通り過ぎる電車
最近、よく見る女の子がいる。いや、女の子って言っても明らかに生きてる人間じゃないんだけど。
見かけるのは、ホームで、夜明け前に電車を待っているとき。通り過ぎる電車に、必ずその子が乗ってるんだ。
出勤時間の関係で、僕が家を出る時間はかなり早い。首都圏でさえ、その時間帯は数えるほどしか電車が通らない。待っている間、回送電車は通り過ぎていくけど。
スピードも落とさずに、目の前を抜けていく電車はちょっとだけ怖い。あと一歩踏み出せば、僕の身体なんてぐちゃぐちゃだ。
通り過ぎる鉄の塊。その後に、ようやく僕の乗る電車はやってくる。目の前でぴたりと止まって、気の抜けた音をたてて扉を開くんだ。
最初は気付かなかった。回送電車って、すごいスピードで駆け抜けてくから。
それにさ、誰だって、人が乗ってるなんて思わないだろ。あんな真っ暗な電車の中に。
だけど、よく見ると――いるんだ。何番目かの車両の、真ん中辺り。吊革を握って、こちらに背中を向けているセーラー服の女の子だ。
中学生? いや、高校生くらいだろうか。
一度目についたら、それからは毎朝見かけるようになった。
首を下げ、猫背気味の背中。肩までの髪は乱れている。よく見れば、セーラー服は泥か何かで汚れているようだ。いや、あのどす黒い染みは、もしかして血だろうか……?
当たり前だけど、多分、この世のものじゃない。いや、普通に考えれば分かるだろ。よりによって回送電車に、あんなボロボロの格好で毎朝乗ってるJKなんていないって。
しかも、毎朝彼女を見ている内に、僕は一つのことに気付いてしまった。
――だんだん、顔がこっち向いてきてないか?
肩や腰はほとんど動いてない。首から上――頭だけが少しずつこっち側を振り向こうとしてるみたいだ。
最初は、後ろ髪しか見えてなかったはずなのに、耳が見え、顎のラインが見え――いつの間にか、横目でこっちを見ているような。
まずいって思うだろ。僕も思ったよ。このまま目が合ったらどうなるんだって。
だけど、僕だって伊達や酔狂で、あんな早朝の駅にいる訳じゃない。仕事なんだ。行かなきゃいけない。
じゃあ、どうする?
簡単なことだ。見ないようにしなきゃいい。
残念なのは、そんな簡単なことなのに、気付いたときには既に、女の子はほとんどこっちを向きかけてたってことだ。
無理にまわしてぐるりと捻じれた首には、縄痕らしき黒い痣ができていた。腫れた頬、紫色に変色した唇。恨みがましい上目遣いで、目を端に寄せ、じっとこちらを向こうとしている。
僕は慌てて目を伏せた。ごう、と突風が吹いて、電車が通り過ぎていく。
そのとき、僕は決意したんだ。いつの日までって分からないけど、今後はこうやってやり過ごそうって。
不用意に顔を上げたりして、目が合っちゃいけない。だから、僕は伏目がちに歩くようになった。電車さえやり過ごせばいいんだけど、なんか、目を上げたら何かの物陰に、あのセーラー襟が見えそうな気がして。
どのくらいだろう、一週間くらいかな。毎朝のその手順を、僕の身体が完全に覚えてしまってる。目の前を通り過ぎてく電車の後、次の電車が止まって、扉のひらいた気配がしてから顔を上げるんだ。
回送電車と共に、ごうっと風が吹き抜ける。そのまましばらく待ってると、遠くからごとごとと近付いてきた次の電車が、徐々にスピードを落として止まる。そして、ぷしゅっと扉が開く。そこで、僕は顔を上げて、電車に乗り込む。
風、無音、ごとごと。ぷしゅっという音。顔を上げる。
風、無音、ごとごと。ぷしゅっという音。顔を上げる。
風、無音、ごとごと――
――同じことしてれば、覚えるさ、そりゃ。
僕だけじゃない、向こうだってそうなんだよな。
その朝、ごとごと。ぷしゅっという音で、安心して顔を上げたとき――目の前に口を開けていたのは電気もついていない、誰も乗っていない電車だった。
しまった、と思ったよ。いつも乗る電車じゃない。
回送電車が、行き過ぎるはずの駅に止まってたんだ。
恐ろしいことに、目の端には既に彼女の足元が見えていた。
制服の、泥まみれで穴の開いた靴先。ほつれたソックス。そして、黒ずんで、ところどころ破けた紺色のスカート。
やばい。いや、まずい。だけど、上がりかけた視線は止まらない。上へ、もっと上へ。
セーラー服の薄汚れた背中。黒ずんだセーラー襟。飛び跳ね散らばった黒髪――そして。
そして――はっと気づいた。髪だ。僕に見えているのは髪の毛だけ。
そう、彼女ったらその時には、なぜかまた向こうを向いてしまっていたんだ。僕から見えてるのは、最初のときと同じ、乱れた後ろ髪だけだったって訳。
まじまじとその姿を見て、僕は深い安堵の息を吐いた。どうやら、これはこういう事象らしい、なんてことを思ったりして。
海が寄せては返し、月が欠けては満ちるように、こういう存在なんだろう。
安心の反動か、なんだか、らしくもなく大自然の営みに思いをはせたりしながら、僕は目の前で閉まっていく扉を見送った。
しゅーっと音を立てて扉が閉じ――
――がたん、と足もとが揺れた。
あれ? って。僕、いつ電車に乗ったっけ?
慌ててあげた視線の先で、ホームに佇むセーラー服の後姿。少しだけこちらを振り向いた女の子の唇が、何かを呟いたような。
問い返す余裕なんてない。女の子の後ろ姿は、あっと言う間に遠ざかっていった。
もちろん、動いてるのは彼女じゃなくて、僕の乗ってる電車の方だけど。
がたん、ごとん、がた、ごと、がたごとがたごとがたごとがたごと……
……ま、こんな次第さ。僕はいつの間にか、無人の回送電車に乗ってしまったらしい。
駅で女の子を見てたはずなのに、いつの間にか。
うん、あの回送電車なんだと思う。多分。
だって、線路の上を走っているからには、電車だもんね。いつかはどこかに到着するだろうし。はは、あれから何年、この電車が走り続けているのかも、僕にはもう分からないけど。
どんな駅にも止まらず、延々と走り続ける空っぽの回送電車さ。
いや、だけどさ、ほんとのとこ、どうなんだろう。
外から見たら、僕もあの女の子みたいに見えてるんだろうか? ボロボロのスーツで、世を恨むような姿で?
……君が見付けてくれたら、僕も降りられるのかな?
ね、良かったら君、試してくれないか。
明日の朝は、きっと君の前を通り過ぎてみせるから。
お読みいただきありがとうございました。
前方不注意は危険なので、ホームでは前を見て歩きましょう。