内部は、たとえ火が落ちていても、しばらくの間はかなりの高温だ。

 そこで俺は、指先で地上に通じる巨大なハッチを示す。「あの男」はうなずき、バケットの口が開いた。人間二人くらい、らくらく入れる広さだ。


「早く!」


 俺はリカをうながす。俺たちが中に入ると口が閉じ、上昇をはじめる。


「キング・コングに捕まった美女みたいだな」


 俺は彼女を元気づけようと、むかし観た映画を思い出し、つまらない冗談を言う。全身灰まみれになったリカが、口元にうっすら笑みを浮かべた時だった。


「カン! カン! カン!」


 マシン・ガンの弾が当たる。


「キャッ!」


 リカは両耳を押さえるようにして、悲鳴を上げる。


「だいじょうぶ。こんなブ厚い鉄板、撃ち抜けっこないさ」


 確信があったわけじゃないが…それに、灰を集めるための容器だ。上方以外、スキマは無いが…


『?』


 その時、上への巻き上げが終わり、横方向への動きへとかわっていたクレーンが止まる。俺はソッと上の切れ間から顔を出し、あたりをうかがう。


「タタタタタン!」


 奴らはクレーンの操縦席を狙っている。屋外へ通じる扉は、もうすぐだ。奴らの集中砲火がいったん()んだところで、ハッチが開き・ふたたびクレーンが動き出す。


『もう少しだ』


 ベルト・コンベアーの真上に差し掛かった所で、クレーンは完全に動きを停止した。


「いそげ!」


 バケットの上の隙間をはい上がった俺は、リカを引っ張り上げ、コンベアーの上に飛び降りる。ベルトは動いていなかったが、屋外の灰運搬車が待機する場所まで通じているはずだ。


「行くんだ!」


 リカを先に走らせ、後ろを振り返ると…クレーンの運転席の窓はヒビ割れ、弾痕の入ったガラスが鮮血に染まっていた。


『あの男は、なんて名前だっけ?』


 俺はリカの後を追いながら、そう思った。事務所で「あの男」から手渡された名刺を思い浮かべたが、どうしても名前を思い出せなかった。


「ヨシ!」


 コンベアーの終点から先は、滑り台のようなツルツルの鋼板のスロープになっていた。たぶん・ここは、小高い丘のような地形の地下にあるのだろう。


「行くぜ!」


 俺はためらっているリカに、声をかける。


「だって、おもては…」


 花粉ばかりでなく、放射線の量にしたところで…それで草木が枯れているわけでも・動物が死に絶えているわけでもない。


(実際のところ、「どのくらいが許容レベルなのか?」はっきりと示せる人間などいなかった)。


どっちにしたって、ここまで来たら・ここしか逃げ道はないし、それに…


「大丈夫だって、君なら…」


 そう言って俺は、彼女の背中を押す。


     *     *


「花粉・花粉って…みんな騒いでたけど…ぜんぜん…平気じゃない」


 リカは肩で息をしながら、たどたどしい口調で言う。


「そりゃ君も原始人だからさ」


 観葉植物に囲まれたあの部屋を見れば、誰だって納得するだろう。


「ふい~!」


 俺たちは、暗がりの茂みに入った所でひと休みしていた。

 灰運搬車両でもあれば、手っ取り早く逃げられたのだが…決まった時間に外注業者が引き取りにくるシステムだそうで、俺たちは・自分たちの足で、出口から少しはなれたここまで来た。幸い、陽はすっかり落ちている。


「あなたって…なかなか度胸があるのね」


 俺の正面で・両足を投げ出して座り込んだ彼女は、前髪をかき上げながら顔を上げる。俺はチョット間をおき、呼吸を整えてから…


「そんなこと…ないさ」


 そう言い返す。「度胸があるか・どうか?」はともかく…俺は恐怖心より、高揚心の方が先に立っていた。


『たぶん…』


 こういう事態に(おちい)った時、積極的になって戦うか・あるいは消極的になって(しぼ)んでしまうか…それは、突然ふって湧いたような災難に遭った時、どういった行動に出るかで大体の推測がつくものだ。

 でも、まっ先に逃げ出したからといって、誰かに非難を受けるような筋合いはない。もちろん「慣れ」というものもあるだろうが、たぶんソレは生まれ持ったものだからだ。


「俺は、お祭り騒ぎが大好きなのさ」


 そう、つまり「血が騒ぐ」のだ。普段は、どちらかと言えば無口で仏頂面(ぶっちょうづら)をしている俺だが、もともと「火事だケンカだ」というと…と言っても今の時代、喧嘩なんてものは時代錯誤の・時代遅れだったので、ほとんど耳にすることもなかったが…まっ先に飛び出してしまう(タチ)だった。

 日常の『どうでもいい』と思える事には、腰の重い俺だったが…「すわ(いち)大事!」となると、自分でも気づかないうちに、いつも決まって先頭に立っていた。

 きっと俺の「野性」は、そういったものに反応し・腎臓(じんぞう)から多量のアドレナリンを放出するのだろう。


(「アドレナリン」とは、非日常の場面に出くわした時…つまり、強い興奮・多大な恐怖・激しい怒りなどのストレス状態だ…人間の体内で合成される、興奮剤みたいな攻撃性のあるホルモンだ。それは呼吸や心拍数を早め・血圧を上げ・反射神経を鋭くさせたりして、人の身体を戦闘態勢へと…あるいは、脱兎(だっと)のごとく、逃げ出す方向へと…導く作用をする)。


 たぶん・それが、つい最近までの人類の歴史において、争いを()めることができなかった遠因なのだ。

 でも、それも仕方ない。われわれ人間が生きのびるために神が与えてくれた物は、パンやワインではなく、『弱肉強食』の世の中を生き抜くための「知恵」と「闘争本能」なのだから。


『しかし現代人は…感受性が衰退しているのか・副腎(ふくじん)が退化してしまったのか?』


 とにかく、アドレナリンが不足しているのだ。だから現在では、戦争は無くなったが、戦う心・挑戦する意思を失った人間どもは、どいつも・こいつも「ふぬけ」そのものだった。


(少なくとも俺は、そう感じていた)。


「君こそ、いい根性してるよ」


 俺が、そう付け加えると…リカは荒い息を(しず)めながら、ニッと笑う。


「でも…逃げようと思えば逃げられたのに…どうして逃げなかったの?」


「む?」


 確かにそうだ。しかし、あらためて・そんな事を訊かれても…


『考えたこともなかったぜ!』


エスケープ(バッくれる)」なんて事を、思いつきもしなかった自分に気づかされ、即答に詰まってしまったが…


「きっと、もっと君のことが知りたくて…分裂型の多重人格の…これで三人目かな」


「上品で知的な彼女」…ただし、着飾ったり・自己主張するなど、自分自身を表現したり・アピールすることもできる。


「獣のように貪欲な彼女」…否、かつて動物の中でもっとも淫乱だったのは、たぶん子孫保存の意思もないくせに、行為そのものを楽しんでいた人類だ。


 そして…強大な力にも屈しない、強い精神力と行動力を持った彼女。


「なにか裏があるんだろ。本当のコト、教えてくれよ。アイツらは・そして君たちは、いったい何者なんだい?」


 リカは薄闇の中で俺を凝視し、ひと呼吸おいてから話しはじめた。


「アイツらは、ある大物政治家の私設部隊よ」


『大物政治家? 私設部隊?』


 政治には、関心の薄い俺だったが…リカが口にした・その名前を聞いたことくらいはあったし、顔だって・TVで見たことがあった。以前は、超過激な発言で政界をにぎわした男だ。

 今の時代にあって「国軍設立」だの、「鎖国政策」を口に出したかと思えば、「領土拡大」なんてことを大マジメでブチ上げる人間だった。

 実際、花粉・放射線対策や、災害救済・開発援助などの名目で乗り出した国々に、派遣部隊を長期滞留させるなどして、国際問題に発展したこともある。


(南極大陸の開発支援。地軸移動により極地化したため、国土が失われたも同然の国々へは、難民発生を回避するためもあり、積極的な地下都市建設などの復興援助がなされている…などなど。現在、地球のあちこちで、大々的な国際協力が行われている世の中だ)。


 しかし今どき、そんな話に耳を傾ける人間はいなかった。「ヤツは不況知らずの建設業界と、裏の太い繋がり(パイプ)があるからやっていける」というのが、もっぱらのウワサだった。


『最近、おもてに出てこないと思ったら…』


 よからぬ事を、たくらんでいたわけだ。


「わたしの父は、生物科学研究所に勤務する科学者だったの」


 リカは続けた。


『それと・これと、どういう関係があるんだよ?』


 短気な俺は、そう言いそうになったが…ここはグッとこらえて、彼女の話を聞いていた。


「早くに母を亡くして、親子ふたり暮らし。わたしが高校生の時、父はある研究機関に引き抜かれたの。たぶん資金はいくらでも出すから、自分のやりたい研究に専念しろとか言われてね。それが、あの男が設立した研究機関」


 話がひと段落したところで…


「なんの研究してたんだい?」


 そう訊いてみる。


「専門は微生物とか細菌の研究。父はそれが、花粉症や、ひいては狂った自然の原因究明につながると信じてたわ…でも」


 たしか神作が、ユカと三人で食事をした時、そんな事を語っていたはずだ。


「でも、それを認めてくれる人がいないって、なげいてた。それでアイツの口車に乗せられたんでしょうね。疑うことを知らない、純粋な人だったから…」


 なるほど確かに、「高度に管理された衛生的な世の中になれば、人の寿命は飛躍的に伸び・病気の数も劇的に減るだろう」と言われていたが…それと引き換えに、「抵抗力の衰えた人間は、たとえばカゼ程度でも、いったん罹患(りかん)すれば、簡単に命を落とすだろう」とも言われていたし、「たくましさの薄れた人類は、ちょっとした感染症などの大流行(パンデミクス)で、あっさり絶滅するかもしれない」などと言われてもいた。


「でも父は、ヤツの魂胆(こんたん)に気づいたのよ…ある朝、飛び降り死体で発見されたの。検死の結果は、自殺ってことになったけど…お父さんが、わたしを一人残して、自殺なんてするはずないわ」


 俺は世の中で、実際にそんな事が行われているとは信じられなかった。


「だいいち…屋外のあんな場所に、一人で行けるはずがないもの」


 闇夜に浮かぶリカの眼は、まさに火がついたようだった。


「証拠はあるのかい?」


 俺は、何と言っていいのかわからず…そこがどんな場所かを尋ねることもせず、そんな間抜けな質問をしてしまう。


「証拠はあるわ。証明はできないけど…」


 そこで彼女は、くやしそうに唇をかむ。


『マズッたな~』


 俺はリカのその態度から、つまらない問いをしたことを悟り・後悔しはじめていたが…


「父の葬儀が終わった後、恩着せがましくわたしの前に現われたあの男は、無理矢理わたしを…」


 ここで一段と、語気が上がる。


「!」


 俺には…次の言葉が浮かばない。


「それで、わたしは確信したの。そして…」


 そこで、少し間があく。


「そして、わたしは女に目覚めたわ。アイツは気づいてないでしょうけど…」


 そう言いながらリカは、顔を伏せる。


『キッツイな』


 そんな話を聞きたかったわけじゃない。

「過去は振り返らない」なんてセリフは、まだ大して振り返る過去の無いガキの語るもんだ。

 しかし、今さら過去の出来事にこだわったところで、どうにかなるもんじゃない事もわかっているが…


「それに、あの時の小娘がひそかに復讐を誓い、清掃工場の所長になったことも」


 彼女はおもてを上げ、まっすぐに・こちらに眼差(まなざ)しをむけてきた。


『なるほどな』


 でも俺は、同情心が湧いてくるというより、彼女の性癖の原因がわかったような気がした。


『人間とは、不思議な生き物だ』


 軍隊や体育会系の、伝統的な「イジメ」。あるいは虐待されて育った人間が、後輩や自分の子供に同じことをしてしまう…なんて、よく聞く話だ。また…


「元々そうだったのか?」


「持って生まれたもの」もあるだろうし、本人がそれを意識・自覚しているかはわからないが…しかし性的なことにおいて、特に女は、変わった反応をみせることが多々ある。本来、消し去りたいほどの嫌な経験を、その根っこのほうで引きずっていたりするのだ。たとえばレイプで「女」になった女性に、『レイプ願望』があったりというように…。つまりリカの「犯したい願望」、それはたぶん、その原体験の裏返しなのだ。

 そして彼女の行動力の源、それは「女」の執念・あるいは怨念だ。


「でもそれは、わたしの個人的理由。それだけじゃないわ」


 そこで、フト正気に戻ったように、リカは論調を変え…


「ヤツは誰にでも平等に与えられていた空気を、自分のものにしようとしているのよ。アイツは、その実権を手に入れようとしているわけ」


 そう続ける。


「どうやって?」


 カンの鈍い俺じゃないが…こんな状況に、頭の中が混乱していたのだろう。


「言ったでしょ。毒物の存在をチラつかせるって」


 即座にピンとこなかった。


「それは君たちが…」


 そこでリカは…


「わたしたちはヤツのたくらみの情報を得て、アレを撤去しに行ったのよ」


 そう解説してくれる。


「ホントかよ?」


 俺はまだ、半信半疑だった。


「普通の人間じゃ、立ち入ることもできないトコに保管されてるのよ。国際的な協定もあって、そう簡単には手に入らないし…あの男は、それを手に入れるために父に近づき、利用したのよ」


 そう言われてみれば確かに、『パンドラの箱』に通じる扉は、まだ開かれていなかった。


「じゃ、最初に機械を逆転させようとしたのは?」


 そもそもの事のはじまりは、あの時点だ。


「アイツに警告しとこうと思ったの」


『?』


 どういう事だ?


