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第38話 それぞれの想い

 冷たい水を顔に浴びせ、意識を覚醒させる。

 冴えわたる意識の中で、心臓の激しい鼓動だけが思考を僅かに阻害する。

 鏡に映る自分の顔を、静かに見つめた。


 緊張で顔が強張っているが、今のところ問題は無い。手足が少し震えているのはご愛嬌と言ったところか。

 よくここまで平静を維持できていると自分を褒めたくなってしまう。

 だが、まだだ。


 本番はこれから。

 観衆の前でこの身を晒し、向けられる悪意の塊を受け止めなければならない。

 

「怖い、な」


 思わず口にしてしまう程に、その恐怖は抑えきれないものである。

 だが、今さらそんなことを言っても仕方ない。状況は変わらないのだ。

 故に、俺は努めて笑顔を浮かべる。少しでも気丈に振る舞い、自分を鼓舞するのだ。

 全ては、自分を信じる者たちに報いるために。


「――――――――!」


 ふと耳に届く司会の声。次いで鼓膜を震わせる、大観衆の歓声の嵐。

 さぁ、そろそろだ。


「よし」


 鏡の前で顔を強く叩き、俺は壁に立てかけてあった剣を握りしめる。

 問題ない。


「行くか」


 そして俺は踏み出した。

 悪夢の地、コロッセオの舞台へと。



 キャメロン王国。その王都の中央にそびえ立つ、巨大な建造物。

 漆黒の鉄に覆われた不思議な円形のソレは、王国に住まう民にとって重要なモノであり、神聖な空間であった。

 王国を象徴するコロッセオは、その長い歴史の中で幾度の闘争が繰り広げられた戦場であり、その地に立つことが騎士にとっての名誉である。

 そんなコロッセオが今――――


「うぉぉぉぉぉっ!」

「さっさと姿見せろやぁ!」

「つまんねぇ戦いするんじゃねえぞ!」


 数多の騎士、生徒によって埋め尽くされていた。

 観客席から飛び交う歓声、罵声の嵐は、まさしく御前試合の盛り上がりを象徴している。

 実は先程まで騎士たちによる模擬試合のようなものが行われていたのだが、観客たちはそんなものに興味を示すことは無かった。

 彼らが求めているのはただ一つ。


「ウィンリー!」

「今日もお前の活躍を見せてくれよ!」


 キャメロン騎士団の麒麟児、ウィンリーの戦いに期待する者。

 そして。


「落ちこぼれ野郎!」

「一体今回はどんな醜態を見せてくれんだ~?」


 七雄騎将の恥さらし、クルードの負けっぷりに心躍らせる者。

 彼らの望みはただ一つ。ウィンリーが華麗に勝利し、クルードが無様に敗北すること。

 そんな結果を信じて疑わない観衆たちの姿がそこにはあった。

 主に騒いでいるのは身内びいきの騎士団連中だが、中には学院生徒が騒いでいる様子も確認できた。


 そんな環境の中で、それぞれの想いを内に秘める者たちの姿が――――



「ふむ。そんなにクルードという男は嫌われておるのか」


 長いひげを優しく撫でながら、観客の様子を睥睨する男。豪華絢爛をその身に纏い、世界に唯一の冠を頭に載せる老人。


「その通りでございます。国王陛下」


 側近が国王と呼んだその老人は、ゆっくりと頷いて口を開く。


「そうか。では今回の試合はあまり面白くないかもしれんの。どうじゃ、つまらん見世物に時間を浪費する必要も無いが?」


 国王はそう言って、隣の席に座る一人の少女に視線を向ける。

 少女はその言葉に、天使のように朗らかな笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。


「いいえ、お父様」


 国王を父と呼んだその少女は、コロッセオの中央を見つめたまま口を開いた。


「私、見てみたいんです。こんな状況で――その人はどんな戦いを繰り広げるのか」


 そう呟いて、少女は優しく笑う。

 白鳥のように美しい髪が、光を反射して煌めいていた。



