3・AVENTURE《アバンチュール》
お盆が明けると、急に仕事がヒマになった。
毎年のことだが、遅れてやってきた夏休み。しかし今年は連日のように、警察に呼び出されては例の事件の聴取を受けるので、何もできなかった。
(同業者の中に、たまたま「行き倒れ」に出くわしてしまった者がいたが…あいつらは、こっちの都合なんてお構い無し。下手をすれば、「犯人扱い」されかねない。「もう二度と通報なんてしない」と語っていたが…実感だ)。
やっとひと段落した今日は事務所で、俺と神作・それにユカの三人で、件の出来事についての特集を組んでいるワイド・ショウ番組を見ていた。
「な~るほど!」
当局の発表によると、あのカプセルに入っていたのは…今では絶滅したと言われていた・かつて自然界に存在していた毒性の強いウイルスで、空気感染もする代物だそうだ。
(大昔、それが原因の伝染病が蔓延し、多くの死者を出したらしい)。
だが今のところ、その病原体の出所や・宿主を特定することは、できていないようだが…もし・あそこでフタが開いていたら、生活用空気に乗った細菌によって、多くの犠牲者が出ていたかもしれない。
「ふ~ん。危ないとこだったな。落とさなくてよかったよ」
相棒がそう言ってうなっているところに、一人の男が入って来た。
「こちらで、エアー・コンプレッサーの整備をやって下さるとうかがったのですが…」
入口のカウンター前に立つ男は、40代後半といったところだろうか? 「七・三」に分けた、テカッた黒髪。地味な紺色のスーツを着たその男は、どこかの営業マンか公務員といった感じだった。
(黒ぶちの度の強いメガネのせいか、表情がよく読めない)。
「いつまで見てるのよ、お客さんよ」
最近では珍しい過激な犯罪に、どこのチャンネルも特番を組んで、にたような番組を放映していたが…ユカが、小声で小言を言ってくる。
「何かおきないかと思ってさ。見てるんだよ」
今すぐ事態に急変があるとは思えなかったが、俺と相棒は野次馬根性が先に立って、ついつい画面に見入ってしまう。
「ちょっと出てくれよ」
ユカが、こちらに不満そうな顔をむけてから応対に出ている間…当事者たる俺と神作は、かまわずテレビを見続ける。
「しっかし、汚い手を使うよな」
相棒がつぶやく。
これまでも、食品に異物が混入されるといった事例はあったが…今回の事件は、今の時代を象徴するような犯行だ。特番の中には、『シュレディンガーの猫』にたとえて報じている局もあった。
(それは、20世紀初頭の物理学者「シュレディンガー」博士によって唱えられた、思考実験だそうだ。なんでも…放射線に反応して毒物が発生する装置が設置された箱に、ネコを入れる。放射線が出なければネコは生きているわけだが…量子力学的観点から見ると…生死の確率が1/2なのではなく、「半分生きて・半分死んでいる状態」なのだという)。
「ふ~ん???」
なんだか、わかったような・わからないような解説だったが…とにかく、市民生活が何者かによって脅かされていることだけは、確かなようだ。
いまだ犯行声明や脅迫文は出されていないようだが、いずれ犯人から何がしかの要求があるのだろう。
「これ…」
そんなところに、客の応対に出ていたユカが、名刺を片手に戻って来る。差し出されたビジネス・カードには「新世界プラント・サービス」という会社名が入っていた。
「経費節減のため、自分たちでオーバーホールをしようと思いまして…つきましては、機械の構造や整備についての講義をしていただきたく思いまして、おうかがいした次第なのですが」
俺たちの前に座る男は、見かけ通りに・キチキチと、礼儀正しくしゃべる男だった。
「四~五日の予定で、ひと通りお願いしたいのですが…」
俺は相棒と目を合わせる。奴は『お前がやれよ』と、テーブルの端を指先でたたいて「モールス」を送ってくる。
「う~ん」
男の背後に掛かった、スケジュールが書き込まれたホワイト・ボードに目を走らす。空欄の目立つ予定表に、まるまる一週間、空いている箇所があった。
『仕方ね~な』
講師だなんて、気乗りのしない仕事だったが…
「背に腹はかえられない」
それに…メーカーや代理店を通さず、ユーザーから直接・仕事の依頼が入るという事は、よくあることだ。中間マージンを引かれない分、相互にメリットがあるからだ。
しかしメーカー側としては利益が減るし、何かがあった時の保障問題などがあるため、良い顔をしない。だからこういった関係は、メーカーには極秘裡のうちに話が進められることが大半だ。
(たしかに、間に入っている商社などが多いほど、経費もかさむわけだが…大きな会社は、大きな工事になればなるほど、事故や機械を壊してしまった等、万が一の時の事を考えて保険に入る。ゆえに先方が倒産した場合などは、途中に入っている会社が多いほど、被害が少なくて済むワケだ。実際、闇営業で獲得した発注先の「夜逃げ」のあおりをくらって、廃業に追い込まれた同業者もいる)。
基本・俺たちは、「裏でコソコソと、かけ引きアリの金額交渉なんて面倒だし…やりたくもない事やってまで、金なんて欲しくない」人間だったから、そういった類いの仕事は請けないことにしていたのだが…今回は「請負い工事」というわけでもなく、部品代や材料代などの前払いもない。カラダひとつで済む仕事だから、問題ないだろう。
「仕事先へは、当日わたくしが、直接ご案内役いたします」
その男は、そう言い残して去っていった。
「何やってる所かな?」
相棒は、メモ用紙に書かれた現場の名前を見て、そう言う。
「アンダーグラウンド文化センター」
俺も初めて聞く名前だったが…別に、いつもと「チョットばかり違う仕事」をするだけのはずだった。
* *
「ホント、文化の香りがするぜ」
相棒は、そうグチる。あたりはハエが飛び交い、すえた臭いが充満している。
「人前でしゃべるのは、苦手なんだよ」と俺。
「へ理屈じゃ、お前に負けるさ」と神作。
あの男が帰った後、そんなやり取りがあったが…仕事がヒマだったので、けっきょく俺たちは二人でやって来た。
「なるほど…たしかに文化を象徴してるぜ」
先日、俺たちの事務所を訪れた男に案内されて着いた先は、早い話が清掃工場だった。
地表近くの地下に建設された「アンダーグラウンド文化センター」の上の地上には、巨大な煙突がそびえ立っているはずだ。
「カルチャーの、煙り昇ればババア行く…ってトコだな」
そんな状況に、相棒が一句ひねる。
「今日は、ナカナカさえてるじゃねーか」
俺は相棒の詠んだそんな詩に、相槌を打つ。
今では、こういった設備を建てるには、地元に貢献するような公共施設を併設しなくてはならない。ここにも、ゴミ焼却時の熱を利用した大浴場などがある・老人福祉や介護のための機能が兼ね備えられていた。
そういったこともあって、「文化センター」なんてシャレた名前を持っているのだろう。でも…
『変わってんな』
俺は、そう思った。
こういった仕事は公共の事業だったが、建築から維持・管理まで、さまざまな形で「新世界プラント・サービス」のような民間の業者が業務を請け負っている。しかし公の施設である以上、必要とされる支出を独自の判断で削るとか、入札を通さず仕事を発注するなんてことは、緊急の場合以外に経験したことがない。
「ただ今、こちらの所長さんにご紹介いたしますから」
俺たちはそう言われて、応接間に通される。