「あれは、あの男の自宅専用の機械。今の大物政治家やお金持ちは、みんな地表の上の地下に住んで、自分専用の発電機やコンプレッサーを持っているものよ」


 なるほど…


『さっき言ってた「地表の上の奴ら」ってことか』


 俺は、かなり納得してきた。そこで…


「だったら最初から、そう言ってくれればよかったのに」


 俺がそう言うとリカは、軽く含み笑いをしながら答えた。


「あなたなら、きっとノーと言うだろうと思ったから、芝居を打ってみたの。最初からホントの事を話して、簡単にイエスと言うようじゃ、信用できないでしょ」


『フン!』


 ちょいと気に入らなかったので…


「どこまで人をダマせば気が済むんだい?」


 軽く皮肉ってやったのだが…


「退屈な女よりイイでしょ」


 澄ました顔で、そう返してきやがった。


「む!」


 正確なところを突かれて返答に困った俺は、腹いせに…


「誇大妄想癖もあるんじゃないかい?」


 と、付け加えると…


「わたしは、完全な分裂型じゃないの。自分で何をしているかも、別の自分が見ているし…演じているようなところもあるのね」


 今度は、とぼけた顔で返してきた。


『仕方ないさ』


 俺は思った。

 男女を問わず・幼い時期に、大人から性的虐待を受けた子供が「分裂症」に(おちい)るケースは、たびたび耳にする。無力な子供からすれば、大人は絶対的な存在に見えたことだろう。そんな圧倒的な力に蹂躙(じゅうりん)されたら…そこから逃避するには、まだ確立されていない自己を否定して、精神的別世界に逃げ込むしか方法がない。


「ところでイエス? それともノー?」


 リカは真顔で訊いてくるが…


「俺は、たとえいくら積まれようと、やりたくない仕事はやらない主義なんだ」


 俺は珍しく、シリアスな気分になって続ける。


「たとえば人殺しや詐欺。どんな大金みせられても、そんな面倒なことにはかかわりたくない」


 リカは、口元を引きしめて聞き入っている。


「身ぢかなところじゃ、ワイロや接待かな。そんなコトしてまで、仕事なんか欲しくないし…」


 俺はそう語りながら、リカの瞳を見つめる。


「ただ…やりたいことやるのに、金や理由なんて必要ないだろ?」


 彼女は真っこうから、俺の視線を受けとめて…


「それで?」


 そう問い返してくる。


「だから…最初にラチられた時に言われた通りだったら、もちろんノーさ」


 わざと、そう返事してやるが…


「やりたいから…やりたいことを、やりたいようにやるだけさ」


 俺は、もう迷っていなかった。


「ワオ~ン!」


 その時、遠くに遠吠えが聞こえる。

 グズグズしてはいられない。追手ばかりでなく…このあたりには、その昔、鹿退治のために野に放たれた狼が生息しているはずだった。


(かつての日本でも、天敵である「ニホン・オオカミ」の絶滅と、人間の過保護で増えすぎてしまったシカにより、森林の正しい成長が妨げられてしまった時期があった。小さな苗木や樹皮がシカによって食い荒らされ、大木の無くなった・日当たりの良すぎる森は、木々を育む腐葉土を生むことができなくなってしまったからだ。現代においても、伐採が禁じられていた森でさえ、このままでは不毛の地になってしまうことを懸念した時の政府が、わざわざ海外からオオカミを連れてきたのだ)。


「武器を持ってただろ?」


 俺を拉致した時に、手にしていたはずだが…


「オモチャのピストルじゃね」


 リカは、気の無い返事をする。


『なんだよ!』


 もっとも、だいたいの察しはついていたが…


「あとは…護身用のスタンガンと催涙スプレーくらいよ」


 そう白状する。


『だまされたぜ!』


 どちらにしろ、持ち出す余裕などなかった。


『どうする?』


 でも、出るのは比較的に簡単だが、地上から地下に入るのは、かなり困難なはずだ。俺を拉致った時のように、内側から手引きしてくれる者がいるなら別だが…着の身・着のままで逃げ出した俺たちは、何の連絡手段も持っていなかった。


「チッ!」


 茂みの中から顔を出した俺は、闇にうごめく獣の気配を感じる。雲が切れ、月明かりが差し込むと…複数の、ぶきみに光る二つの目が闇に浮かび上がる。


「ヤバイ!」


 俺は後ずさりする。後ろからしがみついて来たリカの手が、俺の左胸のポケットに入っていた物に触れる。


「ん?」


 それは、俺が愛用しているライターとタバコだった。俺はとっさに、ライターを取り出す。ソイツは火力を最大(マックス)にすれば、わずかの間ではあるが、小型バーナーとしても使える代物だ。

 煙草が禁じらた御時世だったが、ライターは俺たちの仕事には必需品だった。べつにコンプレッサー整備業界特有のものではないが、機械の部品には「焼き()め」と言って、金属の熱膨張を利用してパーツを組み込んでいる箇所がある。たとえば(シャフト)歯車(ギヤ)を組み付ける場合…


(発音的には「ギア」の方が、原語の英語に近いのだが…『日本工業規格ジャパン・インダストリアル・スタンダード=JIS』の表記「ギヤ」に準拠(じゅんきょ)する)。


 ギヤを熱して膨張させ、シャフトをギヤの中心穴に差し込む。「冷えればがっちりセットされる」という寸法だ。


(新品を組み立てる際は、「焼け」や「熱ダレ」等をしないよう、電熱器を使用する方が多いが…交換整備の時はバーナーを用いて、逆の手順で抜き取ることになる)。


 そんな作業が、俺たちの仕事にも多々あった。チョットあぶる程度なら、コイツで充分まにあったし・大型のバーナーに点火する火(ダネ)にも使えるから、ライターを所持していても怪しまれないわけだ。


「コイツを使って…」


 俺は手近にあった立ち枯れした木から小枝を折り、火をつけ「焚き火」をおこす。炎を恐れて狼どもは、容易に近づいてこない。しかし…


『?』


 ホッとしたのも束の間。問題は、後から後から山積みだ。


「チェッ!」


 そのキャンプ・ファイヤーの火を見て、後方から車のライトが近づいてくる。


「きっと、あの連中よ!」


 それに気づいたリカは、不安そうに後ろを振り返る。まさに『前門の狼・後門の虎』だ。


『さあ、どうする?』


 ライトを消して近づき、少しはなれた所に止まった4WD車から、数人の人影が降りてきた。

 俺とリカは、「焚き火」から少しそれた窪地に身をひそめる。窪みのふちでは狼たちがウロウロして、こちらの様子をうかがっているが…「縄張り意識」の強いオオカミ。今にも飛びかかってきそうな雰囲気だ。


「ガルルルル…」


 そこで俺は、足(もと)に触れた枯れ枝をバーナーで点火して、オオカミどもに投げつけると…


「バン! バン! バン!」


 それを合図に、茂みの数ヵ所から軽い爆裂音とともに、光りの尾を引いた曳光弾(えいこうだん)が飛んでくる。


「伏せろ!」


 俺は、右側にいたリカにおおいかぶさるが…その弾丸は、俺たちの頭上をかすめ、その先にいる狼たち目がけて飛んでいく。


「キャウ~ン!」


 軽い悲鳴とともに、肉が裂ける鈍い音が聞こえる。狼の数匹に命中したのだろう。奴らは、尻尾を巻いて退散して行く。その後ろ姿にむけて再び発砲がはじまったところで、俺はリカの手を引いて横の(ヤブ)に移る。


「バン! バン! バン!」


 ひとしきりの喧騒の後、虫の()も聞こえない静寂が訪れる。


()ったか?」


 たぶん奴らは、同時通話無線(インター・コム)越しに、そんな会話を交わしているのだろう。どうやら、狼と俺たちを勘違いしているようだ。


「きみはここで待ってろ」


 俺はリカを残して、(ヤブ)からはい出る。

 閃光の出どころは3箇所。その位置を確認しておいた俺は、グルッと回って連中が乗ってきた車に近づくと…クルマの左側に、人影が一人。右手に拳銃のような物を構えて、「焚き火」の明かりの方向をむいて立っていた。メラメラと、波打つ光りに照らされた姿を見ると…二眼の・口元の先端に防塵缶(ぼうじんかん)が突き出した、半面型の防毒マスクをかぶっている。

 俺は、闇に乗じて背後から近寄る。視界が狭くなるゴーグル・タイプの保護面だ。後ろ側には、警戒が甘くなる。


『怒りだしたコブラと同じだぜ』


 興奮してエラを張り出したコブラは、後方の視野がまったく効かなくなる。そういう状態になったコブラは、後ろからコズいても平気だ。それで背後から不意の攻撃を受けないよう、背中に(にら)みつけているような目玉模様が入っているワケだ。


『…』


 俺は腰を折って姿勢を低くし、足音をたてないように気づかいながら、ソッと忍び寄る。


『いまだ!』


 一気に飛びかかれる距離まで接近した俺は、躊躇(ちゅうちょ)せずに行動に移る。

 左腕を首に回し・口元から前に飛び出た防塵缶をつかんだ右手で、下から持ち上げるように奴のマスクをはぐ。


「アオウッ!」


 防御を破られたソイツは、激しく咳き込み・目がしらを押さえる。


「パン! パン! パン!」


 闇雲に発砲するが…


「フェッ・フェッ…ハックショイ!」


 ヨダレと鼻水をたらしながらクシャミを連発して、俺を捕獲するどころの騒ぎではない。話に聞いた事はあったが…


『フツーの人間は、こんなになっちまうんだ』


 今さらながらに、花粉の脅威に驚いたが…


「おっと」


 グズグズしているヒマはない。


「さっさとケリつけようぜ!」


 後ろから狙いすまし・腰のあたりに蹴りを入れた俺は、左側のドアを開け、エンジンがかかったままの運転席に乗り込む。


「(よっ)しゃ~!」


 車を奪い、リカをピック・アップ。


「ダ! ダ! ダ! ダ! ダン…」


 取り残された3人は、全員でタマを撃ち込んでくるが…地雷を踏んでも大丈夫なMRAP(耐地雷(マイン・レジスタンス)対奇襲防御アンブッシュド・プロテクテッド)仕様の軽戦闘車。重機関銃か対戦車ライフルでも持ってこなければ、装甲を撃ち()くことなど不可能だろう。でも…


「(こん)にゃろ~!」


 俺がクルマを運転するのは、生まれて初めてに近かった。車が不要となった現代。運転が必要な仕事でもしていなければ、まったく縁のない代物だった。


(とうぜん俺は、運転免許など持っていなかったが…今は、持っている方が珍しい時代だ)。


 幸いオートマチック車だったので、そんな俺にでも何とか動かすことができたのだ。


「(どっ)こいしょ~!」


 ゆるやかな起伏の連続する不慣れな地形を、ライトの灯りだけを頼りに右に左にとハンドルを切る。だが…


「あぶない!」


 リカが叫ぶ。


『!』


 光に照らし出された地面のむこうには、横一線・まっ黒な暗闇がポッカリ口を開けている。


「ヤベッ!」


 俺も叫ぶが…しかし車は、その瞬間、思いっきり加速を始める。ブレーキを掛けるつもりで、アクセルを強く踏み込んでしまったのだ。


「! ! !」


 カラダが硬直してしまい、ペダルに載せた右足を戻せない「パニック・ブレーキ」状態。


(ただし、俺の右足が載っているのは「アクセル・ペダル」だが)。


 (ネット)のフェンスを突き破り、地面の切れ目でジャンプしたクルマは、鼻先から闇の底に突っ込む。


「ザッブン!」


 柔らかいが激しいショックを受けて車は、勢いあまってひっくり返る。


『?』


 幸い水面だったようだが…今度は、けっこうな水勢で流されはじめる。


「最終処理場から出た排水よ!」


 リカが、闇の中でそう叫ぶ。

 落ちた先は、汚水処理された地下からの排水が流れる水路のようだが…俺は一瞬、不安が頭をよぎる。俺たち二人は、カスリ傷だらけだ。


「キズ! 傷のある人はいませんね?」


 いつだったか、同業他業種…つまり、同じ整備業界だが・異なった機械の整備(メンテ)をしている…の業者の手伝いで、汚水処理場のポンプ修理に行ったことがある。


(その経路の配管やポンプの中には、故障の原因になる汚物が詰まっているのだが…特に繊維質の毛髪は、いつまでも腐らずにからみついていて、オカルト映画を連想させる・気味の悪い物の代表格だ)。


 そして・その時、メンバーの一人が誤って排水栓(ドレーン・プラグ)を抜いてしまい、人糞(じんぷん)屎尿(しにょう)を床一面にまき散らしてしまった事がある。

 それを見た当の職員があわてて飛んで来て、傷のある人間がいないか、大騒ぎで駆け回っていた。

 ナゼなら、そういった汚物には、さまざまな菌が含まれ繁殖している。ソイツらは、ちょっとしたケガからでも人体に入り込み、大変な事態になることもあるからだ。でも…


『仕方ね~よな』


 落差がそれほどなかったのと、水の上に落下したのが幸いしたのだろう。


(シート・ベルトを締めている余裕などなかった)。


 首をねじ曲げられ、逆さまになった天井に、不自然な格好で押しつけられていた俺は起き上がり、パワー・ウインドウのスイッチを探る。

 どっちにしたって、ここから出ないことには溺れ死んでしまうのだ。それに排水処理施設はどこでも、「最終処理された水は安全です」と()わんばかりに、さも自慢げに・池に錦鯉などを泳がせているものだ。


(もっともコイは、意外にタフな生き物で、多少の逆境くらい平気らしい)。


 現代では、海水や汚水を飲料水に還元する濾過装置は、災害現場だけでなく、あちこちのコミュニティーで必須の設備となっている。


(休日の家電量販店やホームセンターでは、家庭用ドーレン処理器の営業マンが自社製品のデモンストレーションに、実際に自分で試飲している光景を目にする)。


 一部の「水の記憶」を掲げる清水(せいすい)信奉者によると、その生まれ・育ち…つまり生成過程の悪い水は、「どんなに浄化しようとも、清くならない」と『選民思想』のような事を語るが…ゴタクはともかく、ここは覚悟を決めるしかなかった。

 しかし…水に浸かって電気系統がショートしたのだろう、窓はまったく動かない。


『まずい!』


 俺はアセッた。まっ暗闇の水の中に、まっ逆さまに放り出されたのでは、誰だって精神錯乱のパニック状態におちいるものだ。しかし幸か不幸か、花粉や放射能から身を守るために完全に密閉された車内には、そう簡単に水が入ってこない。多少、考えをめぐらせる時間的余地が残されていた。


