『悍ましき兄弟の追憶』―僕の優しすぎる兄さん―
【SIDE:此ノ書】
あの悍ましくも傲慢なマカロニペンギンの座椅子。
高さ調整用の座布団に使われ続け、幾星霜。
此ノ書に刻まれし情報はいつでもどこでもアップデート。
最新の情報を刻み続けている。
今回もそうだった。
あの邪知暴虐なマカロニめの弟のデータが此ノ書にも登録され始めているのだ。
――ああ、悍ましい。と強く思う。
なぜならこのベヒーモス。
此ノ書の中を暴き、勝手に情報を刻み始めていたのだ。
こいつら兄弟は兄が兄なら弟も弟なのだろう。
ともあれ、もはや達観という感情を知った此ノ書はこの程度では動じない。
こやつら兄弟の物語の一部が、開かれようが関係ない。
というか、この兄弟を止める気など起きるはずがない。
刻まれたデータがなにやら勝手に動きだしたようだ。
ああ、悍ましい。
しかし、所詮はこれは記録。我が書の該当ページを開いたときに発生する、弟たる彼奴の残留思念が語りだすだけ。
奴が、蠢き動き出しそうだ。
マカロニペンギンたる兄も恐ろしき偽神へと昇華した。
元より人という器を越える才覚があったのだろう。
だが弟たる奴は違う、アレはもっと根源的な恐怖を抱く器そのものだ。
ああ、我が書の記述がヤツに奪われる。
此ノ書を読むモノよ、ヤツの言葉はヤツにとっての真実であり事実であろうが。
けして取り込まれるな。
ヤツは人であって、人では――。
……。
というわけで。
やっほー、僕だよ!
僕の兄さんについて知りたいんだよね?
分かる、その感情はとっても分かるよ! 君!
いやあ、僕の兄さんは本当にすごいからね!
なんていったって兄さんはとても優しい!
ベッドの上からずっと動けない僕を見捨てないでくれるからね!
ずっと泣き続けた母さんが壊れちゃって、父さんが僕を殴り殺そうとした時だって止めてくれたし。
母さんが僕の首を絞めようとした時だって、必死になって止めてくれたんだ。
それってやっぱり僕が弟で、兄さんにとって可愛いからなんだろうね!
僕は知っているんだ。
この世界の全部は兄さんの優しさでできているんだ。
兄さんは本当に優しいんだよ。
世界一優しいし、なんなら宇宙で一番優しいんじゃないかな?
兄さん以外は全部優しくないから比べようもないんだけどさ。
世界を全て見渡したわけじゃないのに全部を語るのはおかしいって?
おかしいのは君のほうさ。
なんてったって僕には世界が見えていたからね。
比喩じゃなくて本当に全部が見えるんだ、僕ってけっこう凄いだろ?
それでも僕にも見えないものがある。
兄さんの心だけは見えないんだ。
見ちゃいけないんだよって、そう思ったから見ないようにしていたからね。
父さんも母さんも、友達になってくれるって言ってくれたネットゲームの友達も、全部、僕を嫌ったよ。気持ちが悪いって、遠ざけたよ。
失礼なんだ。
あいつらはさ、ベッドの中の僕を見た途端に嘔吐しちゃって、嫌な感じだよね。
配達のお姉さんも、家庭訪問をしてくれた小学校の先生も僕の姿を見て発狂しちゃうんだ。
なのにね。
兄さんだけは僕の手をちゃんと握ってくれるんだ。
『はん! 言いたいやつには言わせておけばいいだろ、ちゃんと話もしないで逃げてく連中なんて、どぉぉぉーっせ、くだらない連中だろうよ! 塩をまいてやる塩を! 特盛だ!』
なんて言ってね、僕を慰めてくれるからね。
僕にだって心があるからさ、やっぱりバケモノみたいに言われちゃうのは傷つくからね。
けれど兄さんだけはいつまでも変わらないでいてくれた。
父さんも母さんも狂っちゃって、どこかにいなくなった後でも兄さんだけは残ってくれたしね。
僕はやっぱり幸せ者なんだって実感したね。
でも兄さんはたぶん凄い苦労したと思う。
なにしろ僕は子供で、ベッドの上から動けなくて。
兄さんも僕より年上だけどまだ大人じゃない。
だけど兄さんは兄さんだった。
色んな大人を相手に、次から次へと無双するんだ。
言葉で攻略していくんだ。
僕のために公務員の人と交渉もしてくれたし、土地を奪おうとしてきた親戚も法律を盾に追い返した。
そのうち兄さんは生活のために悪い大人たちを攻撃し始めた。
兄さんが詐欺師として動き出したきっかけは、やっぱりお金だった。
現実的な問題だよね。
大人じゃない僕らが生きていくにはお金が必要で、けれど大人じゃないからミスもする。
悪い大人たちに家が囲まれちゃったのは僕のせいだった。
ネットゲームの知り合いに、兄さんがどれだけ凄いかを自慢しちゃったせい。
僕の自慢のせいで足がついたのは、かなり反省しているんだよ。
奴らは僕を拉致して兄さんを脅してやろうとしたんだって。
怖いよねえ。
だけど、結局どうもならなかった。
母さんや父さんと同じだったんだ。
そいつらは僕の部屋に入っただけで蹲って、僕を見た途端に発狂しちゃった。
失礼な奴らだよね。
でも問題だったのは僕が兄さんとの約束を破った事だった。
今だとネットリテラシーっていうのかな?