ここまで来ると、先ほどのすえた臭いはまったく無い。現代人が必要に迫られて作り上げたシールド・システムや空調設備は、完璧に機能していた。
「ピピピピ」
鳥カゴの中で、つがいの鳥がさえずっている。
今の時代、金に余裕のある奴は実用性も兼ねて、小鳥を飼っていても不思議ではないが…
(昔から、小鳥は「酸欠に弱い」と言われており、かつては炭鉱に「カナリア」を連れて行ったり・潜水艦で「じゅうしまつ」を飼っていたりしたんだそうだ。でも実は、「鳥は人間より耐性がある」という説もある。ただ、空気より重たい有毒ガスがたまっている場所では、人間より鼻や口が低い位置にある四足動物の方が、先にくたばるだろう)。
しかし…
『変わってんな』
その部屋に入るなり、異質な雰囲気を感じる。
『?』
室内を見回し、その原因がわかった。
壁には、花が描かれた絵が掛けられている。
(今ではタバコ同様、屋内に観葉植物を持ち込むことには、厳しい規制がかけられていた。そうでなくとも、アレルギーの原因になる花なんて、皆に忌み嫌われる存在だった)。
その他にも、棚には陶器などが並べられ、テーブルには石の飾り物まで置いてある。
『こんな何の役にもたたない物、どうして置いとくんだろ?』
俺がそんなことを考えているところに、例の男が女性を一人従えて戻ってくる。
『?』
かすかな香水の香り(?)…が、俺の鼻腔に届く。
今では、香水なんて珍しい。嗅覚が麻痺したような連中ばかりの世界では、そんな物、まったく意味をなさないからだが…
「こちらが、ここの所長の生方です」
その男の口から、そんなセリフが発せられる。
『え?』
俺は意表を突かれた。
別に深く考えたわけでも・何の根拠も無かったが…『清掃工場の所長なんて、男に決まってる』くらいに思い込んでいたからだ。
『マジかよ!』
あわててソファから立ち上がり、あいさつをする。
名刺を交換し、もう一度ソファに座り直したところで、マジマジと…しかし、無遠慮にならないよう・上目遣いで…その女性の顔を、のぞき見る。
『歳の頃は、俺たちと同じくらいか?』
ウェーブのかかった長い髪。
(地毛なのか? うっすらと茶色がかっている)。
模様こそ入っていないが、明るいイエローのスーツにスカート。
(指輪やネックレス、ピアスをして、口紅までひいている)。
『とても公務員とは思えないぜ』
化粧もせず、地味な格好をした女ばかりの時代だった。
(バーやスナックと言われる所にだって、もうこの手の女性は残っていない)。
でも俺は彼女に、もの言えぬ感情を覚えた。
「それじゃ、よろしく」
俺たちは簡単な自己紹介の後、数日間の予定を打ち合わせして席を立つ。
『生方リカか…』
俺は彼女の名刺を見ながら、廊下を歩いていた。
「イイ女だな」
俺は相棒が左隣りにいることも忘れて、ついポツリと漏らしてしまう。
「ヘ? ああ所長さんか。おまえ新婚のくせに、もう目移りしてんのかよ」
神作が、ツッコミを入れてくる。
「そ・そんなんじゃねーよ。人間的に魅力があるってことだよ」
俺はあわてて本心を打ち消した。
『でも…』
俺たちは翌日から、青っちょろい顔をした連中の前で、機械の構造を説明したり・実地に分解整備を指導していた。調子良くしゃべっている相棒の横で俺は、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。残り香が鼻につく。でも…
『でもあの女も、どうせ男になんて興味ないんだろうな』
俺はそう思って自分を納得させ、仕事に専念することにした。
* *
「スコーン!」
白い壁に当たった黒いボールは、すごい勢いで俺の顔面にむかって跳ね返ってくる。真正面から飛んでくる球に、俺はなす術もなかった。
「イッテ~!!!」
眼を保護するための・フレームのみのゴーグルを直撃された俺は、もんどり打ってひっくり返る。
「ヤッター!」
ユカは小躍りする。
「チェッ! ちょっと休憩」
俺は立ち上がりながら、そう告げる。
「え~、もう?」
ユカは、頬をふくらませた不満顔を作るが…
「一人で少し遊んでろよ」
そう言って、白い四角い小部屋から出た俺は…表の通路に出て、右の壁際にある自販機で、ミネラル・ウォーターを買う。
「ふう」
今日は仕事の後、公共のスポーツ・クラブで、ユカとスカッシュをプレイしていた。子供の頃からやっていたユカは、かなりの腕前だ。学生だった時に、地区予選から選抜され、インター・コミュニティー大会に出場したこともある。俺では足元にもおよばない。いいように、もて遊ばれているだけだ。
(もっとも…コミュニティー対抗なんて言っても、今ではどのスポーツ競技会も、馴れ合い・ナアナアの親睦会みたいなものばかりだった)。
屋内の野球場やサッカー場もあったが、今では運動と言えば、こういった室内競技がメインだ。
(地表に建つスタジアムの、ドームの屋根ほどの大きさになると、強度の問題もあり、風船のように・空気でふくらませる構造が主だった。ゆえに…そんな所でも、空気圧縮機が活用されているわけだ)。
空間的な制約があるのだから仕方ない。酸素マスクを着けてまでアウトドア・スポーツをやろうなんて奴は、皆無に近かった。
(アクアラングは、どっちにしたって酸素ボンベが必要だったし…神作が趣味としているサバイバル・ゲームに、防毒マスクは違和感なくフィットする。むしろサバゲーには、広大なフィールドが用意されていたが…外出許可の取得が面倒なこともあり、コミュニティーに唯一存在する・屋内スタジオの市街地戦用のセットがメイン。むしろ、奴の一番の悩みの種は…今どき、そんな時代に逆行するような野蛮な遊びに興味を示す者が少なく、メンバーが集まらないことだった)。
俺は自販機の陰にもたれて、喉を潤していた。
天井の低い廊下は、地下鉄の駅と繁華街をつなぐ経路だ。夕刻のこの時間、回廊は行くアテの無い老若男女でごった返していたが、どいつも・こいつも「死者の行列」みたいな顔をした連中ばかりだ。
「ふう~」
今日は昼間の仕事で疲れていたが、ユカにこわれてここに来た。予約も取っていなかったが…人類がヤル気をなくすにつれ、あらゆる娯楽施設の利用者は減る一方だった。
「フン!」
20世紀の、こんな映画を観たことがある。
「住めなくなった自分たちの星を捨てた『昆虫型人間』。星間飛行ができるほどの高い科学力を持ちながら、長い長い船旅の後、地球にたどり着いた時には、すっかり退化していた」
そんなストーリーだった。
「まったく、住みにくい世の中だぜ!」
俺がいつもの口癖をつぶやきながら、ミネラル・ウォーターを飲んでいると…左の肩を、ポンとたたかれた。振り向けば、そこにいたのは…「生方リカ」。あの清掃工場の所長さんだ。
「こんにちは」
彼女はニコッと微笑みながら、そう言う。今日は、黒っぽいスーツにスカートの、シックな出で立ちだ。
「ブホッ!」
水を口に含んだばかりの俺は、すぐに挨拶を返せない。
『ど、どうも』
俺は軽く咳込みながら、会釈をする。あそこでの仕事は、数日前に無事おわっていた。
「今日は、こちらで何か?」
所長さんは、まっすぐにこちらを見上げながら、そう訊いてくる。
『何か…なんてほどのもんじゃないけど』
俺はそう思いながらも…まともに正面から視線を合わせることができずに、目を落とせば、大きく開いたワイ・シャツの胸元。
「いや…あの…」
しどろ・もどろしてしまうのは、下心があるから?