『それに…』


 リカの存在が、俺に正気を保たせてくれていた。今どき、そんなふうに考える奴はいないかもしれないが…


『女の前で、みっともないマネはできないよな』


 俺はそう思って、自分を律し・奮い()たせることができていた。でも…


『これじゃ生殺しじゃねーか!』


バイオロジカル()ケミカル()レディオロジカル()ニュークリアー()対策」の施された軍用車両のようだが…それにしたって、助かろうと思ったらグズグズはしていられない。わずかばかりの空間に残った酸素では、荒い息をしている人間が二人もいたのでは、すぐに酸欠になってしまうだろう。


『これなら一気にヤッてくれたほうがマシだぜ』


 なんてグチっていても、始まらない。このまま黙って「死」を待つか? それがいやなら…


『脱出する方法は…?』


 思いつくものは二つ。

 まずは…車のウインドウは、ちょっとたたいたくらいでは、ビクともしない。水圧で押されていると、なおさらだろう。

 しかし「先のとがった物でたたく」あるいは「棒のような物を窓の隙間に差し込んで、コジるようにする」などして、一点に力をかけてやると、硬いがゆえに簡単に割れる。

 でも窓は完全に閉まったままだし、たたく道具も無い。そこで俺は、試しに「焼き破り」をやってみる。


(「焼き破り」とは…バーナーで窓ガラスの一か所を集中的にあぶると、高熱でヒビが入る。この手を使って、サッシのロック付近を割って「空き巣」に入るワザだ)。


 防弾仕様(ビュレット・プルーフ)の頑丈な「合わせガラス」。中途半端にヒビでも入ったら、かえって面倒だが…


「チェッ!」


 どちらにしろ、小型のガス・ライターでは、アッと言う間に燃料切れだ。


「しゃ~ね~な!」


 もう一つの方法は…と言うより、こんな状況では、思いつく限り・唯一残された最後の手段だが…車内が完全に水で満たされ、外側と内側の水圧の差が無くなれば、あんがい簡単に扉は開くはずだ。

 だが、それにしたって、どのくらいの力がいることか? たとえば水中でなくとも、横倒しになった車のドアを上に開けるには、相当な力を要する。ドアだけでもかなりの重量があり、足場の悪い所で・扉を持ち上げ切らなくてはならないからだ。水の中で横むきになったなら、下側のドアを踏みつけることもできるだろうが…運悪く、上下逆さまだったが、ほぼ水平だ。


「ドッスン!」


 そんな時、激しい衝撃とともに、流されていた車が突然とまる。水門の入口に、横むきに引っかかったようだ。


「チックショー!」


 車体が揺さぶられた瞬間、足下(あしもと)を濡らす気配に気づいた俺はうめく。換気の経路を伝った水が、浸入してきているようだ。車内は徐々にだが、水かさを増している。


『早くしないと…』


 俺は暗闇の中、手探りで探し物をはじめた。

 上下逆さまの状態では、間もなくエンジンは停止してしまったが…気が付けば、ヘッド・ライトはまだ点灯している。眼が慣れてくれば、かなりの視界がよみがえってきた。


『どこだ?』


 荷室と一体になっている二室(ツー・ボックス)タイプの4輪駆動車だ。どこかに車載工具があるはずだ。


『あった!』


 そこを探し当てた俺は、タイヤ交換用のジャッキを取り出す。

 地上高の高い4WD車。横から見ると、ひし形に伸び縮みする・ストロークの長いパンタグラフ型のジャッキだ。


(「ムース・タイヤ」などと呼ばれる・チューブ代わりの硬質ラバーが入った物や、すべてがゴムでできている「ソリッド・タイヤ」なら、パンクする心配は無い。しかし、路面に合わせたエアー圧にセットできる空気圧調整機構が備わった物なら…地雷を踏んだり・即製爆弾(IED)が爆発しても、しばらく走り続けられる「ラン・フラット」構造にはなっているが…修理・交換が必要な場面だってあるだろう)。


「ヨシ!」


 自動車を操ったことは無かった俺だが、ジャッキを扱う心得はあった。

 たとえば…中間の配管を取りはずすために、その両側の配管を下から()い物をして、ジャッキで固定したりする事があるからだ。


(排気ガスを利用してエアー・バッグをふくらます「エアー・ジャッキ」もあったが、今の状況では使えない)。


 ソイツを使って俺は、最初、リヤ・ゲートを開けようと思ったが…半分以上が水に浸かっている跳ね上げ式の扉では、とても無理だと思った。だいたい、そこと・下流側となる右の助手席には、ジャッキを設置できる場所がない。

 そこで、若干ではあるが上向きになっている、左のフロント・ドアに目をむける。クルマの左方は、上流からの絞り込まれた水流が渦を巻き、すごい勢いだが…もう、フロント・ガラスが完全に水没するほどになっている。


「イチかバチかだ!」


 少しでも有効に力がかかるように、ステアリング・ホイールのスポークとジャッキが一直線になる角度に、ハンドルを回してセットする。もう片方は、左サイド・ウインドウじか当てだが…丈夫な防弾ガラス。割れないことを祈るしかない。

 俺は、右のドアの取手に手を掛ける。


「左のドア・ノブを引っ張りながら、ジャッキを回してくれ!」


 リカがジャッキを伸ばし始めたところで俺は、真横になって右の扉に手をついて・リカが取手を開錠方向に引いている左のドアを、ありったけの力で踏みつける。

 普通なら咄嗟(とっさ)に、下流側のドアをコジ開けようとするだろうが…ヘソ曲がりな俺は、そこでヒトひねりを加えて…「アップアップしながらギリギリまで待つ」なんて悠長なマネをしてないで、一気に強行突破する方法を採用したワケだ。


「ヨッシャ〜!」


 わずかに開いたドアの隙間から、さらに水が流れ込む…と同時に、たまっていた水が動いたのだろう、浮力の重心が変わり・コジ開けようとしていた左の扉側が上方に回り込む。


「!」


 俺はとっさに向きを変え、今度はハンドルと座席(シート)に手を掛け・流れ込む水流の勢いに乗じて、脱出側の右のドアを思い切り踏み降ろす。


『!』


 扉は水中で、ゆっくりと開きはじめた。


「コンチクショー!」


 カラダは、ほぼ伸び切っていたが…最後に渾身の力を振り絞って、蹴り開ける。

 でも、水深はどれほどあるのか? 沈みはじめた車体が底に着く前に、逃げ出さなくてはならない。


「プハ~!」


 わずかに残ったエアー・ポケットに顔を出す。ヘッド・ライトの点灯も、すでに消えていた。暗くて何も見えなかったが…


「行くぞ!」


 俺はリカの存在を確認し、声をかける。


「ええ」


 返事が返ってきたことを確かめて…


「死ぬときゃいっしょだ。こわかないぜ!」


 俺はそう叫んで、リカの腕を引っ張った。


     *     *


「雨?…か」


 今の時代、新たに創られた歌の歌詞には、「雨」なんて言葉は皆無だった。

 だいたい、ずっと穴ぐら生活を送っていたのでは、傘や合羽などの雨具類は…洞穴の天井から、水が()み出ている場所など以外では…必要ない。「アンブレラ」なんて、辞書にその名をとどめてはいるが、実物は博物館で見たことしかない。


『ツイてね~や』


 命からがら逃げ出した俺たちは、かつての文明の名残りの廃墟が立ち並ぶ、ビルの屋上にいた。

 一か所しかない屋上への出入口にバリケードを築いておいたので、野獣の侵入なら防げるはずだが…『雨乞い』ではないが、「焚き火」なんてしたせいか? 霧雨が降ってきやがった。

 どのみちズブ濡れだったが、小屋ほどの大きさのある出入口塔の、風下側の壁に貼りつくようにヘタリこむ。多少だが、これで雨・風を少しは防げる。


「たぶん…このあたりだわ。父が身を投げた場所。いえ…落とされた場所」


 近くに、あの大災害で廃炉となった・かつての文明の原子力発電所があるそうだ。

 なるほど原子力関連の建造物なら、爆発や地震に備え、通常の建物より・はるかに頑丈に造られている。それで先の大災厄にさらされても、こうして原型をとどめているのだろう。


「生物学者が、反原発を掲げて抗議の自決…なんて報じられたけど」


 リカは、ポツリ・ポツリと語り出した。


「父はたしかに、自然主義者だったけど…推進派でも否定派でもなかった。ただ、原子力も制御できないようでは、次世代のエネルギー開発につながらないだろうって…」


 いろんな意見を述べられるのが「民主主義」だ。

 たとえば、「民主政治」と「独裁政治」の違いとは…「禁じられているもの以外は自由なのが民主国家だが、許可されているもの以外は禁止なのが独裁政権だ」そうだ。

 立場によって、言う事は変わるかもしれないが…「あなたなら、どちらを選ぶ?」。


「…」


 リカはそれっきり、黙りこむ。

 疲れ切った俺も、無言のまま座り込んでいたが…無性にタバコが吸いたかった。


「チェッ!」


 でも水(びた)しになってしまった煙草は、黒い布製の小物入れを改造した…本来は、腰のベルトに取り付ける小道具入れなのだが…俺・お手製の「タバコ入れ」の中で、グチャグチャになっている。


『おっと…』


 俺はソイツをビルの外に投げ捨てようとして、一瞬ためらった。俺たちはまだ、逃亡中の身だ。わざわざ痕跡を残すこともない。


「ふぅ~!」


 でも、やっと一息ついた気分だ。


『それにしても…』


 水深があったから、車の下からはい出せた。

 大きな河川との合流の手前に設けられた水門だったから、滑るような激流はすぐに終わり、投げ出されるように・ゆったりした流れの大河に出られた。

 それで、(捜索犬まで駆使しているであろう)追手の追撃を逃れるため、対岸に渡ることができた。


『ツイてたぜ』


 生きのびられたのは、そういう幸運も味方してくれたわけだが…俺たちの負けない力・くじけない心があればこそだ。でも…


「ハア~!」


 ため息が出る。


『どうして、こんなことになっちまったんだろ?』


 ユカや神作の顔が浮かぶ。

 一面の雲や花粉におおわれた真っ黒な夜空を見上げて、俺は途方に暮れていた。「八方ふさがり」の状態だった。おまけに、濡れた身体に、夜の冷気はこたえる。


「ねえ…」


 でも、左に寄り添うものがあるだけマシだった。


「なんだよ? 寝てたんじゃないのか」


 あれこれ思いを巡らしていた俺は、彼女の呼びかけに、フト我に返る。


「興奮しちゃって…それに不安で」


 そう言って、さらにくっついてくる。


『ちょっとは可愛いトコもあるんだな』


 俺は彼女の左肩に回していた腕を、いっそう引き寄せる。


「ねえ…して」


 顔をむけると、闇夜に眼だけ光らせて、うったえてくる。


「あ~ん? こんな時に、こんな所でか?」


「驚き」を通り越して「あきれた」気分になるが…


「さっきはまだ、途中だったし…」


 どうやらマジのようだ。


「それに『心中(しんじゅう)』前の男女は、かならず交わるって言うでしょ」


 そんな話、聞いたことがなかった。

 でも…彼女の一途に注がれる視線に、俺は単なる「欲望」以上のものを感じた。


「中途半端なままじゃ、死んでも死にきれないわよ」


 リカはそう言いながら、迫ってくる。


『なるほど』


 俺は「死後の世界」や「生まれ変わり」なんて、まったく信じなかった…と言うより、あってほしくなかった。


『あの世へ行っても、他人との「しがらみ」とかがあるだろうし…生まれ変わって、また人生「いち」から始めるなんて、メンドくさいぜ』


 それが一番の理由だった。


(「この世」が(イヤ)で自殺した人間こそ、「あの世」があったら困るだろう。なにしろ「むこう」に行ったら、ふたたび死んで逃げ出すことができないのだから)。


 ましてや、人類の歴史なんて、しょせん「戦い」の歴史。


(国家が成立し、立法や司法・行政などの統治の機構ができ上がる以前の人間界は、自分の生存権を守るための「戦争状態」が自然な姿なんだそうだ。たとえば、「握りメシ」が一個ある。そこへ、腹を空かした二人の人間がやってきたとする。そこでお互いが・自分の生命を維持するために、「一個の握りメシ」を奪いあうのは、正当な権利と行為だ。しかし・やがて、「一個を二人で分けあえ」という法律ができたので、戦いを回避できるようになったのだが…それ以降だって、「利権争いの極限的行為」としての戦いが、容認され・休みなく繰り返されてきたわけだ)。


『ずっと聖人・君子でやってきたのならともかく…』


 いまだに、こんな俺だ。

 きっと前世では…男なら戦争に行って「殺し・殺され・奴隷にされ」、女に生まれていたら「(おか)され・(まわ)され・売り飛ばされて」…そんな経験も、一度や二度ではないはずだ。

 生まれ変わる前には、「記憶を消す儀式」があるというが…たとえ『転生(てんしょう)』したって、そんな過去を引きずっていたらやって行けないだろうから、当然のことだ。


(一方で、『魂年齢というのは、本当にあるのかもしれない』と思う時もある。幼い頃から聡明な子供がいる他方、セックスだけおぼえた中学生が、そのまま歳だけ取ったようなオッサンもいる。これ一回こっきりの人生では、同じ人間なのに不公平だ。現世に生まれる前に、すでに数々の体験を積んできたような人々と・ひとつ前の前世は、まだサルだったとしか思えない連中。そんな対比を目の当たりにすると、『生まれ変わりを繰り返し、徳を積み重ねていくのかもしれない?』とも思えてしまう)。


 脳神経学者に言わせれば、「あの世」や「宗教」は、「死への恐怖から逃れるために、人間が創り出したもの」ということになるそうだが、どちらにしろ俺の信条は…


「一度限りの人生かもしれないから、今を精一杯」


 でなけりゃ、たとえ「霊界」や「輪廻転生(リーンカーネーション)」があったとしても、うまく行きっこない。ただし…


『浮遊霊や地縛霊になるのだけはゴメンだぜ!』


 神を信じるか・信じないかという『パスカルの賭け』になら、迷わず「否」に賭けるが…


(『パスカルの賭け』とは、先に挙げた「クレオパトラの鼻」や「考える葦」を語った「パスカル」先生の確率論的提言だ。「神を信じて生きるか・それとも否定した生活を送るか? どちらにしろ神が存在するか否かは、死んだ瞬間にわかるのだから、神を信仰して人生を有意義に過ごした方が良いのでは」とするものだが…「ならば始めから、無神論でもいいだろう」というのが、俺の意見だ。まあ、「死」が「無」ならば、裏切られた気分になることも無いだろうし…まだ宗教が、思想の絶対的権力を握っていた時代のことだ。仕方がなかったのだろう。俺は『懐疑論者の先生は、実は否定派よりだったのでは?』と思っているのだが…そうでも言わなければ、「それでも地球は回っている」の言葉で有名な同時代人「ガリレオ」先生のように、『異端審問(いたんしんもん)』沙汰にでもなっていたかもしれない。もっとも、この宇宙を()べる究極の真理・大いなる意思のようなものを「神」と呼ぶなら、話は別だが…)。


 とりあえず俺は…


『万がいち、「死後の世界」があった時のために、その心づもりだけはしておこう』


 常々そう思っていた。でも…


「でも終わった後で、ここから飛び降りるなんてのはゴメンだぜ」


 戦記モノに、色恋沙汰は嫌いな俺だったが…「生物は、生命存亡の危機に(ひん)すると、生殖行為を行う」という。


『性欲は、戦意に勝る?』


 そう思えば、植物の繁殖活動にも納得がいく。


(あるいは、「性欲(イコール)戦意」の方程式が成り立つ?)


