『最高司祭の願い』―リーズナブルの大罪―
【SIDE:最高司祭リーズナブル】
清らかな教会の清らかな水の中。
酒の発酵の香りと共に、女は天に祈りを捧げ続ける。
それは天の女神に捧げる供物を生み出すための儀式。
本来ならばその儀式に魔術を用いる事は許されていない。
魔術を忌避する神に捧げる酒には、魔術を用いてはならないとされていたのだ。
けれど……。
女は魔術を用い、水を酒に変えていく。
まるで誰かに罰して欲しいと願っているように。
神を試すように。
女はただひたすらに、水を酒に変えていた。
――それでも、我が神は答えてはくださらない……。
禁じられていた魔術を用いる彼女は、禁忌と知りながらも水の浄化……ドンペリ量産を行いながらも過去の事を思い出していた。
女の名はリーズナブル。
このスナワチア魔導王国の最高司祭である。
ドンペリの波紋に反射し映る姿は、やはり美しい聖女。
聖女と謳われた少女リーズナブルの精神性は極めて清純だった。
彼女を善と悪とで分けるのならば、間違いなく善と分類されるだろう。
しかし彼女は善ゆえに苦悩していた。
幼い頃から彼女は人を救う事を強要されていた。
それは生まれついてのギフト。
天からの気まぐれの加護とでもいうべき剛力という才能のせいだった。
しかし彼女は知っていた。
それは神が与えた才能ではなく、彼女自身の才能。
もっと言うのならばまだリーズナブルが生まれる前、当時最高司祭だった彼女の父が教団の未来のために、最強の人類を作ろうとしたことがきっかけか。
戦争に勝ち続けていたスナワチア魔導王国は戦勝国として属国に対し、絶対的な権限を有していた。
だから最高司祭だった彼女の父は、才能のある子供を産む能力を持つ女性を娶り、妻としたのだ。
幸いなのは妻となった女性が、男に惚れたことだろう。
リーズナブルの父はエルフの血族。
その姿は眉目秀麗。女性を虜にする能力をタレントとして有していた。
だから婚姻の話も滞りなく進んだ。
女は男の見た目だけは愛していた。
敬虔な聖職者としての清らかな面差しと、そして類まれな神秘的な顔立ちと、更に端正で知的な微笑に一目惚れをし、ついでに聖職者の修行で鍛えられ均整の取れた肉体美にも惹かれたのだ。
美の神としての側面も持つ天の女神の最高司祭。
その美貌は男女の垣根を超えて、ただただ美しかったのだ。
魔性ともいうべき魅力、それが彼が最高司祭になった最大の理由でもある。
ようするに神はリーズナブルの剛力の才能に関しては何もしていない。
それは父の努力と野心の賜物であった。
基本的に神は一個人の能力に、いちいち干渉しないのだろう。
けれどリーズナブルは神に感謝をしていた。
――あたくしに力を与えてくださってありがとうございます。
と。
けれど同時にこうも思っていた。
――なぜ、このような力をあたくしに授けたのでしょうか……。
と。
彼女は神を心から慕っていた。
愛していた。
けれど同時に、恨んでもいた。
子供の頃からその才能を神からの加護だと信じたリーズナブルは、その役目を全うするために動いていた。
主な役目は魔物退治。
そもそも魔物と呼ばれる存在は神がこの世界を維持するために作り出した種族。
魔物の素材は生活を支え、その血肉は食料となる。
そして魔物は無限に湧く。
脅威な存在であるが、神が齎した無限の素材といえるだろう。
神がそのように世界を作り出した、とされているのが定説だった。
そう信じられている。
もっとも、力ある魔術師の見解は違った。
神は魔物をそのように作ったわけではない。
魔物の発生、それは神が世界を創った際に入り込んだ魔術の影響だろう。
ようするに誤算であり、魔物とは世界に張り付いたバグなのだ。
神は何も、魔物を人類のために作り出したわけでもないのである。
神は人類を愛してはいるが、そこまで寄り添ってはいない。
そんな答えに辿り着く魔術師が多くいるらしい。
実際のところはどうなのか。
有識者の見解も分かれている。
それでも。
無限の素材に人類は感謝し、時には魔物を狩り、時には負けて食われる。
魔物は人類に勝ち魔力や生気を吸うことで成長し進化する。
人類を倒した時の経験値と呼ばれる概念を溜め込み、子を産む個体もある。
魔物にとっても人類とは生きるために欠かせない素材なのだ。
この世界にとっての魔物は人類と切っても切れない、共生関係にあると言ってもいいだろう。
その魔物に対する絶対的な暴力。