「妻と…その…スカッシュを…」
やっとの思いで、そこまで返答すると…
「へえ~。結婚してらっしゃるんですか!」
と、素直に感嘆の声を漏らす。
『してらっしゃる…なんてほどのもんじゃないけど』
俺は呼吸を整えながら…
「ええ、まあ」
そう言って、あいそ笑いを作る。
今どき、40前に結婚する人間など珍しい。何か不治の病でも持つ者どうしなら話は別だが…婚姻とは「人生の最期を独りでむかえるのは不安だ」との理由から、最晩年近くになってからする方が多かった。
「お子さんは?」
ニヤリと、意味深な笑みを浮かべた(ように見えた)。
『それなら・それで、めでたいことだ』
積極的ではないが結婚した以上、「いずれはご懐妊」を否定するものではないし、「その時は、その時」と覚悟もできていたが…
「いやあ、まだ新婚なもんで…」
と言うより、ここのところ・しばらく、拒否られ続けている。
「そう…でも、いいですね。奥さんがうらやましい」
彼女はそう言いながら、人ごみの方へ視線をそらす。
『変わった女だ』
それが、俺の率直な感想だ。結婚をうらやむ人間など、近ごろでは、めったにいるもんじゃない。
「こちらで、何かやってるんですか?」
言葉が途切れた彼女にむかって、今度はこちらが質問する。
「いえ、今日は…こちらに、私どものケア・センターでボランティアをやって下さっている方がいるもので、そのことで…」
『ボランティア?』
今では多くの人間が何か一つくらい、奉仕活動をしているものだった。でも俺は、一文の得にもならないボランティアなんて、偽善めいてて大嫌いだった。
「あなたも、どうですか?」
そう言われたが…ガキの頃から地区の奉仕活動なんて、すべて無視し続けてきた俺だった。
『それで、自分の存在価値を確認してるんだよ』
俺には、そうとしか思えなかった。
「いや、仕事もあるし…それに、親に早く孫を作れって言われてるもんで」
でもそれは、逃げ口実だった。
『今日だってユカのご機嫌取るために、こうしてやりたくもないスカッシュやりに来てるんだぜ』
俺はユカに奉仕して、そのご褒美としてヤラせてもらっているのだ。
「そうなんですか」
リカは、ちょっと興味ありげな表情を見せる。
「でも、その見返りと言ったら何ですけど、ウチの施設を無料で使うこともできるんですよ。大浴場にサウナもあるし…」
現代の公衆浴場は、どこも・かしこも男女混浴で、「禁断の果実を食べる以前のアダムとイブ」のように、何の恥じらいもなく、老若男女入り乱れ湯船につかっている。誰も、そんなことを気にする人間がいなくなったからだ。だが、「原始人」と呼ばれる俺にとっては、苦手な場所だった。そんな所に俺みたいな人間が混じったら…「わかるよな?」…変人扱いされかねない。
「それに、温水プールやトレーニング・ジムもあるんです」
なるほど北欧の地下核シェルターは、普段はプールとして解放されていたと云う。浄水機能付き温水プールの水は、いざという時の生活用水にもなる。そこの水だって、火事など、非常時のために備蓄されているに違いない。そんなこととは露知らず、ガキの頃の俺は、よくプールに通ったものだ。
「へえ~、そりゃいい」
少しばかり、心動かされるものがあった。
「気がむいたら連絡ください。それじゃ、わたしはこれで」
彼女はそう言うと、笑顔とともに去っていった。
「何やってんのよ?」
それと入れ違いに、ユカが出てくる。
「ああワリー」
俺はあわててボトルを飲み干しながら、人混みの中に消えていくリカの後ろ姿を目で追っていた。
彼女は知的で物腰も上品だったが…そのクセ、人間的な「人なつっこさ」や「人間くささ」みたいなものがあった。でもそれは、現代人の多くが失ってしまったものだ。
『日々の暮らしをこなしているだけで、何も考えていない奴らばかりだぜ』
今の時代、人も暮らしも無機質なものばかりだった。
『ただ生きてるだけなら、サルでもできる』
俺は、そう思った。
* *
それから数週間が過ぎた。彼女に興味はあったが、仕事が忙しかったし…それにやはり、ボランティアなんてものには、関心が持てなかった。
そんなある日だった。「新世界プラント・サービス」のあの男から、連絡が入る。空気温度が上がりすぎてしまい、コンプレッサーが自動停止してしまうと言うのだ。
(空気圧縮機というものは、通常の使用でも、かなりの高温・高圧になる。どこかに異常でもあれば、火災や爆発につながるおそれもある。事実、地下作業用に空気を送り込んでいたコンプレッサーが火災を起こし、作業員が死亡するなんて事故もあった。それで各種の安全装置を備え、何かのトラブルがあれば…たとえば、異常に温度が上がりすぎたとか・エアーの圧力が高くなり続けているなどの時に、自動停止するようになっている)。
「あそこの機械は小型のスクリューだから、俺一人で大丈夫だよ」
俺はそう言って、一人で「アンダーグラウンド文化センター」にむかう。
もちろん俺は、ひそかにリカとの再会を期待していた。彼女の誘いを受けてから月日がたってしまったこともあり、こういう機会でもなければ『彼女に会うことは二度と無いかもしれない』と思っていたからだ。
「ふい~! やっと終わったぜ」
俺は機械の「格納筐体」と呼ばれる覆いを元に戻しながら、安堵のため息をつく。
午後・早い時間に入ったのだが、修理が終わった頃には、もう定時をとっくに回っていた。定期点検と違い、故障の原因を究明するのに手間を食ってしまったからだ。
(トラブルがあったのは吸入弁だった。無給油タイプの機械の場合、円形の吸入弁は完全に閉まった位置に来ても、円周のまわりにわずかな隙間があって…負圧にならないよう、常に空気を吸い込んでいる。しかし、そこに残滓や汚れがたまって密閉されてしまうと、新鮮な空気による冷却がなされず、機械内部の温度が上昇して「温度高」となってしまうのだ)。
『もう、みんな帰っちまったかな?』
管理事務所の明かりはついていたが、誰もいない。