「ふふ…」


 リカの顔に、やっと笑みが戻る。


『現世を力いっぱい生きなくて、なんの来世があるものか!』


 俺たちは局部だけをさらけ出し・求めあい、そして…


「おなかの中にちょうだい!」


 最後はリカの中で果てた。でもそれは、「欲情」というものを越えた、自然な交わりだった。


     *     *


「ああ、ノドが(かわ)いたわ」


 朝(もや)の中、リカがそうこぼす。ビショ濡れで、小雨まで降っているというのに…飲む水が無い。


「チェッ!」


 俺は顔についた汗まじりの雨水を、指でぬぐってなめてみるが…この程度では、なんの足しにもならない。


『さっきの川まで戻るか?』


 でも・あそこには、あの連中が張っていることだろう。


『さて、どうする?』


 はいつくばれば、コンクリートの上にたまった雨水をなめる程度の事は可能だが…


『それとも、特殊部隊や狙撃兵の究極のサバイバル術みたいに、自分のションベンでも飲むか?』


 まあ、まだそこまでではなかったが…かつての日本には、「運動している時は、水を飲むな」神話があったと云う。

 その通説が崩壊したのは、来日した有名マラソン選手のスペシャル・ドリンク「炭酸抜きコーラ」が話題になった頃からだそうだ。スポーツの中でも、もっとも過酷なフル・マラソン。そのトップ・ランナーが、競技中に水分を補給するなんて…きっと当時の全日本人にとっては、「驚天動地(きょうてんどうち)」的出来事だったに違いない。


「なぜ、そんな俗説ができ上がってしまったのか?」


 誰一人として、その理由を解明できた人間はいなかったようだが…


『なるほど、そういうことか』


 俺の中でそのナゾが氷解したのは、『太平洋戦争』期間中に作られた・戦意高揚映画を観た時だ。

 当時の成人ニッポン人の、ほぼすべてが観たであろう白黒の戦争映画の冒頭で、軍人を演じる登場人物が「いつでも飲めるとは限らないから、水を飲まないことに慣れるようにしている」と語るシーンを目にした時だ。


(実際の軍隊において、医学的見地から、水分補給した場合と・しなかった場合の比較検証が行われた記録があるそうだが…かならずしも、その結果で強要されたわけではないようだ)。


 おそらく…それ以来の長い年月、日本人の意識の中に「運動している時は、水を飲むな」という固定観念が刷り込まれ・受け継がれていったのだろう。


『バカバカしいぜ!』


 科学や医学の発展とともに、それまでの常識が180度びっくり返ることがあるが…かつてはダイエットや治療のために、ミートソース抜きのパスタを食べていたプロ・スポーツ選手や糖尿病患者。今度は「肉を食べ・炭水化物を断て」と、ハンバーグを食べて米を抜く。それまでの苦労は、一切が水の泡。「いったい今まで、何をやってきたんだろう?」ということになる。

 まるで、ペテンや詐欺にひっかかったような気分。人間のやる事なんて、アテにならないものばかりだ。


(現在まかり通っている「一般常識」だって、いつくつがえされるか、わかったものではない)。


『ただし…』


 後の時代の「苦戦」や「敗戦」を描いた作品では、ガマンできずに海水を飲んで、さらに渇きをおぼえることになるシーン・「腹を壊すから泥水を飲むな」といった、もっともな理由が語られる場面もあるが…まだ俺たちは、そこまで追いつめられてはいなかった。しかし…


『水?』


 ヒリヒリする喉の乾きにイラつき始めていた俺は、怒りの中でヒラめいた。


「そうだ! 鍾乳洞だ!」


 この近くにある鍾乳洞は、地下内部は公園になっているが、地上とつながっていると聞いたことがある。そこなら案外簡単に、通り抜けられるかもしれない。


「泳ぎは得意だったよな」


 ただしそのトンネルは、水で満たされているのだ。


「見たでしょ」


 初めて(ちぎ)った、室内プールでの光景が思い出される。


「ああ」


 もう夜明けが近い。薄明るくなり・見通しがきくようになったぶん、闇にひそむ獣の影におびえなくていい。

 俺たちは急いで、その鍾乳洞の入口にむかう。


『たぶんコッチだ』


 雨が上がり・朝靄が完全に消え去った頃、地下に鍾乳洞がある丘陵地帯にでる。

 そこは地質の関係なのか、大きな木々は生えていない。でも、手つかずの草におおわれた草原。なかなか入口を発見できない。


『どこだ?』


 花粉で煙っていたが、もうすっかり夜も明けていた。こんなところをヤツらに見つかったら大変だ。しかし…


「バラ! バラ! バラ…」


 不安的中。遠くに、エンジン音が聞こえてきた。


「ヘリコだ!」


 目の前の小高い丘からヌッと姿を現したのは、淡い緑色の国防色だが、ごく普通のヘリコプターだった。

 いくら何でも、まさか丸腰の俺たち二人の捕獲のために、武装ヘリを飛ばすほどでないのは当然だが、ただし…


『?』


 俺たちの姿を確認したそのヘリコは、左右に伸びた農薬散布用ノズルのような装置から、白い霧状の煙りを撒き散らしはじめた。


『マズッ!』


 それが何なのか? 正体はわからないが、とにかくヤバい物には違いなかった。


「もどれ!」


 俺とリカは、いま出てきた森の方にむかって全力で走る。でももう、ヘトヘトだ。死を恐れる余裕すら無いが、とにかく俺たちは走った。しかし…それほど高くはないが、ヒールを履いたリカは速度が上がらない。


『ヤバッ!』


 ヘリが、俺たちの真上に差しかかる。とっさに左にいたリカの手を引いて、ヘリの進路から右にそれた時だ。


「キャー!!!」


 リカが悲鳴を上げる。草に埋もれて気づかなかったのだが、俺たちは二人そろって縦穴に落ちる。


「?…!!!」


 その穴は、きつい角度で地下へとむかっていた。

 それに、陽は差し込まないし・雨が降ると雨水が流れ落ちるのだろう、コケむし・泥のついた岩は良く滑る。


『チックショー!』


 足を下にむけ・あおむけになっていた俺は、爪を立てて何とか止まろうとするが…いったんついてしまった勢い(スピード)は、まったく変化しない。

 おまけに、リカが折り重なるようにおおいかぶさっていたので、身体の自由がきかない。


『クッソー!』


 なす(すべ)のない俺は、下からの「ゴツゴツ」とした岩の突き上げに、ひたすらたえるしかなかった。


「フンばれー!」


 俺はリカに呼びかけると言うより、そう自分に言い聞かせると…徐々に勾配がゆるくなり、速度が落ちてきた。そして最後に…


「ガッツン!」


 大きな突起にでも引っ掛かったのだろう。


『イッテー!』


 両足の裏に一気に重みがかかり、いったん軽くバウンド。


「ドッスン!」


 着地と同時に、やっとストップした。しかし…


「カラン…」


 小石が落ちる音が聞こえる。


『…?』


 足先に触れる物が無い。

 俺の両足は、空中に飛び出してブラブラだ。ここから先は、さらに一気に落ち込んでいるようだ。


「間一髪だぜ」


 俺はホッと胸をなで下ろす。カラダの方も、ツルツルで滑りやすかったせいか、軽いスリ傷と打撲程度で済んでいた。でも…


「ここは結構タケーよ」


 海面・水面など、景色が一様な所は、高低の遠近感が狂いやすい。近いのか・遠いのか、わからなくなるものだ。


(いわゆる「空間識失調」という状態に近い)。


 それで飛行機のパイロットには、高度計が必要になるわけだが…どっちにしたって、底の見えない暗闇だ。


「それ!」


 試しに小石を投げてみるが…闇の中に吸い込まれるだけで、着水した音も聞こえない。


「よいしょ!」


 次に大きな石を落としてみると、「ボチャン!」と音を立てるまでに数秒あった。

自由落下(フリー・フォール)』なら、最初の1秒間で10メーター弱。ストップ・ウォッチが無いので正確には計れないが、ざっと1~2秒。つまり水面まで、3~40メートルほどの高さだろう。


「う~ん…」


 俺は思案していた。おそらくこの高さからだと、入力角がチョットでも傾いていたら…


『大変なことになるかもしれない』


 俺は深夜、酔って高飛び込み用のプールに忍びこんで、死んだ人間の話を思い出していた。

「腹ブチ」の強烈なやつだ。内臓破裂で、プールは一面まっ赤だったという。


(今にして思えば…ただの「都市伝説」ってやつかもしれないが)。


 実のところ水だって、高さや速さが増せば、コンクリートの上に落ちるのと変わらないと言う。よほどきれいに飛び込まないと、一瞬で「あの世行き」だ。かと言って…


「…」


 上を見上げてみる。

 俺たちが滑り落ちてきた入口は、はるか上方でポツンと光りを放っている。登って登れないこともないだろうが、かなりの時間と困難がともなうはずだ。それに上には、ヤツらがいるだろう。


「…」


 振り返って、下方の暗闇に目をやる。

 そんな時、ふとガキの頃の記憶が(よみがえ)ってきた。父親に連れられて、海洋と地下でつながっている・海水の地底湖に、夜釣りに行った時のことだ。

 あのころ住んでいた地下都市では、時間の観念を失わないようにと、灯火管制が行われていた。昼も夜も無い潜水艦の艦内のように、時間に合わせて…昼間の時間帯は明るく・夜間は薄暗くと…照明の調整が行われていたコロニーだった。


(魚にとっても…潮の干満など…活動期や停滞期がある。俺はくわしくは知らないが、「釣り好き」の人間に言わせれば、釣れる時間帯があるそうだが…もちろん海水魚の連中は、「太陽時間」で動いているのだろう)。


 明るい時間に、湖を渡る船がもやいである桟橋に着いた時は、ちょうど引き潮ということもあって、海面までの距離はかなりあった。

 俺は怖くて、手をついて四つんばいにならなくては、下をのぞきこめなかった。


(適度に下が見える高さが、一番「恐怖心」をあおるのだそうだ。だからいっそ、スカイ・ダイビングくらいの高さにまで上がってしまった方が、怖さは減るものらしい)。


 だが『(めくら)(じゃ)()じず』という(コトワザ)がある通り…世の中には、暗くて見えないと「恐怖心」が増えるものと・減るものがある。

 たとえば…漆黒の闇は、意味も無く恐怖をあおるものだ。かなりの年齢になるまで、夜、寝室からトイレに行く時、廊下の電気をつけるまではドキドキものだった。

 それは、昨晩経験した、狼との遭遇に通じるものだ。


(子供の頃の俺は、「夜」はすべての明かりを消せば、一切の光りが存在しない暗黒の暗闇だと信じていた。事実、「月明り」はおろか・「星明り」すら無い地下世界では、昼間ですら照明がなくては一切は闇の中だ)。


