第十八章 第六話 サルの試練
今回のワード解説
読む必要がない人は飛ばして本文のほうを呼んでください。
本文を読んで、これって何だったかな?と思ったときにでも確認していただければと思っています。
クラスター……数えられる程度の複数の原子・分子が集まってできる集合体。個数一〇~一〇〇のものはマイクロクラスターと呼ばれ,特殊な原子のふるまいが見られる。
相転移……ある系の相が別の相へ変わることを指す。しばしば 相変態とも呼ばれる。熱力学または 統計力学において、相はある特徴を持った系の安定な状態の集合として定義される。
大脳辺縁系……大脳の奥深くに存在する尾状核、被殻からなる大脳基底核の外側を取り巻くようにある。人間の脳で情動の表出、意欲、そして記憶や自律神経活動に関与している複数の構造物の総称である。生命維持や本能行動、情動行動に関与する。
ヒッグス粒子……「神の子」とも呼ばれ、宇宙が誕生して間もない頃、他の素粒子に質量を与えたとされる粒子。
プロピオン酸……カルボン酸の一種。消防法による第4類危険物 第2石油類に該当する 。 語源は「最初の脂肪酸」という意味で、油脂の加水分解により得られる脂肪酸のうち、最も炭素数の少ないものであったことによる。
レイラが上空にいるデスライガーを見る。
彼女は何かしらの体質により、体内にプロピオン酸が入っても脳に異常をきたさない。
この場でまともに戦えるのは彼女しかいないだろう。
「これ以上皆を苦しめるようなことをすれば、余が許さん。命が欲しければ早々に立ち去るがよい」
デスライガーに訴えているようだが、やつは彼女の言葉に耳を貸さない様子だ。
羽ばたきながら体制を変えると一気レイラに突っ込んでくる。
前足で踏みつぶそうとしていたが、レイラはギリギリのタイミングで後方に跳躍して躱す。
しかし彼女が飛んだ位置は崖っぷちであり、それ以上後退することができない。
獲物を追い詰めたデスライガーは、片方の前足で叩こうをとする。
だが、動きを見破った彼女はしゃがんで攻撃を回避すると、敵の肢体の間をスライディングで抜ける。
「交渉決裂というわけであるな。ならば容赦はせぬ」
レイラは右手を上空に上げると直径三メートルほどの火球を生み出す。
「燃えてしまうがよい。ファイヤーボール!」
出現させた火の球をデスライガーに放つ。
だが、火球は一直線にしか進まない。
敵は翼を羽ばたかせて上空に舞い上がり、レイラの攻撃を避けると、消化液を吐き出す。
敵の攻撃を視認してからの回避に入ったからか、彼女の動きはワンテンポ遅れてしまう。
後方に跳躍してから消化液が地面に付着し、レイラが直撃しなかったことに俺は安堵した。
しかし、その瞬間俺は大きく目を見開く。
再び崖っぷちに立った彼女は、どういうわけか崖下に向けて飛び降りたのだ。
「レイラ!」
俺は何が起きたのかがわからず、彼女の名前を叫ぶ。
そして地を駆けてレイラが飛び降りた場所に向かうと崖下を見た。
崖下は森が広がっているだけで、レイラの姿が見当たらない。
この高さから飛び降りれば間違いなく助からない。
彼女が何であのような行動に出たのかわからないが、その原因を作ったのは間違いなくデスライガーだ。
今すぐに救助に向かいたい気持ちよりも、デスライガーを殺したい衝動が大きかった。
敵の体内から漏れだすプロピオン酸を吸引し、大脳辺縁系へと情報が直接届けられ、刺激を受けてしまったようだ。
イライラが募り、暴力的な感情が湧き出す。
こいつだけは絶対に許すことができない。
「呪いを用いて我が契約せしウンディーネとフラウに命じる。その力の一部を我に貸し、言霊により我の発するものを実現せよ。シャクルアイス」
空気中の酸素と水素が磁石のように引き合い、電気的な力によって水素結合を起こす。
これにより水分子間がつながり、水分子のクラスターが形成され、水の塊が出現。
水の一部を切り離し、蛇のようにデスライガーに向けて飛び出すと、敵の口周りに巻きつく。
すると今度は巻きついた水に限定して気温が下がり、水分子が運動するための熱エネルギーが極端に低くなると、水分子は動きを止めてお互いに結合して氷へと変化した。
これでやつは消化液を吐き出すことができないはず。
やつの身体は最低限の臓器を保っているだけの魔物だ。
おそらく痛覚は死んでいる。
シャクルアイスのもう一つの効果が発揮されたとしても、それに関しては期待しないほうがいい。
口が封じ込められたことにより、デスライガーは首を左右に振っては、氷を掃おうとしている。
しかし、氷は敵の皮膚に張りつき、そう簡単には取り除くことができない。