たとえば何かの施設でも、民間の経営なら・営業時間いっぱいまで利用可能だが、公共機関は融通がきかない。終了時間までには、退出していなくてはならないのが常だったりするが…どちらにしろ誰かに、作業終了のハンコかサインをもらわなくてはならない。
俺は、建物の中を歩き回る。そんな時…
「?」
清掃工場と隣接している、福利厚生施設に続く通路を歩いている時だった。途中の左のドアが開いて、人が出てくる。
「あら?」
出てきたのは、ここの所長さん…リカだった。薄暗い廊下に栄える、鮮やかな上下ブルーのスーツにスカートの組み合わせだ。
「あ! どうも」
期待はしていたが突然の登場に、俺はイイ歳をしてドキドキしてしまった。
「いらしてたんですか?」
俺は、機械の修理に来ていたこと・機械の症状について、彼女に報告する。
「完了証明書に、ハンコかサインをもらわなくちゃならないもので…」
俺は、作業完了証明書を差し出す。ペンを取り出したリカは、そこに署名をする。
「はい、これでいいかしら?」
俺はユックリそれを受け取り、ジックリ確認する。所長じきじきのサインなら、まったく問題ないはずだが…
『何かいいセリフはないかな?』
つまり俺は、ちょっとでも間を持たせたかったわけだ。
「今日は、もうお帰りですか?」
でも、最初に口火を切ったのは彼女のほうだった。
「ええ、これで…」
良い言葉が浮かばなかった俺は、口ごもるが…
「よろしかったら、少し泳いでいきません? 奥の温水プールで」
予想だにしなかった展開に…
「ええ、でも…」
俺は躊躇した。
「泳ぎは苦手かしら?」
願ってもない「お誘い」だったが…
「いえ…でも水着とか持ってないし」
皆が異性の目を気にせず、堂々と惜し気もなく振るまっている時代だが…
「だいじょうぶよ。むこうは休館日だから、今日は誰もいないわ。わたしも、いま仕事が終わったところだから、いっしょに泳ぎましょ」
リカはそう言いながら、にじり寄ってくる。
『俺が言いたいのは、そんなことじゃないんだよな』
ただしプールだけは、昔の法律の名残りのおかげで、水着を着用することが義務付けられていた。それでプールでなら、俺の股間は理性を失わずに済んでいたのに…
「さあ!」
俺はなかば強引に、プールに連れていかれる。
そこは、地表に面した所にあった。温室のように透明な・半円形のドームでおおわれている。灯りは非常灯以外すべて落とされていたが、今宵は綺麗な月が出ている。花粉が舞っているとはいえ、嵐の晩でもなければ、月光ほどの明るさなら見ることができたし、薄暗いとはいえ十分な明るさがあった。
『ゴクリ!』
俺はツバを飲み込む。
月明かりの差すプールに着くとリカは、遠慮会釈なく全裸になり、プールに飛び込んだ。
「早くいらっしゃいよ。だいじょうぶよ、ここは24時間、ゴミを燃やしている熱で温めているから」
そう言って催促するが…
「そういうことじゃないんだよな」
俺は小声で、「独り言」を言う。
ここ数日、ユカに拒まれ続けていた俺のムスコは、もうすでにはち切れんばかりだ。リカが顔を水につけて泳ぎだしたスキを見はからって、あわてて服を脱いでプールに飛び込む。俺は人並み程度には泳げたが、今日は「背泳ぎ」だけは禁物だ。
「綺麗な月。今夜は満月かしら?」
25メートル・プールを数回往復したリカは、シンクロナイズド・スイミングのように手足を横に小刻みに動かしながら、あお向けになって浮かんでいる。泳ぎは、なかなか上手なようだ。25メーターくらいなら、潜水したまま一気に泳ぎ切ってしまう。
「さあ?」
水の中で中腰状態になって、頭から上だけを水面に出していた俺は、首をひねって天をあおぐ。
しかし…俺は天体の運行などの知識は、まったく持ちあわせていなかった。だいたい今どき、夜空に接する機会など、ほとんど無い。星空を見ることもかなわないこんな環境では、天空に興味を持つ人間も育たないだろう。俺は「天文好き」なんて人間には、いまだ・かつて、出会ったことがなかった。
「さて!」
俺の右横で向きを変えたリカは、勢いよく水から飛び出し、プール・サイドに腰かける。
『!』
垂らした足を追って、視線を上げて行くと…きれいに水を弾いている、形の良い乳房が丸見えだ。
「あ、いいよ。どうぞお先に。もうひと泳ぎするから」
先に上がられてしまったのでは、そうするしかない。でも…
「んふ…」
プールのへりに両手をついて俺を見下ろすリカは、意味あり気な笑みを漏らす。
シルエットになっていて、表情は良く読み取れなかったが…口元が、そう動いていた。
「気にするないのよ。本当は、それが自然なんだから」
身を乗り出すようにして、そう言葉をかけてくる。
「え?」
何を言っているのか? すぐには理解できなかったが…
「久しぶりだな、男の人がエレクトしてるとこ見るの」
続けて、頭の上から、そんな文句が降りて来た。
『ゲッ! 気づいてたのかよ』
きっと、さっき潜水している時に、しっかり観察されていたのだ。
「…」
「次の句」が出てこない俺は、ウンコをしている時の犬の顔を思い浮かべた。
『ウンコをしている時のイヌってのは、どうしてあんなに情けないツラしてんのかな?』
俺は常々そう思っていたが…スッ裸で・女性の前で股間をふくらませている俺は、まさに無防備な格好でウンコをしているイヌ状態だった。
「女の人を見ると、誰でもそうなるの?」
俺は、視線を下にそらしながら…
「だ・誰でもってわけじゃないけど…」
俺はドギマギしてしまった。
「じゃわたしのこと、女として認めてくれてるってわけね?」
俺はうつむき加減で…
「そりゃ、もちろん」
そう答えると、リカはふたたび水の中に滑り込んでくる。
そして俺の正面に立ち、俺の両肩をつかんで真っすぐに立たせる。俺の肩より、少し低いくらいの身長だ。
『!』
股間の先端が、彼女の腹部のあたりに触れる。
『?』
俺の顔をあおいでいた彼女の唇が、少しだけ開く。俺は熱くなった!