 でも俺は、極端な「暗所恐怖症」でも・病的な「高所恐怖症」でもなかった。


(ごくまれに存在すると言われる「恐怖不感症」でもなければ、誰にだってその程度の「恐怖心」はあるはずだ)。


 夜釣りに行った俺は…下が見えないのを良いことに…平気で桟橋の(ヘリ)に腰掛け、闇の中にむかって足をブラブラさせていた。『知らぬが仏』とは、こんなことだ。


『たぶん次からは、明るくても大丈夫だろう』


 あの時、幼い俺はそう思っていた。でも…


『水深が浅かったり、水面に岩でもあったら?』


 だいたい、ここが目指していた洞穴かどうかもわからない。


「う~ん…」


 しかし今のところ、ここが一番の近道だ。それに…


「カラン…」


 上から小石が転がり落ちてくる。


「?」


 さっきからチラチラと、光りをさえぎる影が動いている事には気づいていた。むしろアイツらが降りてくる前に、先を急いだほうが良さそうだ。


『こうなったら、イチかバチかだ』


 他に選択肢はない。その時、左側から…


「飛んだり・落ちたり・潜ったり…大変ね。わたしたち」


 俺の左に並び、下の闇をのぞき込むリカも、同意見のようだ。


『やるしかないな』


 俺は決心した。


「服は脱いだほうがいいかしら?」


 リカが訊いてくる。


「いや、その服なら大丈夫だよ。水分を吸収しやすい素材じゃ重くなってダメだけど、水が冷たい場合は、むしろ服を着ていたほうが保温になるんだ」


 服を着たままで…ガキの頃のプールでの落としっこ・学生の時、調子にのって地底池に飛び込んだ経験・などなど。


「それに、子供の頃やらなかったかい、お風呂で? 湯船につけたタオルに空気をためて、ふくらませるの」


 俺は『自分が知っている限りのアドバイスをしておこう』と思った。


「そうすれば浮力がついて、少しは楽に浮かんでいられるんだ」


 彼女は、うなずいているようだ。


『ヨシ!』


 俺は下方に向き直る。


「俺が先に飛び込むよ」


 万が一のことを考えて、そう言ったのだが…


「いやよ」


 意外な返事が返ってきた。


「え?」


 リカの方を向くと…


「死ぬときゃいっしょ…そう言ってたでしょ」


 俺は嬉しくなった。今までと違い、少し余計なことを考えている時間があったぶん、心に迷いや不安が芽生えていた。


「わかったよ。でも、なかなか死なないよな、俺たち」


 そう言うと…


「きっと私たち、死なないわよ」


 そう返してくる。


「さて」


 ただし、靴だけは禁物だ。衣服は保温や浮力の助けになるが…靴は泳ぎの邪魔になるし・水がたまって重みが増すだけで、何の役にもたたない。


「ゴクリ!」


 俺たちは、それぞれ靴だけ脱いで腰に差し・暗闇の(エッジ)に立って手を取りあう。


「今度は何て言うの?」


 彼女の指先は、かすかに震えている。


「?」


 良い文句(セリフ)が浮かばない。


「寂しくない…なんてどう?」


 リカが提案してくる。


「ヨシ! それで行こうぜ」


 俺たちは、崖っぷちに爪先をかける。


「いいかい?」


 握りあっていたリカの手に、力が入る。それが合図だ。


「行くぜ!」


 彼女の手を引きながら…


「死ぬときゃいっしょだ」


 俺は声を張り上げる。


「寂しくないぜ!」


     *     *


「ドプン!」


 俺は大体の方角の見当をつけて、水に潜ってみる。幸い、そんなに広くはないようだ。


「ブク・ブク・ブク…」


 でも俺は、闇の中では方向感覚や平衡感覚が狂いやすい人間なのかもしれない。ぜんぜん洞窟の入口が見つからない。それに、飛び降りたまではよかったが…


「うわ~!」

 「キャ~!」


 飛び出した瞬間、俺たちは二人とも、思わず叫び声を上げていたが、間もなく…


「ドッパ~ン!!」


 高飛び込みの選手のように、飛沫(しぶき)も上げず・綺麗に着水できたわけじゃない。きっと、盛大な水柱が立ち上がったことだろうが…


「生きてるか?」


 握っていた手は、着水のショックで離れてしまったが…俺たちは無事だった。しかし…


『ここじゃないのか?』


 確証があって、ここに来たわけじゃない。たまたま落ちた先が、ここだったというだけだ。


「プ~ッ!」


 何度目かの潜水の後、水面に顔を出す。俺はかなり疲れてきたし、だんだん不安になってきていた。だが、はい上がれる場所はないし、水は思っていた通り、かなり冷たい。早く何とかしなくては、体力を消耗する一方だ。


「こっちに来て!」


 その時、闇の中からリカの声がする。


「どこだよ?」


 俺は、声のする方向に泳いで行く。


「こっちよ!」


 声に導かれ、彼女の元にたどり着く。


「どうしたんだ?」


 立ち泳ぎしながら尋ねると…


「光りが見えるの」


 リカの声が、そう告げる。


「どこに?」


 一筋の光明が差してきたのか? 俺は闇の中で、目を輝かせる。


「こっちの方角よ」


 リカは、後ろから俺の頭を両手でつかんで、方向を示す。


「うんと深く潜って!」


 俺は大きく息を吸って、両手で水をかいて勢いをつけ、思い切り頭を水につける。いったんケツを水面に跳ね上げるようにしてから、両足を伸ばし、一直線に潜って行く。


「ブク・ブク・ブク…」


 深く潜るにつれ、水圧がかかり耳が痛くなってくる。普通なら鼻をつまんで鼻腔をふさぎ、鼻息で圧をかけ「耳抜き」をしなくてはならない。


(高速エレベーターなど、高度の上下による気圧の変化で耳がツーンとする時は、ツバを飲み込むものだが)。


 もし水中マスクをしているなら、顔面に張り付くマスクの圧力を逃がしてやるために、内側から息をかけて圧を抜く「マスク抜き」も必要だが…もちろん俺たちは、水中メガネすら持っていない。

 それに俺には、そんな行為をしなくても「耳抜き」できる方法があった。でもそれは、たぶん俺だけが・生まれつき持っていた身体の造りによるものだろう。


(人間の耳の奥には、「エウスタキオ管」という名称の穴が開いている。それは「中耳(ちゅうじ)」から「咽頭(いんとう)」につながっていて、「中耳」と外気との間の気圧の平衡を保つ働きをしている。だから気圧の急激な変化があった場合、必要に応じて、そこを加圧・減圧してやるわけだ)。


 どういうわけか俺は…上手く表現できないが…上アゴの奥にチョイと力を加えてやるだけで、耳の奥の方で空気が抜けるような感触があり、「耳抜き」が完了してしまう。


(学校の代表で、コロニーの水泳大会に参加した小学生の頃には、自分のそんな違いに気づいていた)。


 理屈はわからないが、水中でなくてもできる。今や生活必需品となったエレベーターやエアー・シューターなどで、急激な上昇や下降をすると、気圧の変化で耳が詰まるようになるものだが…その時にも、同じことをしてやればいい。


(しかし大気中でやりすぎると、頭の中の内圧の方が高くなってしまうような感じになり、欠伸(アクビ)が出て・音の聞こえ方がチョット変になってくる)。


 誰に教わったわけでもないが、深く潜る時には、自然におぼえたその方法を繰り返してやるだけでいい。


(さすがに強い圧力がかかる状態までガマンすると、困難になる。だから浅い深度から、頻繁に実行してやる必要がある)。


「ブク・ブク・ブク…」


 俺は両手で水をかきわけ、さらに奥を目指す。水平方向に視線をむけていると、やがて目の前に広がっていた闇が切れ、遠くにボヤッと明かりが見える。

 俺は、潜水する深度が足りなかったのだ。


『潜水はリカのほうが得意だ』


 そう思いながら、水面へと取って返す。胸のあたりまで勢いよく飛び出し…


「あった! たぶん…あれだ!」


 息を吸いながら、そう告げる。


『でも…』


 かなりの距離がある。彼女はともかく…俺には、あそこまでたどり着けるかどうか、自信がなかった。しかし…


「行くか?」


 そうは言ったものの…不安だった。


「ええ」


 だが・どちらにしろ、こうするしかなかった。


「スウ~ッ!」


 俺はチョット間を置き、リカが潜ったのを見届けてから、思い切り息を吸い込む。


『なむさん!』


 トンネルに入った俺は、光りを目指して闇雲に手足を動かした。でも力んでいるわりには、いっこうに前に進まない。リカには、かなり離されているし…前方の光源はまだ、ポツンとしか見えない。


『!』


 たっぷりと空気を吸い込んでふくらんだ胸が、水圧に押されて苦しい。


『もうダメだ!』


 ガマンできなくなった俺は、ブクブクと肺にため込んでいた空気を吐き出す。


『?』


 俺の身体は、自分の意思とは裏腹に浮上をはじめ…上体を(うわ)むきに返して、天井にへばりつく。


『どっかの窪みに、空気があるはずだ』


 俺は、そう思い込んでいた。すっかり目標を見失っていた。


「! ! !」


 苦しくて、ただ無我夢中だった。一番あぶないパターンに(おちい)っていたが、それも仕方ない。俺は、我を忘れていた。


「…」


 意識が遠のいていく感じがした俺の眼前(がんぜん)に、中学の同級生の親父さんの顔が浮かんできた。


『そう言えば…』


 地下建設現場で働いていた彼の親父さんは、ある時、不意の土砂崩れに遭い、「生き埋め」となった。それほど大規模なものではなかったらしいが、人を死にいたらしめるには十分な時間が過ぎていた。


『でも、あの時…』


 彼の親父さんは、(バイザー)付きの安全帽(ヘルメット)をかぶっていた。


(人は、胸が収縮することで呼吸ができる。だから、たとえ鼻や口が表に出ていても、肺のまわりの胸の動きを完全に押さえつけられてしまったら、呼吸できないという)。


 土砂に埋まった親父さんは、ヘルメットのバイザーから腹をむすぶ線に空洞ができた。気道が確保され、胸の動きも阻害されない。それで、奇跡の生還を果たしたそうだ。


『でも俺は…このまま…』


 その時、背中をグイと引っ張るものがあった。


『?』


 俺はその力のかかる方向を目指し、天井の岩を逆さまに・はうようにして伝って行く。目の前に見える明かりがみるみる大きくなって、ついに手が空振りする。


『着いた!』


 大きく広がる水面にむかって昇って行き、間もなく顔に触れる抵抗が消え去る。


「くあ~っ!」


 俺は「これでもか」と言わんばかりに、口と気管と肺を開き・空気を取り込む。


『人間空気圧縮機エアー・コンプレッサー


 助かったという安堵感からか、そんなくだらない文句が頭に浮かぶ。


「はあ・はあ・はぁ~」


 俺は胸にかかる水圧に抗するため、肩で息をしていた。


「土砂崩れで口まで埋まったとき…それとも、誘拐されて口にテープを貼られたとき…せっかく鼻が出ているのに…風邪や花粉症でハナが詰まっていたら…くやしいだろうな…きっと」


 俺は…たぶん混乱していたのだろう、つまらない冗談が口にのぼる。


「死んでも…死にきれないよな、はあ・はあ」


 リカには、俺が何を言っているのか、理解できなかっただろう。そんな俺を彼女は…


「ひとりで死んじゃダメよ」


 そう言って、九死に一生を得た俺の頭を抱きかかえてくれた。


     *     *


 我に返った俺たちは、水面からあたりを見回す。

 照明はともっていたが、まだ朝早い時間だ。でも、時間の観念が狂った現代では、どんな生活形態を送っている人間がいるか、わかったものではない。


「…」


 目を走らすと…それほど広くない池ほどの大きさで、陸地との境目には、転落防止用の鎖が張られた柵がある。

 ここは公園的な場所になっているようだが、俺たちが住む地下都市の最果ての地。幸い人影は無い。俺たちは、ザブザブと水から上がる。


「早く行こう。ここはマズイぜ」


 たぶん奴らは、俺たちがここにいるとの見当をつけてくるだろう。それに、もう少し時間がたてば、人目につきやすくなる。


「なにグズグズしてるんだよ?」


 俺は、なかなか池から出てこないリカに、小声で怒鳴る。


「どっかでひと休みしましょ、飲み物でも買って」


 そう言いながらリカは、ビショ濡れで水から上がってきた。


「金なんか持ってねーよ」


 俺がそう言って、彼女の手を取ろうとすると…


「これ」


 リカは、両の(てのひら)を広げて見せる。そこには、銀や赤褐色に光る硬貨が数枚のっていた。


「どうしたんだ?」


 いぶかる俺に…


「とにかく行きましょ」


 リカは水を切るように身体を振り、先に立って小走りに駆け出す。


「ビチャン! ビチャン!」


 俺は腰に差していたビショビショの靴をはき、リカの後に続く。


「フン!」


 振り返れば「キケン! 深みあり! 立ち入り禁止!」の看板が立っていたが…


「あの池は『願いを唱えて後ろむきにコインを投げ込むと、想いがかなう』って言われてるの」


 リカは、さっきの小銭の出どころを、そう解説してくれた。


『なるほど』


 今や世の中は、「電子マネー」全盛の時代だった。新規に貨幣を製造するくらいなら、そっちの方がよっぽど安上がりだし・手っとり早いのだから当たり前だ。

 局地的に集まった現代の都市形態が、その発展にいっそうの拍車をかけた。あらゆる取引が、カード一枚で…もちろん、必要な金額が入っていればの話だが…決済できた。むしろ金額が大きくなれば・なるほど、実物の現金が動くことはマレだった。回線を通じて、カネのやり取りが行われるのだ。

 だいたい俺たち一般庶民が、最高額紙幣の顔を拝む機会なんて、まず無かった。だから、実際にそんな物が存在し・流通しているのかどうかも、怪しいものだ。


(いったい俺たちは、何を銀行に預けているのだろう?)。


 しかし、最初は『そんな物いらない』と思っていた物だって、いったん普及して使い慣れてしまうと、もう以前の物ではカッタルく思えてしまうものだ。


(たとえば、車や住宅のパワー・ウインドウだ。初めは「そんなもの必要ない」と文句を言ってみても、やがて・それが当たり前になると、「レバーをグルグル回す」なんて時代遅れの動作は、非近代的に感じるものだ。人類は・そして文明は、後退することを許さない)。


 それで(物質的には・ほとんど価値の無い「信用貨幣」と呼ばれる)「紙幣」は、この世からほとんど姿を消していた。

 だが逆に、より原始的な(しかし、金属としての実体を持ち・多少は実価値をともなった)「硬貨」は、自動販売機ベンディング・マシーンなどの小口の支払い用に、いまだに命脈を保っていたわけだが…


『願いや想いだなんて…さすが女子!』


 そう感心しながら俺たち二人は、公園入口の駐輪場脇の鍾乳石の陰で、自販機で買った飲物で喉を潤していた。


「グビッ・ゴク・ゴク…」


 鍾乳洞というのは、湿度が80~90パーセントなんてのが当たり前だ。ただ地下の温度は、だいたいその地上の年間平均気温で安定しているそうで、それほどの不快感はない。しかし…


「サッサと逃げないと…」


 缶のジュースをあおり終えたリカの意見には、俺も賛成だが…


「ンプ! で、どうする?」


 そう言いながら、鍾乳石の陰から顔を出すと…


「!」


 自転車置き場の隅に放置された、赤い婦人車に目がとまる。


「あれだ!」


 俺たちは腰を低くして、その自転車の脇へ移動する。俺の右肩越しに、リカも様子をうかがっている。


「使えそうだ」


 タイヤの空気が甘かったが、走れないことはなさそうだ。ただ後輪に、馬蹄(ばてい)形の(ロック)がかかっていた。


(レバーを引くと、自転車の骨格(フレーム)に固定された外殻から、半円弧状の(アーム)が出てきて施錠される仕組みだ)。


 でも、単純な構造の・四桁のボタンを揃えれば開くタイプ。

 ロックがはずれるに従い、微妙にガタが増える。それを感じながら、順に四つのナンバーを合わせればいい。


「ヨッシャ~!」


 腕の見せどころだ。俺は腕まくりをしながら、数字を探り始めたのだが…


『?』


 横あいから、人影が近づくと…


「バシン!」


 どこで拾ったのか、コブシ大の石ころで…レバーを解錠方向へ一撃!


