序章エピローグ―後編―
時刻はまだ斜陽が目立ち始める前の昼下がり。
モミジが降り注ぐ渓谷の隠れ里。
新王たるマカロニペンギンが銀杏保管計画を遂行する裏――。
一行とは少し離れた場所、かつて王だったスナワチア元国王の現在の家にて。
古民家を彷彿とさせる空間で、彼ら二人、マキシム外交官とスナワチア八世は語り合う。
しばしの談笑の後。
かつて王だったスナワチア八世が、ようやく、本題を口にし始めた。
「そちの下にいた、スパイの娘……たしか名を」
途切れた言葉はモミジの彼方へと消えていく。
言葉を失ったのではない。
思い出したくとも、出てこない。
それは老いという現象の宿命、脳から覚えている筈の言葉が霧のように消えてしまっている感覚なのだろう。
マキシム外交官は少しの感傷を覚えたようだが、それを前には出さず。
ただ文官として、教育係として仕えた時の声で。
「アランティア元王女にございますか」
「おう、そうであった……アランティアという名であったか。あやつは、どうしておる。不穏分子は絶つべきだろうと提案した余の部下の忠言に、マキシムよ、そちだけが反対し……その野心を利用し、この国のために使う駒として育て上げると囲っていたと思うが」
そんな日々もあったと、マキシム外交官の口の皴が動く。
「あの娘は今や新王陛下たる獣王ベヒーモス、マカロニ様の右腕。秘書として動いておりますれば、ワタシの目論見は失敗にして失態……国を奪われる因となってしまったかと」
「そうか、裏切られたか」
「もとより、あやつの目的は復讐……母たる魔術騎士、当時名を馳せていた”雷撃の魔女王”を討たれたことへの怨讐でありましたからな」
育ててやった恩を忘れ、とはならなかった。
「そうか、あの娘が最終的に国家転覆を果たしたのであるな」
「まあ、あくまでも結果的にそうなっただけでありましょうが」
「結果が全て、そう余に教育したのはそちであろう」
マキシム外交官にとって、それは痛い言葉であった。
けれど。
「氷竜帝マカロニ、あの神からの遣いがスナワチア魔導王国を治める事は人類にとってもメリットのあること。決して悪い結果ではありませんでしょう」
「そうか、ならば良いのであろうな」
老いさらばえ、世俗から脱落した男はしばし考え。
「あの魔獣は、本物であったのか?」
「紛れもなく、獣王であることは確かかと」
事実、あの魔獣は人類最強の女すら軽くあしらった。
戦闘自体ふざけた内容だったが、あれがまともに戦いを選択していたら……。
マキシム外交官が補足するように告げる。
「もし選択を誤っていれば……おそらくは、我が国は滅亡していたのでありましょうな」
それはあり得たかもしれない未来。
「それほどの強者なのか、アレが」
「我らが陛下をアレ呼ばわりは少々反応に困ってしまいますが、ええ、それほどの存在かと」
老いたる男は白髪の混じった髪を僅かに揺らし、俯き。
「そうか……ならば、やはり創世の神々の実在も確実。六柱の女神様も、最高神様も現実の存在としてこの世界を見守っておられるという事か」
「六柱の女神……上位存在の力や神性を借り、なんらかの現象として世界を書き換えエフェクトを発動させる――魔術と総称される概念がある以上、上位存在がいることは確か。それが魔術の基本でありますので」
「懐かしいな……」
それはかつて教育係が語っていた魔術の基礎。
帝王学の教育者と、帝王学を受けていた凡庸なる王族。
彼らはその時確かに、同じ時を共有し生きていた。
けれど、もう違う。
脱落した男は言う。
「余を、恨んでおるか」
「いいえ、ただ……そうでありますな。逃げるのでしたら一声頂きたかった……それがあなた様を育てた一人の人間としての、ワタシの本音でございます」
マキシム外交官の瞳の奥が、過去と感傷に揺れる。
もし声をかけてくれたのならば。
おそらく、自身もその逃亡を手伝っただろう、と。
王になりたくないと喚く小僧を送り出し、自らが王となる道を選んだだろう、と。
だがそれはそうならなかった過去。
現実は違う。
ようやく再会した時には既に、かつて少年だった王は人生の終わりをただひっそりと眺めている状態で……。
その上自身も、主君の中身が入れ替わっていた事に気付かず、道化のように踊っていただけ。
暮れていく陽射し、斜陽の下。
かつて少年だった王が言う。
「余は……消え去りたかったのだ、何もかもが余には重く感じたのだ」
老人は語る。
それは彼が耐え切れなかった重圧の一ページ。
あの日、まだ王だった老人は見た。
致し方のない戦争の結果。
