第三十章 第七話 溶けない氷の魔物
かまくらを出た俺が見た光景は、レイラがセミラミスと戦っている姿だ。
レイラの両手は氷の拘束具で封じられ、前屈姿勢を取っていた。
しかし魔法により生み出した炎で氷を溶かし、身軽になる。
空中にいる状態では、不意を衝かない限りこちらの攻撃を当てることができない。
俺はしばらく静観し、見守ることしかできなかった。
しばらく様子を窺っていると、空中にいるセミラミスが、魔物になる前は上級精霊のフェンリルであったと言い、再びレイラの身体を凍りつかせる。
彼女の身体に張りつき出す氷の色を見て、俺はまずいと判断した。
通常の氷であれば何も問題はない。
けれど魔法によるものであれば、例え炎であっても簡単には消せないと思った。
俺の予想どおり、レイラは炎で身体に張りつく氷を溶かしてはいるが、間に合ってはいない。
このままでは彼女の身体の細胞が死滅してしまう。
王都オルレアン付近の海岸で、酒吞童子率いる鬼の軍団と戦った際に、俺が金熊童子に使った戦法をセミラミスは使っている。
人の身体はゼロ度以下の環境で、皮下の血管は収縮を始める。
これは中枢の体温を逃さないために保護作用だ。
極度の低温に晒されると、この保護作用によって皮下の血行は極端に悪化し、その部分は血行不全に陥る。
こうした部分はやがて凍り、身体組織は深刻な損傷が生じてしまう。
低酸素状態で血管内の赤血球が運ぶ酸素の量が少なくなる。
そうなると、細胞に必要な酸素と栄養が足りずに細胞が死んでいく。
そして、中枢神経と受容器とを結ぶ脊髄神経を作り上げている神経細胞が死ぬことで、軸索の末端の枝がシナプスと呼ばれる結合部位を通じて、他の細胞の細胞体や樹状突起に信号が遅れず、脳に情報が遅れないことで感覚伝導路が障害され、感覚麻痺を起こす。
レイラの身体を構成している細胞が死ぬ前に、早く彼女を助けないといけない。
だけど、ただ単純に炎で氷を溶かせばいいという問題ではない。
それほど人の身体というのはデリケートだ。
治療のために凍傷の部位を暖めて復温させると、それまで虚血の状態だった部分に急速に血液が流れることで、更に組織が損傷する再灌流傷害が起きる。
彼女を助けるつもりが、逆に苦しめることになるのだ。
だけど、このままただ見守っているだけでは、レイラを死なせてしまうことになる。
一か八かの賭けになるが、この一手を使うしかない。
俺は食塩の入っている瓶の蓋を開け、中身をばら撒く。
そしてすかさず呪文を唱えた。
「呪いを用いて我が契約せしケツァルコアトルに命じる。その力の一部を我に貸し、言霊により我の発するものを実現せよウィンド。重ねて呪いを用いて我が契約せしフラウに命じる。その力の一部を我に貸し、言霊により我の発するものを実現せよフリーズ」
俺の周辺の空気の密度が重くなり、上空の空気の密度が軽くなる。
すると、気圧に差が生まれ、気圧の高いほうから低いほうへ空気が押し出されて動いたことにより、風が吹き出す。
俺の撒いた食塩は、風に乗って上昇していく。
そしてしばらくしてふたつ目の魔法が発動した。
レイラの身体が一瞬で凍りつく。
自分の魔法でもないのに、突然目の前の敵が凍ったからだろう。
上空にいたセミライスは驚愕の表情でこちらに顔を向け、彼女と目が合う。
一時的ではあるがセミラミスは隙を作った。
「今だ、レイラ!全力で炎を放出させろ!」
俺は声を上げると、凍ったレイラは炎を生み出し、身体を覆った氷を一気に溶かす。
「さすがデーヴィッド!余は信じておったぞ」
氷が溶けて身軽になると、セミラミスに拳を叩きつけ、彼女を地面に叩き落した。
叩き落されたオケアノスの魔王は、降り積もった雪に倒れるも、直ぐに起き上がる。
雪がクッションの役割を果たし、肉体へのダメージが軽減してしまったようだ。
セミラミスは赤いドレスについた雪を払い除ける。
彼女が倒れた場所には、セミラミスの形をした跡が残されている。
すべての雪を払い除けた彼女が、唇と同じ青い瞳で俺を睨んできた。
「どうやってわらわの氷を溶かした。わらわの魔法は簡単には破られないはずなのに」
「確かに、セミラミスの氷は簡単には溶けない。それはお前が生み出した氷の色が証明している。セミラミスの氷は空気も不純物も混じっていない純水の氷。だから透明度が高く、熱伝導が起きにくい。結果溶けにくくなる」
彼女の魔法を肯定し、続けてセミラミスの氷がどうして溶けたのかを説明する。