「グズグズしてるヒマは無いのよ」


 ぱっくり開錠。


「さすが…」


 俺がアングリ口を開けて、リカを見上げると…


「感心してる場合じゃないで…」


 リカがそこまで言いかけたところで、公園の奥手の方から「メン・イン・ブラック」…喪服(もふく)の男たちが姿を現わす。ズブ濡れでここまで来た俺たちの痕跡を、たどってきたのだろう。


「選択の余地なしね」


 彼女の言わんとしている事は、即座に理解できた。こんな所に隠れていたって、遅かれ早かれ・いずれ見つかるに決まっている。

 ここはサッサと「逃げるが勝ち」だ。


「チャリならまかせとけ!」


 先に挙げた・かつて栄えた「インカ帝国」は、車輪を持たない文明だったそうだ。峻険(しゅんけん)な山岳地帯では、それももっともな話なのだろう。

 そして日本も…「アンデス山脈」とまではいかなくとも…山と海に囲まれた風土では、やはり車輪の文化はイマイチ発展しなかった。


(平安期に中国から伝わったとされる「牛車(ぎっしゃ)」や、江戸時代以降の「大八車(だいはちぐるま)」・明治の「人力車(じんりきしゃ)」など、近場回りの荷車くらいだ)。


 大帝国を築いた「蒙古(モンゴル)軍」は、牛や馬に引かせた巨大戦車を運用していたと云うが…『大東亜戦争』中、機械化の進まなかった「日本軍」。馬や馬車に、自転車と徒歩兵ばかりでは、広大な「中国戦線」で疲弊してしまったのも当然だろう。


(ユーラシア大陸には古代から…現在では「自動車」を意味する“car(カー)”と語源を(いつ)にする…“chariot(シャリオット)”という戦闘馬車が存在し、いくつもの民族で運用されていたと云い伝わる)。


 そこまでいかなくとも…たとえば洪水以前の文明でも、坂道・小道の多い土地では、自転車の普及率が低かったそうだ。

 そして・それ以上の環境となった現在では、自転車に乗れない奴なんてザラにいた。


(むしろ・そちらの数の方が、はるかに多いだろう)。


 だが俺は、ガキの頃から自転車にいそしんでいた。

 子供の頃は…「チャリンコ暴走族」というタイプではなかったが…「飛ばし屋」「走り屋」を自認して、クラスの仲間を引き連れコロニー中を走り回っていたものだ。


(それで自分が住む居住区の中なら、隅々の小路(こみち)まで熟知していた)。


「行くぜ!」


 リカが後ろの荷台に座ったのを感じると、俺は一気にペダルを踏み降ろす。


「バタ・バタ・バタ・バタ…」


 俺たち二人に気づいた数人の「黒服の男たち」は、一斉に駆け寄ってくるが…無駄なことだ。


「アッバヨ~!」


 すぐ先に、()字路の黒い壁が見えてきた。そこを俺は、ブレーキ・ターン気味に右折。

 その先は…地表から降りて、まださして深くない場所。俺たちは、さらなる深部を目指して、緩いスロープで加速した。


     *     *


『クッソ~!』


 苦しくて、声も出せないが…


『あと少しだ!』


 今どきの自転車。電動アシストは付いていたが、バッテリーはすっかり上がっている。


『ク~!』


 俺は、短いが・きつい上り坂に閉口していた。


『もう…ダメだ!』


 歩いたほうが速いスピードまで落ちたところで、後ろに乗っていたリカが飛び降りる。


「ゼエ・ゼエ…」


 俺は息を切らしながら・意地になって自転車を漕ぎ、リカはスタスタと徒歩で…登りきった先にある・地下鉄の駅へと通じる、細く・薄暗い歩行者用通路に入る。


「よい…こらしょ!」


 平坦になったその中ほどで、天井や横壁からしみ出した地下水が溜まる水たまりをさけ、腰を降ろす。


「ふい~っ!」


 かつて、人類が地上で暮らしていた頃に造った地下坑道だ。当時は、地上を走る電車の下をくぐるアンダー・パスだったそうだが…下へ・下へと都市が伸びた現代では、そのトンネルの下に鉄道ができたので、今ではオーバー・パスになってしまった。

 そんな古ぼけた・(コケ)むし・忘れ去られた隧道(ずいどう)。こんな不便なルートを利用する者はいないのだろう…人気(ひとけ)はまったく無い。


「服が乾くまで、少し休もうぜ」


 俺はリカに、そう提案する。地下鉄は24時間・年中無休で運行しているが…


(縦の移動には、近場ならエスカレーター・遠距離ならエレベーターを使うが…横方向の交通は、近距離なら動く歩道・他のコロニーなどへは地下鉄がメインだ)。


 乗客のまばらな車内では、ましてやズブ濡れの生乾きの格好では、かえって目立ってしまうだろう。

 それで俺たちは、しぼった服が着干しで乾くのを待つあいだ、ひと休みすることにした。


『アンダー・グラウンドな連中のほうが、よっぽどマシなセンスをしてるぜ』


 寄りかかった壁には一面、色彩豊かに・スプレーなどで落書きがしてある。意味不明な抽象画や文字…などなど。中にはエアー・ブラシを使って、綺麗に描かれた物もあった。


『落書きだって、何百年・何千年もたてば価値が出るのさ』


 その昔、大昔の「(サムライ)」と呼ばれた日本人の署名が、アジアのどこかの遺跡か寺院で発見された事があったと云う。そして・それは…その時代に、そこまで日本人が行っていたという歴史的証拠になったという訳だ。

 でも、それが書かれた当時は、観光地の「お(のぼ)りさん」の落書きと同じ意味しか持っていなかったはずだ。


『ふう~ん』


 そんなアートを眺めていると…ガキの頃、実家の廊下の壁一面に、落書きをしたことを思い出した。


(俺にとっては「作品」であり、「いたずら」という意識はまったく無かった。そんな想いが通じたのか? 怒られた記憶は、まったく無いが…今では、そんな事を平然と許してくれた両親に、感謝している)。


 とある有名な洞窟壁画だって、案外その時期の人類の子供が、洞窟探検ゴッコのついでに描いた物かもしれない。


『なるほどな』


 そこで、ピンと来るモノがあった。


『芸術の意義って何だろう?』


 かつて多感だった年頃に、そんな事について・考えをめぐらしたものだ。しかし・まだあの頃は、知識も経験も不足していた。


『芸術や芸能なんて、ムダなもの。そんなもの無くても…むしろ実用一点張りの方が、早く・効率的に技術や科学が発展しそうだ』


 いつもそこで止まってしまい、答えの見つからぬままになっていたのだが…たとえば、人類史の大過去において、現生人類とラップする期間に共存していた「ネアンデル・タール人」。


(実際、ネアンデル・タール人から遅れてアフリカ大陸を出奔(しゅっぽん)したとされる、後の白色人種(コーカソイド)黄色人種(モンゴロイド)の遺伝子には、ネアンデル・タール人との交配の事実がある)。


 その痕跡から「死者に花をたむけたり・ハンディキャップのある仲間を養うほどの『心』があった」とされる一方で、その遺跡からは、絵画などの「芸術」と呼べるような物は発見されていないと言う。


(「線画」程度の物なら存在するが、とても「芸術」と呼べるような代物じゃないようだ)。


「なぜ、ネアンデル・タール人や、その他の亜種が絶滅して、現生人類の『ひとり勝ち』状態になったのか?」


 その結論は出ていないそうだが…ここまで述べれば、俺の自説は、だいたい想像がつくだろう。つまり…


「芸術の意義とは…象徴的(シンボリック)なものを打ち立て、その元に(つど)い、一致団結することだ」


 もし戦争状態になった時。親類・縁者など血縁関係のみの数十人の軍勢しか集められない集団と、共通の旗印(はたじるし)(もと)に・お互い「赤の他人」同士でも数百の数を集められる種族では…

「俺の結論」は、だいたいそんなトコだ。


『それに…』


 なにもそれは、戦いの場に限ったことではない。


「人間一人の力など、タカが知れている」


 例を挙げれば、巨岩を使った巨大建造物の構築…等々。そして・その特性は、現在の人類にもあてはまる。


(元々は、「巨石などを用いた巨大建造物の建築は、農耕が始まった後で行われるようになった」と言われていたが…近東(ニアー・イースト)で、狩猟採集の『石器時代』に造られた大規模遺跡が発見されて以降、「金字塔(モニュメント)を築くには時間がかかるため、定住し農耕が始まった」とするのが、「正しい順序では?」との説が、支持されるようになったそうだ)。


「もし、『芸術の心』を解さない生命体が、現在の人類みたいな状況になったら…とっくに散りぢりになって、絶滅していたはずだ」


 少し長くなったが…今の人類が滅んだ後で、次の地球の覇者が、俺の落書きや・このトンネルのペインティングを発見して、貴重な文化遺産として大切に保存したりすれば大笑いだ。


(しかし間違いなく、その文明にはかならず、「芸術」と呼べるようなものが存在するだろう…と、今ならそう思える)。


『そうだ?』


 そんな事を考えていると、フト、先ほどの「池の云い伝え」を思い出し、何げなく…


「へえ~。じゃ、何か願いをかけたことがあるんだ?」


 と、左に寄り添うリカに話かける。

『突然なに?』といった表情を見せるが、すぐに気づいたようで…


「…うん」


 とだけ、返してくる。


「どんな願い?」


 俺があたりのペインティングを見回しながら、そう尋ねると…


「結婚できますように…って」


 そんな答えが返ってきた。


『?』


 独身が、なかば当たり前の・こんな世の中だ。


「誰と?」


 それは、はっきりした対象者があっての事とは思えなかったが…


「むかし付き合ってた人と」


 そう言い切った。


「あの人は『男』だったわ」


 俺がリカの方に向き直ると…遠くを見るような目つきで、そう続けた。


「別れちまったのか?」


『男』というからには、そういう関係だったのだろう。


「うん」


『そんなこと、きくもんじゃない』とは、わかっていたが…


「どうして?」


 先に口が出る。


「もっと良いセックスがあるんじゃないかと思って」


 彼女は、そう言いながら立ち上がる。


『なんだよ、そんなことか。やっぱり、ただの好き者じゃねーかよ』


 そう思いながらも…


「チョット待てよ!」


 先を急ごうとするリカを制止する。

 服は生乾きだったが、あやしまれない程度には乾いていた。それに俺たちは、早く次の行動に移らなくてはならなかったが…


「ビリビリ!」


 俺は、着ていたシャツの両の(ソデ)を、肩の所から裂き、それを細かくちぎる。


「さて…」


 そろそろ人が動き出す時間だ。


(生産設備の整った一部の製造業などは、まだ絶対数が不足していることから、終日操業しているが、自然が相手の農林水産業や…中には、照明設備を使った24時間体制のハウスや温室栽培もあるが…潜行中の潜水艦の艦内と同じような・こんな環境にあっても、律儀に「太陽時間」で動いている仕事や、「昼時間」を守っている役所・学校関係の方が多かった。昼夜の区別がなくなったからといって、一人の人間が丸一日じゅう活動を続けられるわけではないのだから、まあ当然だろう)。


 だが身を隠すには、かえって好都合。都会にあっては、雑踏の中にまぎれてしまうのが一番だ。

 でも、迂闊(うかつ)には歩けない。顔認証機能を備えた監視カメラだって、あちこちに設置されているはずだ。


「プッ!」


 お互いの顔を見ながら、切れはしを頬の内側に詰めるなどして、できるかぎりの変装を試みていたのだが…リカの奴は、そんな俺の顔を見て吹き出しやがった。


「なんだよ、笑ってる場合かよ」


 俺は太目・彼女は細目のパターンで行くことにしたのだが…


「ゴメン・ゴメン」


 リカは笑いをかみ殺しながら、そう言うが…


「マジメにやれよ」


 そうは言ったものの、少し気分がほぐれたのも確かだ。


「さてと」


 問題は「耳」だ。


「入国審査官は、パスポートの写真と見くらべながら、成形がしにくい耳の形をチェックする」


 そんな話を、義手や義足の製作で人体パーツに造詣(ぞうけい)の深い義父から、聞いたことがある。

 だから耳を隠すのが、もっとも手っ取り早いのだが…指紋を消したり、車のナンバー・プレートを折り曲げるのと同様、そちらの方がよほど目につきやすい。


『どうする?』


 ここで頭をひとひねり。布切れの繊維をほぐし、糸を取り出す。


「いた・た・た」


 リカはピアスをしていたので、両耳から下に糸を引っ張って、アゴの下で結ぶ。


「ガマンしろよ」


 俺は、耳の後ろに丸めた布片をかませ、糸で巻いて形を変えてみた。


『はたしてこれで、機械の眼をゴマカせるのか?』


 だいたい俺は…


「現在の人工知能(AI)が、どこまでの知性を備えているのか?」


 詳しくは知らなかったが…たとえば、「1÷(割る)3」だ。コイツを電卓で計算すると、「0.333…」と出てくる。しかし、それはあくまで近似値で、答えは「1/3」。

 そういった点まで加味してくれるのが「アーティフィシュアル()インテリジェンス()」の進化であり・真価と言えるのだが…


「規則と機械」


 ルールや決まりに(あたかも・それが宇宙の真理でもあるかのように)固執する(やから)がいるのと同様…「機械はウソをつかない」的なことを語る狂信者も、少数ではなかった。


「規則尊重者」と「機械信奉者」


 しかし、しょせんはどちらも「不完全な人間が造った物」だということに気づいていない。

 時代にそぐわなくなった規則は、改正する必要があるし…マシンは、(入力をひと文字でも間違えた時と同様)微妙な公差のズレや・わずかな劣化で誤差が生じれば、思った通りの反応をしてくれなくなる。


(そういった意味では、機械はいたって「正直」だが…)。


 そして・そんな事は、俺が日常の業務で、しばしば実感している出来事だったが…逆に・そこに、わずかばかりの期待をしたわけだ。


(実例を挙げれば「指紋認証」だ。俺たちみたいに、手先を酷使する仕事…重たい物を持ったり・(エッジ)の立ったボルトやナットをつまんだり、その他、廃油や洗い油・洗浄液にさらされる職種の人間に、「指紋認証」はいたって不便だ。指先が汚れていたり・手荒れをしていたり・キズがあると、まったく反応しないことが多々ある)。


『どっちにしたって、イチかバチかさ』


 たとえ正体がバレたとしても、はたして奴らに、どこまでの機動力や人的物量があるのか?

