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第26話 カミュ・シュバルツ

 カミュ・シュバルツという人間は、物心ついた時から人を観察するのが好きな少女であった。

 王都に君臨する大商人シュバルツ家の一人娘として生まれ、気付いた時には人と人の交流に携わるようになっていたのが原因だろうか。同世代の中でも一際早く、人間という生き物を深く知るようになった。

 自らの利を一番に考える者。人を蹴落としてでものし上がろうとする者。自分を張りぼての虚栄心で満たし大きく見せようとする者。

 そういう者たちは決まって、その口から醜い嘘が溢れていた。


 偉大な父親に取り入るため、幼少である自分に擦り寄る大人たちを見て、カミュは一つの学びを得た。

 嘘は最大の武器である、と。

 それからカミュは、朗らかに笑い、誰からも好かれるような天真爛漫な少女になった。

 正確にはそうあれたらいいと願い、自らを嘘で誤魔化すようになった。


 そしてカミュ・シュバルツは、新しい知見を深めるためにその姓を捨てた。

 騎士なんて、実際はそんなに興味がない。

 剣など、人生で一度も握ったことが無い。

 そんなカミュ・シュバルツは、ただの少女カミュとして聖キャバリス学院に入学することとなった。


 そして一人の少女と出会い、二人の青年と出会った。

 彼らとの学院生活に、カミュは今まで感じたことの無かった充足感に満たされていた。飽きることの無い刺激的な毎日。個性豊かな仲間たちと過ごす色鮮やかな日常。

 全ての一瞬が、カミュにとってはささやかな幸せであった。


 例え自分が蚊帳かやの外で、日常の裏で何が起きているのか知らなかったとしても。

 ただみんなと共に居られるなら、それだけで良かったのだ。


「革命の狼煙のろしを」


 だから、あの人がそう呟いた瞬間。日常が、瓦解していく音がした。

 いつも優しい笑顔を見せてくれる、あの紳士的な先輩が。今はまるで、違う人間に変わってしまったかのような光景に、動悸が激しく鳴り響く。

 胸が締め付けられるような痛みに、カミュは表情を歪ませる。


「先輩ッ! ホーネス先輩ッ!」


 背を翻し去っていくホーネスの姿に、たまらず悲痛な叫びを口にするカミュ。

 しかし、声は届かない。何の意味も効果も持たず、ただ無情に遠ざかっていく背中を見つめる事しか出来なかった。


 あの時、みっともなく縋りついてでも止めていれば何かが変わっただろうか。

 もしも足が動いたならば、クルードが重傷を負うことも、その姿を自分達の前から消してしまうことも、イリスが無力な自分を変えようと前に進むことも――――そして、そんな状況の中で何も変わらない自分に失望することも。

