第28話 太陽
パタン、と本を閉じる音が室内に響く。
長いような短いような、不可思議な物語を読み終えた少女は一人静かにため息をこぼした。
「こうして王国の平穏は保たれた。めでたしめでたし――という訳ですか」
小奇麗に包まれた本の表紙を撫でる少女、エリーゼ。
その表情は慈しみに溢れ、まるで愛しい我が子に触れるかのように指を沿わせる。
「改めて拝見しましたが、最後の方の内容はあまりにも駆け足なのでは?」
その発言は、明確に誰かに対して向けられた言葉であった。しかし応える声は無く、エリーゼの言葉は虚しく宙を彷徨う。
そんな状況を気にすることなく、エリーゼはあどけない可憐な笑みを浮かべた。
「――嗚呼、そうでした。実際何が起きたのか、貴方は知らないのでしたね」
王女の自室にて、軽やかな声が響き渡る。
だが、未だ応える者はいない。
「七雄騎将の皆様から聞き及んだ情報を紙に記し物語として紡ぐ。……ふふ。伝記を書くにあたって、貴方ほど近くで英雄という存在に触れてきた人間はいませんからね。御父上もさぞ、お喜びになるでしょう」
「……ッ!」
エリーゼの何気なく発した言葉に、息を呑む声が静かに鳴り響く。
薄暗い部屋の中で、その人物の顔は陰に隠れている。しかし、蝋燭に灯る火が微かに輪郭を照らしていた。
聖キャバリス学院、その制服を。
「さぁ、そちらに腰をおかけくださいな。久方ぶりの再会を祝し、会話に花を咲かせましょう」
対面のソファに視線を向け、優しく着席を促すエリーゼ。その瞳は何処までも、無邪気な笑みを携えていた。
「――――心配せずとも、クルードさんは大丈夫ですよ」
そして。
無邪気の中に見え隠れする、底知れぬ感情。
「あの人は、絶対に死なせませんわ」
仄かに暗く、劣情の火が宿る。
☨
「そん、な…………」
英雄は死んだ。
それも、最悪の形で。
「ヴィクトさんが、黒幕……?」
「そう。これは疑いようのない真実だ」
暗く深い思考の海に沈んでいく、クルードの意識。そこに、ナナシの冷たい言葉が淡々と響く。
身体に、力が入らない。
それは人技の代償か。それとも耐えがたい真実への拒絶か。
指先一つすら動かせぬまま、クルードはただ項垂れ続ける。まるで、許しを請う死刑囚かのように。
「目を覚ませ凡愚ッ! そんな眉唾の話を信じるな!」
そんなクルードの耳に届く、ウィンリーの切羽詰まった声。
「そいつの話を鵜呑みにしてどうする!? 大方、嘘の話で惑わそうと――――」
「嘘? 本当にお前はそう思うのか?」
ウィンリーの言葉を唐突に遮り、ナナシはぎょろりと瞳を見開いた。
その表情は、感情を全てそぎ落としたかのような冷酷な顔つきであった。
「なら、どうしてエレガスは急に七雄騎将を辞退したと思う? お前やもう一人のような若い人間が、何の前触れもなく七雄騎将に選出されたのはどうしてだ? ヴィクトの死に対して、どうして誰もが過剰なまでに触れることを恐れているんだ? まるで何かを隠そうと焦っているように感じないか? それもこれもどれもそれも……、全てはヴィクトの死が暴かれてはならない秘密だったからさァッ!」
狂気染みた形相で、ナナシは一気に言葉をまくしたてる。
感情が抜け落ちた顔に反し、激しい感情と熱意を滲ませる声色。それは聴く者を蝕む、怨嗟の言葉に他ならない。
ウィンリーは、クルードは、そして他の人間は表情を歪ませる。
理解の及ばない、未知への恐怖に対して。
「目を覚ますのはキミたちだよ。この国は歪んでるのさ。民が気付かないくらい緩やかに、穏やかに、……静かに破滅へと進んでいる」
バッと両腕を広げ、ナナシは天を仰ぎ見る。
「だから俺たちが、嘘と虚栄に塗れた王制を正さねばならない。偽りの太陽を仰ぐ、間抜け共に代わって――――」
ポツリ、ポツリと雨が降る。
太陽の光を覆い隠すかのように、黒い雲が空に満ちる。
「王国の影に住む、俺たち帝国の亡霊が天を裁く」
大胆不敵に、天に向かって告げられた宣言。その様は、不遜なる自信に満ち溢れていた。
「帝国の、亡霊だと? 貴様、まさか……!?」
「だからキミたちには死んでもらわないと困るんだァ」
動揺を露わにするウィンリーに目もくれず、ナナシは静かに手を振り上げる。