「そのトリックはこいつさ」
手に握っている瓶をセミラミスに見せる。
容器の中には、まだわずかに白い粒が残っていた。
「こいつは食塩だ。通常氷はゼロ度くらいの温度をキープしながら徐々に溶けていくのだが、そこに塩をかけると変化が起きる。塩には、氷が溶けるスピードを速める性質がある。こいつを上空に持っていき、俺の氷に混ぜてレイラを覆った」
「ふざけるな! わらわの魔法が、調味料なんかに負けるとでも言うのか!」
俺の説明にセミラミスは激怒する。
彼女の気持ちもわからなくはならないが、気にすることなく続きを語る。
「氷が早く溶けると、塩水になる。そして塩水は水に比べて凍り難いのだ。水が氷になる温度を凝固点と言うが、水の凝固点は通常ゼロ度。分量にもよるが、そこに塩を加えると凝固点が二十一度まで下がる。水の分子は温度が下がると、動きを止めて互いにくっつこうとするが、それを塩が邪魔をする。だから塩は氷を溶かすスピードを速めるというわけだ」
右手の人差し指を、セミラミスに向ける。
「俺は、どうしてお前の氷が溶けたのかを言ったぞ。否定したければ、それ相応の説明をしろよ」
俺の言葉を否定する根拠が思いつかないのだろう。
オケアノスの魔王は顔を引き攣らせていた。
レイラが空中から舞い降り、俺は彼女を見る。
見た目はどこにも外傷はなさそうだ。
身体のほうも細胞が死んだ影響で変色しているような部分はない。
氷が肌に触れるとくっつき、皮膚を傷つけ、剥がれることがある。
マイナス十度ぐらいの氷が触れると、身体の体温で氷の表面が少し溶けて水になる。
しかし氷がもの凄く冷たいために、溶けた水もすぐに凍り、接着剤の働きをしてくっついてしまう。
けれど不純物の混ざった水を使い、レイラの身体を瞬時に凍らせたことで、空気と塩が混ざった白い氷で覆うことになった。
空気が入ることで熱伝導率がよくなり、溶けやすくなる。
そこで炎を出したことによって、彼女の体温が上昇。
張りついた氷と皮膚の間が水となり、氷は彼女の皮膚から離れる。
水の膜で覆われたことで、凍傷にいたるリスクを減らせられたのだろう。
「セミラミスよ。貴様の技はこれで効かなくなった」
威勢よくレイラが声を上げる。
しかし、セミラミスは口の端を吊り上げると、不敵な笑みを浮かべた。
「まだ終わっていない。わらわはまだ切り札を切っていない」
セミラミスは右手を上げると、彼女の周囲に複数の正方形があわらわれる。
それらは積み重なり、十メートルは超える巨大な人型を象っていく。
「これがわらわの切り札、インサイボウアイスゴーレム。この氷は溶けることはない」
インサイボウアイスゴーレムと呼ばれた魔物は、身体を屈ませると自身の手にセミラミスを乗せる。
そして再び立ち上がると、道端に転がっている小石を蹴る感じで、俺にやつのつま先が襲いかかる。
後方に下がっても間に合わない。
回避する確率が高いのは左右のどちらかだ。
俺はクラピカ理論で右に跳躍すると、敵の蹴りを躱す。
しかし、目標を外した魔物の足は地面を踏み、その振動で地面が揺らぐ。
「なになに!いったい何が起きたの!」
かまくらで寒さを凌いでいたエミたちが、揺れを感じて中からでてきたようだ。
「大きい。あれも魔物なの」
「こいつはのんびりと温まっている暇はなさそうだねぇ」
「巨大な魔物は、物語とかでは切り札。つまりデーヴィッドさんとレイラさんが、セミラミスを追い詰めたということです。この戦いで勝つことができれば、オケアノスの魔王と決着をつけることができるはず」
揺れが収まり、俺はカレンたちのほうを見る。
「皆、やつの動きは遅い。だけどでかいだけあって攻撃範囲は広い。周囲の障害物にも気をつけろ」
彼女たちに気をつけるように注意を促す。
「さぁ、やつらを殺せ!」
セミラミスの声に反応し、インサイボウアイスゴーレムは右足を上げるともう一度蹴りを放つ。
しかし今度の蹴りは先ほどと違った。
思いっきり蹴るような感じで右足を後方に持って行くと、振り子のように勢いよく前方に右足を持っていく。
魔物のつま先が地面に当たると抉り、地中に埋まっていた岩が蹴り飛ばされて城壁を壊す。
今の光景を目の当たりにして、俺は唾を呑み込んだ。
あんなのを食らっては一発でこの世を去りそうだ。
俺は思考を巡らせる。
ライリーのアクティブブレインのお陰で、俺の脳は早い処理能力を得ている。
今のうちに作戦を考えなければ。
「ファイヤーアロー」
作戦を考えていると、レイラが炎の魔法を放つ。
