【後始末】
【SIDE:偽神ヨグ=ソトース】
宇宙史上最大規模の攻撃を受け霧散した偽神。
理の外側から内へと干渉していた存在は今、塵となった精神を集め猫の足跡銀河の先を目指し、さぁぁぁぁ……。
それは敗走、撤退していたのだ。
肉球の魔力が今も残る銀河。
道を駆ける偽神ヨグ=ソトースの姿はまるでウイルスに似ている。
無数の突起がついた球体、球体は虹色に蠢きその身は肉塊で構成されていた。
肉塊には意思があり、その感情に反応し肉塊も七色に輝いているのだろう。
――在り得ぬ。在り得ぬ。このような失敗、我は認めぬっ。
それでも、と偽神ヨグ=ソトースの肉塊の肉の亀裂は、勝ち誇ったようにほくそ笑む。
『あのクソペンギンめは我が滅びたと勘違いしておった、そう、此れは敗走ではない。断じて違う、我は逃げるのではなく状況を整えておるだけ』
そもそも全能の神に負けなどない。
だから、偽神ヨグ=ソトースは今の現実を認めない。
そして何よりヨグ=ソトースは知っていた。
だから偽神はほくそ笑む。
――単純な強さとは別ベクトルにあるあの器。いつか必ずや。だが、勝機は見えた。
と。
偽神には根拠があったのだ。
多くの宇宙、多くの世界、多くの大陸。
多くの国家、多くの都市、多くの家族。
人の営みを外側から観測していた偽神には見えていた。
それは人類が自分よりも下位の社会、地に這う蟻の生態を観察するような感覚だった。
働き蟻と普通の蟻、そしてサボる蟻の比率を探るような感覚だった。
偽神ヨグ=ソトースは知っていた。
心ある生き物は、守る者が増えれば増える程に弱くなる。
弱点が増える。
だから、偽神ヨグ=ソトースには掴むべき勝利と、次の一手が見えていた。
銀河の下では、氷竜帝マカロニの勝利を知ったスナワチア魔導王国の人々が、今か今かとマカロニの目覚めを待っている。
ヨグ=ソトースの肉塊が醜く歪む。
それは笑いだった。
『嗚呼、あの一粒一粒が全てヤツの弱点となる』
故に、彼は大きく笑った。
本当に大きく。
だから――。
捕捉された。
『ふふふふふ。申し訳ありませんが残念ながら、そう上手くはいかないでしょうね――』
声がした。
一瞬、偽神ヨグ=ソトースは理解ができなかった。
ここは宇宙と宇宙の狭間の空間。
そう簡単に漂える場所でもない、それになにより――。
声が言う。
『ウイルスのように小さい自分を見つけること等できる筈もない、でしょうか? それはいささか、あたくしを甘く見過ぎていたようですわね』
『キサマは――っダゴン!?』
声の正体はまつろわぬ女神。
恨みがましく聖職者の異装を纏う気色の悪い女、海の女神ダゴン。
女は邪神としての側面を隠していないのだろう――昏く染まったまっくろな顔……その歪んだ頬に手を添え、虚無の底から告げるような声で宇宙を揺らす。
『このまま逃げられるとでもお思いなのですか?』
『バカな!? 貴様らはマカロニの裁きによってしばらくは動けぬ筈!』
『ふふふ、あの子の怒りも言葉も尤もでしたし、あの子の力も強大になった影響であたくしも慌てましたし、異界のあの方たちも大層混乱なさっておりました。まさかこれほどとは、と。ですが、あたくしは……こうも思ったのです。もしこの一連の事件の裏でナニかが暗躍しているのなら、神在園となったあたしたちの空中庭園が混乱しているこの隙に、必ず動き出すと』
宇宙の運命すらその戯れで揺らせる強大な神々たち。
十重以上の魔法陣を行使できる問題神たち。
彼らが一堂に会し、そしてマカロニの制裁で動けぬ今が最大のチャンス。
偽神ヨグ=ソトースはその瞬間を狙った。
それにダゴンはいち早く気付き、いまこうして先回りをしていたのだろう。
偽神ヨグ=ソトースは力の大半を失っている。
偽神マカロニに敗れた、威厳を失った、その事がこの宇宙の法則に縛られる偽神ヨグ=ソトースの力を大きく弱体化させているのだ。
だが――偽神ヨグ=ソトースには余裕があった。
偽神マカロニ以外には負けぬ自信があったのだろう。
逃走者は周囲に虹色に輝く肉塊と、別宇宙から召喚しただろう器だけの夜鷹兄を召喚。