「つまらん」


 一人の青年が、仏頂面で吐き捨てる。

 鋭く吊り上がった眼光に、短く刈り上げられた金髪。そんな男の顔に張り付けられた感情は、見て分かる程に不機嫌そのものであった。


「こんな戦いを見てどうなる。結果は分かり切っているだろう」


 侮蔑を隠すことなく口にする青年に対し、左隣に座る女性は妖艶な笑みを浮かべる。


「どうしてだい? 君の敬愛するエレガスさんの弟君じゃないか」

「二度とふざけたことを口にするな。次は喉を裂くぞ」

「おー怖いね」


 青年の脅しに怯むことなく、女は飄々とした態度を崩さない。長い黒髪を指でクルクルと弄りながら、女は蛇のような笑みを携える。

 そんな様子に舌打ちしながら、青年は淡々と言葉を吐き続けた。


「そもそも俺は、奴が七雄騎将になることは反対だったんだ。才能も実力も見合っていない癖に、実績込みで選出するからこういうことになる」


 そんな風に口にする青年に対し。


「あーあ。みんな冷たいねぇ」


 右隣に座る男性は、気怠そうな様子で口を開く。

 焦げ茶色の髪に無精ひげを生やした、いかにも冴えない男性と言った様相の男は、その細い目を僅かに開けながらゆっくりと言葉を紡ぐ。


「後輩には優しくしないと、ねぇ?」

「黙れジジイ。そもそも、何故貴様のような奴がここにいる」

「ジジイと呼ばれるほどの歳じゃないのに……」

「仕方ないよ、この席配置は王命だからね」


 青年の冷たい言葉に肩を落とす男と、そんな二人を宥めるように口を開く女性。

 彼らが座る席は、他の観客席と隔離されて用意されていた。

 まるで王族の主賓席のように、特別に用意された席を、彼らは当然のように使う。

 そのことに、彼らは何の疑問も抱かない。

 それが当然の権利だと、彼らは知っていたからである。


「ま、何はともあれ」


 話題を変えるかのように、ひげを撫でながら男は目を徐々に細めながら静かに口を開く。


「彼の成長が、僕は楽しみだよ」


 その瞳は何を映しているのか。

 その場にいる人間を含め、誰一人として彼の真意を読むことは出来ない。

 深い深淵のような瞳は、コロッセオの中央を見つめ続けていた。



「先輩……」


 新入生がまとめて配置されている観客席の一角にて、イリスは両手を組みながら静かに呟いていた。

 とうとう訪れてしまった、御前試合当日。

 自分の試合でも無いのに、これほど手に汗握る緊張感を覚えることもそうそう無いだろう。

 自分でさえこうなのだから、当の本人はどれ程の重圧の中にいるのか。中々に想像し難いものである。


「大丈夫、ですよね?」


 隣に座るカミュもまた、不安そうに口を開く。

 コロッセオの雰囲気に呑まれそうになるこの状況で、クルードは自分の実力を発揮することが出来るのか。

 否。そもそもこの戦いに、勝機は――――


「大丈夫よ。絶対」


 毅然としたイリスの言葉が、カミュだけに聞こえる声量で届けられる。


「私は信じてる」


 どれだけ不安でも、心配でも。あの人に対する信頼だけは揺るがない。

 それが、イリスの意志。

 今はまだ、誰もが実力を疑っている。負け犬、落ちこぼれ、七光り。

 そんなもの、言わせておけ。


「約束、したから」


 あの人(クルード)は、騎士の頂点に立つ人だから。




 その他。ホーネス、エレガス、ガレッソ。

 数多の人物が、それぞれの想いでコロッセオの中央を見つめていた。

 彼らの思惑は異なり、勝敗の予測もまた違う。

 だが。

 全ては事前知識による推測にすぎない。そして、それらに絶対的な確証など存在しない。

 何故なら。


「選手、入ゥ場ォォォッ!」


 やってみなければ分からない。

 それがこの世界における、たった一つの真実なのだから。

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