 きっと、無かっただろう。


 ☨  ☨  ☨


 ふと、視線を上げれば徐々に赤みがかっていく空模様。太陽は沈みかけ、地平線の遥か先から橙色の光が微かに差し込んでいる。

 カミュは、たった一人で王都の街並みを歩いていた。

 料亭ラビッツから逃げるように外へ駆けだし、何の目的も無く街を彷徨う。移り行く雲の流れを見上げ、人の往来を横目に、カミュはただひたすらに歩き続けた。

 そして、不意にその足を止める。優しく流れ落ちる水の音に、カミュはゆっくりと顔を上げた。


「ここって……」


 それは、街の広場中央に佇む噴水。煌びやかな、されど厭らしく目立つようなものではなく、日常によく馴染んだ風景の一角であった。

 夕日が優しく水面を照らし、反射した光が周囲の人々を優しく包み込む。

 優しく微笑み合う老夫婦。元気よく走り回る子供達。買い物帰りの主婦や、談笑を交わす恋人たち。

 キャメロン王国にごくありふれた、そんな日常がそこには広がっていた。

 不意にカミュの視界がぼやけていき、淡くなった視界に薄ぼんやりとした影が映る。

 騒がしく、とても楽しそうな三人の姿。


「懐か、しいなぁ……」


『お前、迷子になったろ』

『ギクッ』

『またか!?』

『しょ、しょうがないじゃないですか! 私はまっすぐここを目指してました! それがたまたま反対方向だっただけです!』

『どこをどうしたら、学院から一番近い街の広場と反対に向かうんだよ!』

『う、うるさいですね! 細かい男はモテませんよ!』

『誰が非モテじゃ!』

『ポンコツ娘!』

『ノンデリ男!』


 初めて四人で出かけた日。この噴水は、あの時の集合場所だった。

 まだお互いのこともあまり知らなかったけれど。なんだかとっても楽しくて、可笑しくって、もっとこの時間が続けばいいって。そう、思っていた。


「……あれ。…………おか、しいな」


 それぞれが抱える苦悩なんて、当時の私は知る由も無かった。


「なん、で」


 クルード先輩がトラウマに苦しんでいたことも、イリスさんが辛い過去を背負っていたことも、ホーネス先輩が心の奥底でどんな想いを抱え込んでいたかも。

 何も、知らなかったんだ。


「私、バカだなぁ……」


 カミュの頬を大粒の涙が伝う。視界は洪水に呑まれ、ポタポタと地面に流れ落ちる。

 一度溢れてしまった感情は、栓が壊れてしまった蛇口のように流れ続ける。グシャグシャになった顔と、周囲からの困惑した視線をなんとなく自覚しながら、カミュは静かに泣き続けた。

 だから。


 ふいに差した影に、カミュは一瞬気付くのが遅れてしまった。

 そして告げられた言葉に、語られた声色に、思わず目の前の光景を疑ってしまうのだった。


「そんなに泣いたら、せっかくの可愛い顔が台無しだよ? カミュちゃん」

「…………お父、様?」


 大商人、サック・シュバルツ。自分が最も敬愛する父親は、いつだってそうだった。

 悲しくなった時、何かの壁にぶつかった時。彼はいつも決まって、優しく傍にいてくれる。



「もう今日の演劇は終わったからね。落ち着くまで好きなだけゆっくりしていきなさい」


 真っ赤な絨毯のように広がる座席の数々の中で、なんとなく選んだ中央付近の席にカミュは深く腰をかける。

 サックから優しくかけられた声にコクリと頷きながら、ゆっくりと周囲の光景を見回していく。

 父自ら手掛け、その偉大さの象徴であるシュバルツ王立劇団。これだけの広さを眺めると、やはり改めて自分の父親は凄い人物であると再認識することが出来る。

 何も持たない自分とは、違う。


「はい。こんなものしかないけど、きっと喉が渇いているだろう?」

「ありがとう」

「熱いから気を付けるんだよ」


 父から手渡されたカップを受け取り、カミュはゆっくりと唇を湿らせる。茶葉の香りが優しく鼻腔をくすぐり、ほろ苦い紅茶が喉を潤わせていく。

 幼少の頃、父とよく飲んだ懐かしい味がした。


「それにしてもビックリしたよ。まさか噴水の近くで、よく見慣れた桃色の髪の女の子が泣いてるんだもの」

「……それは」

「いいんだ。わざわざ涙の理由を聞き出すほど、野暮なことは無いだろう?」

「……ありがとね」

「カミュちゃんのためなら、パパはなんでも頑張っちゃうよ!」

「なに、それ」


 父の発言にカミュは思わずフッと顔をほころばせる。

 