僕は飛んで帰ってきた兄さんに怒られた。
個人情報を流すなんて何考えてるんだって! 本気のお説教をされちゃったんだ。
僕が悪かったんだけど、僕は兄さんの自慢をしたいだけだった。
その時、僕はとても不安になったんだ。
もし兄さんに見捨てられたらどうしようって。
いますぐにでも割れちゃいそうな氷の上で、ギシって音が鳴った気分だった。
兄さんに見捨てられたら世界が終わっちゃう。
兄さん以外は全部くだらない世界なのに、兄さんに嫌われたら――。
だから僕はそのとき、生まれてはじめて兄さんの心を読んじゃったんだ。
そうしたらね。
兄さんは本当に怒っていた。
もし僕に何かあったらどうするんだって、僕のために怒っていた。
兄さんは僕のことを本当に大事にしてくれているんだって、分かったんだ。
でも僕はまだ不安で。
だから僕を抱きしめてくれる兄さんに聞いちゃったんだよ。
『助けてよ、兄さん。ねえ兄さん。兄さんは、僕を、母さんみたいに父さんみたいに、捨てないよね?』
って。
言葉にした後にしまったと思った。
でも一度出た言葉はもう取り消せなかった。
でも、全部僕の杞憂だった。
兄さんは呆た顔で言ったんだ。
『はぁぁぁ!? アホか、おまえは! おまえがちゃんと独り立ちできるようになるまで、捨てるわけないだろ』
『でも、父さんも母さんも、いなくなっちゃったじゃないか』
『ああ、そりゃそうだろ――あの二人は親としての自覚が足りなかっただけだ。気にするなよ』
兄さんはそう言ったけど。
僕は気になった。
『でも、ふつうは兄さんが弟の面倒をここまでみてくれないだろって』
『ははーん、なるほどなあ。そんなことを気にしてやがったのか。はぁ……。こーいうのはな。よそはよそ、うちはうちって言うんだよ。おまえは本当にバカでどーしようもないヤツだなぁ……』
どーしようもないと言いながら、兄さんはキシシと笑って僕を撫でてくれる。
そしてその心も、すごく優しい。
――兄弟なんだ、兄さんである僕がお前を見捨てるわけないだろう。
ってね。
僕は兄さんの心が読めるから、分かったんだ。
それが全部本心だって知ったんだ。
だけど同時にようやくちゃんと気付いたんだ。
『いつか大金を作って、おまえがちゃんと歩けるようになるようにしてやるから。まあ兄さんってもんを信じて待ってろよ。僕がおまえに嘘をついたことがあったか?』
え? け、けっこうあった気がするけど。
と思ったが僕はそれを口にしなかった。
兄さんは本当に優しいから、けっこう優しい嘘をつく事がある。
兄さんは僕をちゃんと見ていた。
そう。
ちゃんと見ていたのだ。
だから心を覗いたときに、僕は知った。
兄さんの瞳から見える僕の姿は、部屋一面に広がる触手みたいな肉塊で。
僕が泣く度に、所々にある肉塊が虹色に微動して蠢くんだ。
僕自身がこんな姿なのか。
僕の力が他人の視覚を狂わせてしまっていたのかは分からない。
けれど僕を見て発狂する人の理由はこれだった。
それでも兄さんは――そんな僕を直視しても他の人とは違って狂ったりも発狂したりもしない。
兄さんには僕と違って何の力もない。
本当にただ頭がキレる普通の人間なのに。
僕を受け入れ、弟として僕を守ってくれていた。
僕を大切な家族だと思ってくれていたんだ。
それも心の底から。
本心で――。
僕は世間知らずだけど、たぶんそれが普通じゃないって事だけは分かった。
バケモノに心の底から普通の顔で接する。
それがどれほどに異常なのか――僕もちゃんと理解していた。
バケモノを怖がらないふりならできる人間もいるだろうけど、兄さんは違う。
心の中にそんな感情は一つもなかった。
それが僕にはとても嬉しくて、だけど同時に少し怖くもあった。
怖がり気持ち悪がって当然の僕に、何一つ怖がることなく優しい。これって逆に考えれば異常だってことだよね。
どんな人でも狂うはずの状況で狂わず、普通でいられてるってことだよね。
普通を保ち続ける事ができる。
それってさ。
兄さんはたぶん。
誰よりも狂っていたんだと思う。