勝利した自国と、そして敗北した隣国。
あの日の少女は、遠く離れた場所から王だった男を睨んでいた。
どうしても、脳裏から離れなかったのだと老人は語る。
あたしが必ず、必ず母さんの仇を討つ。
と。
幼いながらも敵国の王を睨む、かつての少女の顔が。
その少女の名は。
アランティア。
少女の視線はいつまでも、弱き心の王を蝕んでいたのだろう。
つまり。
あの元王女を拾ってしまった、誰かのせいでもあったのだ。
小さな心の傷とて、放っておけばやがて大きな穴となる。
おそらく弱き王は、力量も権力もない、ただの少女の目線に怯え続けたのだろう。
王の器さえあれば、何の問題もない。
少女の憎悪に、追い詰められることもなかっただろう。
だがスナワチア八世は弱き王だった。
心底疲れ、弱り果てた――。
そんな時に、入れ替わりの話を持ち掛けられたら。
あの小僧ならば、頷いたであろう。
と。
全てを察した顔で、マキシム外交官は告げた。
「……あなた様がいつ入れ替わったのかは存じ上げません。けれど、確かにあなたをあなたと感じている時、おそらくその時のワタシはまだ、あなた様に忠義を誓っておりました。陛下、あなたには確かに王の器は重かったのかもしれません。けれど、それでも……ワタシはあなたの下ならば、魔術で誤魔化すこの身に滾る野心さえ捨て、生涯を使いお仕えすることもできたと、そう思っております」
だが。
王は重圧に耐えきれずに、消えた。
そして王に化けたタヌヌーアの長に違和感を覚えずとも、本能がその忠義を向ける事を許さなかったのだろう。
だから。
マキシム外交官は王の下ではなく、第二勢力として台頭するようになった。
正体は知らなかった。
成り代わりなど、想定していなかった。
王になりたくないなどとほざく哀れな小僧ではないと、気付かなかった。
けれど、それでも。
一歩距離を置き、俯瞰を気取り盤上を眺める狡猾なタヌキだと知らずとも――。
マキシム外交官の心は、王から離れていった。
その唇から、言葉が漏れる。
「しかし、納得できました。何故ワタシがあなたを裏切るような行動をしてしまったのか、恩あるあなたさまから王位を簒奪せんと動いてしまったのか。とても、ええ……とても」
老人が、顔を上げる。
「恩ある、であるか?」
「ええ、あなた様はまだ小さな頃、王位の重さを知らぬ童だった頃のあなたは……ワタシを拾ってくださった。あなた様にとってはただのきまぐれ、何の気ない言葉であったのでしょう。ですが……」
「すまぬが……何を言っておるのか」
老人は考える。
けれど、思い出せないのか。
それとも記憶の端にも残っていないのか。
それを残念そうに、けれどだからこそ敬愛したのだと言いたげな顔で。
マキシム外交官は言う。
「一度、王位を奪おうと動いたワタシはあの王国で居場所を失っておりました。長い間、ずっと、ずっと。ですが、陛下、あなたがワタシを教育係に欲しいと指を差したのです。かつて王位を簒奪せんと欲した裏切り者のワタシを、欲も責任も知らぬ、幼かったあなたが……」
「そうか――そのような小さき事で」
「あなたさまにとっては小さかったのかもしれません。ですが、それでも、ワタシは嬉しかったのです。あなた様の小さな指が、まるで神からの救いに見えたのであります」
ですから。
と、かつての主君に跪き。
外交官は言う。
「何か、希望がおありでしたらなんなりと。可能な限りは手を尽くしましょう」
それはかつての恩返し。
成り代わっていた王ではなく、逃げ出したが、あの日自身に希望を与えてくれた本物の王への最後の忠義。
「タヌヌーアの民を、どうか守ってやって欲しい」
言って、老人は穏やかな顔で里を見る。
「妻がいたのだ」
「妻、でありますか」
「うむ、この地で過ごす余を好いてくれた、変わり者のタヌヌーアもおってな。余とあやつは平和に、平穏に暮らしておった」
過去形だった。
「余は、余を受け入れてくれたあの者が大切にしていた、この地を愛しておる。今も、そしておそらくこれからも……」
「御意に――」
「そうか、頷いてくれるか」
老人は、モミジに包まれた里を眺め。
そして使命を果たしたかのように、力なく、項垂れていく。
「すまぬ、少し話疲れてしまったようだ……」
死んだのではない。
老衰するにはさすがにまだ若い。
眠ってしまったのだ。
斜陽の下。
モミジが風で揺れている。
気配を感じたのだろう。
奥からタヌヌーアの少女が姿を現し。
見知らぬ人間、マキシム外交官に頭を下げ。
「父がすみません、なにか失礼を?」
「いえ、ワタシが少々昔の話を聞きすぎてしまったようで」
