2.ROUTINE WORK
「ひえ~! こりゃまた、年代物の骨董品だな」
油にまみれ・黒くすすけた巨大な「キング・サイズ」の空気圧縮機を前に、相棒が叫ぶ。今日から数日間にわたる仕事は、エアー・コンプレッサーの分解点検整備工事だ。
「圧縮機」と言っても、いわば空気転送装置みたいなものだ。どこにでも・当たり前に存在する空気を、この機械を使って、集めて・送るわけだ。もっとも古い物は、おそらく、人類が火を使い始めた頃、熾した火が良く燃えるようにと使った、団扇や・息を吹き込むための筒だろう。
(「酸素」は、それ自体で燃える物ではないが、燃焼を促進させる効果がある。一方、大気中に一番多く含まれる「窒素」は不活性ガスで、これが無ければ物は、爆発的に燃えてしまう。いわば燃焼をコントロールする、制御機能の役目を果たしているわけだ)。
道具と呼べるような物になったのは、その昔、「たたら製鉄」や鍛冶屋などで使用されていた、手動や足踏み式の「吹子」だろう。
(「鞴」などとも書き、大型の物を「踏鞴」と呼ぶ)。
それが近代以後、動力付きの機械となったのだ。
(細い管に通せば、それだけで圧力がかかるほどの吐出量があるが、さらに圧縮する・あるいはもっと量が必要であれば、貯蔵容器に貯めればよい仕組みになっている)。
「この機械は、お前らが生まれるずっと前から、動いてるんだぜ」
今回の現場でいっしょに仕事をする年配の男が、そう語る。製造年月日が刻印された銘板を見ると、20世紀の後半に作られた代物だった。
「ふ~ん」
でも相棒は、無感動な声をもらしただけだ。奴にとってそんなことは、どうでもいい事のようだ。
「…」
俺は無言でマジマジと、機械を見上げる。
空気圧縮機には、大別して三種類の機種がある。
現在では、ある程度以上の大きさになると、「回転式タイプ」が主流だ。自動車にも使われている「回転式過給機」と同じく、回転翼を数万回転で回して空気を送り込む。
(「タービン」は、駆動用である排気側の回転翼の名称だ)。
本来は空気の薄い高空で、エンジンの燃焼に必要な量の空気を確保するために開発された、航空機用の物だ。その技術は、そのままで空気圧縮機に使えたし、性能向上のため自動車へと流用されたわけだ。
次に、小型の物をメインに採用されているのが、俗に「スクリュー式」、あるいは「ロータリー式」と呼ばれる機種だ。螺旋状の雄回転体と雌ローターを持ち、その間で順次エアーを送り出して圧縮する。渦巻き状に空気を転送するので、正式名称は「ツイスト・タイプ」と言う。動力は、モーターやエンジンなどの他の機関を利用し、一般には「スーパー・チャージャー」と呼称される装置だ。
(正確には「ターボ・チャージャー」も、「スーパー・チャージャー」の一種に含まれるが…スクリュー式の過給機は、その動力の一部を使って回しているので、馬力ロスが生まれる。しかしターボ式は、それまで無駄に捨てていた排気ガスの圧力を利用するので、効率が上がるわけだ)。
ツイスト型空気圧縮機が実用化されたのは、その昔、『世界大戦』の頃だそうだ。今では、どこにでも・当たり前に存在する物だが、もともとそれは軍事用に開発され、当時は軍事機密に属する代物だった。
(日本での第一号は、「伊号型潜水艦」に搭載されたのが最初だと云う)。
サブマリンはもちろん、水中を潜航するわけだから、艦内の空気の供給・循環用に空気圧縮機が必要となるのは当然だ。しかし量的にみると、浮上の際に、それ以上の空気が使われる。なぜなら、潜水するために溜め込んだ海水を、圧縮空気を使って吐き出すことになるからだ。
また、魚雷やミサイルの発射にも、圧縮空気が必要になる。艦外に出てしまえば、自らの動力(魚雷ならスクリュー。液体燃料のロケット・エンジンや、固形燃料のロケット・モーターを使うミサイルなど)で動き出すが、発射管から海中・海上に打ち出されるまでは、圧縮空気の力によって押し出すためだ。
だから潜水艦に、エアー・コンプレッサーは必需品なのだが…そこにツイスト・タイプが採用されたのには、理由がある。今でも航行音の少ない高性能プロペラ型推進機が話題となるように、海戦の際にその位置を察知されてしまうことは、潜水艦にとっては致命的だ。当時は今ほどの技術はなかったが、音源から方角や距離を割り出す音響探知機が実戦に投入されていた。複数の集音器から水中の音を拾い、その音のズレから位置を推測する方法だ。
(人間も含めた動物に、眼や耳が複数存在するのは、位相のズレから・遠近感や音の出所を知覚するためだが…それと、同じ理屈だ)。
その技術を使った連合軍によって、ドイツのUボートや日本の潜水艦の多くが、海の藻屑と消えていったのだが…特に後述する往復運動タイプのように、一定のリズムをともなった音や振動は、探知機によって位置を特定しやすい。
(爆発などの脈動をともなう振動は、長い周波数を持つ。火山噴火の震動が、あいだの地点を飛び越え数百キロ離れた場所に到達し、空気や窓ガラスを鳴らすこともある)。
しかし当時の機器では、回転体が放つ連続的な周波数は、その存在はつかめても、正確な位置を測定することは困難だった。それでツイスト式が開発・実用化されることになったと云う。
(おそらく…音や振動を解析する潜水艦の技術は、そちら方面では人類最先端だろう。「音や振動の変化によって、ベアリングの劣化具合まで判定できる」と言う。俺たちみたいな仕事には、役立つこと請け合いなのだが…軍事的トップ・シークレット。情報は、ほとんど漏れ伝わってこない)。
そして今日の仕事は、「レシプロ・タイプ」と呼ばれる物だ。これは自動車のエンジンのように、往復運動するピストンで空気を圧縮する。その一番単純な物が、自転車の「空気入れ」だ。部品点数が多くて、工期や整備代がかさむが、環境の悪い場所でも・多少のトラブルがあっても、動き続けるタフネスさがある。それでこんな年代物が、今でも現役で生き残っているわけだ。
「それじゃ、やるか!」
段取りの打ち合わせが終わった後で、現場監督のその一声で、それぞれの持ち場に移動する。今回は、十人近い人数だ。巨大な「キング・サイズ」と呼ばれる機種なので、いくつかの下請け業者が合同で仕事に入っている。
まあ「王様」とは言っても、超巨大な空気圧縮機が登場した現代では、かわいい物だ。でも、一個で数十キロもの重量がある部品の前では、人間の力なんて微々たるものだ。一台につき何十個もある部品を取りはずすだけでも、かなりの手間と時間を食う。
それに、だいたいこの手の機械は、すみっこの汚い部屋にキチキチに設置してある。居住空間を広くするために、こういった周辺設備は重要であるにもかかわらず、必要最低限のスペースに押し込められているのが普通だ。狭い室内では、大型の作業機械は持ち込めない。それでいまだに人間の手で、昔ながらの道具を使って整備を行うのが主流だった。
「さてと」
神作は機械のまわりを回って、目視で状態を点検しはじめた。俺と相棒の受け持ちは、一番作業しにくい箇所だ。通常なら四~五人でやる仕事なのだが、二人だけだ。でもそれが、俺たちの「売り」だった。俺たち二人は、他の業者では絶対に手に入らない秘密兵器を持っていた。
(もちろん、それなりの請求をして・それなりの報酬を受けている。単純に、四人でやる作業を二人でやれば、倍の稼ぎになるわけだ)。
それぞれ、いつもの装具を身につける。背骨から腰にかけての主骨格から、両手・両足に伸びる「パワー補助装置」だ。
(作る物の大きさに合わせた「高温・高圧釜」で焼く、「ドライ・カーボン」製法の「|炭素繊維強化プラスチック《CFRP》」の廉価版…木材破砕などの廃材から作り出した炭素繊維を、プラスチックで固めた「ウェット・カーボン」のフレームに、アルミニウム、マグネシウム、チタニウムなどの各種の金属で構成されたサブ・フレームを持つデバイスだ)。
人間の手足の動きに合わせて、各部にエアー・シリンダーを備え、動力源には空気圧縮から取った圧縮空気を使っている。
(ただし、かさばるアーム類などは極力排し、たくみに組み込まれたケブラー繊維のワイヤーと、滑車や歯車、高圧空気の流れるエアー・ホースなどで駆動しているので、はずせばコンパクトに収納できる)。
パワーの調整は、各所に配されたセンサーで検知して、小型の内蔵コンピューターで管理・制御されている。だから、重たい物を持てば持つほど・力を掛ければ掛けるほど、アシストが強く働くようになっている。
また、装備の重量に合わせて初期設定値が設けられているので、エアーさえ流れていれば、生身の身体でいるより、むしろ楽だった。
それで、道具を使ったり・数人でなければ動かすことすらできないような、重量物を取り扱う作業でも、俺たち二人で十分だった。
(でも・その割りに、シリンダーや電気モーターなどの作動装置には、市場に出回っている中古機械の廃品を利用しているので、製作費の方はそれほどでもない)。