「……ねぇ、お父様」

「どうしたんだい?」

「お父様はどうして、聖キャバリス学院の入学を許してくれたの?」


 涙の訳を聞かなかった父の想いを汲み、カミュは話題を逸らすように口を開く。

 突然尋ねられた質問の内容に、サックは一瞬きょとんとした表情を浮かべる。そして。


「カミュちゃんが、自分で決めた道だから」


 さも当然のように、そう答えるのだった。


「周りの視線を気にしてワガママをあんまり言わなかったカミュちゃんが、初めて何かをしたいって口にしたんだ。どうして僕が止められようか」


 そう言って瞳を細め朗らかに笑う姿に、カミュはきゅっと胸を締め付けられる。

 無条件の優しさが、心の奥底に染みていく。


「でも、流石に最初言われた時は驚いたなぁ。だってカミュちゃん、本当はパパの作った演劇とかあんまり興味なかったでしょ?」

「えっ、気付いてたの!?」

「はっはっは。そりゃあ大切な一人娘の考えてることなんて、パパには全てお見通しなのだ!」


 驚きと恥ずかしさで顔を紅潮させるカミュに対し、サックはあっけらかんとした様子で笑みを浮かべる。

 そんな父の姿に、やはり父には敵わないと呆れのような表情で苦笑する。


「……うん。私はね、同い年のみんなが思うよりも騎士とか英雄物語に興味は無かったの」

「近年の騎士への憧れの薄まりは社会問題の一つだからね。カミュちゃんがそう思うのも無理ないさ」

「そうなの? 確かに、イリスさんも同じような気持ちだったけど……。あ、イリスさんっていうのは」

「この前連れて来てくれた女の子だね。うーん、やっぱり最近は七雄騎将の凄さがあんまり周知されていないからねぇ。平和なのはいいことなんだけど……」


 顎に手を当て、困ったような表情で眉間に皺を寄せるサック。


「三十年前の戦争を知る世代にとって、七雄騎将なんてのは憧れの象徴だったからね。それと比べてしまうと、どうしても今はあまり目立った働きをしていないのは事実さ」

「あ、南方バルタニカ戦役」

「おっ、流石よく勉強してるね! そう、あの時はキャメロン王国最盛期と言っていいくらい、全ての騎士団と七雄騎将が一騎当千の働きをしたものだよ。僕も当時は胸を高鳴らせたものさ」


 どこか遠くを見つめながら懐かしさに想いをはせるサック。その瞳は、かつての栄光に憧れを抱く少年そのものであった。

 しかし、一瞬その表情が曇る。


「栄光の影を知るまでは」


 ボソッと呟かれた言葉は、カミュの鼓膜に届く前に風に吹かれて消えていった。


「え?」

「いや。だから、カミュちゃんが感じた気持ちは何もおかしくはないさ!」

「そう、なのかな」


 サックの慰めるように発せられた発言に、カミュは戸惑いながらも納得した表情を浮かべる。

 そして流れる一時の静寂。だが決して嫌なモノでは無く、心を許した者同士の間に流れるゆったりとした空気。その時の流れに、カミュはしばらく酔いしれる。

 しかし、カミュは一方で心の奥底で燻る感情があることに気付いていた。


「私、ね」


 ふと、カミュはゆっくりと口を開く。


「学院で、たくさんの出会いがあったの」

「うん」

「最初は先輩から暴力を振るわれて、なんでこんなところに入学しちゃったんだろうって嫌になって。でも、友達や先輩に助けられて少しはいいなって思ったの」

「うん」

「それからいっぱい色んなことがあって、楽しくて、時に悲しくて、辛いこともあったけど。でも、どれも大切な思い出なの」


 サックの穏やかな相槌に呼応して、カミュは溢れ出す感情を吐き出していく。


「みんなすごい人なんだよ。クルード先輩なんか、学生なのに七雄騎将に選ばれて。その分たっくさん悩んで、それでも前を向いて歩ける強さを持ってる人なの」

「うん。凄いね」

「ホーネス先輩はね、いつだって一歩引いて私たちを見守ってくれてね。ホーネス先輩第一に見えるけど、同じくらい私たちのことも大切にしてくれて、困ったら手を引いて前に連れていってくれるの」

「素敵な人だね」

「イリスさんはね、学院で初めてできた大切な友達なの。強くてかっこよくて、でも少し抜けてて。本当に愛おしい、私の大親友」

「本当に、いい人達に出会ったんだね」


 嗚呼そうだ。本当に、私の周りは凄くいい人ばかりなんだ。

 ただ漫然と、楽しい時間だけを過ごしてきた。将来のことなんて何も考えようとせず、ただ四人でずっと過ごせればいいと思って現実に蓋をしてきた。

 でも、それじゃ先へ進めない。


「……私は、みんなが大好きなのっ! 誰にも居なくなってほしくないっ! 他の誰かじゃ嫌っ!」


 再び、視界が潤んでいく。

 きっとこれはワガママだ。他の人が高尚な願いを抱いている中、自分は独り善がりの感情だけで動いている。何の力も持たないのに、何の努力もしてこなかったのに、誰よりも自分勝手な祈りを捧げている。