 どちらにしろ俺には、人ゴミの中をかきわけて悪党どもが登場する前に、やっておかなくてはならない事がある。時間との勝負だ。


「行くぜ!」


 地上側をむいて上にのびる廃坑道に自転車を隠し、通勤・通学客のうねりに飲まれて駅を行く。

 群衆にまぎれ込めば、体格の特徴はつかみずらいだろうが…俺は「あえて堂々と胸を張り」、彼女は「髪をたらして猫背気味」と決めてみた。やがて…


『あった!』


 今や世の中は、無線電話全盛の時代だった。要所・要所に、中継局や送受信ボックスを置くだけでいい。電子マネーと同様、新たに電話線を引くことを考えたら、そちらの方が手っ取り早く・安上がりなのだから当然だ。

「一人に一台」が当たり前のご時世だが…駅構内などの公共の施設なら、片隅に一台くらいは、有線の公衆電話があった。


(各家庭や会社の固定電話と同じく…頻繁に不通などのトラブルが発生する携帯電話(モバイル・フォン)より…確実性では、こちらの方が上だった。非常用などに、まだまだ無くなることはないだろう)。


「ピ・ポ・パ…」


 小銭を入れて、タッチ・パネルを押す。俺は、数字や記号に強かった。


(「化学」を志す以前から、そうだった…と言うより、そんな俺だったから、「(バケ)学」の道に進んだのだろう)。


 たとえば、何の意味もない数字の羅列の電話番号だって、すぐに記憶できた。


『?』


 まずは、ユカの携帯(セル・フォン)にかけてみたのだが…呼び出し(コール)に変な雑音(ノイズ)が入っている。


妨害(ジャミング)?』


 あわてて受話器を置く。


『こっちはヤバそうだ』


 続いて、俺の自宅・神作の電話(ケータイ)とコールするが、どちらも出ない。


『次は…』


 俺たちの事務所にかけてみる。現場仕事の俺たちの朝は早い。


(客先の始業時間の頃には、現地に到着できるよう…移動時間から逆算して出発するからだ)。


 もしかすると神作は、もう事務所にむかっているかもしれない。


『ビンゴ!』


 呼び出しが鳴ったとたん、回線がつながる。


「もしもし…」


 受話器のむこうで、聞き慣れた声がする。まだ数日しかたっていないのに、妙に懐かしい気持ちになる。


「長電話はマズいわ。盗聴されるわよ」


 リカが横から、小声で忠告してくれる。

 地下内部には、各地に電波中継所がある。たとえ携帯電話とはいえ、そこに盗聴器を仕掛けられたら、会話のみならず・だいたいの位置まで割り出せるという。

 ましてや有線の公衆電話は、回線数が少ないのだから、いっそう逆探は簡単だろう。


「了解」


 相槌(あいづち)を打った俺は、無言で受話器をたたく。


「トントン・トッ…トントン」


 まずは「救難信号(SOS)」を発信する。まもなく居所はバレるだろうが…会話の中身を盗み聴きされるのだけはゴメンだ。


『ん?』


 その時、俺の背後にピタリとくっついて、あたりの様子をうかがっていたリカが、スソを引っ張って合図を送ってくる。


『?』


 顔を上げ、彼女がアゴで指し示す方角に目をやると…左耳に指先を当て、左右に視線を走らせながら、一人ブツブツとつぶやくように口を動かす男が見えた。


『!』


 ワイヤー・レスや有線のイヤー・フォンで、通話をしている奴などザラにいるが…その目つきや仕草からすると、内部相互通信装置(インターコム)に違いない。


「フン!」


 いたってカジュアルな身なりだが、スーツか作業服・学生服の地味な人間ばかりの中にあっては、かえって異彩を放っている。


「一番安い切符を2枚、買っておいてくれ」


 俺は急いで残りの伝言を送信し…左の方にある発券機から戻ってきたリカと、改札の前で合流し、歩みを止めずにチケットを手渡してもらう。

 そのまま改札を通過し、ホームへと進もうとするが…改札の右のはずれで目を光らせていた先ほどの男と、遠巻きに目が合う。


『!』


 一瞬ハッとした表情を見せ、右の(エリ)元で口をおおってから、あわてて動き出した。


『チッ!』


 バレちまったら仕方ない。


『予定変更だ』


 俺は左手でリカの右腕を引き、焦らず・しかし足早に、ホームの奥へとむかう。


『さて、どうする?』


 ここは終着駅。ちょうど電車が到着したところで、全員が吐き出され、こちらに向かって来る。

 ここから見て、列車の左側は降車専用だが…


『ヨシ! それなら…』


 俺たちは、改札へとむかう人の波に逆らって、先へ・先へと進む。


(人手不足で、駅員の数は必要数に満たないし…だいたい、「(おきて)やぶり」なんて不届き者は、今の世の中には存在しなかった)。


 車両がある場所までたどり着いたところで、後ろを振り返って見れば…奴も人ゴミをかき分けるようにして、こちらをにらみつけている。


(歳の頃は、俺とそう変わらないだろうが…「いかにも」そういった組織に属していそうな、命令には忠実だが・融通のきかなそうなツラだ)。


 どうやら一人のようだが…自分の存在をさとられた事に気づいた男は、いきなり血相を変えて動き出す。


「ヤバッ!」


 その時、降車側のドアが閉まるとのアナウンスが流れ、合図のサイレンが鳴る。


「今だ!」


 俺はリカを押し込むようにして、車内に滑り込む。

 終着駅だということは、始発駅でもあるということだ。反対側のドアの外には…従順そうな連中が乗車を待って、おとなしく列を作って並んでいる。


『こっちの扉が開いた瞬間に飛び降りて、ダッシュをかけるか?』


 一瞬、そんな考えが浮かんだが…乗り込む人の流れに逆らわず、ひとまず車内の中ほどへ。発車までは、まだ数分ある。


『どうする、オレ?』


 奴の姿は確認できないが…


『これで何度目だろう?』


 やはり「こうなったらイチかバチ」。わざと発見されて、引っ張り回して(けむ)に巻くしかない。


「いいか…」


 俺はリカにプランを告げる。


「乗るんじゃないの?」


 彼女は聞き返してくるが…


「次の駅で、待ち伏せくらうに決まってんだろ」


 そう答えながら、車窓の外に目をやると…


『!』


 思った通り、あの男はホームのこちら側に回ってきて、各車両を見て回っている。こんな時に改札にむかったら、かえって目につきやすい。


「さっきのトンネルで落ち合おう」


 コイツがここで見張っていたという事は…少なくとも駅までのルートに、録画形式でなく、リアル・タイムで監視できるカメラは無かったのだろう。

 なるほど、人間の数が減れば、犯罪の件数も減るだろうし…社会の規模が小さくなれば、監視・管理しやすい反面、予算の額も少なくなる。

 案外カメラの数も、(ちまた)で言われているほどではないのかもしれないが…とにかく俺は、リカが無事逃げおおせられるように、ギリギリのタイミングまで、奴を引き付けておく必要がある。


「いいな、頼んだぜ!」


 小声でそう言い残し・その場をあとにした俺は、ヤツが近づきすぎない距離まで来たところで、いったんホームに降りる。


「!」


 順々に各車両の様子をうかがっていた男と目が合ったところで、「ハッ」とした表情を作って見せ、ひとつ先の車両に飛び乗る。だが、敵もさるもの。すぐには乗ってこない。

 扉は、前・後とまん中の三か所。下手に乗り込んで、別の乗降口から逃亡されるのを警戒しているのだろう。


『ついてこいよ』


 そこで俺は、あえて中央の出入口から顔を出し、引っ込んでさらに奥にむかう。あとは、進行方向側のトビラと、隣りの車両への連絡口しか残されていない。

 そんな俺の行動を確認した男は、中央口から乗り込んでくる。


『ノッてきたな』


 俺は男との間合いを測りながら、あえてユックリと先へ。奴も俺の出方をうかがいながら、急がず・あせらず…だが・しっかりと、間隔をつめてくる。


『もうチョイ』


 ヤツが手を伸ばせば届きそうな距離・ついでにドアとドアの中ほどまで誘いこんだところで、発車のベルが響き渡る。


『いまだ!』


 俺は…何かで読んだのか・誰かに聞いたのか? 今では判然としないが、大昔の大戦の後の「闇市列車」の話を憶えていた。

 なんでも、不正な取引で手に入れた食料品を抱えた人々で・ギュウ詰めの超満員列車の車内は、荷物棚まで人があふれていたそうだ。


「スンマセン!!」


 俺はそう言いながら、吊革がブラ下がっているバーを両手でつかみ、目の前に座るスーツの男の膝を踏み台にして、懸垂するように棚にはい上がる。


(配管の間をくぐり抜けて機械の上に登ったりなど、この程度の運動なら日常茶飯事。「お茶の子さいさい(ピース・オブ・ケーキ)」だ)。


 戦後の網棚ではなく、金属製のパイプ棚だ。大人が一人のったくらいでは、ビクともしない。


『スミマセン・スミマセン』


 俺は心の中でそう唱えながら、棚に置かれた荷物を蹴散らすように・ズリ這いで、まさに閉まらんとする扉にむかう。

 あっけに取られた周りの乗客には悪いが、非常事態だ。


『あとチョイ』


 出入口に立っている乗客の頭に、腹ばいで「胴上げ」されるように載って…閉まりはじめた左右のドアに両手をかけ…はさまれながらも転げ落ちるように、アタマからホームに飛び降りた。


「プシュ~」


 後方で、ドアが閉まる音が聞こえる。

 ホームのコンクリートの上にベタ座りした俺が、動き出した列車を振り返ると…蹴上(けあ)がった場所の窓に貼り付くようにして、苦虫をかみつぶすような表情で・こちらを見ているさっきの男。


「バ~カ。地下鉄の窓は開かね~んだよ」


 俺は、(古い洋画で観た)列車に飛び乗って逃亡するフランス人が、『残念だったな』という意思を表示する「手の平を上から下に返す」仕草(ジェスチャー)をして見せてから…背中や腰についたホコリを払いつつ、歩足を速めた。


     *     *


「誰に連絡したの?」


 キコキコと・油切れの音を発する自転車の荷台に乗ったリカが、俺の右肩越しに訊いてくる。


「知ってるだろ、相棒だよ」


 彼女は、うなずいているようだ。俺たちは今、カマボコ形をした、歩行者・自転車用の通路のような坑道を進んでいた。


(あまり一般には知られていないが、コミュニティー間をつなぐ鉄道本線の壁一枚隔てた場所には、いざという時の非常脱出用・普段は保守点検などの作業用トンネルが、それに沿って続いている)。


「キコ・キコ・キコ…」


 鉄道の側道なので、大きな起伏もカーブも無く、点々と一直線に続く・低い天井から下がる薄明かりに照らされたコイツを使えば、人目につかず隣り街まで行けるだろう。


「でも…どうやって?」


「モールス信号」について、かいつまんで説明すると…


「何を伝えたの?」


 送ったメッセージは、「第三共同体製紙・ツール一式2セット」だ。


「でも…信用できる人なの?」


 リカと神作は、例の「アンダーグラウンド文化(カルチャー)センター」での初仕事で、顔を合わせた程度の面識しかない。


「完璧さ」


 俺は頭の中で、あれこれプランを練りながら、漫然とペダルを漕いでいた。それでも…線路に沿った道なので、きついカーブは皆無だし・ほとんどが見通しのきく直線部なので、平気だった。

 そんな造りを利用して、壁や天井にはビッシリと、配管(パイプ)や電線がはっていた。血管だって、これほど理路整然とは並んでいないだろう。


(冷たい物を食べると、「頭イテ~!」と後頭部をたたく神作。「冷たさ」で「頭痛」を感じるのは、「冷」と「痛」の神経が接近している人間だそうだ)。


 空気に、上下水道・ガス・電気…etc(などなど)


(空気ばかりでなく、エアコンなどの空調も、拠点における集中管理が行われているが…富裕層が集まる高級マンション・タイプ居住区画には、電力の安定供給のため、航空機用のジェット・エンジンを数基備えた、自前の地下発電所を持っている所もあった)。


 ナゼ俺が、こんな「抜け道」を知っているのかと言えば…距離の長いトンネルの天井には、一定の間隔をおいて、空気の循環用の送風機(ブロワー)がブラ下がっている。


(もちろん自動車用の隧道(ずいどう)にも設置されているし、そちらには排気ガスの排出用の設備もある)。


 ブロワーは、「低圧(空気)圧縮機(コンプレッサー)」と呼称される事もある代物。その整備のため、何度か入ったことがあるからだ。


(鉄道の看板や道路の標識は、スピードが上がった状態で視認できるよう、実は・かなりの大きさがあるものだが…それと同じで、ジェット旅客機のエンジンのような形をした送風機は、そばに立つと想像以上のサイズがある。大きな物になると、大人が立って入れるほどだ)。


 ただし、非常口は警報器と連動しているので遠慮して…正攻法で行くことにした。


『ここは警備が甘い』


 内情がわかっていれば、簡単に入れる工場や施設もある。


(高校の学友に、こんな奴がいた。大学の入学試験。日にちを間違えて、他学部の試験日に会場に入ってしまった彼の弁によると…「入るのは簡単だったけど、出るのは大変だった」そうだ。まあ、そのくらいの奴だから、その学校に受かることはなかったが)。


「送風機の調子が悪いらしくて…急に呼び出されて」


 ノー・スリーブになったシャツを着た俺なんかより、オンナの方が当たりが良さそうだったから…


「工務だったかしら?」


 そこでリカに頼んだわけだが…


「ああ、設備班だね」


 ガードマンのオヤジは、「突発なので、工事依頼書も無い」という彼女の説明に、まんまと乗せられている。

 それに「工務部」や「施設課」なんて、どこにでもある。さらに「佐藤さん」「鈴木さん」あたりの名を出せば、だいたい何とかなるものだ。


「最後に、担当者のサインをもらってきて下さいね」


 警備員はそう言って、複写式の入門票を切って、リカに手渡している。


「どうも~」


 俺たち二人は自転車を押しながら、「工務部・施設管理課」の守衛室の前を、軽く会釈して通りすぎる。


『なかなか、やるじゃね~か』


 証拠になりそうな紙切れを、破り捨てる前に読んでみると…行き先は「設備班 斉藤様」。そして俺たちは、「田中リサ」と「高橋ダン」らしい。


「ギ・ギ・ギ・キィ~」


 それから小一時間ほど。到着した廃工場の裏手にある、サビついて・きしんだ鉄扉(てっぴ)を引く。


(一歩裏に回れば…たとえ、そこで働いていたとしても…部署が違えば、まったく縁のない場所があるものだ)。


「?」


 今では使われなくなった、カビくさい備品庫。

 通路の灯りを受けて、ホコリをかぶって放置された機器の陰から、ヌッと人影が立ち上がる。


「!」


 リカは一瞬、後ずさるが…


[神作か?]