そして、俺たちが使っている道具の中で一番のスグレ物は、特殊な金属粉の混ぜられた「形状保持ゴム」の工具だ。
放っておけば、こぼれ落ちそうなほどに柔らかいゼリー状のラバーのかたまりなのだが、いったん電気を通すと、その金属粉が反応して、金属なみの硬さでその形を保つ。
だから、ボルトやナットの先に当てがい電気を流してやれば、スパナやドライバーなどの他の工具は、いっさい不要だった。「手が入るのがやっと」という狭い箇所などでは、特に重宝する。
それに、通常の道具では、ネジなどの頭と工具のサイズがきっちり同じでは、道具が掛からない。ゆえに、多少の「遊び」があるのが当たり前だが…強く締まりすぎていたり・錆が出て固くなっていると、ネジの頭をナメてしまうことが多々ある。でもコイツを使えば、対象物にピッタリ密着するわけだから、そんな心配をする必要もない。
また…大きなサイズのボルト&ナットに合うスパナやレンチは、大きさもそれなりになり、重さも相当ある。ただ持っているだけでも、かなりの腕力を消費してしまうものだが…作業手袋の手の平部分に仕込まれたコイツは、「パワー・アシスト・デバイス」と連動していて、締め付けトルクの管理もバッチリだ。
(「エアー衝撃レンチ」の要領だ。供給されるエアー圧が上限だが、それ以下なら、調整器の作動点を望んだ圧力設定に移動させるだけで、安全弁の排出口から余剰分を抜くのと同じ動きをしてくれるわけだ)。
突然の停電・孤立した場所での作業のために、非常用のエアー・タンクやバッテリー、「無停電電源装置」を備えることも可能だった。注意しなくてはならないことは、「対象物に漏電などの電気が流れていないか?」「絶縁が必要な箇所ではないか?」といったことくらいだ。
(さすがに、船舶などに使われている「ひとかかえ」もあるようなナットや、クレーンで吊り上げるようなボルトには対応していないが…)。
俺の努力と・ある人物のおかげで、これらの秘密兵器を手に入れた俺たちは、他の業者のように多くの道具や工具を持ち歩かなくてよく、まさに「カラダひとつ」で・倍の人数分の仕事をこなせるようになった。
「こりゃ~お前と同じだな!」
機械に取り付くなり、相棒は俺にむかって、そう言ってくる。
「どういうことだよ?」
俺は無愛想に問いただす。
「原始的ってことさ」
この年代物は、各部のコントロールを自ら作り出した圧縮空気を利用して、アナログ的に機械式で制御していた。何でもセンサーで感知し・コンピューターで管理するのが当たり前の今の時代。電気式デジタル・コントロールになれた俺の目には、原始的だが新鮮だ。
「悪かったよ」
俺は作業を続けながら、ブッきらぼうな返事をする。
『誰かに操られるのが嫌いな俺と、そっくりさ』
でも、たとえコンピューターで制御されているとはいえ、ボタンを押したり・レバーを引いたりなどの実際的な動きが残っているうちは、よく空想科学犯罪に登場するような、遠隔操作で機械を乗っ取り、自由に操るなんてことは無理だった。
たとえば…自動車の速度感応式パワー・ステアリングがマイコンで制御されていたとしても、ハンドルを切るという人為的入力や、それによってステアリング・シャフトが回るなどの機械的動作は操れない。
(たとえ自律型人工知能搭載の自動運転機構を備えていても、外部とネットワーク機能で接続されていない自立独立状態なら、外から強制的に介入することは不可能だ)。
だから、「リモート・コントロールで機械を奪う」なんてSFチックな犯罪が実行されたことは…ラジオ・コントロール以外では…いまだかつて無かった。
「それにしても、生命ってのは偉大だよな」
機械のテッペンによじ登って、ヘッド・カバーのはずされたシリンダー内部の点検・清掃をしていた俺は、硬質メッキのほどこされたシリンダー内壁にしたたり落ちた自分の汗を見て、一人そうつぶやく。
ソイツは完全に乾ききって、一本の白いスジになっていた。タンパク質だの塩分だのといった、細かいことは知らなかったが…塗装面や金属部分にたれた人間の汗は、乾燥しきってしまうと、かわいたウエスで拭いたくらいでは全然おちない。
「こういう時は…」
俺は左手の作業手袋を脱ぎ、中指をペロリとなめて、ツバのついた指先でそこをなでる。
「体液には体液で」
こうすれば、簡単に落ちる。こんな状況での「目には目を・歯には歯を」というのは、こういうことだ。
(現在では「やられたら・やりかえす」的に使われている言葉だが、かつては「世界最古の法典」と呼ばれた『ハ(ン)ムラビ法典』…後に、もっと古い物が見つかったそうだが…の一節だそうだ。しかし本来の意味は、「相手の目を傷つけたら自分の目を・相手の歯を折ったら自分の歯を差し出せ」という、貨幣経済発展以前の・法律&弁済方法のことらしい)。
「やっぱり、生命ってのは偉大だよな」
俺は、こういったツマラナイことにイチイチ気づいては、そこに…いまだに、その誕生のヒントさえつかめない「生命の神秘」を感じてしまうわけだ。
「なんたって、自然ってのが一番偉大だよ」
でも何もそれは、「生命」に限ったことではないのかもしれない。たとえば「水と油」にしたって、同じことだ。
エアー・コンプレッサーの吸入空気濾過器には、エレメントにオイルを染み込ませる湿式タイプがあるが…雨水や・結露した水分が浸入した、ホコリ混じりのエレメントは、表面がドロドロになってしまう。そうなると、いくら洗油で洗ってやっても、なかなか泥が落ちない。そんな場合は、まず水で洗い流してやれば一発だ。
「水」と「油」
こんな仕事をしていると感じることだが…それは言わば、「自然」と「文明」の象徴だ。容器の中に入れて、よく振ってやれば、しばらくの間ではあるが、白濁して交わることも可能だ。しかし、やがて時が経てば分離してしまう。
「自然と文明の争い」
そいつは「高圧洗浄機」などに、もっとも端的に示されている。水道の水圧くらいでは落ちない油汚れも、高圧の水にかかればアッサリ吹き飛ばされてしまう。
(浸透率の良い温水を使えば、下手なゴム・シールをも通り抜けて油分を除去する)。
自然と文明は、交わることはあっても、決して混じり合うことはないのだろう。人間が築き上げてきた文明も、いつかそうやって・あっさり露と消えてしまうのかもしれない。
「けっきょく自然ってものには、かなわないんだろうな…」
そんなことを考えながら、いつもの退屈な仕事を続けていた俺だったが…どちらにしろ、今日あつかっている機械のこの部分に、油は使いたくない。
この機械は「無給油タイプ」と呼ばれる物で、おもに生活用空気や食品・医薬品メーカーなどで使われている。たとえば、製造ラインから出てきたインスタント食品の乾燥用に、また、それらの容器・飲物用ペットボトルは、空気で成型されるが…その空気に油が混入していたりすれば、あちこちで大問題となる。だから、そういった所では無給油タイプが重宝される。
(当然こちらには、油分を嫌う乾式タイプの吸入フィルターが使用される)。
もちろん、配管の途中に「配管濾過器」と呼ばれる物が装着されたりもするが、まんいち機械内部で油漏れがあったりすれば、細かい霧状になった油分は取り切れない。オイルで潤滑されている給油式より抗堪性に劣るので、トラブルを未然に防ぐには、早め早めの点検・整備が必要になる。
「ふう~!」
俺と相棒は、人目につかない・手を伸ばせば高い天井に届きそうな機械のテッペンで、ひと休みしていた。あまり早く作業をしてしまうと、ほかの業者とのバランスが取れないからだ。
「見なれない連中だな」
神作のその一声で、俺は下を見下ろす。電気室からコソコソと、あたりをうかがうように、四人の人間が出てくるところだった。
「電気屋さんかな?」
相棒が続ける。白いヘルメットに、ゴーグル&マスク姿。ま新しい揃いの空色の作業服に、会社名は入ってないが、持っている道具が電気屋のソレだった。俺は気にもとめずに、視線をはずす。頭の中は、もうじきにせまったユカとの結婚式と…
(と言っても、こんな時代。「ブライダル産業」なんてものが、成り立つはずもなく…身内の顔合わせも兼ねた「お食事会」と・友人や仕事関係者を招いた「二次会」みたいなものだが)。
そして、『早く帰ってヤリたい』。ただそれだけだった。
* *
「ちょっと戻ってきてくれよ」
帰り着くと同時に鳴り出した電話のむこうの声の主は、相棒の神作だった。
(電波事情の悪い地下都市だ。たいていの家庭や会社には、有線の固定電話があるものだ)。
「今日の機械、点検の後に試運転かけたら、逆転しちまったんだよ」
受話器のむこうの相棒の声には、いつもの覇気が感じられない。
「はあ~?」
意表を突かれた俺は、あきれて返事もできない。
『なんだって言うんだよ?』
本日は、今回の現場の最終日。人手は足りていたし、できればユカと一緒に・式場の打ち合わせに行きたかったので、俺は一足先に現場を後にしていたのだが…
『ウソだろ?』
