第24話 翻天覆地
ホーネス・シエル・キャメロン。その人生は、常に奇想天外な運命に翻弄され続けている。
その始まりは誕生から。母は出産と同時に亡くなり、その命と引き換えにこの世に生を受けた。父と子、たった二人だけの家族。生まれた時から、父の背中を見て育つことは宿命であったと言えるだろう。
育児放棄や虐待をされた記憶はなく、乳母や召使が身の回りの世話をしてくれて何不自由ない生活を送ってきた。
欲しいものを望めばなんでも手に入る、恵まれた環境と約束された安定。幼少の頃からそんな生活を送っていれば、性格が破綻するのは目に見えている。案の定、当時の自分は相当手のかかるワガママな子供であったはずだ。
最初のきっかけは、巷で流行っているという一冊の本を用意させたことだった。
今ではごくありふれた、騎士とお姫様の王道冒険譚。なんてことは無いおとぎ話の一節に視線を向ける。
衝撃だった。
そこに描かれる世界は、自分の想像を飛び越える程に壮大で感動的な物語だったのだ。
一心不乱に読みふけり、時間を忘れて熱中した。気が付けばあっという間に本を読み終わり、続けざまに次の本を用意させた。そして再び空想の世界に飛び込み、無限に広がる夢の大地を踏みしめる。
ホーネスという男が、初めて騎士にあこがれを抱いた瞬間だった。
王家の血筋を遺憾なく駆使し、王宮に保管されている騎士や英雄の歴史書を持ってこさせた。
四聖騎士団、七雄騎将の存在を知り、憧れをより一層強めてさらに詳細に歴史を遡っていく。キャメロン王国とバルタニカ皇国、そしてバルバリス帝国に至るまで、大陸の歴史を独自に紐解いていく。
その集中力と熱意は凄まじく、父の側近たちも舌を巻く程であったと後になって教えてもらった。それくらい、憧れを止めることは出来なかったのだ。
そして、一冊の本に辿り着いた。
表紙も裏表紙も無く、背表紙にも何一つとして記されていない異様な雰囲気の書物。父上が不在の中、王家の人間しか立ち入ることが許されない禁書庫で、私はソレを見つけてしまった。
好奇心に導かれるままに手を伸ばし、パラリと一枚ページをめくる。
そこには、【翻天覆地】と記されていた。
☨ ☨ ☨
「ホーネスよ」
閉じられた四方の壁が、逃げ場を無くすかのように取り囲んでいる。そう感じてしまうのは、自分が今すぐにでもこの場から逃げてしまいたいと考えているからだろうか。
ホーネスは何処か他人事のように、心の中で小さく呟いた。
「はい、父上」
「そう畏まらなくとも良い。私はな、お前に会ったらまず謝ろうと思っていたのだ」
小さく縮こまるホーネスの肩にそっと手を置き、ライアードは優しく微笑みを浮かべる。
「すまなかったな。私のために様々なものを切り捨ててきただろう? 友を傷つけ、夢を諦め、それでも私の元に戻ってきてくれたこと。本当に、心の底から嬉しく思う」
「め、滅相もありません。私程度に役立てることがあるのなら、喜んで父上に貢献いたします」
「素晴らしい! 流石は私の愛息、聖陽院一同心から歓迎しようではないか!」
優しく声をかけられ、褒められ、認められ。ただの言葉一つに一喜一憂する自分に反吐が出る。
本心で言っている訳では無いとわかっていても、それでも嬉しく感じてしまう自分が、悔しくて悔しくてたまらない。
「さて」
そんなホーネスの葛藤を知る由もなく、ライアードは応接用に配置されたソファに歩み寄り腰を沈める。
ホーネスもまた父の後を追うようにソファに近づき、父の対面に腰を掛ける。
「聡明なお前のことだ。自分が何をすればいいか、きっと分かっているだろう?」
そしてライアードは、懐から一冊の本を取り出し、そっと机の上に置いた。
表紙も裏表紙も無く、背表紙に何一つとして記されていない、異様な雰囲気の書物。
嗚呼、やっぱりと。ホーネスは静かに瞳を閉じ、心の中で歯噛みする。見覚えがある、なんてものじゃない。もっと悍ましく、恐ろしい、惨憺たる感情が呼び起こされる。
「"翻天覆地の書"と、我々が呼ぶようになったこの本。お前も記憶に新しいだろう?」
「……はい」
「今からお前にはこの部屋を貸し出そう。この書物の完全解読。それが私がお前を王宮に呼び出した、お前にしか出来ない役割だ」
「……いつ、までに?」
「無論、早急に。その役目を終えるまでは、申し訳ないがお前にある程度の自由を与えることも難しいだろうな」
もはやそれは、脅迫に等しい。それが分かっていてもなお、ホーネスに拒否権は無い。初めから、自分が何をすべきか理解していたから。ここに戻ってくれば、どういう扱いを受けるか想定はしていた。
だからこそ、今さら絶望も無い。
「……承知しました」
「おぉ、そうかそうか! ははは、いやはや本当に素晴らしい。お前がまさかここまで聞き分けのいい子に育つとはな。やはり、あの時エレガス君に預けて良かったというものだ」
ピクリと、項垂れるホーネスの手が反応する。
「エレガス先生は、学院からは、何と……?」
「それに関しては心配するな。かの白金殿には、かつての愛しき後輩からの言伝を頼んである。さらに大金までつぎ込んだのだから、学院側からこれ以上口出しされることも無いであろうな。……おっと、そういえば」
自らの悪行と賄賂を、隠すことなく堂々と語る口ぶりに悪びれる様子は一切ない。ライアードの言葉には、正義の代弁者としての自負が滲んでいた。
そして、ライアードは続けて語る。
「お前の愛しき英雄、クルード君は無事に退院したそうだ」
「そ、そうだッ! クルード様はッ!? 一体、どうなったのですか!?」
「ははは、お前は随分とあの青年に執着しているのだなぁ」
怒涛の展開に記憶の片隅に追いやられていた光景が蘇る。自分がザハトによって気絶させられる直前、クルードの横腹に刃が突き刺さるあの光景を。
取り乱した様子のホーネスに対し、ライアードは愉快そうに笑いながら指をパチンと鳴らす。
「……お呼び、か」
ゾクリと、ホーネスは背筋を震わせる。
ライアードが指を鳴らした瞬間、背後から響く声に慌ててホーネスは後方へ振り返る。そこには直前まで思考を向けていた、ザハトの姿があった。
全く認識できなかった存在に、ホーネスは静かに戦慄を覚える。
「ザハトよ、教えてやりたまえ。クルード君が、その後どうなったのか」
「……は」
ライアードの命に応じ、ザハトはゆっくりと口を開く。
「奴は、一命を、取り留めた」
「そ、そうでしたか。よかった……」
「……だが、姿を、消した」
「………………は?」
「行方不明に、なり、はや数日。未だ、国民誰一人、その消息を、知らず」
ザハトの言葉に、ホーネスの頭が真っ白になる。
クルード様が、行方不明?