リーズナブルの剛力はかつて起こった魔物の大行進すらも止める、圧倒的なギフトだった。
人々はまだ幼い彼女を讃えた。
善を成す者だと。
正しくあれと。
人々をどうか救って欲しいと。
たかだか八歳の少女に、頭を垂れて懇願するのだ。
それは少女だったリーズナブルの精神性に大きな影響を与えた。
彼女は救いを求める者たちから、人々を救えという呪いをかけられたのだ。
――あたくしは人々を救うために生まれた神の子供。
だから。
人々を救うためならば手段を選ばなかった。
幸いにも彼女は神に祝福されていた。
生まれに祝福はなかった。
けれど天の女神アシュトレトの寵愛を受けていたのである。
何故ならリーズナブルが父に似た美貌の持ち主だったからだ。
天の神アシュトレト。
彼女は美しいモノを尊ぶ性質のある女神。
天啓が下ったのは十歳の頃。
人々の目の前で神の祝福が下った日、あの日が彼女が最高司祭となった思い出の日。
少女だったが、既に彼女は人類最強と囁かれるようになっていた。
スナワチア魔導王国が強国として、名だたる国家の中でさえ上位と認識されるようになったのは最高司祭リーズナブルの影響が大きいだろう。
だから。
彼女は国のため、民のため、そして何よりも神のため。
正義を成すことにした。
まずその対象となったのはリーズナブルの両親。
教団の裏でその美貌を用い男女問わず誑かしていた父を糾弾し追放、神の子であり聖女のリーズナブルを産んだ事で増長……不正会計で豪遊していた母も同時に追放したのである。
彼らは民の生活を脅かす者たち。
いつか国を蝕むと幼い彼女は気付いていた。
だから。
まだ少女だったリーズナブルは容赦なく、彼らを捨てた。
けれど両親は追放されることとなり初めて、互いの愛を感じる事になるとリーズナブルは知っていた。
神に相談したら、そう教えてくれたのだ。
実際、信者たちの報告によると彼らは今もなお、慎ましくも穏やかな暮らしを送っているらしい。
彼女の母は人間であったが、エルフである父と心から結ばれた影響でその寿命を共有したのだろうと、彼女は認識していた。
それが神の奇跡、愛の魔術であるとも知っていた。
――あたくしがいなくても、幸せになれる。いえ、あたくしがいたから当時の二人は幸せになれなかったのでしょうか。
まるで雨に濡れたような、少し滲んだ、そしてかなり古い、歴史と時の流れを感じさせるかつての報告書をじっと眺めた後……。
大人になった彼女は天に問う。
寵愛を受けているリーズナブルであるが、神の言葉は降りてこない。
神とはそれほどに遠い存在だった。
まだマカロニが出現する前の祭壇の前。
人々を救い続けたまま、精神性を成長させないまま……成長できないままに大人になった聖女は細い指を伸ばす。
それは救いを求めるような、かよわい指。
――あたくしは皆を救ってきた。魔物を倒し、国を守り……けれど。
どうして?
と、少女の心を保つリーズナブルは思っていた。
――誰もあたくしを救ってくれないのでしょう。
少女は愛に飢えていた。
救うのではなく、救われたい。
彼女は孤独だった。
それでも。
彼女には神の寵愛と祝福。
そして父が残してくれた美貌と、母が残してくれた剛力がある。
彼女は救い続けた。
本当に、ずっとずっと。
救い続けた。
父がエルフ故に、その長命故に、本当に。
ずっと。
ずっと。
何年も、何十年も……。
そんなある日。
リーズナブルが最高司祭になってから何代目の主君だろうか……現国王の悩みを聞く事になり、その救済を考えた。
長くを生き、救済の人生を送る彼女にとって、王の悩みは本当にくだらない悩みだった。
既に中年、オッサンと呼べる年齢となっても王はいまだに己の重責を軽んじていた。
自分は王になどなりたくなかったと、そう嘆くのだ。
本来ならば腑抜けた王とせせら笑っただろう。
王失格だと、聖女として最高司祭として糾弾しただろう。
けれど。
くだらない悩みだからこそ、それは彼女の心を貫いた。
リーズナブルは同情した。
なりたくもない、やりたくもない重責を押し付けられた悲しみは誰よりも理解できたのだ。
だから。
聖女は王の心を救う事にした。
天の女神に捧げる筈の御神酒を王に渡したのだ。
あれは神の酒。
とても強力な魔力が込められた神の水。
酒を口にする一時だけでも安寧を。
と。
強大な魔力故に、嫌な事を全て忘れられる寝酒を提供したのだ。
それは純粋な善意による行いだった。