大がかりな分解整備の時はたいてい、整備後の試運転で問題が発生した場合を考慮して…
(しょせんは人間の仕事。ましてや大勢でゴチャゴチャとやった時など、ネジの締め忘れなんて日常茶飯事だ)。
半日くらいは、予備の時間を取っているものだ。だから最終日は、運転を行って不具合がなければ、「午前中」程度で・その日の作業が終了する。
「仕事が片付けば、それで終わり」
出来高勝負の現場仕事。休みや勤務時間は不規則な職業だったが、やる事がなくても・定時まで会社にいなくてはならないサラリーマンと違って、「他人のことなど、どこ吹く風」の気ままな俺には、ピッタリの内容だった。
『マジかよ?』
神作は、早口で・まくし立てるように説明してくるが…
『意味わかんね~!』
電話ごしでは、状況がよくつかめない。
「原因がわからなくてさ。もしかすると、またバラすことになるかもしれないんだ」
後に残っていた相棒は、懇願するような口調だ。
『チェッ! 何やってんだよ』
腹の底から、誰にブツけていいのかわからない不満がこみ上げてくるのを感じていたが…
「ああ、わかったよ」
こんな商売をやっていると、夜中にたたき起こされるなんてことが、時たまあった。機械が壊れて止まってしまうと、工場なら生産がストップしてしまうわけだし、それが生活用空気なら、多くの人間が困ることになるからだ。
幸い最近はどこでも、ローテーションを組んで、一台の機械ばかりに負担がかかりすぎないように・また点検時などに一台を停めておけるように・そして片方が故障してしまった場合の非常用に…複数の機械が入っている。それで今では、「深夜に呼び出される」なんてことは、ほとんどなかったが…
「仕事?」
外出の準備をしていたユカが、不満そうな顔を見せる。
「ああ」
俺は、もうユカと一緒に暮らしはじめていた。
「ゴハンは?」
今夜は、結婚式場の打ち合わせの後、そこで食事することにしてあったのだが…
「行ってみなけりゃ、わからないな」
そういう事だ。
「用意しとく?」
ユカは台所にむかい、冷蔵庫の扉を開け、中身をチェックする。
俺は、「朝のゴミ出し」と炊事・洗濯などの家事は、絶対にやらないと決めていた。それに、たとえ子供が生まれても、「お馬さんゴッコ」だけは死んでもやらないと、心に誓っていた。それが今の時代にあって、俺がつらぬき通そうと思った主義・主張だった。
(よくフザケて、後ろからつかみかかり・腰を振ってくる奴がいるが…これは「マウンティング」という行為で、べつに同性愛的衝動の顕われではなく、「(無意識に)自分の優位を示そうとする」、サルの段階から見られる行動だそうだ。きっと俺にはそれが、「お馬さんゴッコ」とダブって見えるのだ)。
ただし、唯一の例外があった。それは「フトンの上げ・下し」だ。どういうワケか俺は、『それが一家の主が家庭で行う唯一の仕事』だと思っていた。
(たぶん…俺の父親は、絵に描いたような「マイホーム・パパ」だったが、そんな性格が女々しく見え・反発をおぼえて育った。しかし…どういうワケか、フトンの上げ・下げをする姿にだけは、「男らしさ」を感じたからだろう)。
「だいじょうぶ。たぶん、すぐ済むさ」
俺はそう言い残して、部屋を出る。独立した他の居住区に行く時は、地下鉄を使わなければならないが…今日の現場は、同じコミュニティーの最上層にあった。
『それにしても…』
あの機械は、構造的にそんな動きをするはずがない。
『モーターが、逆転してるんじゃねーの?』
それしか考えられなかったが…俺はあれこれ思案しながら、地下都市中に縦横に張り巡らされたエレベーターやエスカレーター・動く歩道を乗り継いで、今日の現場に戻る。
速くてショックも少ない「エアー・シューター」もあったが…
(チューブ状の経路の中に入れた・硬質プラスチックのカプセルを、圧搾空気で飛ばすように配送するものだ)。
空気が貴重品となった現代では、救急搬送用や・追加料金のかかる小荷物輸送用以外には、なかなか普及しなかった。
「どうしたっていうんだよ?」
わずかに熱を発している機械。その横に立っている神作のかたわらに行き、症状を聞く。
「モーターが逆転してるんだったら、電気じゃねーの?」
俺は、ここに来る途中に考えていた推定原因を述べる。最近の機械なら、すべて「逆転防止装置」が付いている。だから、たとえ配線を組み違えたとしても、こんな症状が出ることはないのだが…コイツは大昔の機械だ。そんな物は付いてない。
「いや、今回、電気のほうはイジッてないらしいんだ」
相棒は、そう返してくるが…
「だって、この前…」
俺がそこまで言いかけると…
「ああ、そういえば…」
奴も、先日、機械の上で休憩している時に見かけた連中を思い出したらしく、そう言ってうなずく。そこで俺たちは、電気室に行ってみる。
「パチン!」
灯りをつけても薄暗い部屋には、更衣室にあるロッカーを大きくしたような、縦長の(もともとはアイボリーっぽい白色だったろう)すすけて灰色がかった金属製の箱に入った、配電盤や起動盤がいくつも立ち並んでいた。
「?」
どいつも・こいつも、ホコリをかぶっていたが…今回あつかった機械の電気盤だけが、きれいにホコリを拭き取ってある。もちろん、整備前に電源を落としたり・試運転時の電源再投入など、誰かが触れてはいるはずだが…それにしても、まるで痕跡を消すかのように念入りだ。正面側のドア式フタを開けて、中をのぞくと…
(6600ボルトの高電圧が流れている電気盤。「ドア・スイッチ」と言って、機械が稼働中にトビラを開けると、自動停止する構造になっているが…今なら大丈夫だ)。
「あれ?」
俺と神作は、目を合わせる。電気が専門でない俺たちだったが、何百本もある配線や・なまじっかの知識では手に負えないプリント基盤を持つ現代の機械を見なれた目には、単純で・必要最低限の数しかない大昔の機械だ。どれが・どこの線なのか、すぐにわかった。
「なるほどな」
俺たちは、急いで現場監督に報告する。モーターの結線が、逆になっていたのだ。
「誰がこんなイタズラしやがったんだ?」
電線を見たまま監督は、そう怒鳴る。
『知らね~よ』
相棒が、まぶたをパチパチしばたたかせ、「モールス信号」でそう送ってくる。
音声通話やメール・画像通信が当たり前の現代にあって、大昔の遺物「電信」を解する奴など、まずいない。もともとは、サバゲー好きの神作に伝授されたものだったが…ソレを使って俺たちは、現場監督の悪口や・口裏を合わせる時に、指先でたたくなどして多用していた。
(前にも言ったが相棒は、ついつい大声で本音を吐いてしまう。そこで俺が、無理やり矯正したわけだ)。
俺は、面倒なことに付き合わされるのはゴメンだった。サッサと帰りたかった。それで俺たちは、先日見かけた連中のことは黙っていた。
それに、やってやれない作業ではなかったが、高圧電気を扱うのは、ちゃんとした資格を持っている人間の仕事だった。
しかし監督も、トットと帰りたかったのだろう。みずから高圧電源のスイッチを上げ・下げするための、黄色の長い絶縁棒を握って…
(こういう時は、火花が飛んだり・感電しないよう、絶縁された長い棒で、少しはなれた所から作業するわけだ)。
主電源を落としコソコソと、逆になっていた機械側の二次側高圧線をつなぎ換えてしまった。
「じゃ回すぞ!」
監督のひと声で電源が入り、「ブーン」という低い・モーターに流れる電流の音が聞こえる。と同時に、「ガコン!」と一瞬大きな音をたてて、その機械は唸りを上げはじめる。
ガタガタと、騒音と振動をまき散らして動きはじめた骨董品は、それでも十分に機能を果たしていた。時代を越えて動き続けるその機械を見て俺は…
『人類が滅亡しても、サビて朽ち果てるまで、この機械は存在し続けるのだろう』
そう思った。
* *
8月。一年で一番つらい時期だ。
機械室の中はもちろん…ごく一部の優遇された、たとえば原子力関連の施設などをのぞいて…エアコンなど備えていない。機械が発する熱のため、冬場は暖かいが、そのぶん夏場は最悪となる。寒いぶんには着込めばいいが、暑さに対しては…クーラーや扇風機・扇子や団扇など、特別な装置や道具でもない限り…裸になってしまえばお終いだ。
「チェッ! タマンねーな」
正確に測ったことはなかった。ナゼって一番ひどい所では、手持ちのフル・スケール摂氏60度の寒暖計の目盛りを、振りきってしまったからだ。
機械の測温に使う「表面温度計」をブラ下げておけば、おおよその室温は測れるだろうが…現実を目の当たりにするのが怖くて、試す気にもなれなかった。
「ふい~!」
今日の現場も、かなりのものだ。
熱気がこもる天井近くでの作業など、たびたび休憩を入れなくては、やっていられない。息を吸うと、熱い空気が気管を通過して行くのがわかるほどだ。
動いていない機械だって、うっかり金属部分にさわると、ヤケドするほどに熱くなっていたりする。それで俺は、長ソデのスソをまくり上げずに作業していた。