氷に気を取られている今がチャンスだ。
呪いを用いて我が契約せしウィル・オー・ウィスプとフラウに命じる。その力の一部を我に貸し、言霊により我の発するものを実現せよ。ライトウォールⅩゼロ、Y八、Zゼロ、R三」
呪文を唱えて精霊たちにアルファベッドと数字で目的地を伝える。
すると、光で作られた壁が出現し、デスライガーを内部に閉じ込めた。
自身が立っている位置を原点とし、左右をX、前後をY、上下をZと定義させ、原点から一メートル先を一と定義し、Rで半径を伝える。
精霊たちに伝えた座標にウィル・オー・ウィスプが空気中の光子を集め、フラウが気温を下げることにより相転移が起き、光子に空気中にあるヒッグス粒子を纏わりつかせる。
これにより光に質量が生まれ、直径六メートルの光の球体を生み出した。
この大きさはデスライガーの体格ギリギリだ。
動きに制限をかけられた獣は窮屈そうに身体を丸めている。
「待ってくれ!」
このまま窒息死させてやる。
そう思った刹那、聞き覚えのない声が聞こえた。
声のしたほうに顔を向けると、ガスマスクを被った謎の人物が近づく。
「待ってくれ、そのデスライガーを解放してやってくれないか」
マスクで声がこもっているせいか、目の前の人物の年齢はわからない。
だけど声の低さかたらして男性だろう。
それにしてもデスライガーを解放しろだと?こいつは何を言っているんだ。
「何を言っている!こいつは魔物なんだぞ。多くの人を襲っているし、俺たちも攻撃を受けた。それにレイラも!」
まだプロピオン酸によるイライラが残っている。
俺は無意識に声を荒げた。
「それはわかっています。ですが、どうか助けてやってくだされ、この通りです」
ガスマスクの男は両手を地面につけ、マスクを地面に擦りつけると土下座をした。
普段の俺なら、良心が刺激されて彼の願いを聞き入れていたかもしれない。
しかし、今は通常とは異なる精神状態になっている。
男の願いを聞き入れるつもりはなかった。
デスライガーの呼吸が光の壁に当たり、一部が曇る。
「人の心があるのなら、どうかワシの願いを聞き入れてくだされ。魔物といえども生き物なのですから」
「それはすこしばかり都合がよすぎるんじゃないのかい?」
俺たちの会話にライリーが割り込む。
「あたいたちはこの先に進むために歩いていただけさ。だけどこいつがいきなり襲ってきたから反撃に出た。あんたの話を聞く限りだと、このデスライガーはあんたの所有物何だろう」
ライリーの推測を聞き、その可能性は高いと俺も判断する。
裏でこの男が指示を出していたとすれば、デスライガーの判断の速さにも納得がいく。
「わかっております。ですが、それには深いわけが」
「解放してはくれないですか?デーヴィットお兄ちゃん」
エミの傍で戦況を見守っていたアリスまでもが来た。
「あたしも話を聞くぐらいはしてあげてもいいと思うわ。くだらないことだったそのままにしておけばいいことだし。何か変な動きを見せれば、あたしが魔法を発動させて気を失わせるから」
「ワタクシもエミさんの意見に賛成です」
「余もそう思うぞ。何か理由がありそうな感じである。そうでなければ男がそう簡単に土下座をするものでもなかろう」
エミに続いてタマモとレイラも、話を聞くことに関して賛成の意思を見せる。
「まぁ、レイラがそう言うのなら……ってレイラ!」
崖下に落ちたはずの彼女が何食わぬ顔で皆の輪の中に加わっており、俺は驚きの声を上げる。
「そんなに驚くとは思ってもいなかったぞ。そんなに心配してくれたのか?」
「だってあんな高い所から飛び降りたんだぞ!命が助かったとしても重症のはず」
俺はレイラの全身を見る。
「そんなに見つめられると余は恥かしいぞ」
レイラは両手を頬に持っていくと身体をもじもじさせた。
彼女の手にはネックレスが握られている。
フックの部分が壊れたようで、つながってはいない。
「もしかして、戦闘中にネックレスを落としたのか」
「うむ。デスライガーの消化液が飛び跳ねて触れてしまったようでな、後方に下がったタイミングで外れて崖下に落ちてしまったのだ」
「それで崖に飛び降りたというのか、なんてむちゃをするんだよ」
「だって、これはデーヴィットが余に送ってくれた宝物なのだ。どんなことがあろうと手放すわけにはいかぬ」
レイラの言葉に、俺は少し恥ずかしさを覚え、頬を掻いた。
「まぁ、無事でよかったよ。運がよかったな」
「何を言っておるのだ?余は浮遊術が使えるであろう。高所から飛び降りても大けがはせぬ。まぁ、ネックレスを掴むタイミングが遅くて、木の枝に引っかけた拍子に手傷は負ってしまったが」