「遅かったじゃない!」
部屋に戻った俺に浴びせられた、ユカの第一声だ。
「いや、ちょっと…手こずっちゃってさ」
俺は、さも疲れたというふうに溜息を漏らす。
「連絡くらいしてよね」
不機嫌そうなユカに…
「ああ」
俺は生返事をしながら、まっすぐ風呂場にむかう。
『あんな女に会ったのは、初めてだよ』
その晩俺は、そんなことを考えながら、満たされた眠りについた。
* *
「11階でございます」
フロントで部屋番号を聞いた俺は、エレベーターに乗り「11」のボタンを押す。
「ガコン!」と音を立てて、エレベーターは下りはじめる。価値観の逆転した現代では、「11階」と言えば「地下11階」のことだ。逆方向の場合は、階数の前に「R」という文字が付く。
(かつての文明では、地下は“BASEMENT”の“B”が付いたそうだが…現在では地上側は、その頃の名残りで「屋上」を意味する“ROOF”の“R”が使われている)。
今では、成金や中途半端な金持ちは「花粉や放射線から遠のく」という理由で、どんどん地下を目指していた。
俺たち一般庶民は、貧しくなればなるほど、また、「アンダーグラウンド文化センター」のように人々から忌み嫌われる存在は、敬遠されればされるほど…地表に近い地下へと上がっていく。
そして「本当の金持ちや権力者が、いったいどこに住んでいるのか?」。見通しのきかない現代では、まったく見当がつかなかった。
「1107…イイオンナか」
目指す部屋の前に着いた。
「また来ちまったぜ」
俺は小声でつぶやく。
後悔や懺悔の念がなかったわけじゃないが…こんな時代に・こんな相手と巡り逢えるなんて、お互い、理性を越えた感情や欲望が芽生えたことは確かだ。そこで俺は…
「ボランティア~? お前が?」
相棒の神作は、すっとんきょうな声を上げる。
「週2~3日。仕事が終わった後の1~2時間だけだよ」
俺は、社会福祉施設の保守・点検や、管理・清掃などのボランティアへの参加を提案する。
(もちろん、「俺」単独でだが…)。
「どうした風の吹きまわしだよ?」
相棒は、『納得がいかない』といった態度だが…ちょうど、奉仕活動の社会貢献度に応じて、税制の優遇措置が取られる案が浮上していた。
(納税者の側からすれば、収入が増えるわけではないが、出費が減る。行政の側からすれば、税収が増えるわけではないが、支出が節約できる。どちらにとっても、メリットのあるアイデアだ)。
「コジつけ」だってことは、わかっていたが…俺は、そんな事を理由に挙げていた。
「それに…」
最初は「新世界プラント・サービス」などの孫請けでも、顔をつないでおけば、やがて専従の構内業者になって、老年期の生活も安定する…なんて事を、さも・もっともらしく語っていた。
「いいんじゃない」
ユカは、これで毎晩のように迫ってくる俺から解放されるとでも、思ったのだろう。
だいたい今どき、「女がらみの下心」を疑う奴なんて、存在していなかった。
そして、実際に奉仕活動にも時間をさいたが…
「すぐにはわからないかもしれないから、もっと回数重ねるとか…もう少し深く、お付き合いしてみませんか?」
俺は、一回だけで終わらせたくなかった。それで、そんな歯の浮くようなセリフを口にして、リカに再接近したわけだ。
『もう、逢瀬を重ねて何回目になるだろう?』
まだ思い出そうとすれば、思い出せる回数だろうが…俺は、そんな細かいことを気にする男ではなかった。
きっと俺は、彼女が普段接しているであろう男のタイプ…俺に言わせれば「うらなり瓢箪」や「ひょうろくだま」、あるいは肉体ばかりで「シワひとつない、まっさらな豆腐のような脳ミソ」を持った連中とは違うはずだ。
俺は「博覧強記」とか・「頭脳明晰」というほどではないが、バカじゃない。しかし・もうすでに、サラリーマンをしていた年月より、汗や油の臭いが染みついた半肉体労働者のほうが長くなった。
『頭ばっかりの奴らじゃ、わからないこと・体だけの連中が、考えもしないようなことだって…あるだろ』
俺は単一的な「いかにも◯◯」という人間には、なりたくなかった。
『一事で万事を見通せるような人間じゃツマらない』
俺は、そう思っていた。
『個性や意外性がなくちゃ、おもしろ味がない』
そういう人間になりたかったし…相手にたいしても、そういうものを求めていた。
「わたしとかかわると、不幸になるかもしれないわ」
最初リカはそう言ったが、今どき大したモメ事が起こるとは思えなかった。俺は少なくとも、彼女が何者なのかわかるまで、親交を深めたかった。俺は迷わなかった。
「ね、もう一回」
最初はちょっとテレの入っていた俺たちだったが、回数を重ねるたびに、深く交われるようになっていった。
「今度は後ろから」
そしてリカも、全開で自分を表現し始めた。
「ね、いいでしょ」
頭の良い女は、脳でセックスするという。股間に手を伸ばすと、そこはいつもビショビショだった。今日もシティー・ホテルで、何度目かの密会を持っていた。
「大学では、何を専攻したんだい?」
一回目の事が済んで、俺の左横で・うつぶせのまま倒れ込んでいたリカに、何気なくきいてみる。
「心理学」
リカは、枕に顔をうずめたまま、そう答える。
『心理学?』
それを聞いて俺は、ちょっと身構えた。
だいたい俺は、心理学者の言うことなど、信用もアテにもしない人間で、『奴らが語るケースには、眉つばなものが多い』くらいに思っていた。
(協力的な個人の場合や・病的なものならともかく、一般論はウソ臭い。二大大家のものだって、中にはチャンチャラおかしな説がある)。
『心理学者の理論なんて、本人の思い込みだけだ』
そう思っていたし…
『わかりもしないくせに、自分勝手なことを語らないでほしい』
そうも思っていたが…でも、そういったものに出くわすと、大勢の人間が興味を示すのも確かだ。「みな本当は、自分が何者なのか知りたがっている」ということの表われだろう。しかし…
『自分について真剣に考える人間なら、そのへんの浮浪者だって心理学者や哲学者になれる』
俺は、そう信じていた。
「人のことより、自分が何者なのか知りたくて…」
リカは「独り言」のように、そうつぶやく。
『そう。それなら安心だ』
他人の心理状態について分析しようなどと試みることほど、迷惑なことはない。ましてや奴らが創ったバカバカしい体系に組み込まれるなんて、まっぴらゴメンだ。
「昔だったら、俗世を捨てて仏門に入るとかあるんだろうけど…」
俺とリカは、今では珍しくなってしまった種類の・同属の人間だった。男と女という立場の違いはあったが、同じ類いの悩みを抱えて生きていたわけだ。
(なんでも「簡単に煩悩を断ち切れるくらいなら、出家や帰依なんていらない」んだそうだが…なるほど、そうだろう)。
世の中には、あったら・あったで困ることだって、あるものだ。
(たとえ富者や権力者だって、『みんながソレを狙っている』『いつかソイツを奪われてしまう』との疑心暗鬼が生ずれば、夜もオチオチ寝られなくなるだろう)。
「恋もしたけど、わたしの期待にこたえてくれるような人は…」
『恋…?』
俺は「恋」なんて言葉を、女性の口から…いや男女を問わず、生で「恋」なんて単語を耳にしたのは、生まれて初めてのような気がした。