(場所によっては、夏季でも「長そで着用」を義務付けている所もある)。
なにしろ…ボイラーの熱気や・溶けたタールが流れている配管には、圧縮機の高温の空気とは・くらべ物にならないほど熱いものがある。また反対に、窒素ガスなどで冷却されているものには、極端に冷たいものもある。だから四季を問わず…そういったものに、うっかり触ってしまった時のためだ。
(人間の感知できる範囲を越えた高温や低温は、触れた瞬間には、それが熱いのか・冷たいのか、わからないものだが…温度が低すぎる物に触っても、高温のヤケドと似た「低温火傷」の症状を呈する)。
どっちにしたって、今日の現場ように暑い所では、裸だろうが・薄手の服を着ていようが、たいして変わらない。むしろホコリのひどい場所などでは、肌に直接ホコリがつかないようにしていた方が・マシな場合だってある。
(大気中には、当然のことながら、塵や埃・花粉が含まれている。空気圧縮機なんて集塵機や掃除機みたいな物だ。空気といっしょに、通常以上の塵芥も集めてしまうので、コンプレッサー室というものはだいたいが埃っぽい)。
「暑い時に、熱い物を食べる」
「暑すぎるから、逆に服を着る」
極端すぎると、普段の常識が逆転したりするものだ。かつて砂漠に住んでいた民族は、暑い日中でもダボダボの服を羽織っていたと云う。それはもちろん、ホコリや陽射しをさえぎるために・そして生地の内側の空気を、断熱材として利用するために。
『来年の夏までにクール・スーツを作っとかなきゃ、死んじまうよ』
毎年この時期になると、毎回おなじことを考える。空気を循環させ・細かい穴からエアーを吹き出させるインナー・スーツの青写真は、すでに出来上がっていた。
(流体は、径路が絞り込まれると「ベンチュリー効果」といって流速が上がる。それを利用すれば冷却効果も見込めるし、装置の外側に「ヒート・シンク」という放熱フィンを設ければ、さらに効果的だ)。
でも「喉もと過ぎれば、熱さを忘れる」の言葉通り、秋になり・やがて冬になる頃には、すっかり忘れているわけだ。そして、人間にとって一番つらい季節は、機械にとっても一番過酷な時期だ。
たとえば…空気は圧縮されると、そのままでは使えないほどの高温となる。
(運動エネルギーを持った分子だ。狭い場所に押し込められるほどに、運動が活発になり・温度が上昇する)。
エアー・コンプレッサーは、大型で高圧力・大容量になると、何回かに分けて順次、圧力を上げていく。二つ以上の圧縮部を持つ場合には、低圧側から一段・二段・三段と呼ばれていく。流量の違いは圧縮部の大きさを比較し、見ての通り・大きい方が流量が多いが…小さくなるほど、高圧側となる。
(高い圧力に圧縮するには、より小さな箱に入れなくてはならないからだ)。
そして、低圧と高圧の圧縮部の間は、「インター・クーラー」という名称を持つ冷却装置で結ばれている。
(各段ごとにいったん冷却されて、次の段に送られるわけだ)。
一番最後に「アフター・クーラー」を通り、圧縮された空気は冷やされて、各部に送られることになる。
また冷却方法には、水を使う水冷式・空気を使う空冷式があるが…不純物の含まれていない空気が貴重品となった現代では、それに冷却効率の点からも、水冷式が主流となっている。
(地球の表面積の約72パーセントを占める海。だが「海水」以外の「淡水」は、地球全体のわずか2.5パーセント。さらに、生活に利用できる「真水」となると、全体の0.01%しかないそうだ。しかし地下水や地底湖など、人類が活用できる水だけは豊富にあった。むしろ、突然の漏水・浸水などがあり、管理・制御の方がたいへんだった。地下水が多い場所では、一年365日・一日24時間、休みなく水中ポンプが稼働している所もあった)。
その冷却装置には、おもに二つのタイプがある。かつて自動車などに使われていたラジエター・タイプと、地中に埋設される土管か魚雷のような形をしたクーラー・タイプだ。
クーラーは、中に「配管の巣」と呼ばれる細いパイプの束が入っている。圧縮空気が、その中を通過し・その周りを冷却水が流れて…
(あるいは逆に、配管の中を水が流れ、高温の空気がその外側を通り…)
高温・高圧のエアーを冷やす仕組みになっている。
(クーラーは、すべて水冷だ。一方、半空冷式とでも呼べるラジエターは、構造はより単純だが、花粉の量が膨大なものとなった現在では、ラジエーター・コアの目詰まりがひどく、今の世の中では自動車ですら、「熱交換器」というパネルをボディー各部に貼りつけ、冷却効果の高い特殊な冷却液を使った表面冷却方式を採用している)。
吸い込まれる空気も・冷却する水も、夏場は初めから冬より温度が高いので、冷却効率が悪くなる。過酷な状況に置かれた機械は、人間同様、何かとトラブルが出やすくなるものだ。
「チェッ! やってらんねーよ」
暑さも手伝って、俺はイラついていた。『結婚したら毎日でも』と思っていたのに、ユカの奴は「何か他人とは思えなくて」なんてことを、ぬかしやがる。
「クソったれ!」
俺はムカついていた。おまけに今日の仕事は、そのクーラー清掃だ。それは、俺が一番嫌いな作業の一つだった。なにしろ…ゴチャゴチャと、それを点検・整備する事など、まったく考慮されずに張りめぐらされた配管の間から、大きく・重たいクーラーを引っ張り出すのは、ちょっとした「知恵の輪」だ。
(たとえば化学工場などでは…その筋の専門家が見れば、その配管の配列から「何を・どうやって作っているのか」が、わかってしまうと聞く。企業秘密を守るため、あえて無用なパイプも設置されているという噂だ)。
さらに…泥水まみれになって、とても「機械」とは呼べない「土管」のような代物を、清掃・整備しなくてはならない。それに…今日の現場の工業用水はカルシウム分が多いようで、固くこびりつき・冷却水の経路をふさいだ総称「シリカ」と呼ばれる白いかたまりを除去するのに、ひと苦労だ。
『鍾乳洞ができるわけだよ』
近ごろでは地下の開発が進むにつれ、新たな鍾乳洞や鉱脈が続々と発見されていた。調査・採掘などの後、「洞穴公園」などと銘打って、市民の憩いの場として解放されている所もあった。
「ゲン、どうしたんだよ?」
俺と相棒は、クーラーの外殻から抜き出した「配管の巣」の両側に座って、コツコツとシリカを落としていた。たぶん俺は、不機嫌そうな顔つきをしていたのだろう。無言で手作業をする俺にむかって、神作が声を掛けてきた。
「今日は朝から、何も食ってねーんだよ」
朝、欲求不満なうえに、寝坊までしてしまった俺は、フテクされて部屋を出た。左手首に巻かれた時計に目を走らすが…昼までには、まだだいぶ間がある。
(俺は「潜り」をやるというわけではないが、ダイバーズ・ウォッチを愛用していた。水中カメラと同様、「水も漏れない」ということは、「ホコリや花粉も入り込まない」ということだからだ。それに…衛星からの信号や・太陽からの光が届かない地下空間。「電波時計」や「ソーラー・ウォッチ」なんて物は、お目にかかったことがない)。
「お前は食い減らしだからな」
神作は作業の手を止めて、何やらゴソゴソとやっている。体格のわりに食の細い相棒とは裏腹に、細身の俺は、ハラが減ると、ただそれだけでイライラしてしまう質だった。
「ホラ! これやるよ」
相棒がそう言って、アーミー・パンツの右の太モモの大型ポケットから取り出したのは、菓子パンだった。
「なんだよコレ? いつのだよ?」
それを受け取った俺は、奴のポケットの中でつぶれたパンを引き伸ばす。
「大丈夫だって、お前なら」
封を開き、カビでも生えていないか中をのぞき込むが…現代のパンは、カビなど生えない・長期保存がきく物ばかりだった。
(「どのくらいの期間、保存が効くのかわからない?」とまで言われる、「乾パン」の製法を応用した物らしい。もっとも、調理パンなどの「具」は別だが…)。
「じゃさ、こういう状況ならどうする?」
神作は、仕事を再開しながら話し出す。
「病原菌があるかもしれないパンがある。ハラは減ってて餓死寸前だ。ガマンして死ぬか、いちかばちか食うか? ただし、もうチョット待てば、助けが来るかもしれない状況なんだ」
俺は、汚れた手で触れないように、袋の上からパンを押し上げる。
「どうせ死ぬなら、黙って死ぬより食うだろ。そんな助けなんて、アテにはできないだろうし…」
軽く臭いを確かめてから…
「どっちにしたって極限状態なら、とっくに食っちまってるよ。俺は、そんなに意思の強い人間じゃない」
そう言って、パンにかぶりついた時だった。グラグラッと、あたりが揺れる。地震だ。
「けっこう大きいぜ!」
相棒が叫ぶが…でも地下の穴ぐらにいたのでは、ジタバタしても始まらない。ジッと無事を祈るしかないわけだ。俺はかまわず、パンを食い続けた。
『腹を空かしたまま死ぬなんて、それこそゴメンだぜ』