「全員、そこの死にぞこないを狙え」
瞬間、一糸乱れぬ統率力で黒装束の集団が動き始めた。
声も上げずに駆けだす人形たちが向かう先は、死に体のデネット。
「や、やめてくれッ!」
「その人だけは死なせないッ!」
先程まで動くなと警告されて身じろぎすらしなかった騎士団の人間が、デネットの危機に動き出す。
決死の想いで剣を握り締め、ぶつかり合う二つの勢力。
しかし。
「ちぃッ!」
壁を抜けデネットの元へと駆け寄る黒装束に、ウィンリーは舌打ちを鳴らす。
そして再び剣を抜き、縦横無尽に敵を斬り捨てる。
ウィンリーにとって、何人で束になってかかってこようと意味がない。圧倒的な実力の前に、為す術もなく倒れ逝く者たち。
だが、誰も予想していなかった誤算が一つ。ウィンリーは眼前の光景に血相を変える。
「この、痛みを感じないのかッ!?」
血を流し、肉片を飛び散らせようとも、黒装束の波が止まることは無い。その勢いに、デネットを守る騎士団も徐々に押されていく。
それはウィンリーにとって、数ある選択肢を狭めるものであった。
「くっ、このままでは……ッ!」
苦渋に歪む表情で、ウィンリーは静かに言葉を吐き捨てた。そう長くはもたない状況の中で、自らが取れる選択肢は限られている。
デネットを庇い続ければ、自分はこの場から動くことが出来ない。それがナナシの作戦であると、ウィンリーはようやく気が付いた。
騎士団の人間すらも、デネット一人を狙う事で容易に足止めが出来る。
そして、その間にナナシは何をするのか。
「おい、凡愚ッ!」
答えは、決まっていた。
「何をしている!? 動けッ!」
混戦状態のウィンリーたちを置いて、少し離れた場所でナナシとクルードは対峙する。
一人は毅然と立ち、一人は無様に這いつくばっている。
勝者と敗者は、明確に決まっていた。
「さて、クルード君。これでお終いにしよう」
緩やかに剣を垂らし、ナナシは悠々と言葉を紡ぐ。
「蛮勇凶化、見させてもらったよ。流石、あの人が手塩にかけるだけのことはある。素晴らしいイカレっぷりだ。……でも、キミは遅すぎた」
憐れみと同情を乗せて、ナナシは優し気な眼差しをクルードに向ける。
「ヴィクトという存在の後で、王国側は危機感を抱いている。そんな状況で現れてしまったキミは、まさに不運としか言いようがない」
そして、ナナシは剣を振り上げる。
「ゴルドレ様――――いや、ゴルドレの身勝手に巻き込まれた哀れな子どもよ。せめてあの世で、ヴィクトと語らうがいい」
優しく微笑みを浮かべるナナシ。
その表情が、愉悦に歪む。純粋な悪意が、溢れ出す。
「凡人に生まれてしまった不幸話をさァァァッ!」
凶器が振り下ろされ、ゆっくりとクルードへと迫る。
瞳の先で、静かに自分の命が終わる瞬間を見つめ続ける。
嫌だ。
死にたくない。
いや、負けたくない。
『私が先輩に勝つまで、先輩は誰にも負けないでください!』
あいつに、誓ったんだ。
もう誰にも負けないって。騎士の頂点に立つって。
その先で、あいつと戦わなくちゃいけないんだ。
なのに、こんな所で終わるのか?
絶対に、そんな事は許されない。
まだ、話していないことがたくさんある。まだ、仲直りしていないのに。
そうだ。
俺はまだ、約束を果たせていない――――――――
「先輩ッ!」
可憐な声色の主が、突如として出現する。
「ッ!?」
瞬間、ナナシに襲い掛かる強烈な殺意の嵐。
慌てて身を翻し、一歩二歩と後退する。それまでクルードに迫っていた刃のことなど忘れ、ナナシは静かに冷や汗を流す。
「お前、いつの間に…………ッ!?」
驚愕を隠そうともしない様子のナナシに、クルードは呆然と視線を向ける。
その、視界の端で。
「先輩ッ!?」
慌てた様子で振り返る少女。その見慣れた白髪が、雨粒を弾く。
「イリ、ス……?」
静かに、震える声色で。クルードはポツリと呟いた。
クルードの瞳が、徐々に光を取り戻していく。
「良かったッ!」
最悪の天気、曇天の空模様。
掠れる視界の中で、それでも眩く輝く少女。
「まだ、生きてた……!」
安堵で泣きそうになりながら、イリスは太陽のような笑顔を浮かべた。