『そうか、アレは「恋」だったんだ』
『そうか、アレは「恋」だったんだ』
子供のころ、幼なじみの近所の女の子に…。
学生だった時、同級生の女子に…。
社会人になってから、同僚の女性に…。
そして一番最近では、ユカに対して感じていた、あのモヤモヤとした意味不明な感情は…
『恋というものだったんだ』
「初恋」を知って以来…
(もちろん、その時は「恋」だなんて思わなかったわけだが…)。
ずっと俺の心に引っかかっていたものは、今では誰もが失ってしまった「恋」という精神状態だったようだ。
『なるほどな』
「ときめく心」を失くした現代人。芸術や文化なども、すべて停滞していたが…俺は、一気に視野が開けた気分になった。
「俺も精神分析してもらいたいな」
つまり俺は、生まれて初めて誰かに…自分以外の他人に…心を開く気になったのかもしれない。
なにしろ…彼女との会話は、とても楽しい。知性と教養に裏づけられた諧謔と機知。でもそれだけでは、説明が不十分な気がした。
「クレオパトラの鼻が、あと少し低かったら」
そう言われる一方で…
(つまり「美形」という意味だ。小柄だった「ヒトラーの身長が、もう少し高かったら」と同じく、「その後の人類の歴史は変わっていただろう」との比喩に使われる文章だが…画家としての才能も認められなかったヤング「ヒトラー」総統は、「コンプレックス」が、歪んだ野心の醸成につながる好例だろう)。
実際の「クレオパトラ」妃は、けっして美人ではなかったとの説もある。
(俺が日常の業務で日ごろ使っている、力の単位「N=ニュートン」同様、圧力の単位「P=パスカル」に、その名を引用されたフランスの哲学者「パスカル」先生。その言葉「人間は考える葦である」と並ぶ、二大名言のもう一つだ)。
『きっとシーザーは、バカか聡明・野卑か上品。そのどちらか極端だったから、彼女に魅かれたんだ』
俺は、そう思っていた。
そしてリカには、その身体からにじみ出るような…もしかすると生来の…人を惹きつける魅力があった。たぶんそれは「神からの授かり物」…つまり『カリスマ』ってやつだ。
「あなたみたいな今どき珍しい男は、わたしの研究材料にピッタリだな」
リカはそう言って、俺の身体に手足をからめてくる。俺は俺で、鼻先から彼女の腋の下に顔を突っ込む。
『今どき、脇毛の処理をしている女なんて珍しいぜ』
俺はそう思いながら、その匂い・柔和なぬくもり・すべすべした感触に酔いしれた。
* *
「あなたは何か、野望とか野心とかある?」
今日も二度目の事が終わった後でリカは、天井を見つめたまま、そう質問してくる。
「いきなり何だよ。心理学のテストかい?」
彼女の上でうつぶせになっていた俺は、起き上がり、間接照明の薄明かりの中、ベッドの左下に脱ぎ捨てた上着のポケットから、手探りでタバコを探す。もちろん俺は、ごく親しい人間の前以外では、決して煙草を吸わなかった。
「俺なんて欲望のかたまりさ、性欲の…」
そう言いながら、火をつける。
俺とリカは「こういう仲」という以外にも、秘密を共有していた。
「今度、君の所に行っていいだろ?」
彼女と深い仲になって、しばらくたった頃だった。俺の自由になる金の額なんて、たかが知れていた。そうたびたび、ホテルで密会を持つわけにもいかなかった。
そこでパチンコに挑戦してみたのだが…元来、「ギャンブル運」なんてものは持ち合わせていないようだったし、神作と違って興味も無かった。かえって負けが込んで、資金が飛んでいく有様だった。
それで、そういう提案をしたわけだ。
(もちろん『彼女みたいな女性が、どんな所に住んで・どんな暮らしをしているのか?』にも、興味があったわけだが…)。
「次は、わたしが出すから」
リカはそう言ったが、俺は断った。特別な理由があったわけじゃない。今どきではないかもしれないが…「女に金を出させない」…それが俺のやり方だった。
(もっとも…家事に・座りションに・育メン・等々。時代の流れには逆らえない。結婚をした時点で、物事によっては主義・主張を曲げなくてはならない覚悟はしてあった)。
「会う回数を減らすか…あとは、会社の金でも使い込むしかないな」
もちろん、そんなことを望んでいたわけではないが…
「わかったわ。でも、きっと後悔するわよ」
彼女は、しぶしぶ承諾してくれた。そして…
「この部屋に人を入れるのは、あなたで二人目なの」
そう言いながらリカは、自宅のドアを開く。
『二人目?』
意味ありげな表現に、心に引っかかるモノがあった。
「でも…きっと後悔するわよ」
リカは、俺が懇願した時と同じセリフを口にして、招き入れてくれるが…
「フン!」
だが俺は、別段「驚き」も「後悔」もしなかった。むしろ驚いていたのは、彼女のほうだった。
「変わった人もいるものね! あなた、花粉だいじょうぶなの?」
リカは声を上げる。もちろん俺だって、軽くクシャミや鼻水が出たり、目頭がカユクなることだってある。しかし・だいたいは、「花粉によるもの」と言うより、屋内にあるハウス・ダストなどの、未経験のアレルギー物質に接した事によるもののようだ。
(『キス感染症』というモノが、あるらしい。なんでも…「人間」に限らず「生物」の身体は、様々な「菌類」などと共存しているという事実は、すでに周知のことだが…自分が経験したことの無い・持っていないウイルスを持つ異性と交わったりすると、「お腹が下る」などの症状が出ることがあるらしい。もっとも…現代人は全員、かつては致死性のあった病原菌の抗体を、「予防接種」的な要領で持っていると言う。だからたとえば、現代の文明と没交渉だった未開人がいたとして、現代人の持つ未知の菌と接すれば、一気に重症化するおそれがあるわけだ。もちろん、その逆のパターンだってあるだろうし…案外、現代人ですら、『キス感染症』に近い経路で・「アレルギー」と同様、原因不明の「突然死」の死因になっているケースも、あるのかもしれない。特に現在のように、コロニーごとに・なかば孤立している状況では、未開人でなくとも、ありえない話ではないだろう)。
「自分だって」
俺はさも当たり前といったふうに、返事を返した。
『なるほどな』
室内を見回して、俺はそう思った。
『そういうことか』
俺たち二人は、法に触れる物を所持していた。俺のソレはもちろん「煙草」だ。そして彼女のソレは「植物」だった。
「心がなごむのよ」
試験管の中で芽を出した種。特殊な色の光を放つ室内灯で照らされ・生育されている草花。大昔、禁止されていた麻薬の栽培は、きっとこんなふうにして行われていたのだろう。でも彼女の場合、特に他意はなく、あくまで単なる個人的な観賞用だった。
「んん~…」
草木に囲まれて伸びをするリカは、とても満足そうだった。消臭剤や芳香剤、あるいはホコリっぽい鉱物質の臭いしかしない世界では、まさに「オアシス」という言葉がピッタリくる空間だったが…
『そういえば…』
そんな「初夜」を終えた帰り道。フト気づいたのだが…
「あなたで二人目だわ」
俺を送り出す時に、彼女はポツリとつぶやいた。
『?』
つまり、「植物アレルギーが平気な人間」という意味なのだろうが…俺やリカみたいな「変わり種」が、他にもまだいるのだろうか?