それに人間いざとなると、けっこう冷静らしい。飛行機事故に大地震。死を目前にした、あるいは、それを悟り・覚悟すると、あんがい落ち着いているものだという。
『人生、失意とあきらめで終わるより、途中でやめたほうがマシかもしれない。いっそここでグラグラ・ガッシャ~ンときて、息絶えてしまえば、どれほど楽なことか』
そんなことを考えていた。活断層を避け・地盤が安定した所を選んで都市が造られているとはいえ、毎年・何人かが地震の被害に遭って死亡する時代だった。
(しかし地中にある物は、動いている地盤と一緒に動くので、地表より被害ははるかに少ない。ズレた断層にでもかかっていなければ…設置された備品などはともかく…構造物自体は、せいぜいヒビが入る程度だ)。
『でもそういう人間にかぎって、生きのびちまうんだろうな』
神作は、あいかわらず仕事の手を止めて、あたりを見回しているが…けっこう長いこと、揺れ続けている。
『自殺するのは人間だけなんて言うけど、人間だって動物的生存本能があるもんさ』
今の時代、自殺をしようなんて人間は、本当に心を病んでいる人間だけだった。人類の数が大幅に減少するにつれ、自殺の数はどんどん減っていた。だから現在では、その数はほんのわずかだった。みなアテも無く、ただ黙々と日々の暮らしをこなしていた。
『生きてるからには、生き続けなくちゃならないのさ』
でもおそらく、無気力になった現代の人間どもは、不測の事態に遭遇しても「それも運命」と素直に認め、何の努力も無いままに死んでゆくのだろう。
「自分の人生・存在の意義」
そんな事を考える人間は、誰ひとりいないように、俺には思えた。
「ピ~・ヒョ~」
地震がおさまったのと同時に、緊急時にネット・ラジオから流れるのと同じ発信音が聞こえてくる。そして木霊のように、館内放送が響き渡る。今では、こういった時の情報伝達網が完備されていた。でも「震度がどうの・震源地がこうの」と言われても、物陰の下にでも隠れる以外、何のなす術も無かった。
* *
一日の仕事が終わり、事務所に戻る。「事務所」とは言っても、窓ひとつ無い部屋の・コンクリート壁のすべてを、一面白く塗っただけで…
(白は光の反射率が高いので、電力の節約にもなる。自然光の無い現代は、どこでも・だいたいこんなものだ)。
入るとすぐに、仕切りも兼ねたカウンター。奥にはトイレと簡単なキッチンもあるが…
(電子レンジに電熱式コンロ。こんな環境下では「火事」や「ガス漏れ」は大惨事になりかねない。それで直火を使う調理器具や暖房機器は皆無だった)。
ソファーとテーブル、テレビ・セット以外は…入って左側の壁際に、仕事の書類や資料の並んだ書棚。反対側には、一般工具や特殊工具と、在庫のパーツ類を納めたラックがあるだけで…インテリアはすべて、黒で統一してある。
(手持ちのできる小さな部品などは、ここに持ち帰って、エアコンにあたりながら作業することもある。台車を押して街を歩く職人なんて、日常的に目にする光景だ)。
部屋の入口に、特別な看板は掲げていなかったが、会社名は「K&Kエンタープライズ」だ。
「エンタープライズ」という文字を辞書で引くと、「企業」とか「冒険」という意味が載っているが…「本来は『汎用』という意味だ」ということを聞いたことがあった。でも正直なところ、その真偽は定かではない。
(ディクショナリーでは、「汎用機」の「は」の字も出てこない)。
ある有線ラジオ番組の女性パーソナリティーが、そう語っていたのだが…
(「有線」なのに「ラジオ」と言うのは、「音声のみ」だからなのだろう。こんな世の中になっても…仕事や何かを、やりながら…DJの声を聴くのを楽しみにしている「ラジオ好き」というのが、存在していた。最近は局数も増え、もちろん「(音楽などの)専門局」や「深夜番組」だってある)。
その話によると、20世紀の末期に、その言葉を名に持つ空母が存在していたと云う。そしてその船が寄港したさい、いろいろな経緯で話題となり…特に、原子力推進機関・核兵器の持ち込み疑惑といった事らしい…多くの企業が意味もわからず、その名称を会社名に採用したと言われてたというのだ。
(しかし辞典には、ちゃんと「会社」という意味も載っているし、たぶんその艦船は「冒険」という意味合いで、その名前をつけたのだろう)。
中には、電波や活字などの公共の媒体を使っていながら、いい加減な情報・誤った知識を流してしまう輩もいる。
「大口をたたく奴」という意味の“BIG MOUTH”の“MOUTH”を、ネズミの“MOUSE”と勘違いして「大きな鼠」と解説した映画評論家。
『ロンドン警視庁』の通称「スコットランド・ヤード」を、「スコットランドの庭」と訳した、翻訳家でもある大学教授。
「車台」を表すフランス語の“CHASSIS”という単語の語源を、「四足という日本語だ」などと、大マジメで語っている、自称(その道の)専門家。
(「太平洋戦争」終了後、敗戦国ゆえ航空宇宙産業が規制・制限されていたニッポン。同じ境遇にあったドイツと並ぶ自動車生産大国となったのは、両国とも・本来なら飛行機やロケットを作っていたであろう優秀な技術者が、行き場を失い・大量に自動車業界に流れ込んだからだ。しかし、車輪を持たない文明で有名な「インカ帝国」ほどではないにしろ、もともと海と急峻な山々で構成された・雨や湿地の多い国土を持つ日本。「近代」以前は、車輪の文化はイマイチ発展しなかった。そんな土地柄で、「モーター・レース発祥の地」と云われる仏国に、いったい「いつ・どうやって」、影響を与えたのだろうか?)。
俺は、活字や電波などのメディアの言う事を、鵜呑みにしてしまうほどバカじゃない。
でも俺は、その言葉の響きが気に入っていたし、「企業」「冒険」、そして「汎用機械」を扱っている俺たちの会社にはピッタリだと思ったので、あまりゴチャゴチャと深く考えず…つまり、『本当に「汎用」という意味があるのか?』という点だ…その名前をつけたわけだ。
(ある有名なSF映画に登場する宇宙船「冒険号」だって、俺に言わせれば「巨大な空飛ぶ汎用機械」みたいな物だ)。
最初の「K&K」は、俺と神作の頭文字だ。
「はい。冷えてるよ!」
ユカが、冷たい麦茶を持ってきてくれる。
「サンキュー」
彼女には結婚前から、会社の経理などの事務的な仕事を手伝ってもらっていた。
(こんな時代だ。やること・やらなくてはならないことは、いくらでもあった。「勤労学生」制度が奨励され、「成人年齢引き下げ案」が審議されていた。飲酒やギャンブルについての制限はあるものの…「選挙権」と引き換えに、「労働力の確保」「歳入の増加」。さらに「年金・健康保険制度の維持」を狙ったものであることは見え見えだったが…争点は「対象年齢を16にするか15にするか?」という事だった)。
でも、まだ新婚旅行にも行っていない。休みが不定期なので、先の日程の予定は立たないし…相棒と二人で動いている会社だから、穴を開けるわけにもいかない。
(「息抜き」のための、レジャー産業の必要性が説かれていたが…まずは「再生」だった。経済の成長・発展は、人口と資源の量によるが…肝心の労働力の不足は深刻で、「復興」もままならない。そんな調子なので、今だに「景気」なんて呼べるようなものは、復活していなかった)。
『まったく、住みにくい世の中だぜ!』
あいかわらず貧乏人には、ヒマが無かった。最下層と呼ばれる民は存在しなくなったが、「持てる者」と「持たざる者」の差は広がる一方だった。
「まったく、住みにくい世の中だぜ!」
今度は小声でそうつぶやいて、麦茶の残ったコップをあおる。
俺はこの業界に入る前は、とある大手企業でサラリーマンをやっていた。仕事内容は、ゴムやシリコンの配合などを研究する技術者だった。会社から受け取るサラリーは、いわゆる大卒の人並みだったが…あの頃は、けっこう良い暮らしをしていた。裏で下請け業者に配合表付きの試作品を提供しては、かなりの額の「見返り」を得ていたからだ。しかしそれは、直属の上司も黙認だった。
(おおよその生涯所得が概算できるようなサラリーマン。中には空残業を繰り返して、マンションを買った奴もいたが…そうでもしなければ、収入を増やすことなど不可能だ)。
それに下請けも、多額の投資をして研究・開発するくらいなら、親メーカーから下りてくる情報を買ったほうが安上がりだし、それらの製品を納入してもらう側だって…つまり、俺が属していた会社だ…自分の所で考案した物だから間違いがなく、「めくら印」で十分なのだ。
「誰も損をする者がなく、仕事もスムーズに運ぶ」
(俺はそんな立場を利用して、個人的に欲しい物の試作品も、ずいぶん作ってもらった)。
社内の「発明クラブ」に入った俺は、『自己啓発』という名目で、休日返上で会社にむかい、設備や機器をフルに活用して・アイデアの実現に漕ぎつけた。それが例の「形状保持ゴム」だ。