 俺が、モールスでそう送ると…


「おう、ゲンか。どこにいたんだよ?」


 神作の声が返ってくる。


「ちょっとな」


 ホッとした軽い感じの俺をさえぎるように…


「ちょっとじゃねーよ、大変だぜ!」


 俺はドアを引き戻しながら…


「ところで…ツケられてないだろうな?」


 扉が閉まると同時に相棒は、小型の懐中電灯(マグ・ライト)を点灯させる。


「ヘーキ・ヘーキ、まかせとけって」


 図体のわりにすばしっこい奴だし、サバゲーなど、俺なんかよりはるかに、そっち方面の知識も経験も豊富だから大丈夫だろう。


「オマエこそ、尾行されてないだろうな?」


 神作は、皮肉っぽく返してくる。


「たぶんな」


 相棒は、そう返事する俺の後ろにいるリカに気づいたようだ。


「知ってるよな?」


 そう言うと彼女は、俺の左隣りに出てきた。


「大方、察しはついてるさ」


 神作の口から、意味深な言い回しが返ってくる。


「何があった?」


 一抹の不安が頭をよぎる。


「まず…事務所が荒らされてる」


 神作が口を開く。


『奴らだ!』


 俺はユカのことが気になった。


「聞いてんのかよ? きのうは直帰(ちょっき)でパチンコに行って、さんざん負けてよ」


 神作は続けるが…俺はうわの空だった。


「そのあと、チームの仲間んトコ寄ってさ。酒飲みながら次のゲームの打ち合わせして、そのままソイツんとこ泊まってさ。けさ事務所に行ってみたら、あのザマだよ。いったい何があっ…」


 俺は、まくし立てるようにツバを飛ばしはじめた神作をさえぎって…


「ユカは?」


 話の腰を折られた相棒は、不機嫌そうな口調で…


「知らねーよ」


 そんなふうに・そっけなく言うが、続けてすまなそうに…


「電話はしてみたんだが…」


 肩を落とす。


『ユカが危ない!』


 今まで自分のことだけで精一杯だった俺は、事態がさらに深刻なことに気づいた。


『ヤロー! ユカにまで手を出しやがって』


 自分のあずかり知らない所で、卑劣な手を使う連中。


「クッソー!」


 俺は眩暈(めまい)を覚えるほどに、頭に血が昇った。


     *     *


「どこに行くの?」


 俺の目の前にピッタリくっついているリカは、怒りで眼尻のつり上がった俺の顔を下から見上げながら、そう訊いてきた。


『!』


 俺はハッと我に返る。俺たち二人は、俺のような業者しか使わない業務用エレベーターを乗り継いで、深々度地下にむかっていた。


(たとえば、ホテルの従業員専用エレベーターや、スーパーやデパートの通用口など…ちょっと中に入れば、一般の利用客には、その存在すら・いっさい知られていない世界が、いたる所にあるものだ)。


「いいトコさ」


 俺はこわばっていた顔の表情をゆるめて、そう答える。


「いいトコって?」


 エレベーターが止まり、ドアが開く。


「地獄の三丁目さ」


 そう言ってウインクする。


「いよいよ実戦か! ワクワクするぜ!」


 そう言う神作を残して、俺たちがむかった先は…同業者の間では、俗に「地獄の三丁目」と呼ばれている所だった。


(なぜ「三丁目」なのか? 代々そう呼ばれてきたという事実だけで、その()われを知る者は、今は無いが…『地獄の○丁目』とは、かつて大昔、旧「日本国」で使われていた慣用句的表現らしい。「地獄=キツイ状況」を表し、「一丁目」は、その入口。だから「三丁目」ともなれば、恐怖も苦行もひとしおだろうけど…実のところ、『単に語呂が良かっただけ程度だろう』と、俺は思っている)。


「なんだよ! 置いてけ堀かよ」


 最初はそう言って、不満をあらわにしていた相棒だったが…


(「置行堀(おいてけぼり)」とは、もともと『江戸』期の怪談に端を発する言葉で、「置き去りにされる」ことを意味する)。


「オマエには、やってもらいたいことがあるんだよ」


 俺がプランを告げると…


「わかった! なんだか面白くなってきたな」


 そう言って快諾してくれていた。


「こっちだ」


 最下層にある・最後のエレベーターを降りた俺たちは、さらに階段を下って・狭く薄暗い通路の行き止まりにある、「地獄」への鉄扉(てっぴ)に手をかける。


「着いたぜ」


 本当は「地獄三丁目」ではなく、ちゃんとした区画名があるのだが、それには理由(ワケ)があった。

 ここは、地下都市中に張り巡らされた、空気搬送用のパイプ・ラインの分岐点(ジャンクション)になっていた。闇の中に何本も伸びる巨大な配管の内側は、まさに「地獄への入口」という感じだった。


「ここだ」


 俺がそう言って彼女を導いたのは…


「へえ~、こんな場所があるのね」


 初めて目にする光景にリカは、そう感嘆の声を漏らす。


「こいつに乗ってきゃ、バッチリさ」


 そして又ここは、「モグラ(モール)」と呼ばれる配管作業用の運搬車(トロッコ)のたまり場でもあった。

 天井の低い・炭鉱への入口のような・薄暗いプラットホームにズラリと並んだ、大小さまざまな・いくつもの「土龍(モール)」。コイツは、ラバー・スカートを垂らした「ホバー・クラフト」が進化したエアー・カーみたいな物だ。


(円弧を描いたパイプの内側の移動には最適だ)。


 推進力は、電動空気圧縮機で作られた、超高圧で噴出されるエアー。


(場所がら、排気ガスを出す内燃機関(エンジン)などは敬遠される)。


 その力で地面から浮き上がり、前方と後方に配された「偏向ノズル」で、前後左右どちらの方向にでも動くことができる。


(狭い配管の中では、「切り返し」や「Uターン」など不可能だから、当然の仕組みだ)。


 数人乗りから・工作機械を搭載できる物まで、大きさも様々だが…ただし、その動力ではパワー不足で、垂直方向への上昇・下降はできない。


(狭い場所での作業用なので、最高速度もせいぜい時速40キロほどだ)。


 そこで目的地へ続く横穴まで、ここから立体駐車場のような垂直循環式ラックと、コンベアーのような水平移動用パレットを使って…荷物の配送センターの出荷倉庫みたいに…()げ降ろし・右に左に横行(おうこう)させるわけだ。

 そこから先は、モールでも走行可能なゆるい傾斜がついた経路が、上下左右たくみに組み合わされているが…


()きはだいたいが登り道。ゆえに(かえ)りは下り坂だ)。


 まさに迷宮(ラビリンス)。慣れた人間でも、迷子になることがある。


(余談だが…かつての日本国の電気の周波数=「Hz(ヘルツ)」は、『静岡・糸魚川構造線』を境に、東西で異なっていた。それは『明治』期に、海外から発電機を輸入した際…東京を中心にした東日本では、ドイツからの「50Hz」仕様・大阪方面の西日本では、アメリカからの「60Hz」を使用したからだそうだ。今では、大災厄を機に統一されているが…それとは・まったく無関係な話だが、日本古来の原生種の東のモグラと西のモグラは、かつての50Hzと60HzHzのように…外来種は、おかまい無しのようだが…ナゼだか・決して『構造線』をまたがないと言う)。


「コイツがウチのマシ~ンだ」


 ホコリをかぶった青いビニール・シートをはぎ、リカに指し示す。

 バイクやジェット・スキーのように、またがって乗車する…ただし、転倒した時のケガ防止用に、鳥カゴのようなパイプでおおわれた…二人乗り・縦列乗車(タンデム)式の小型のモール。


(中古のポンコツだが、俺たちだって、配管の中を通って現場にむかう事があるからだ)。


「ただ…まさかこんな時代になるとは思ってなかったから、下からのセキュリティーには甘いところがあるの」


 リカのその言葉をヒントに、コイツで真下からコッソリ近づくつもりだ。


「もともとは核シェルターの目的で、極秘に作られたらしいの。核戦争がはじまったら、そこから数々の指令が出せるようにって、20世紀の頃に…だから、装備も設備も完璧よ」


 奴らのアジトは、山の内側をくり抜いて建設された、かつての政府の施設だった。


「今では、一番テッペンになっちゃったわけだけど」


 なるほど。


「それで『地表の上のヤツラ』って呼ぶのか」


 納得だ。でも…


「それで、どうするんだよ?」


 そう言う神作と落ち合った俺たちは、先ほどの小部屋で、今までの一部始終と・真実についての詳細、それに今後の計画について話し合った。


「でも、君たちの組織は、壊滅させられてるんだぜ」


 相棒の話だと…今朝のニュースは、あの清掃工場で原因不明の爆発事故があり、多数の死傷者が出たと報じていたという。


「もともと私たちは、面とむかってヤツラとやり合うつもりは無かったわ。マトモにやったんじゃ、勝てっこないもの」


 それを聞いたリカは、語り出した。


「ただ何とかして事実を白日のもとにさらして、世論にうったえかけようと思っていたの。事態が取り返しのつかなくなる前に、みんなの目を覚まさせようとしていただけ」


 俺とリカは、神作が持参してくれた・鉛色がかった灰色の作業服(ツナギ)に着替えながら、話を続けていた。


(不燃性とまではいかないが、難燃性の・木綿(もめん)のような素材でできたワーク・スーツ。多少ゴワつくが、化学繊維は…たとえば溶接のさいに溶け散った、「ダマ」と呼ばれる高温の火球に触れたりすると、とろけるように穴が開いてしまう)。


「善良なブタどもの目をかい?」


 俺がそう皮肉ると、遠慮会釈なしに下着姿になっていたリカは、苦笑いする。


(上下とも紫。白って柄じゃないので…まあ似合ってる。本当はツナギも、闇に溶け込めるように黒っぽい物にしたかったのだが…こんな世の中だ。客先によっては、万が一の時を考慮して、濃い色の服装が禁止されている所もあるので…手持ちのカラーは、こんなものしかなかった)。


 俺の物なので、(タケ)はあまってしまうが、腰回りはピッタリだ。


(男女の体格差とは、そういうものだ)。


「どっちにしたってこうなったら、早くコトを起こさなくちゃならないでしょ」


 そうだ。俺は、ユカを助け出しに行かなくてはならない。


「何か質問は?」


 俺は、うなずきながら黙って聞いている神作に、そう問いかける。


「いんや~。べつに~」


 相棒は、後頭部をかき上げただけだ。


「お前は、いきなりこんな話を聞かされて、それで信じるのかよ?」


 俺の言葉に「ああ」と、疑う素振りさえ見せない。


「単純な奴」


 俺とリカは、「パワー補助装置」に「形状保持ゴム」をセットする。


「長年つれ添った相棒がそう言うんだから、そうなんだろ」


 神作は、ポツリとつぶやく。


『わかった!』


 それを聞いて安心した俺は…


「それじゃ予定のプランがうまくいかなかったら、後はオマエの好きにしてくれ」


 ポケットのたくさん付いた・メッシュのベストのジッパーをピチッと上げながら、そう告げる。


『もしものことがあっても、真実を知り・警察などの「しかるべき機関」に伝えてくれる者がいれば…』


 内心では、そう思っていた。


「ちょっと待ってくれよ。俺も行くよ」


 神作は、嘆願口調になるが…


「道具は二人分・ウチのモールは二人乗り」


 ひとつ・ひとつの装具を身につけるたびに、気分が(たかま)って行くのを感じながら俺は、相棒の要求を受け流す。


「生死にかかわらない試練は、厳しければ厳しいほど、精神を強く鍛えあげる」と言うが…


(「生き・死に」にかかわる状態にさらされる戦争は、それゆえ心に異常をきたす者が続出するわけだ)。


 無事に帰ってこられる保証はなかった。


「それに、彼女じゃないと場所がわからない」


 最後に、その他もろもろのバンド・ツールを(たずさ)えた作業ベルトを締める。


「チェッ!」


 相棒は舌打ちするが…


「お前は、武器や道具をかき集めといてくれ。火の手が上がったら、その時は…」


 俺が調子よくそう告げると…


「わかった! なんだか面白くなってきたな」


 それで納得してくれたようだが…


「そうそう」


 一番最後になって、思い出した。


「お前の靴を貸せよ」


 草原で逃げ回っている時もそうだったが…ハイヒールじゃ走れない。


「はあ~?」


 俺の突然のリクエストに奴は、『意味わかんね~』といった反応を見せるが…


『コイツの足が小さくて、助かったぜ』


 自然界には、「自分より図体の大きなものには手を出さない」という不文律がある。

 それで小魚は群れを組み、ひとつの大きなカタマリになるワケだが…神作のように肩をスイングさせる「ゴリラ歩き」は、身体を大きく見せる視覚的効果が働く。


(肩をいからせる「ヤクザ」は、本能的に、そういった行動を行っているのだろう)。


 それでコイツは、実際の身長より大きく見られるのが常なのだが…


「俺はどうすんだよ?」


 渋る相棒に…


「ヒール貸しといてやるよ」


 ブッきらぼうにそう言うと…


「おめ~の冗談は、いつ聞いても笑えね~よな」


 そうグチりつつも、靴ヒモをほどき始める。


「ヨシ!」


 リカに履かせてみると…ウエスでチョイと、詰め物をしてやるだけでよかった。


「それと…オヤジさんにも、伝えておいてくれ」


 俺はそう言い残して、リカとともに部屋を出た。


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