そう言うと、レイラは少しだけ身体を浮かせ、空中に留まる。
そういえば彼女は俺たちと違って空を飛ぶことができる。
最近は皆と同じで自分の足で歩くことが多かったので、すっかり忘れていた。
「あのう、すみません。もうワシのデスライガーが限界のようなんです」
男の言葉が耳に入り、彼の方を見る。
ガスマスクの男は土下座を止めて光の壁にすり寄っていた。
レイラも無事だったし、男の話を聞くだけ聞いてもいいだろう。
俺は光の壁を消すと、デスライガーは地面に倒れ、身体をぴくぴくさせていた。
どうやら酸欠を起こしているようだ。
鼻だけでは呼吸もキツイだろうと思った俺は、ウンディーネとフラウに頼み、氷を消してもらう。
瀕死の状態だからか、体内からプロピオン酸が漏れていないようで、不快な臭いはしてこなかった。
「それで、どういうことなのか説明してくれるのだろうな」
「はい。ワシはモンスターテイマーのサムと言います」
「モンスターテイマーだと!」
俺は驚き、声を上げる。
モンスターテイマーとは、魔物を使役して従わせることができる人物のことを言う。
噂でしか聞いたことがなかったが、実在するとは思っていなかった。
「はい、ワシは昔から魔物の声を聞くことができ、心を通わせることができるのです」
彼はガスマスクを外す。
前髪から頭頂部にかけて毛根が死滅している禿かたをしており、顔には複数の皺がある。
見た目は八十代ぐらいのご老人だ。
「このデスライガーはワシが若い頃から使役しておりましてな。この地を訪れる旅人を追い返すように命じておりました」
「どうしてそんなことを?」
「この地は本当に危険なのです。このあたりまではワシとデスライガーが警備にあたっているので危険な魔物はいないのですが、先にはデスライガーでも歯が立たない危険な魔物の巣窟になっております。それなのに、時々温泉目当てにこの地を訪れる命知らずがおりましてな。実力を図るために試験のようなことをさせてもらっていたのです」
「温泉!おじいさん、温泉を知っているの!」
温泉という言葉を聞き、カレンが上擦った声でサムに尋ねる。
「ええ、ワシは温泉の管理人なので」
「ちょっと待ってくれよ。あの爺さんのサルに認めてもらえば温泉に入ることができるって言うのは、サム爺さんのことだったのかい?」
「なんだ?お前たちはレンのことを知っておるのか?」
レンというのはライリーが情報を提供してくれたというおじいさんのことなのだろう。
尋ねられたライリーは小さく頷く。
「少しだけあたいが話した程度だけどねぇ、あの爺さんからサム爺さんのことを聞いていたんだよ」
「でも、ライリーの聞き間違いだったようね。サムとサルを間違えるなんて。まぁ、ライリーらしいと言えばらしいけど」
エミが両手を肩の位置まで持っていき、少し横に開くと首を左右に振る。
「いや、確かにあの爺さんはサム爺さんのことをサルって言っていた」
「黒髪のお嬢さんの言うことは合っておる。ワシのあだ名はサルだからな」
「どうしてよりにもよってサルなのです?」
俺も気になったことをアリスが代弁してくれた。
「ワシは生まれたときから猿顔だったのです。だからついたあだ名がサルというわけです。因みに禿てからはハゲネズミと呼ばれることもあります」
サムさんの説明を聞き、彼の顔をもう一度じっくり見る。
失礼ではあるが、確かに猿に似ていた。
「豊臣秀吉か!」
エミが唐突にサムさんに向ってツッコミを入れる。
俺は彼女の言葉の意味が分からず首を傾げるが、おそらく彼女の世界の何かなのだろう。
「迷惑をかけたお詫びがしたい、美容に効く温泉に案内いたしましょう」
サムさんが踵を返すと先に歩き出す。
俺たちも彼に続いて歩くが、不意にサムさんが足を止めて俺たちのほうをみた。
「因みに男女には分かれておりません。混浴なのでそのところはご了承ください」
「え!」
彼の言葉を聞き、俺は顔を引きつかせた。
『お、混浴だって。ぷりっぷりの女体を堪能するチャンスじゃない。この、ラッキース・ケ・ベ』
俺の脳内にドライアドが語りかける。
精霊の言葉を聞き、俺は嬉しい反面、何かトラブルが起きそうな予感がして心配であった。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。
誤字脱字や文章的に可笑しな箇所などがありましたら、教えていただけると助かります。
ブックマーク登録してくださったかたありがとうございます。
これからも多くの人に登録してもらえるように努力していきます。
明日も投稿予定なので、楽しみにしていただけたら幸いです。