でも「それ」は、たまたま偶然にできあがった物だった。鉄と同等の硬さを持ち、プラスチックのように成形しやすいラバー・ゴムを研究していた時だ。自分の不注意で、その試作品に電気をショートさせてしまったのだ。
(『死んでいる』と思っていた家庭用100ボルトの導線が、活きていたからだ)。
でもそのプロト・タイプは、電流が流れている間は、俺が望んでいた通りの特性を示した。
(世の中には、偶然によって生まれた発明や発見がたくさんある。そういったものは、理論や理屈は後からついてくる。そして案外それは、筋道立てて・系統だって理路整然と作られたものより、多いかもしれない。すべては「こんな物が欲しい」という人間の空想とアイデア、そしてチョットした運やキッカケが味方した「偶然の産物」なのだ)。
その後、俺は時期を謀っていた。基本的な社会構造が復活し、求人の需要が上向いた頃だった。オマケに、代わった上役とウマが合わず、俺の「たくらみ」が上層部にバレそうになったこともあり…「辞職届」を提出した。
(経済が上昇志向を示すと、行政も民間も分離・独立意識が高まり、かえって退職者が増えると言う)。
そのほかにも、仕事を辞めたワケはいくつかあった。中でも一番の理由は…たしかに、研究設備の機器を利用させてもらったものの…「自分の発明を、他人に横盗りされることにガマンできなかった」というところだ。
その業界では、かなり名の通った企業だったが…しょせんは、雇われの身。画期的な新製品を開発しても、社長の一言は「ごくろうさん」だけだった。そして功労者の先頭に立つのは、いつもそのプロジェクトのリーダーとなる役職者だった。
『冗談じゃないぜ!』
今までの自分の人生、「チャンスも偶然」で終わらせてきた俺だったが…このへんで、チョットだけ「賭け」に出てみようと思ったわけだ。
でも…あの頃の俺は、チョイとばかりイイ気になりすぎていた。勢いで辞めてみたものの、明確なプランはまったく無かった。
『いったい何をしたらいいのか?』
必要なデーターはすべて押さえてあったが、一個人の発明に多額の資金を投資する会社など無かった。
(企業の見栄ということもあるが、べつにアセる必要はないのだ。たとえ誰かが特許を持っていても、その期限が切れるのを待って、独自に・ひそかに基礎研究でも続けていればいいのだ。だいたい、あまりに時代を先取りしすぎた物は、世の中に登場しない。一般に知られていない技術や発明という物は、けっこう存在している。しかし、それらが日の目を見ないのは、製品化するための製造技術が未発達だったり、あるいは…そんな物を出してしまうと「価格破壊」や「市場の混乱」を招くおそれがあり、自分で自分の首をしめかねないからだ。それを発案した企業自身が危険に身をさらしかねないような代物は…急を要する戦時下でもない限り…既存の権益が崩壊しないよう、「来るべき時」が訪れるまで、メーカー側が温存しているわけだ)。
最後の「頼みの綱」…『懇意にしていた』と思っていた下請け業者たちも、肩書きのはずれた俺には冷淡だった。さすがに「門前払い」されることはなかったものの、それまでの自分の所業の数々を振り返れば…高慢・高飛車・利己主義…etc。
(自分の人格を見つめ直すには、良い機会だったのかもしれない)。
それに、だいたい俺は根っからの技術者で、経営面の才能も野心も希薄だった。とりあえず生命の維持のため、職を探していた俺は、今の相棒の誘いを受けて、機械メンテナンス&サービスの世界に足を踏み入れた。
もっとも「技師」とは言っても、どちらかと言えば「化学」系の、それも「リサーチ&ディベロップメント=研究・開発」の仕事をしていた俺だ。実際に機械の内側に触れるのは、初めてに近かった。でも構造は単純で、理論的にも技術的にも、難しいことは何もなかった。機械自体は、ただバカでかいだけで、面白くも何ともなく、興味を引かれる物はほとんど無かった。ただし今まで、これほどの重量物をあつかったことが無いので、そういった知識と経験は不足していたが…仕事の手順と、チョットしたコツをおぼえるだけでよかった。
「いるかい?」
ひと息入れていたところに、ノックもせずに、小柄な初老の男が入ってくる。
白髪に丸メガネをかけた・その老人は、最近・結婚した俺にとっては「義理の父」…つまりユカの父親だ。もともとは大手工作機械メーカーの工場長だったそうだが、いまだ未成熟の現代工業界にあっては、その独創的な発想や技術を発揮する場には恵まれなかったのだろう。今では第一線をしりぞき、義手や義足の製造をしているが、その筋ではなかなか名が通っている。
(産業界はまるで、『国家総動員法』時代の戦中か? 「闇市」が横行していた戦後復興の時期か? 法制度が完備される以前の『高度経済成長期』の頃か? そんな状況を呈しており…昔なごりの『労働安全衛生法』なんて、おかまいなし。手薄な「労働基準局」の監視も行き届かない・野放し状態では、指どころか・手足を切り落とすなんて重大な「労働災害」も、後を絶たなかったが…「建前」より「本音」・「体裁」より「実利」が優先される切迫した世の中では、それも仕方がない事なのだろう)。
その技術やアイデアを生かして、例の「パワー補助装置」を作ってくれたのだ。
その他にも「街の発明家」といったところで、さまざまな道具を作っては…中には、「|まったく役に立たない物」もあったが…俺たちに提供してくれていた。
本来は、俺が秘密裡に進めていた「形状保持ゴム」用の治具製造の縁で顔見知りになった。
(神作と出会ったのも、趣味のオモチャの部品を依頼しに来ていた奴と、義父の工場でだった)。
ユカとの初対面も、前の会社を辞めてブラブラしていた頃に、彼の仕事の手伝いに部屋を訪れた時だった。
「あの歳になって、まだ結婚もしないでフラフラしてるんだよ」
職場から戻った彼女と初めて顔を合わせた時、俺たちはお互い無言で・軽く会釈を交わした程度だった。そして具体的な事の始まりは、酒の席でのことだった。
「おとうさんと呼ばせてもらっても、いいですか?」
酔った俺が、調子にのって皆の前で、そう声高に叫んだことに端を発していた。結婚を渋っていた彼女だったが…彼の強烈な後押しもあって、ゴールに漕ぎつけたのだ。
(「新婚・初夜まで、貞操を守り通した」なんてことは無かったが…当然ユカは「生娘」だった)。
でもそれ以前から俺は、彼に気に入られているフシがあったが…ただ単にそれは、俺が子孫保存の意思と能力を持っている男だったからだけかもしれない。
「これだよ。吐出弁を付けたんだ。例のゴムを半立ち状態にして、ここからエアーを抜いて負圧にしてやれば、どこにでもくっつくだろ」
晩婚化が進んだ時代だ。もうそれなりの年齢になった義理の父が取り出したのは…
俺が開発した特殊ゴムに、望んだ形を再現するように配列した金属粉を含ませ、電気を使った「電磁弁」と同様の原理…フレミングの『左手の法則』で励起する「ローレンツ力」だ…で、電磁石で発生した磁力を、形状再生に利用した物だった。
「そして一定の引っ張り圧力がかかると、一気に開いて大気圧になって、はがれる仕組みだ」
問題は、特殊ゴムの性状だった。形ではなく、硬度保持のほうに特性をむけなくてはならない。硬すぎても・柔らかすぎてもダメで、適度な粘度を持たせることが必要だった。
「コイツを両ヒザの所にもつけて使えば、垂直な壁だって自由自在に上り下りできる」
そう言いながら彼は、ガラス製のテーブルを使って実演してみせる。たしかに、この程度の重さなら、持ち上げてもはがれ落ちない。すくなくとも、両手・両足の「✕4」で、四倍の重量にはたえられる計算だ。
「ま、『プッチン・プリンの原理』だな。どうだ、すごいだろ!」
ひとしきり彼は、自分の新製品についての説明と自慢をした後、麦茶をすすりながら…
「早く孫の顔が見たいな~」
独り言のようにつぶやく。
『このスケベおやじ。アンタのころとは時代が違うんだよ』
今の時代、国からは妊娠にたいする奨励金・出産にたいする褒賞金が出た。中には町興し事業の一環として、育児に対してかなりの額の補助金が出て、子供を三人も作れば、仕事をしなくてもやっていけるような自治体もあった。でも皆、「子供なんて、わずらわしい」という以前に、「結婚なんて、面倒臭い」というのを理由に、なかなか浸透しなかった。
『俺じゃなくて、自分の娘に言ってくれよ』
俺はあいかわらず、不機嫌だった。
「さてと、あしたは家でおとなしくしてるか」
空になったコップを置いた彼は、そう言いながら腰を上げる。
「…?」
明日は「お盆」だ。でも俺たちの仕事は毎年、「盆」「暮れ」「正月」それに「ゴールデン・ウィーク」などの大型連休中は、「ネコの手も借りたい」ほどの忙しさになる。どこの工場でも、ラインが長期間停止するその時期を狙って、大がかりな分解整備などを発注するからだ。
