第39話 天に捧ぐ指
「選手、入ゥ場ォォォッ!」
その言葉と同時に、目の前の鉄門が徐々に開かれていく。
鈍い金属音、軋む内壁、吹き込む強風。それら全てを五感で感じながら、俺はゆっくりと瞳を閉じた。
そして――――
「来やがったぞ!」
「落ちこぼれの登場だ!」
悪夢の世界に、足を踏み入れた。
全方位から飛び交う罵倒の嵐に、悪意の視線が俺の身体を貫いていく。気を抜けば、膝から崩れ落ちてしまいそうな重圧を肌で感じる。
嗚呼、そうだ。この感覚、もはや懐かしさすら感じる。
今から俺は、この四面楚歌の状況で戦うのだ。
「おぉ、主役のお出ましだッ!」
そんな感情を抱く俺の視線の先に。
奴は、悠々とした足取りで現れた。
「ウィンリーッ!」
「キャー! ウィンリー様ぁ!」
「待ってたぞ!」
「今日もお前の戦いを見せてくれぇ!」
観客たちの視線のことごとくが、俺から静かに移動していく。
新緑のような髪の毛を風に靡かせながら、自信に満ち溢れた笑みを浮かべるウィンリー。
その歩き姿は、称賛の言葉を当然のように受け止めている。
「やぁ、久しぶり」
旧友と再会したような口ぶりで、ウィンリーは軽く手を上げた。
眼前に立つウィンリーの身体からは、輝かしい風格が立ち昇っているかのようである。
その姿に、観客たちは多くの期待を寄せていた。
それはまるで、試合が始まる前から勝者と敗者が決まっているような。そんな空気がコロッセオを埋め尽くしている。
「よくぞ逃げずにここまで来たね。褒めてあげるよ」
ウィンリーは尊大さを隠すことなく悠然と口を開く。
明確にこちらを見下している様子に対し、俺は負けじと笑みを浮かべる。
「まぁな」
だが、喉から振り絞って出した言葉は僅かそれだけ。
言葉を紡ぐだけで、とてつもない重量感を覚える。
周りから降り注ぐ重圧の言葉、視線の嵐は俺に対して口を開くことすら叶わせない。
そんな俺の心情を察したのか、ウィンリーは鼻を鳴らしながら言葉を吐き捨てた。
「フッ、そんな調子で大丈夫かい? 頼むから逃げないでくれよ」
そして、悪意に濁り切った声が俺の鼓膜を震わせる。
「君をこの場で叩き潰し、今度こそ僕は英雄の座を手に入れる」
ウィンリーはそう言って、さらに一歩俺に近づいた。
獲物を捕食する獣のような笑みを浮かべ、俺の耳元でウィンリーが小さく囁く。
「――――どけ。それは僕のモノだ」
強欲の塊のような言葉が、俺の脳裏に刷り込まれる。
コイツの言っていることは間違っていないと、以前にも抱いた感情が蘇る。
本来なら選ばれるはずの無い人間が、手違いで七雄騎将になってしまった。
だから、大人しく譲るべきだ。
そう、以前の俺なら考えていただろう。
ふと導かれるように、俺はゆっくりと視線を逸らす。観客を一人一人撫でるように、瞳を緩やかに滑らせる。
そんな視線が、突如としてピタリとその動きを止めた。
俺の瞳に映る影に、静かに目を凝らす。
そこに彼女たちはいた。他にも、ホーネスの姿。エレガス、ガレッソの姿が点々と視界に映り込む。
そして、一人の少女と目が合った。
両手を組みながら、目を逸らすことなくこちらを見つめるイリスの姿に、俺は静かに笑みを浮かべる。
「断る」
「……は?」
まさか言葉を返されるとは思ってもいなかったウィンリーは、啞然とした様子で声を漏らした。
「七雄騎将の座は、誰にも渡さない」
「……はっ。何を言ってんだ、落ちこぼ――――」
「悪いが、コイツは俺のもんだ。英雄の座が欲しかったら、もう一度ぶっ飛ばしてみろよ」
まるで喉に潤滑油を流し込まれたかのように、言葉が川のように流れていく。
あれだけ感じていた重量感は、今はもう何も感じない。
むしろ、何か温かい感情が胸の奥からこみ上げている。
「て、めぇ」
整った顔立ちを怒りに歪め、ウィンリーは声を震わせる。
「調子に乗ってんじゃねえぞ負け犬ゥ……」
そしてウィンリーは、周りの観客たちを味方につけるように大きな声で叫び散らす。