 醜い。

 幼少の頃に、擦り寄ってきた大人たちに対して抱いた感情が今、己に対して抱いている。

 

 私は、醜い噓つきだ。


「私は、あの三人と一緒がいいの……ッ!」


 平気なフリをした。

 友達イリスのためと偽って、コバニに喧嘩を売って、リトのやり方にケチをつけて。本当はわかってた。それがただの偽善だってことに。

 自分だって同じくらい、先輩たちが居なくなってしまったことにショックを感じていたのに。


「……でも、私、どうしていいかわからないのッ! 何もしてこなかったッ! 何も考えてこなかったから、今になって何も出来ないのッ! みんな、みんな前に向かって進んでいるのに、私だけが立ち止まってる……」


 それは、怒りだった。

 他の誰かに対してではなく、他ならぬ自分自身に対しての怒り。不甲斐ない自分へ送る、怨嗟の呟き。

 言葉は人を傷つける。カミュの発言は、まさに心の自傷行為そのものであった。


「何も出来ない! 何の役にも立たない! ならいっそのこと、私もいなくなった方が――――」


 そんな、カミュの醜悪な本音に対し。

 

「それは違うよ」


 優しく、そして厳しくサックは否定する。


「何も出来ない人なんていない。何の役にも立たない人なんていないよ。辛くて怖くて逃げだしたいくらい苦しいなら、きっとそれは本気で悩んでいる証さ」

「…………違うの」

「人にはそれぞれの役割がある。役に立たないと思ってしまうのは、まだ出番が来ていないだけ」

「…………私は、そんなに立派な人間じゃ」

「ママはね、弱音を吐く僕にいつもそんな言葉をかけてくれたんだ」


 父の優しい言葉を否定し振り払うように口を開きかけたその時、サックから飛び出した単語に、カミュは驚き目を見開いた。


「……お母様が?」

「彼女は、普段とっても穏やかだけど時折芯の強さを垣間見せる、そんな女性だった。カミュちゃんが赤ん坊の時に亡くなってしまったから、どんな人だったのか見せてあげられないのが残念だけどね」

「お父様も、悩むの?」

「もちろんさ!」


 自信満々に、情けない事実を肯定するサック。


「悩まない人なんていないよ。いや、むしろ悩んだ数だけ人間は強くなれるのさ」

「悩んだ、数だけ……」

「そう。だから――――」


 そう言って、サックは優しく手を伸ばした。


「カミュちゃんも大丈夫。とっても綺麗な桃色の髪の毛は、ママの血が半分入っている証拠! もっとも、悩みやすいのは半分入ってる僕の血だろうけど、はは」


 愛しいモノを見つめるように、壊れやすい宝物をそっと撫でるように、優しく手のひらで頭を撫でられるカミュ。

 その手つきがあまりにくすぐったくて、微かに身をよじらせてしまう。


「さて」


 スッと離れていってしまう手のひらに、カミュは思わず縋るような視線を向ける。

 だが、その表情に対してサックは再び愛おしそうに笑う。


「年を取ると、すぐ説教臭くなっちゃうのがおじさんっぽくて嫌なんだよねぇ。だから――――」


 サックはそう言って、颯爽と背を向ける。

 そして次の瞬間。


「カミュ!」


 バンッと、勢いよく開け放たれた扉の音が後方から鳴り響く。

 真っ赤に広がる座席の海、その遥か最後方から光が差し込む。そこには、見慣れた白髪の少女が立っていた。

 その姿に視線を奪われ、涙でぐちゃぐちゃに歪んだ顔を見られた恥ずかしさと何でここにいるのかという戸惑いに内心困惑する中で。

 父の言葉が、小さく背中を押した。


「後は若者同士、まっすぐ気持ちをぶつけ合いなさい」

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