(汎用機械なんて目立たない物だから、その工場に勤務する人間ですら、部署が違えば・その存在すら意識していないものだ。しかし重工業はおろか、医療や食品など、空気圧縮機が無い所は皆無に等しい。コンプレッサーの一台も無い施設は、工場とは呼べないほどだ。ラインのさまざまな工程で、直接エア―を吹きつける以外にも、ソフトなタッチで経費も安上がりな、高圧空気を使った機械が動いている)。
「あしたは、ウチの家系にとっては不吉な日なの」
父親を見送りに出てきたユカが言う。
「毎年かならずってわけじゃないんだけど…」
そう言いながら、眉間にシワを寄せる。
「去年はこれだろ」
おやじさんはそう言って、左手の人差し指を指し示す。指先の腹の部分が変だ。上下をひっくり返したような形をしている。
「電工ナイフで切り落としちゃってな」
「電工ナイフ」とは、電気の力を利用したナイフだ。切り口がきれいに仕上がるので、プラスチックやゴムなどの柔らかい物をカットする時に使われる。
「急いでくっつけて、包帯で巻いといたんだけど…つくにはついたんだけど、あわててたもんで逆さにつけちゃってな。ご覧の通りだよ」
その他にも…一族の者が高所から落ちて、死にはしなかったものの内臓破裂したとか・もらい事故で骨折しただの…。
「お前もウチとつながりができたんだから、気をつけたほうがいい」
彼はそう言い残して、去っていった。
『そんな話、聞いてなかったよ』
たしかに、巡り合わせの悪さというものも、あるのかもしれない。
たとえば、新婚旅行で強盗や事故に遭って命を落とすなんて、相性が悪かったか・どちらかの悪い運に引っ張られたとしか思えない。
あるいは、占い好きの人間に言わせれば、姓名判断がどうの・星座の配置がこうのといった理由をつけるかもしれないが…
『画数が、ああだ・こうだって…じゃ、外人はどうすんだよ?』
俺は「運命論者」ではなかったし…
『占星術だって、見える範囲の星だけじゃ、下駄の裏表であしたの天気を占うようなもんだろ』
それに「博打うち」でもなかったから…
『だいたいこの忙しい時期に、どうしろっていうんだよ』
フトンに入る頃にはそんな事、すっかり忘れていた。
* *
「まったく、住みにくい世の中だぜ!」
俺は頭からスッポリおおう…前々時代の潜水夫のような…後頭部に酸素供給用のホースのつながった・丸窓付きのヘルメットをかぶっていた。
(浮力や水圧の働く水中ではないので、じょうぶで重たい金属製ではないが…暗所でも目立つようにと黄色に塗られた、情けない代物だ)。
ドライ・スーツのような白いワン・ピースの防塵服とつながっているので、したたり落ちる額の汗をぬぐうこともできない。
「チックショ~!」
今日の仕事は、空気濾過装置の清掃…いわば今や大敵となった自然と、文明との戦いの最前線だ。地下に降りるほど、年間を通して温度は安定していたが…
(もちろん…火山の火口近くや、いまだ「人類未踏の地」である・高温の「マントル」付近の深々度まで下降すれば、別だろうが)。
この手の設備…特に空気を取り込む吸入フィルターは、当然のことながら地表の近くに設置されている。
それに、濾過器のエレメントは、屋内からでも整備や交換することができたが…「空気取り入れ口」にたまったドロやホコリ・花粉は、外からかき落とさなくてはならない。ここが詰まりはじめると、効率が落ちることになるからだ。
だから、外界に出なくてはならないことになる。そうなると、中途半端なマスクでは役に立たない。そこで、BCRN(生物・化学・放射性物質・核)対応型の、完全密閉された気密服を着用することになるわけだ。
『まったく、住みにくい世の中だぜ!』
汗が流れ込んで、眼がしみる。俺はまぶたをパチパチさせながら、心の中でそうグチる。地底にこもっていれば、時間を意識することも・季節を感じることもないが…俺たちは否応なしに、そいつを実感しなくてはならない。
でも、イヤな面ばかりでもない。ミミズや深海魚のように、お天道様を拝むこともなく、体内時計の狂い出した人間ども。俺は、そんなのはゴメンだった。もし時計という発明が無かったら、昼も夜もわからない生活を続けている人類の歴史は、いったいどうなっていたことだろう。
(なかには、潜水艦内での暮らしを参考にし、夜は暗めのライトに切り替える自治体や、曜日の感覚を失くさないよう、決まった日に・決まったメニューを提供する学食や社員食堂もある)。
おそらく…もともと人は、「時間」という概念を知覚できる能力を備えていたから、未来を予測し文明を発展させることができたのだろう。
(かつて、冬には太陽の出ない『北極圏』に住んでいた「イヌイット」の人たちは、かなり正確な「腹時計」の能力を身に着けていたそうだが…機械仕掛けの時計が作られる、はるか昔から行われていた天体観測や「日時計」だって、「時」を知るためのものだったわけだ)。
だから、まっ暗闇のトンネルのように、先の見通しが利かず・将来の展望の目処が立たない現在では、『ホモ・サピエンス・サピエンス』…「知性を持ったサルども」の行く末も、あやしいものだった。
(古代ギリシャの哲人「プラトン」大先生の『洞窟の比喩』にある通り…「類人猿」から少しばかり知恵のついた・まさに現在の高等「猿人」である我々は、洞穴の壁に映った「実体の影」しか見ていない・見ることができないのかもしれない)。
しかし一方で、そんな状況に置かれながらも、しっかりと生き続けるズ太さや生命力。たとえ太陽が燃え尽きても、形を変えて生き残るのは人間かもしれない。
(実際、科学者の中には、そういうことを語る楽観的な人物もいる)。
あんがい俺たち人類は、その進化の最後の過程をむかえているのかもしれなかった。
「じゃ行くか!」
神作がそう言って、地表に通じるドアを開ける。「原始人」と言われる俺だが、いまだ防護服なしの生身を屋外にさらしたことはなかった。
「ギ・ギギギギ~」
サビついた扉が開くにつれ、明るい太陽の光が流れ込む。
「ク~!」
生まれた時から薄暗い環境の中で育った俺たちの眼に、いきなり真夏の太陽の強い陽射しは強烈すぎる。日光の光に射られた俺の目玉は、その過度な光度で痛みをおぼえるほどだ。
(視力が後退している現代人。夜目は利くようになったかもしれないが、1.0以上の視力を持つ人間なんて、まれな存在だった。「土竜」のように、「眼が退化する」なんて事はないだろうが…ビタミンAの欠乏による『夜盲症』…俗に言う「鳥目」は別として、色彩感覚だって、衰えてきているのだろう。現代の絵画と言えば、水墨画みたいな・ぼやけた静物画か、葬式の遺影のような・白黒の人物画ばかりだった)。
やっと眼球の痛みがひいたところで、生い茂る夏の雑草を踏みわけ、俺たちは表に出た。
『こんなもんかぶってなければ、「草いきれ」ってやつを感じられるんだろうな』
穴ぐらから出てきたばかりの視界は、しばらくの間、真っ白で何も見えない。
「フイ~!」
眼が明るさに慣れてきたところで、いま自分たちが出てきた場所を振り返る。それは高さ数十メートルの、銀色の巨大なキノコかロケットといった形をしている。ひと昔前なら、男性の象徴にでもたとえられるような形状だが…そのカリの部分の下部から、大気を取り込む構造になっている。あたりを見回せば、大小さまざまな・同じ格好をした「空気取り入れ口」が点在している。
「さぁ~てと!」
俺たちは…昨日、義理の父が持ってきてくれた例の装置を使って、その鉄塔を登って行く。本来は、ゴンドラを吊ったり・足場を組まなくてはならない作業だった。安全基準の審査も認可も受けていない器具だから、見つかるとマズイことになるが…人手不足のご時世。どうせ屋外を監視している奴などいない。
「こりゃイイぜ!」
相棒が、携帯無線ごしに叫ぶ。たしかに、垂直な壁でもオーバー・ハングでも、自由自在に動き回れて、退屈な仕事にもハリが出る。
(酸素を送り込むためのエアー・ホースと接続部を超高圧用の丈夫な物にし、「命綱」の代わりにしてあったので、「万がいち」故障しても安心だ)。
「ふい~!」
作業がひと段落したところで、鉄塔のテッペンでひと休みだ。
「きょうは花粉の量が少ないんじゃねーの?」
俺は遠くの雲を見ながら、神作に話しかける。今日は、ずいぶん見通しが良い。
「そんなことないって。目には見えなくても、そこらじゅうに充満してるんだ」
相棒の返事は、そっけないものだった。
「じゃ、試しに…」
俺はそう言って、保護帽から下にたれ下がる襟ガードの、留め金をはずし始める。
「おい! なにするんだよ?」
奴がそう叫ぶより早く、俺はヘルメットを脱ぎ去る。
「ふー!」
顔に触れる風がさわやかだ。生で自然の空気に接するのは、生まれて初めてだ。じかに、ありのままの自然を目にするのも、初めてだった。
「ふう~!」
俺は深呼吸してみる。
「後でどうなっても、知らないぜ」
相棒のそんなセリフは聞き流し、タバコに火をつける。
『たとえば、目の前に広がる大海原を見て…』
はるかに広けた景色を見て、俺は自問自答してみる。
『ここは地の果て・この世の終わり』と思うか?
