第37話 兄の心
いつからだろう。
兄弟として接することが無くなり、先生と生徒という関係でしか言葉を交わせなくなってしまったのは。
俺の背中を追いかけて必死に歩いてくる弟に対し、いつからか負い目を感じるようになったのは。
あいつが苦しんでいると分かっていながら、俺は手を差し伸べることが出来なかった。
否、俺にその資格は無い。
何故なら、弟が苦しむことになった原因の一端は俺にあるからだ。
俺が逃げたから、あいつは俺の代わりに重荷を背負わされる羽目になった。
その身に有り余る責務と期待に押し潰されそうになる弟を尻目に、俺は見て見ぬフリをした。
俺は英雄なんかじゃなかった。
友人だけじゃない。弟すらも救えない、ただの卑怯者だ。
☨ ☨ ☨
「先生ありがとうございました!」
「いえいえ、また何かあったらいつでも聞いてください」
頭を下げて自分の教室に戻っていく生徒の背中を眺めながら、私は小さく手を振り続けた。
悩みを抱える生徒の相談を受け、可能な限りアドバイスを与える。
教師という仕事の役割は、若き芽を優しく育ててあげることだと私は考えている。
「ふぅ……」
だが。
私は小さくため息をつき、窓の外から広場を眺める。
視線の先には、多くの生徒たちの姿。その中に、大木の下で一際目立つ三人組に目を奪われる。
遠くから見てもわかるほど、騒がしそうに喚きながら訓練を続ける金髪の青年。
弟の姿を見つめ、私は静かに思いを馳せる。
クルードが授業に出るようになったという話は、教師陣の間で大変話題になった。
おまけに、御前試合に出場するという話。教師だけじゃない、生徒たちにとっても噂の的となっていた。
だが、復帰したクルードの顔に陰りは無い。
どこか憑き物が取れたような弟の表情に、心の底に罪悪感が積もる。
兄である自分が、背中を押してやるべきだったのに。
結局、自分には何も出来なかった。
そして、私の代わりにそれをやってのけたのが――――
「お、エレガス先生! こんなとこにいたのか!」
背後から聞こえた粗野な声に、私はゆっくりと振り返る。
「おや、ガレッソ先生」
「ナバス先生が呼んでたぞ! 御前試合の観戦席の件で、話し合いたいことがあるそうだ」
「わかりました、これから向かいます。……ガレッソ先生は?」
「俺はダメだ! あの人に近づいたらすごい剣幕で睨まれたからな、ガッハッハ!」
それは笑い事では無いのでは。そんな思いを飲み込んで、私は苦笑いを浮かべる。
豪快で何をしでかすか分からないガレッソという男は、教師陣の間でも取扱いに悩まされる存在であった。
凄まじい戦闘力を誇っているはずなのに、それを全く感じさせない立ち振る舞い。
一体何を考えているのか分からない、得体の知れない男。
それが、ガレッソに対する私の人物評である。
「お、あれはクルードたちじゃねぇか」
その時。ガレッソは窓の外を覗き込み、同じく三人組を視認した。
まるでこちらが考えていたことを読んだかのようなタイミング。
一瞬胸が高鳴った後、私は平静を装って口を開く。
「ええ、彼らも頑張ってますね」
「声をかけにいかなくていいのか?」
「私が声をかけずとも、あの子はしっかり前を向いています。今さら私が出来ることなど無いでしょう」
「……へぇ?」
私の言葉に、ガレッソは眉をひそめる。
「あんたが本気でそう思ってるなら、俺は何も言わねえけどよ」
「……何が言いたいんですか?」
「そんな顔して、あんたは弟の前に立つのか?」
ガレッソのその言葉に、私は思わず頬を手で押さえる。
一体どんな顔をしているのか確かめようとしたが、手で触れても分かるはずが無い。
心の内を見抜かれたような気がして、私は思わず顔をしかめる。
そんな心情を察したのか、ガレッソは静かに不敵な笑みを浮かべた。
「そんな怖い顔しないでくれ。元英雄さんに睨まれたら、怖くて逃げだしたくなっちまう」
抜かせ、怪物が。
年老いてなお強者として君臨するような男が、今さらそんな感情を抱くものか。
そう思うと同時に、私は冷静に思考する。
何を熱くなっているんだ、らしくない。クルードを話題に出され、平常心が失われているだけだ。
そう結論付け、私は静かに笑みを浮かべる。
「失礼しました。心配してくださってありがとうございます、ガレッソ先生」
「……あぁ」
私の発言に虚を突かれたのか、少し啞然とした表情で頷くガレッソ。
その様子に溜飲が下がった私は、そのまま静かに口を開く。
「あの子が授業に出るようになったのは、あなたのお陰だそうですね。兄として最大の感謝を述べさせてください」
「……やめてくれ。自分を変えようという意志が、あいつを突き動かしたんだ」
「そう、ですか」
ガレッソの言葉を受け、私は再び動揺し言葉を詰まらせた。
あの子は今、変わろうとしている。
昨年のトラウマを乗り越え、さらなる高みへと至ろうとしているのだ。
それがどれほど過酷な道なのか、きっとクルードは知っている。
それなのに、あの子は自分の意志でそれを選んだ。
「クルードは、強い子ですね」
「……あぁ。それは同感だ」
初めて二人の意見が被る。
クルードは強い。それは武力の話ではない。
物理的な強さという面では、エレガスとガレッソという強者二人から見てもまだまだ未熟そのもの。
だが、その最たる強さは精神に宿っている。
何度打ちのめされ、心砕かれ、地の底に落ちぶれようとも。彼はほんの些細なきっかけで、再び前を向く。上を目指していく。
それがどれほど、壮絶な選択か。
クルード本人が気づくことは無いだろう。
「私は兄として、あの子を信じています」
鮮烈な経験を重ねるごとに、人は強靭さを増していく。
まるで叩かれた鉄が徐々に硬度を高めていくように。精錬され、研磨され、鋭い一本の鋼の剣と化していく。
クルードはきっと、これから大きく成長していく。それだけは、兄として揺らぐことの無い信頼である。
私は窓の外を眺めながら、強く言葉を口にする。
「あぁ」
だから、私は気付かなかった。
「――――そうだな」
筆舌にしがたい表情を浮かべながら、淡々と言葉を吐いたガレッソ。その顔を、見逃していたのだ。
そして日は巡り、幾度の夜を越えて。
ついに、御前試合当日が訪れた。