「まあ! どうしましょう、父さんのいつもの与太話に付き合っていただいたんですね。すみません、父ったら、たまに酔った時とかに妄想癖があるみたいで。自分が昔、王様だったって言うんですよ?」
変ですよね。
と、タヌヌーアの少女はくすりと、けれど温かく笑い。
「いつもこうやって項垂れて、すまない、すまないって詫びて。あたしに詫びても仕方ないのに。そんなに詫びたいなら、自分で顔を出せばいいじゃないって、あたしも言ってやるんですけど。酔ってるのに、困った顔をしちゃって……そんな勇気があれば、さいしょから詫びる事にはなっていないよって。はぁ、悪い妄想癖なんです、父の」
少女は父親が酔っていると思っているのだろう。
「すみません、ちょっと父を寝室に運びますので。たいしたおもてなしもできずに恐縮ですけど、よかったらゆっくりしていってくださいね」
言って。
娘は動き出し。
使命を果たした安堵とばかりに、気が抜けている父親を慣れた動作で担ぎ。
ぺこりと頭を下げて去っていく。
仲の良い親子だった。
おそらく。
ここがかつての王の、終の棲家。
もう。
王宮に帰ってくることはないだろう。
しばしの間の後。
風に揺れるモミジに向かい、外交官の男が言う。
「いつまで眺めておられるつもりですかな」
様子を観察していたのか、マカロニペンギンが顔を出し。
『引き止めなくてよかったのかよ』
「もはやあれに使い道はありませんでしょう」
『けれど、娘の方は違う。正当なる王家の血筋だろうね。鑑定結果にちゃんとでてるし……って、おい! 僕を睨むなよ! 一応言ってみただけだろ!』
さすがに空気を読んだのか、氷竜帝マカロニは露骨な吐息を漏らし。
『まあ、手出しをさせないようにはさせるさ。王命でね』
「さようでありますか」
『ああ、さようだよ! だから人をそんな目で見るんじゃない! だいたい! なんだその顔は! なにを考えていやがる!』
不敬だぞ、不敬!
と、巨大な嘴を尖らせる新たな王に、マキシム外交官は率直な言葉を漏らしていた。
「考えていたのです」
『なにをだよ!』
「あのお方は重責を耐え続け王のまま生きた方が良かったのか、逃げ出し一生を詫びながら老いさらばえる方が良かったのか……陛下にとっては、いったい、どちらが幸せだったのでありましょうか――と」
『さあね、そんなのは本人が決める事だろう』
つまらなそうに言って。
マカロニは仕事に戻るぞと、部下を睨み。
『だいたい、奥さんを看取って愛娘に介護されて暮らす環境のどこに不幸があるっていうのさ! 僕なんて、冷凍庫で産地直送! 新鮮なまま臓器をお運びだぞ!? お届けだぞ!? あぁぁぁぁぁぁ! 許さん! 人間に戻って元の世界に戻ったら、絶対犯人をとっちめてやるからな! 待ってろよ!』
宣言したペンギンの咆哮が、冷風となって男の頬を刺していた。
男は、一瞬。
言葉を失っていた。
家族と共に生き、生涯を終える環境のどこに不満があるのか。
そんな言葉が、その胸を動かしていたのだ。
素朴で単純な話だった。
だが素朴故に、野心持つ男はその答えを見失っていた。
斜陽の下、木の葉の香りの中で男は空を見上げる。
良い里だった。
とても穏やかで。
戦争を嫌う人間にとっては、とても落ち着ける環境で――。
答えを見つけられずにいた男は、ふっと渋い笑みを浮かべ。
「失礼ながら――嫌味でもなく皮肉でもなく、陛下のその単純な思考回路を羨ましく思いますよ」
『なにかいったか!?』
「いえ、なにも。それでは参りましょうか――」
『よぉぉぉし! ついてこい! これからは銀杏の時代だ!』
銀杏無双じゃぁぁぁぁ!
と、意味不明な宣言をする獣王陛下。
新たな主人に従い、かつての主人の終の棲家を後にする中。
娘に運ばれ眠るかつての主君の今を見て、外交官はなにを思うのか。
自分より老いた教え子を見て。
教育係だった家臣は、なにを考えたのか。
その答えを知る者は、誰もいない。
斜陽の中。
落ちた葉であっても、モミジは美しく輝いていた。
序章エピローグ ―斜陽の里にて―
<了>
以上をもちまして、序章は終了となります。
明日からはこのまま次章開始を予定しておりまして、
更新時間もおそらくしばらくは13時~30分で固定されると思われます。
※推敲などで遅れる可能性もありますが…!
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました!
マカロニさんの野望にお付き合いいただける方は、
引き続きよろしくお願いいたします!