『ここから、夢にあふれた大空間が開けている』と思うか?
そこで、大昔の潜水艦乗りの手記を思い出した。
(現代の生活には、多くのサブマリンの技術や知識が活用されている。宇宙産業は、もともと生命維持技術には手薄だったし…あらたな航空機の開発も、現在なかば中絶中だ)。
それによると「いろんな人がいるから、世の中が成り立つ」んだそうだ。たしかに、人類の基本的特性が『閉所恐怖症』なら、そもそも潜水艦などという物は実用化できなかったはずだ。
(こんな暮らしを何世代も続けているので、多くの『閉所恐怖症』者は淘汰され…穴ぐら生活の初期には、大量の自死者が出たそうだが…残っているのは、海や砂漠などの・ダダッ広い虚無の空間に恐怖を感じる『空間恐怖症』ばかりだろう)。
『俺は、どっちのタイプ?』
できれば、どちらの範疇にも属したくなかった。
「ふ~!」
いっぱいに吸い込んだ、煙草の煙りを吐き出す。
『世の中、まんざら悪くないぜ』
俺は気分が好かった。生き返ったような気がした。
* *
外での作業が終わり、屋内に戻る。今度は、濾過室内にあるフィルター・エレメントの清掃だ。
今日の現場は、地下の居住空間へ空気を送っている設備なので、超巨大な施設だ。濾過室だけでも、ちょっとしたドーム球場ほどの広さがある。外からでは見えないが、その一番内側には大きな空洞が口を開き、地下にむかって落ちている。そこから下に行くにつれ、いくつもの支流に枝分かれしており、その先に空気圧縮機があるわけだ。
「さぁ~てと!」
俺たちは、ブ厚い濾過材の内側に通じる通路を抜けて、中に入る。ここまで入ってしまえば、花粉や放射線はほとんどカットされる。
「ゴーッ!!!」
ポッカリ口を開けた穴の底から、地鳴りのような低い音が聞こえる。空気が流れている音なのだろうが…暗黒の闇からの叫び声のようなその響きは、何度聞いても好きになれない。一方で、上に眼をむければ…上下に何十段という手すり付きの廊下が、グルリと張り巡らされている。
「ふい~!」
これだけ巨大な濾過塔の先端だから、風圧はそれほどでもない。真夏の屋外から戻った火照ったカラダには、ちょうど良いくらいの風だ。
「キンコ~ン!」
俺たちはエレベーターを使って、フィルター室の最上段にむかう。
(こんなに大きな装置だ。人間が一つ一つ点検していたのでは、毎日やっても足りないくらいの仕事量になる。そこで各セクションごとに「差圧計」という物が設置されている。目詰まりが発生すれば、外側と内側の空気の圧力の差が大きくなる。それをコンピューターで集中管理して、点検・整備が必要な箇所を絞り込むわけだ)。
今日は最上階の“いち”区画を点検する。清掃だけで済むようなら、その場で終わらせてしまうが…交換が必要となると、俺たちだけでは無理だ。
(何十層もの構造を持つフィルター・エレメントは、たとえ一つのセクションといえども、かなりの大きさだ。たとえて言うなら、ワンルーム・マンションの一室ほどの大きさと、数倍の重量がある。人間の力でやるような作業ではないので、交換の際には天井にある巨大クレーンを使って、そっくり入れ換えてしまう)。
「こりゃダメだな」
振り返った神作は、そう言ってニヤリと笑う。もうすでに、何度も点検・整備の手の入ったその区画部分は、痛みが激しい。雨水や湿気による金属部分のサビ・エレメント材の経年劣化による飛散。交換となれば部品の手配などもあるし、後日ということになる。
「さて、そういうことで…担当に報告して、今日は引き上げるか」
相棒はそう言いながら、廊下に出てくる。
俺たちは担当者のいる管理室に行くため、来た方向とは反対の方角へ。通気用の無数の丸い小穴が開いた・金属壁を右に見て、左回りにカーブを描いたキャット・ウォークを歩き出すが…
『?』
エレベーターまで、もう少しという所でだった。
「おい!」
神作はそう合図して、縦に通っている太い配管の陰に身をひそめる。俺も相棒に従った。
「ヤツらだ!」
奴にしては珍しく、トーンを落とした声で叫ぶと…四人組が階段室から、左右を確認するようにして出て来るところだった。
全員、青一色。頭からスッポリかぶるタイプのマスクにゴーグルをしているので、顔はわからない。でも、その空色の作業服には見おぼえがあった。機械が逆転してしまった現場で見かけた連中だ。
「何をするつもりだろ?」
俺は小声で耳打ちする。
「シッ!」
俺を制した相棒は、無言で様子をうかがっている。連中はフィルター・エレメント室に通じるドアをコジ開け、三人が中に入って行く。
「行ってみようぜ」
俺は右手の「形状保持ゴム」を棒状に変体させながら、神作に声をかける。いざとなったら、コイツを衝撃レンチで回せば結構な武器になる。
「ああ。また面倒な仕事を増やされたんじゃ、たまんねーからな」
俺たちが物陰から姿を現わすと、見張り役で表に立っていた奴が、中の連中にむかって合図を送っている。その仕草を見て俺は、カッと頭に血がのぼった。コソコソしているなんて、どうせロクでもない事をしているに違いない。
「なにやってんだよ、お前ら!」
俺がそう叫ぶと同時に、中から残りの仲間がドヤドヤと出て来る。
俺たちは四対二、狭い通路で対峙した。奴らは大きめのバールやパイプ・レンチ以外、凶器らしき物は持っていない。でも、そんな物で殴られでもしたら、ケガどころの騒ぎでは済まないはずだ。
「プゥ~ン・プゥ~ン…」
俺と相棒は、手の平にセットされた電動インパクト・レンチをオンにする。
(後方に控える神作は、先端が斜めをむくように角度をつけて両手のゴムを硬化させたので、回転させると「ブン・ブン」と弧を描いて回り出す)。
「?」
先頭に立っていた小柄な奴が、右腕を掲げて合図をする。インター・コム越しに交わされている連中の会話は、まったく聞こえないが…俺たち二人は身構える。しかし…
「エッ?」
奴らはリーダーが手を振り降ろすと、一斉に踵を返し、エレベーターにむかって走り出した。
『しまった!』
拍子抜けした俺たちは、一瞬遅れをとる。
「野郎!」
奴らを追い、右角を曲がってエレベーターの前に出た。奴らが乗り込んだエレベーターの扉は、まだ閉まっていなかったが…
「チッ!」
まさかこの状況で、中に飛び込む気にはなれなかった。俺たちは、黙って奴らを見送る。それに高速エレベーターで数十階も降りられたのでは、追いつけっこなかった。
『どうする?』
お互い、顔を見合わせるが…何が何だかわからなかった俺たちは、すぐに大騒ぎするわけにもいかず、とりあえず奴らが何かをしていた現場に戻ってみる。
手前から二番目のパネルが、はずされている途中だった。そいつをはずしてみると、見慣れない・魔法びんサイズのカプセルが数個、転がっていた。
「爆発物じゃなさそうだな」
神作が推察する。フタの所にはダイヤル式のタイマーのような物と、それと連動しているのであろう先端には、吐出弁のような物が付いていた。
* *
「ありゃ女だったぜ」
俺は先頭に立って指揮を執っていた人間の後ろ姿を思い出し、そう告げる。
「そうか~?」
神作は、全然おぼえていないようだった。
「あんなダボダボのツナギじゃなー」
でも俺は、後ろを振り向きざまのあの腰の線に、女の匂いを嗅ぎ取っていた。しかし確信が持てなかったので、そのことは黙っていた。
「まったく、住みにくい世の中だぜ!」
あの後、ひと騒動あった。
俺たちが発見したあのカプセルには、毒物らしき物が封入されていたらしいのだ。第一発見者であり・犯人と思われる人間を目撃した俺たちは、深夜まで警察の事情聴取を受け、ついさっき事務所に戻ってきたところだ。
「チェッ! 今日は早く帰れると思ったのに、またあいつらのお陰で…もういい迷惑だよ」
パチンコに行けなかった相棒は、ひどく不機嫌だ。
「こんな日は、サッサと帰って寝ることさ。警察だって俺たちのこと、信用してるわけでもなさそうだし」
俺はご禁制の品「タバコ」を所持していたし、相棒は趣味が「サバイバル・ゲーム」。怪しげな品々を、多数所有している。
変な勘ぐりを入れられたくなかったので、全面的に協力しようなんて気にはなれなかった。終始、当たり障りのない事実だけを述べ、余計な私情や感想ははさまないことにしていた。
『まったく、住みにくい世の中だぜ!』
俺たちは、当然ついているであろう当局の尾行を気にもとめず、家路に就く。
『まったく、オヤジさんの言う通りだぜ』
昼間のあの良い気分も、すっかり忘却の彼方だ。
「ふい~! つっかれた~」
俺は早く、ユカの待つ我が家へ帰りたかった。