「もう一人が、どんな人物なのか?」
訊くのを忘れていた事を、思い出した。
『こんど訊いてみるか』
でも、満たされた気分になっていた俺は、そんな疑問を思いついた事すら、すっかり忘却していた。
『しかし…』
でも・やはり、俺は既婚者だ。そうたびたび彼女の部屋を訪れることに、気がひけはじめていた。
『そろそろ潮時かもしれない』
そう思いはじめたところだ。
『これいじょう深入りする前に、タイミング次第では別れ話も…』
それで今日は、久しぶりでいつものホテルを利用していたのだが…。
(もっとも俺たちは、正式な恋人同士でも・夫婦でもないのだから、連絡を断って・そのまま「なし崩し」という手だってあったが…)。
「そういうんじゃなくって…」
先の話に引き戻される。
『野望? 野心?』
最近の俺は、そんな大それたこと、考えたこともなかった。
「じゃ…怒りとか不満は?」
リカは続ける。
『不満? そうそう…』
思いついた。
「ここのところ一つだけ、解消した不満があるんだ。君と出会ってから」
俺はタバコを大きく吸い込む。先端の火が、ボワッと明るさを増す。俺は、リカの顔を盗み見る。その赤い光に浮かび上がった彼女の横顔は、真剣な面持ちだった。
「じゃ、大志とか大望は?」
皆まで述べなくても、俺の言わんとしている事は伝わっただろうが…
『完璧、無視かよ』
リカが何を求めているのか、わからなかった俺は…
「体毛はチョット濃いかな、原始人だから」
ちょいとフザケてみる。
「冗談言って、茶化さないでよ。まじめにきいてるんだから」
彼女は横になったまま、こちらにむき直る。
「ゴメン・ゴメン。でも、何がききたいんだよ。ずいぶん遠まわしな物の言い方してないかい?」
俺はふたたび、大きく煙りを吸い込む。
「じゃあ具体的に言うと、今の政治や政府に、不満や不安はない?」
煙りを吐き出した後で…
「なんだい、そりゃ? こむずかしいこときくんだな」
そう言いながら、灰皿代わりの空き缶をまさぐり…
「わたしって、分裂型の多重人格だから…」
その中に灰を落とす。
「政治には、あまり関心ないな。どうせ俺なんて一般庶民。民草だから」
俺は、真剣に取り合う気にはなれなかった。
「実を言うと、あなたに手伝ってもらいたいことがあるの」
『…?』
俺は無言で、タバコの火をもみ消す。
「今の社会は、小さくまとまってるでしょ。だから今が、絶好の機会なの」
彼女の方にむき直って…
「なんの?」
そう訊いてみる。
「クーデターを起こして、国家を乗っ取る機会のよ」
俺は頭をかきながら…
「なに言ってんだよ」
まともに相手をしようなんて気は、全然おきなかったが…リカは、かまわず続ける。
「かつては大気中の酸素を売ってる商売なんて、原材料は一切タダだったでしょ。でも今は違う。今は空気を握っている者が、実権を握れるのよ」
トーンが上がってきた。
「どうやって?」
そこでリカは、何のためらいもなく言い放つ。
「たとえば、毒物をチラつかせるとかね」
俺は瞬間、背筋が寒くなった。ご存知のように、俺には思い当たるフシがあるからだ。
「あなたにも、仲間になってほしいの」
俺は自分の耳をうたがった。
『コイツ、本気で言ってるのかよ?』
少しの間をおき、足元を照らすフロア・スタンドのスイッチをひねりながら…
「もし断ったら?」
わずかな光だが、闇に慣れ切った眼には、それでもまぶしいほどだ。
外界から差し込む陽も無く、もちろん、窓ひとつ無い地下の世界。人工の明りを落とせば、すべては真っ暗闇なのだ。
「残念だけど…せっかくイイ男に巡り逢えたのに」
ニコニコしているリカの顔を見ていると…
『俺のこと、からかっているんだろうか?』
それが本気なのかどうか? 見当もつかなかったが…
「男としての役目を果たせるうえに…不意の事態に遭遇しても、コソコソ逃げ隠れしないような、今どき珍しい男」
『なに?』
俺は彼女から身を退くように、後ろ手に両手をついて上半身を起こす。
「考えさせてくれなんて言わないで、この場で即答してね。さもないと…」
リカの顔を凝視しながら…
「さもないと?」
俺がそう問い返すのと同時に、手に銃のような物を構えた数人の人影が入ってくる。
(シルエットになって、姿・形ははっきりわからないが…雰囲気は男だ)。
戦争が無くなった現代。ダブついた小銃くらい、いくらでもあった。その気になれば…「そんな気」になる奴は、ほとんどいなかったが…そんな物は、わりと簡単に手に入るはずだ。
『な・何なんだよ?』
スッ裸のままベッドから飛び出した俺には、何がどうなっているのか? サッパリわからなかった。
(オート・ロックのドアなのに、手際が良すぎる。あらかじめ、リカの手引きがあったのだろう)。
「チッ!」
俺は四人の男に、四方を囲まれる。表にも、まだいるようだ。
「イエス? それともノー?」
全裸のリカは、ベッド脇のナイト・スタンドをつけながら訊いてくる。
「悪い冗談だぜ」
俺には、いまだに事の真偽がわからなかった。
「冗談じゃないわ」
俺を取り巻いていた連中が、ジリッとにじり寄る。
「ヤルのかよ? どうせお前らなんて、インポと不感症の集団じゃねーか!」
俺はチラッと、足元の工具箱に目を走らせる。今日は仕事の帰りに、ここに立ち寄った。あいにく今夜は、普通の工具しか持っていない。せいぜい、小型のハンマーを振り回すことくらいしかできない。
こんな所で拳銃を発砲するとは思えなかったが、どちらにしろ多勢に無勢…この人数を相手にしたって、勝てっこない。
「あなたのことは、いろいろと調べさせてもらったわ」
リカは、身支度を整えながらしゃべり始める。
「とにかく、静かな場所でユックリ話しましょ」
そう言って、俺が脱ぎ捨てた衣服を投げてよこす。
「けっこう乱暴なんだな」
とりあえず俺は、大人しく従うことにした。
『これが浮気のツケか』