けれど、リーズナブルは知っていた。
最低限の王の器でしかないスナワチア現国王がその酒を飲めば、酒に溺れて、まともな判断力を失ってしまうと。
それでも。
聖女は王を哀れだと思ったのだ。
実際、王の心は救われていた。
酒という逃げ場があったからこそ、その重責を抱えることができていた。
救われたのは確かだったのだ。
それが適量ならば良かった。
けれど。
逃げ場に甘えれば甘えるほど、逃げ場が快適ならば快適なほど。
人類はその沼から抜け出せなくなる。
将来……この王がいつしか国を蝕む狂王と化すと分かっていても、それでもリーズナブルは酒の量産を止めなかった。
酒に逃げる一瞬だけは、確かに王は救われるのだから。
これは救済だと信じていた。
そして同時に。
これは許されざる大罪だとも理解していた。
いつか、この罪を償わせに神が降臨なさる。
そう、伝説にあるようなあの……。
だから。
今この瞬間。
自他ともに認める人類最強の自分に殴り込みにやってきた、かの神鳥を見上げたのだ。
『立ち入り調査だ、こら!』
音がした。
それはペタペタと走るジズの大怪鳥。
かの鳥は制止を振り切り、教会の壁を蹴破り祭壇の間に突入してきた。
違法な魔術酒に満ちた室内に、外からの光が射す。
氷竜帝マカロニ。
彼は堂々と全ての壁を蹴破り、この祭壇にまっすぐやってきた。
だから。
光が、眩しく聖女の瞳を照らしていた。
黄金の飾り羽を輝かせたマカロニが、勝ち誇った顔で吠える。
『グペペペペペペ! はーっははっは! これが違法な魔術の証拠ってね! てか、おいおまえ! この国は僕の拠点になるんだぞ! そんな胡散臭い量産酒で腐敗されてたまるか!』
リーズナブルは思った。
ああ、やっと。
自分を罰し、この重責から解き放ってくれる神の遣いが来たのだと。
だから。
彼女にとって氷竜帝マカロニは天の遣いジズであり審判者。
神の怒りの象徴。
禁忌を犯した自分を罰してくれる獣王なのだ。
そんな感涙を隠し。
酒に浸かる女は露悪的な表情で唇を艶めかせ。
望み続けたケモノを睨み。
「これは疲れた者に安らぎを与える神酒。一時であっても真なる幸福を得られる、聖なる水ドンペリ。全ての苦しんでいる方のために、全てを忘れられる神酒を。それがあたくしの選ぶ救済。其れの何が悪いと言うのでしょうか」
『悪いに決まってるだろう!』
「ええ、そうですね。これは違法の魔術によ……」
より作られた、神に逆らうアイテム。
そう悪人面で言おうとしたリーズナブルの言葉を遮り。
『おまえがノーコストで酒を量産したら、僕が作ったマカロニウォーターサーバーから作れる酒が売れないだろうが! 僕は獣王だぞ!? そこはあんたが空気を読め、空気を!』
「なにを仰っているのです。ジズ様、あなたは神に逆らい魔術を悪用……こうなると知っていながらも王を狂王へと落としたあたくしを罰しに――」
『はぁ? なにいってるんだ、あんた』
マカロニは訝しむようにペンギン顔を、こてんと傾け。
『あのオッサン。別に狂ってなんかないぞ?』
「ふふ、そうですか。お優しいのですね、そうやってあたくしの罪を無かった事に……」
聖女を庇う神の鳥。
そんな空気を出しているリーズナブルをジト目で見て、心底拒絶した様子でマカロニが言う。
『いやいやいや、そーいうんじゃなくてだな。あのマキシム外交官も勘違いしてたみたいだけどさ、あのオッサン、相当に狡猾な王様だぞ? なにしろ僕をこうやって使って、国を動かしてるぐらいだし』
その証拠に、と。
ペンギンは脇腹の羽毛からアイテム……記載済みの国王のステータス欄を取り出し。
『だって、あのオッサン。状態異常耐性あるし、たぶん酒にも完全耐性がある筈だぞ。実際、僕が最初に会った時もダメ王様を演じてそうだったけど、空気は覇気で満ちてたし。あの男――とんだタヌキ野郎だと思うぞ、僕は』
狂王のふりは全部演技。
そんなありもしないことを告げる神鳥に、リーズナブルの唇は動く。
「そんな筈は!」
『よーするに、あんたもマキシムの爺さんも王様にいいように使われてるってことさ。って、そんなことよりも! 僕はあんたのその密造は認めないからな! さあ僕の金儲けの為に、ドンペリ量産計画を停止して貰おうじゃないか! 覚悟するんだな!』
ビシっと最高司祭リーズナブルをフリッパーで指差し。
お尻の羽毛をぶわ!
氷竜帝マカロニは戦闘態勢――密造酒の池を照らす太陽を背に、大規模魔術を展開し始めた!