「お前に一体何が出来る!? 貴様のような奴が、七雄騎将に相応しいと本気で思っているのか!?」
その言葉に、観客たちが追随する。
「そうだそうだ!」
「お前みたいな奴、お呼びじゃねえんだよ!」
「さっさと英雄やめちまえ!」
彼らは、一体俺たちがどんな会話を繰り広げていたのか知らない。
ただ好き勝手に口を開き、心の底に沈んでいた掃きだめをぶつける。
自分達が普段抱く劣等感や閉塞感を、たまたま存在した体のいい的にぶつけることでストレスを解消しているのだ。
「やーめーろ!」
「やーめーろ!」
「やーめーろ!」
「やーめーろ!」
「やーめーろ!」
彼らに自覚は無い。
無意識の悪意こそが、最も人を傷つけると彼らは知らないのだ。
「……両者、指定の位置へ」
俺たちのやり取りを黙って見ていた審判が、静かに試合開始の準備を始める。
ウィンリーはいやらしい笑みを浮かべながら、ゆっくりと指定の位置に移動していく。俺もまた、同じように指定の位置に到着した。
「キャメロン王国の名代のもとに、御前試合を執り行う」
「聖キャバリス学院3年、クルードの名のもとに。御前試合を受諾する」
「キャメロン王立騎士団、ウィンリーの名のもとに。御前試合を受諾します」
昨年と同じような手順を踏みながら、俺たちは宣誓を終わらせる。
そして。
「今ここに、両者の決闘受諾を聞き入れた。貴殿らはこの闘いに何を望む?」
審判の言葉に対し、俺たちは同時に告げる――――
「騎士の名誉を」
ことは無かった。
その言葉を口にしたのは、ウィンリーただ一人。
俺は、ただ無言で口を閉ざしていた。
「クルード選手、どうしましたか?」
審判が少し心配そうな表情を浮かべながら口を開いている。
その奥で、ウィンリーは勝ち誇ったような笑みを浮かべながら言葉を紡いでいく。
「もしかして戦意喪失しちゃったかなぁ? ハハハ!」
ウィンリーが悪意に満ちた笑い声を上げる。周囲の観客も、何だ何だとガヤガヤ喚き散らしていた。
そして俺は、その全てを無視してゆっくり口を開く。
「審判さん」
「はい?」
「今から俺は、騎士にあるまじきことをするかもしれない。どうか見逃してくれないか?」
そう言って、俺は悪戯っぽく笑みを浮かべた。
まさかの問いかけに驚いた審判は、しばし目を白黒させた後。
「……どうぞお好きに」
微かに笑みを浮かべながら瞳を閉じた。
その言葉に俺は頷き、そして――――
「黙って見とけ」
ウィンリー、そして観客に見えるように。
俺は、中指を天に掲げた。
その行為に、静まり返るコロッセオ。
騎士にとって最大級の侮辱行為を受け取った人々は、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
それが徐々に思考が追いついてきたのか、彼らは身体を震わせる。
直後、雷雨のような怒号がコロッセオ中に轟いた。
地面が震えるほどの勢いで浴びせられる罵声に対し、俺は静かに剣の柄を握りしめる。
「……何の真似だ?」
もはや何が起こっているのかもわからず、ただ呆然と口を開くウィンリー。
そんな様子のウィンリーに、俺は悠然と言葉を返す。
「何って、この闘いに何を望むかって聞かれたから答えただけだ」
「……何だと?」
「俺が望むのはただ一つ」
ゆっくり腰から剣を抜き、俺は毅然とした態度で口を開く。
挑発的な笑みを浮かべ、ウィンリーに対して剣先を向ける。
「どいつもこいつも黙って見てろ、ってな」
そしてついに。
「己の誇りを守らんとする若き騎士よ」
審判が口上を唱え始める。
ウィンリーは顔を怒りで真っ赤に染め上げ、憤怒に顔を歪めている。
「今ここに」
互いに剣を握りしめ、闘気を身体から噴出させる。
これでいい。
先程と打って変わり、もうどちらが勝者か敗者か分かったモノでは無い。
「ぶっ殺してやるッ!」
「やってみろや」
昨年の雪辱を胸に、ここまでついにやってきた。
さぁ。トラウマを、吹っ飛ばしてやろうじゃねえか。
「賽は投げられた」




