0・Prologue
“adult oriented light・novel”
近未来の「大洪水時代」を生き延びたのちの人類の、ささやかな抗争の物語。
0・Prologue
非日常というものは、案外ごく平凡な日常から始まるものだ。
「まったく、住みにくい世の中だぜ!」
昼の三時の休憩のため、エアコンの効いた休憩所に戻った俺は、集塵フィルターの付いたゴッツイ保護帽を脱ぐ。
「ふー!」
ため息をついて、一人掛け・折り畳み式のパイプ椅子を広げて、ドッカリと座り込む。もう汗だくだ。
「チェッ!」
黄色っぽい汗が、したたり落ちる。ブ厚いフィルターが付いているとはいえ、ミクロン単位の粒子は否応なしに入り込む。
「ゴホ・ゴホッ…」
深呼吸しようとしたのだが…思わず咳こむ。
「チッ!」
灰白色のコンクリート壁でかこまれた、ホコリまみれの四角い小部屋。俺は舌打ちしながら左に首をひねって、殺風景な室内の唯一のアクセントになっている、正面奥の小窓に視線をむける。外に目をやると…黄砂が舞うように、不透明な景色が広がっている。今日はいつもより、一段と量が多いようだ。暖かくなり始めた今ごろが、一年で一番ひどい時期だ。
「プハ~!」
右手の鉄扉の・右脇の流しには、こちらに背をむけた男が一人。水道の蛇口から・タップリと水をほとばしらせ、ザブザブと・しつこいくらいに顔を洗っている。
「ジャバッ! ジャバッ! ジャバッ…」
そろいの紫がかった灰色の作業服。その上半身の部分だけを脱いで腰に巻いた、黒い無地のTシャツ姿。生地にしみ込んだ汗が、まだらに黒い濃淡を描いている。
(違いと言えば、足下の作業靴。むこうは軍払い下げの、漆黒の皮製戦闘靴。こちらはベロクロ・タイプの、所どころにメッシュ繊維の配された、淡い紺色の合成皮革の半長靴。どちらも靴の先端に、爪先保護のための補強材が仕込まれている。あっちには鉄板が、こっちのは電気工事士が使う・感電防止のためプラスチック製のカップが入った安全靴。そのぶん軽量だ)。
「フイ~!」
奴は、短髪がそのまま真っすぐ伸びたような剛毛をなでつける。この後は「お決まり」の、「目には点眼・鼻にはスプレー」のはずだ。
「今日はサッサと切り上げて、ひとっ風呂浴びてから出かけるとするか」
ソイツは、横に広く・実際よりデカく見えるガタイを引きずるように戻りながら、そう話しかけてくる。実測の身長は、こっちのほうが若干高いのだが…見た目の印象は、むこうが上だ。
(現在の平均身長からすると、俺たちは高い方の部類に属するが…「大物を育てるには、天井の高い家がいい」そうだ。だが、こんな生活環境下では、そんな「謂れ」にかなうような「大物」も生まれないだろ)。
ただし…
「バカの大足・コケの小足」
俺に言わせれば「特異体形」のコイツは、背丈にくらべ、足のサイズが異様に小さい。
(たとえば仔犬は、足の大きさで成長後の体格を推測したりするが…何ごとにも、例外はあるものだ)。
それで、「お前は女物の靴が履けていいよな」と、事あるごとにからかってやるのだが…
「ああ」
俺は生返事を返す。
(現場仕事である俺たちの仕事は、休みも勤務時間も不定期だ。仕事の発注先が休みの日…だいたい土・日や祝祭日、大型連休中だ…が、俺たちの仕事のメインとなる。それで俺たちは、仕事の予定が無い日が休みとなるわけだ。今回の現場も、ピッチを上げて一日早く仕上げ、明日は休みを取ることにしたのだ。今夜は仕事の後、一杯飲ることになっていた)。
「彼女も来るんだろ?」
奴は俺の正面で、パイプ・イスを広げながら訊いてくる。
「ああ」
俺はボンヤリと窓外の光景を眺めながら、面倒くさそうにうなずく。
「お前はお盛んだからな」
相棒はそう言って、ニヤリと笑う。
「誕生日なんだよ」
俺はブッきらぼうに返す。
「誰の?」
相棒はゴシゴシと、タオルですり落とすように顔をぬぐっていた手を止める。
「決まってんだろ!」
俺がそこまで言うと、ハッと我に返ったような表情を見せ…
「それを早く言えよ。何も用意してねーよ」
急にあわて始める。
「お前にゃ関係ないさ」
俺は自分で話題を提供しておきながら、無愛想な受け答えをする。
「そんなこたーねーだろ!」
相棒がガナリ立て始めたところで俺は、窓の外にむけていた視線をはずし…
「今日はなんの日か、知ってるか?」
まん前でまくし立てる相棒に、顔をむける。
「ん?」
奴は眉間に皺をよせ、しばし考え込むが…
「三月三日…そうだ、『ひな祭り』だ。そっか、毎年恒例の『雛あられ』を持ってきゃいいか」
休みが不定期だと、日付や曜日の感覚が麻痺してしまうものだ。
「そういうこと!」
俺はパイプ・イスの上で伸びをする。
「じゃ、トットと片付けちまうか」
奴は俺と違って、短気ではないが気が短い。
「まずは一服さ」
そう言って俺は、左の胸ポケットから紙巻きタバコを一本、取り出す。
「どこでそんなモン、手に入れたんだよ! 見つかるとヤバいぜ。濾過室行って吸ってこいよ」
相棒は怒声を上げる。
「だいじょうぶだって。こんな所に、誰もきやしね~よ」
俺のほうがアセッてしまう。コイツにヒソヒソ話は通用しない。本人は声をひそめているつもりなのだろうが、生来の声のデカさが災いして、すべては筒抜けだ。それで、いらぬ厄介事に巻き込まれることも・たびたびなのだが…当の本人は、何が原因なのか・サッパリわかっていない。
(一例を挙げると…ヤツの上の前歯4本は、義歯だ。「いきなり殴られた」と言うのだが…よくよく聞けば、暴言を吐いたのが、相手に丸聞こえだったようだ)。
「だいたいタバコでも吸って、肺にヤニの膜、張っといたほうがいいんだよ、今の時代」
俺はそう言いながら、工具箱から取り出したトーチで、タバコの先端に火を着ける。
「まったくお前は…だから原始人なんて言われちまうんだよ」
「今の時代」、煙草は禁制品だった。「嫌煙運動が進んだから」とか、「皆が肺ガンを恐れて」なんて理由ではなかった。「屋内の空気が汚れる」というのが、一番の理由だった。
『嫌煙運動なんてクソ食らえ!』
「外にむいては国粋主義的・内にあっては無政府主義者」な俺にとっては、どうでもいいことだ。
「まったく、住みにくい世の中だぜ!」
俺は、濃霧がかかったように・外界の景色のまったく見えない窓にむかって、深く吸い込んだ煙りを吐き出した。