魔力量の高さの影響により、通常では矢の形を象る炎が、大きい鳥の形へと姿を変え、インサイボウアイスゴーレムに直撃。
しかし、炎の振れた場所は、熱で溶けることなく形状を維持していた。
「何!本当に溶けないのか」
「だから言ったであろう。わらわの切り札は炎で溶けることなどない」
インサイボウアイスゴーレムが身体を屈めると、レイラを捕らえようしていているようで、左手を伸ばした。
けれどレイラは浮遊術で上空に飛び、拘束から逃れる。
「これならどうだ!ミニチュアファイヤーボール」
空中に移動したレイラが、魔物よりも高い位置に移動すると、小さい火球を無数出現させ、一斉に解き放つ。
一箇所でだめなら全体に熱を与えようという考えなのだろう。
あれだけの火球を浴びれば、どこかに異常をきたしている場所が見つかるはず。
そう思い、俺はインサイボウアイスゴーレムの身体を、見られる範囲で観察した。
その結果、俺は歯を食い縛る。
どこにも溶けた痕跡が見当たらない。
熱で溶けた直後に、瞬間的に体温を下げて凍らせたのだろうか。
その考えにいたった俺は、首を左右に振って今の考えを否定する。
そんな訳がない。
もし、そうだったのであれば、僅かでも溶けた痕跡は残るはずだ。
だけどインサイボウアイスゴーレムの身体は、小さい痕跡すらない。
本当に溶けていないのだ。
だけど本当にそんなものは存在するのか?
セミラミスの魔法だって、食塩を使うことで溶かすことを可能にした。
ならば、溶けない氷は存在しないはず。
これには何かのからくりがある。
俺はケガすることを前提にして魔物の足に触れた。
その瞬間、違和感を覚える。
これは可笑しい。
本当に氷なのか?
敵の肉体は氷のように冷たい。
だけど冷たいだけで、氷の性質が肌で感じられない。
これほどの熱を奪う力があるのであれば、氷であれば表面が一時的に熱で溶け、手がくっついてしまう。
けれど、俺の手は簡単に離れることができる。
「インサイボウアイスゴーレム、足元に虫がいるぞ!踏みつぶせ」
上のほうからセミラミスの声が聞こえ、氷のように冷たい魔物が左足を上げると、俺を踏みつぶそうとしてくる。
「呪いを用いて我が契約せしハルモニウムに命じる。その力の一部を我に貸し、言霊により我の発するものを実現せよゼイレゾナンス・バイブレーション」
カレンの呪文を唱える声が耳に入る。
その瞬間、インサイボウアイスゴーレムの足の一部が破壊された。
破壊することができた箇所を見ていると、水が流れていることに気づく。
しかしその水もすぐに止まった。
魔物の内部には水があるのか?だけど、それならどうして氷の性質が感じられなかった。
あともう少しでこの謎が解けるような気がする。
だけど、そのパズルのピースが見つからない。
「デーヴィッド危ない!」
ライリーの声が耳に入り、俺は我に返る。
目の前に巨大な足が迫っていた。
しまった!やられる。
「呪いを用いて我が契約せし知られざる生命の精霊に命じる。その力の一部を我に貸し、言霊により我の発するものを実現せよスピードスター」
俺は反射的に瞼を瞑ってしまうと、浮遊感を覚える。
「デーヴィッド大丈夫だったかい」
近くでライリーの声が聞こえ、俺は閉じた瞼を開ける。
目の前には、褐色の肌の女性の顔があった。
どうやら彼女が俊足魔法で助け、俺の身体を抱きかかえているようだ。
「ライリー。悪いが俺をもう一度、カレンが破壊してくれた魔物の足のところに連れて行ってくれ」
「何かわかったことがあるのかい?」
「まだなんとも言えない。だけど、もう一度振れることができればわかるようなきがするんだ」
「了解した。しっかり捕まっておくんだよ」
一瞬のうちにインサイボウアイスゴーレムの足下に移動すると、俺はライリーの褐色の腕から離れ、魔物の足を調べる。
破壊された場所は空洞になっており、少しだけ水が残っている。
内側に手を入れて触って見ると、金属のように固いことがわかった。
氷みたいに冷たいのに、氷の性質を持っていない溶けない氷。
その内部は水を入れるための空洞になっている。
そして金属のように固い物質。
「溶けない氷の正体がわかった!」
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
現在最終話を書いております。
なので、早ければ明日の投稿で、完結宣言をするかと思います。
物語の続きは明日投稿する予定です。