自らを守らせるように配置につけ、肉塊を蠢かせる。
『その程度で我の裏をついたつもりとは愚か――所詮は愛した人類に裏切られ風説に潰された、脆弱で、矮小なる哀れな神の末路よ』
『魂の入っていないダニッチの怪物を呼んだところで、あたくしに勝てるとでも?』
『魂が入っておらずともこの器は貴様らが愛でる獣王、その兄弟の同じ素体。貴様にこれは壊せぬ!』
姿かたちはかつて運命を狂わされたあの兄弟。
宇宙が広がる狭い部屋で、互いに互いを必要としていた夜鷹の二人。
その兄弟と同じ魔術式で構成された肉が、量産されていく。
彼ら兄弟を知っているからこそ、これは殺せない。そう、偽神ヨグ=ソトースは判断していた。
だからこそ、だろう。
聖職者の異装に身を包むダゴンの姿は、徐々に、徐々にと歪んでいく。
それはとても邪悪で暗い、まるで仄暗い深海。
深淵のようだった。
それは――彼女を貶めた異教徒たち、かつて女神を穢した人類が装備していた聖職者の衣を敢えて纏う、黒い海。
ただただ虚無を浮かべた、人の形をした深淵。
黒い血に染まった海が、聖職者の衣を装備しているのだろう。
虚無の海が、ダニッチの怪物たちに腕を伸ばす。
『可哀そうに……さあ、もうお眠りなさい』
抱きしめるように声をかけた。
それだけだった。
ただそれだけで、銀河に量産されていた夜鷹が消える。
消えた先は聖職者の服の中。
底の見えない闇の海。
ダゴンの胎――夢世界に飲み込まれたのだ。
『――……なっ――!?』
全滅である。
海が哀れな敗者に語り掛ける。
『無様ですわね。無駄な抵抗は、およしなさい。もうあなたは詰んでいるのですから――』
『否! 貴様をやり過ごしさえすれば、必ずや――!』
海が揺れる。
『偽神ヨグ=ソトース、現実世界の誰かに寄生しないと動けぬパラサイト。あなたが本当にあの方の父なのかどうかなど、あたくしにはどうでもいい。実際、途中までは本当に宇宙のために動いていたのでしょう。それでも、いつしかあなたは我欲で動いていたのではなくて? 今のあなたの行動が正しいとあたくしには思えませんわ。それに神を名乗るのでしたら……したことの責任は取るべきでしょう?』
こうして、あたくし達も獣王に裁かれたように。
と、元の女神の形を創り出したダゴンはくすりと微笑する。
その瞳に宿るのは、憐憫。
『きっとあなたは人を眺めすぎた。自由に生きる人類の、その心を真似たいと思ってしまった。だって、キラキラと輝いて美しいのですもの。だから、あなたは嫉妬した。だからあなたは、この宇宙で生きる個体になりたいと思った。だからあなたは自分の器が欲しくなった。その欲望に夜鷹兄弟は巻き込まれた。あなたがあなたの欲を満たすために、彼らは何度泣いたのでしょう』
『違う!』
『人に憧れた瞬間、神としての神は死ぬ。それを堕天と誰かが謡ったことでしょう。哀れですわね、あなたはあなた自身が下等生物と見下す命になりたがっていたのですから……』
その憐れみの瞳が気に入らないとばかりに、肉塊が蠢き騒ぐ。
『黙れ、黙れ、黙れ! 口を慎み頭を垂れよ! 全ての父たる我に歯向かうか!』
『あなたは既に氷竜帝の夢世界から追い出された残滓に過ぎない、いつまで全ての父を名乗るおつもりなのです? 負けをお認めになられた方がよろしいのではなくて?』
『現実が見えておらぬのは貴様だ、ダゴンよ!』
この場を逃げ切ればなんとかなる。
まだ奥の手はある。
まだ、逆転できる。
そう偽神ヨグ=ソトースが確信しているからこそ、女神ダゴンには哀れに見えたのだろう。
ゴミを見る目で、女神は瞳を細め。
告げる。
『そう、なら――あなたにはこれも見えていないのでしょうね』
彼女の指摘に反応したのは、蠢く闇。
偽神ヨグ=ソトースは気付いていなかったのだ。
もう既に――。
終わり。
『この忌々しい気配は、三女神……か!?』
『あたくし、一人で来たなんて言いましたでしょうか?』
自身が囲まれていたことに気付いたその時。
もはや逃げ場を失っていた。