俺は両腕を後ろ手に縛り上げられ、非常口から拉致される。酸素マスク付きのゴーグルをかぶらされたところをみると、屋外から連れ去られるのだろう。そのほうが、人目につきにくい。それに、細いプラスチック製の結束帯で指を固定されているので、傍目には、後ろで手を組んでいるようにしか見えないはずだ。
(電気の配線などをたばねる時に使われる、柔軟性のあるバンドだ。差し込み口に「かえし」が付いているので、いったん差し込んでしまうと、あとは切るしかない)。
口には詰め物を入れられ、声も出せないし…これでは、「拘束されている」ということも、わからないだろう。
* *
俺はクルマに乗せられるが、ゴーグルのレンズは黒く塗りつぶされていて、何も見えない。
ふたたび屋内に入った所で、イスに座らされ・マスクをはずされる。
「ここがどこだか、わかるでしょ?」
はずされた目隠しの先には、見おぼえのある青い作業服を着たリカが立っていた。あたりを見回すと、見慣れた光景だ。
「静かな場所って言ってたわりには、やかましいじゃねーかよ」
俺は、そう返事をする。視界を奪われていたとはいえ、「ここがどこなのか」すぐにわかった。
『なるほどな』
着いた先は「アンダーグラウンド文化センター」。例の清掃工場の、ボイラーや空気圧縮機が並ぶ機械室だ。
「ここにはボランティアを口実に、同じ志しを持つ同志が集まってくるの」
有難いことにリカみずから、上から俺を見下ろし、そう謎解きをしてくれる。
『なるほど』
この清掃工場と・それに隣接する施設は、今の政府に不満を抱く反乱分子のたまり場だったわけだ。
「単純に、機械を逆転させれば負圧になって、空気を吸い出すのかと思っていたけど…ダメだったみたいね」
俺の整備の手の入ったエアー・コンプレッサーに手を掛け、リカはそう言う。例の逆転したレシプロの話だ。あの時・あそこにいた連中は、コイツらだったわけだ。そして・あの時…あの毒物を発見した時、先頭に立っていたのは、この女だったのだ。
「そりゃそうだ。あの機械は構造的にバキュームは無理だし、そうじゃなくても、ちゃんとワンウェイ・バルブが付いてるんだ」
最新の機械になれば逆止弁ばかりでなく、「逆転防止装置」も仕込まれている。
「作戦としては、いいアイデアだったけどな」
たとえ屋外にあったとしても、今の住宅は完全に密閉されている。大容量の機械で空気を吸い出せば、真空状態とまではいかないだろうが、酸欠で死人が出るだろうし・毒ガスでも流されれば、想像もつかない事態となるだろう。
「だから、あなたみたいな人が必要なのよ」
リカはそう言いながら、俺の顔をのぞき込む。
『な~るほど』
納得だ。
『それでこの女は、色仕掛けで俺に近づいてきたわけだ』
あの事件の時、俺と神作は顔にモザイクが入っていたとはいえ、TVにも登場したし、俺たちのヘルメットやユニフォームには会社名も入っていた。看板を背負って歩いているようなものだから、じかに俺たちと接触したコイツらにしてみれば、調べようと思えば簡単なことだ。
(それで、俺たちの会社にアプローチしてきたのだろうし…だいたい、偶然だと思っていたスカッシュ場での再会だって、はじめから仕組まれたものかもしれない)。
『でも…』
「でも二番目の計画は、予定通りだったでしょ」
リカは、頭に浮かんだ俺の思いをさえ切るように続ける。
『二番目…?』
「ああいう物を持っていることをアピールできたんだから、作戦は成功なの」
腰に手を当ててそう語るリカの表情は、今まで見たこともないような高飛車で高慢なものだった。
「なにをたくらんでいるんだよ?」
ここで退いたら、俺の負けだ。なんとか言葉をひねり出すが…
『でも…』
「善良なブタどもの目を覚ますには、荒療治が必要なのよ」
あのリカの口から、こんなセリフが飛び出してくるとは思わなかった。
『でも…でもそれだけで、あんなことが・そんなマネができるのかい?』
そう思った俺は…
「盗聴させていたわけだ。自分の濡れ場を他人にのぞかれて、それでも平気なのかよ?」
先ほどから気になっていた事を口にするが、しかし彼女は…
「あなた、自分が飼っている犬や猫に自分の恥態を見られて、恥ずかしいと思うの?」
平然と言い放つ。
…茫然自失…
「青天の霹靂」とは、こんなことを指して言うのだろうか?
『本気じゃなかったのかよ?』
何が何だか、サッパリわからなかった。
「こんなことをしたって、すぐにアシがつくぜ」
俺は、なかばヤケクソだった。
「あなた、自分の所在を誰かに話してきたの?」
そんなこと、できっこない。「これから浮気しに行きます」なんて、誰かに告げてから行く奴など、いるはずがない。
『誰か目撃者でもいなければ…』
でも、そんな俺の心を読むかのようにリカは…
「ホテルはちゃんとチェック・アウトしてきたし…」
『…』
「会社の方にも、連絡しといてあげたわ。『新世界プラント・サービス』の方から。急な用件で2~3日、あなたを貸してくれるようにって」
俺が質問する前に、彼女の口から先手・先手で答えが返ってくる。
「ずいぶん、手のこんだマネするじゃないか」
実のところ俺は、かなりのあきらめ気分になっていた。
「アバンチュールは、このくらいの方が刺激があっていいでしょ」
リカは、今度はとぼけた笑顔を見せながら、そう言うのだが…
『アバ・アバンチ…? 何だいそりゃ?』
俺はそんな単語、今まで聞いたことがなかった。
「とにかく…良い返事が聞けるまで、しばらくここにいてもらうわ」
そう言いながらリカは、後ろに控えていた二人の男に合図を送る。
『チェッ! サッサと別れときゃ、こんなことにならなかったのに』
二人の男に両脇を抱えられ、立ち上がりながら心の中でグチると…
「わたしから逃げようなんて気を起こさないでね」
リカはそう言って、ニヤリとウィンクする。
『ゾクッ!』
偶然なのか? たしかに俺は、別れを切り出すタイミングを探ろうと思いはじめていた。まさかそこまで、俺の心を読んでいたとは思えないが…
『まあいいさ』
俺はナゼか、虚脱感みたいなものしか感じなかった。