有り得ない。いや、そんなはずは。一体どうして。何故、こんなことになったのか。私が、私があの方を傷つけたから。私のせいで、クルード様は消えてしまわれたのか。
また、か。また私は罪を重ねるのか。
うねる思考の波は複雑に絡み合い、脳内で渦を巻いて混乱が支配する。
それは、本当に無意識の発言だった。冷静な思考ならば絶対に言うはずが無いと理解できる言葉。言えば、父からどんな目で見られるか、分かっていたはずなのに。
「……捜索の、許可を」
気が付けば、口から感情が溢れていた。
「捜索の許可を、お願いしますッ! 私ならばどうなってもいい! これから先、父上の為に一生を賭すと誓います! だから、だから私にクルード様を探しに行く権限を――――」
「ホーネス」
そして、予期していた絶望が襲う。
「貴様、また私を失望させる気か?」
地底から這い出るかのような、低く響き渡る暗い声がホーネスの心に突き刺さる。瞬間、ホーネスの思考が凍てつく。息がつまる。
呼吸が、止まる。
「そんな小僧一人に、私の計画を遅らせろと? 貴様が、この私に、命令したのか?」
「ち、ちが……そういう…………わけでは」
「私が、何のために労力を割いてまで、七雄騎将から若造共を除籍するよう動いたと思っている?」
また、あの瞳だ。
人を見る目では無く、モノを見る目。無機物を見るかのような、道具に向ける眼差しが、ホーネスの心臓に深々と突き刺さる。
「貴様が、何の憂いも無く解読に集中するためにッ! この私自ら矢面に立って改革を進めたのだッ! そのリスクが貴様に分かるか? 全ては、七雄騎将制度を廃止するためッ!」
苛立ちと憎しみを隠すことなく、感情の奔流が実の父から向けられる。
「翻天覆地の書の解読に成功すれば、七雄騎将制度など根底から瓦解する! ……否、それで済むはずも無い。キャメロン王国崩壊の危険性すらも孕むであろうな。だが、少なくともあの子娘の失脚は狙えるッ! あの親子を断頭台に運び、国民の前で処刑することすら容易いッ! ――フ、ハハハ……ハハハハハ…………ハハハハハハハハハハハハハッ!」
悪魔だ。
怪物や、天才などと言う言葉すら生温い。魑魅魍魎の化身、人の皮を被った邪悪なる魔人がそこにいた。
言葉一つ発せず、ホーネスは恐怖に震えながら眼前の化け物を見つめる事しか出来ない。
心のどこかで、今の自分ならば父に意見を申すことが出来るのではないか。そんな淡い期待を抱いていた。だが、無理だったのだ。
自分程度の矮小な存在が、この強大な実父に打ち勝つなど、不可能でしかない。
ホーネスという男に許されたのは、ただ、道具としての役目を果たすことだけなのだから。
「…………ふぅ」
息を整え、ようやく落ち着きを取り戻したライアードは、眼前で怯える実子に視線を向ける。
無感情に、冷徹に、品定めするような目つきで。
「まぁなんだ。つまりそういうわけで、クルード君はもう既に盤外へと脱した。もはや彼のことを考え、胸を痛める必要は無い。お前はただ、黙って自らの役割に準ずるが良い」
「…………は……い」
「……ふん」
もはや興味を失った様子で、ライアードは鼻を鳴らし静かに立ち上がる。
「ザハト、然るべき時までソレの傍を離れるな。過度に干渉する必要は無い。昔のように、遠くで見張っていれば良い。簡単なことだろう?」
「…………御意」
ザハトの了承を聞き入れると、ライアードはそのまま扉へと近付き、一度も振り返ることなく部屋から退出した。重く閉じられた扉の音が室内に響き渡り、静寂だけが残された二人の間を通り過ぎる。
自らの無力と恐怖に打ちのめされ、ホーネスは顔を伏せて押し黙る。その光景の中で、ザハトはそっと顔を窓際へと向けた。
閉じられた双眸に光は届かず、視線を向けた先に何かがあったとしてもザハトにそれを視認することは出来ない。
それでも、ザハトは天を仰いだ。




