喪失
§ 病室にて
妹はベッドの傍らで延々と思い出を語り続けた。
失われた僕の記憶を取り戻すために。
何が起きたのかは知らない。病室で目覚めた後、際限なく続く意味の分からない診察の末、知らされたのは、僕の記憶が失われたということだけだった。無いものを失われたと言われても、それがどういう意味を持つのか、僕には理解できなかった。
いろいろな人が病室にやってきて、昔の話をしていった。誰が来たのかは覚えていない。見知らぬ人ばかりだったから。何の話だったのかも覚えていない。どれもどこかの誰かの思い出話で、僕の思い出ではなかったから。
妹だけは毎日飽きもせずやってきて、尽きることなく思い出を語り続けた。何一つ思い出すことのできない兄をどう思ったのかは分からない。それでも彼女は、楽しそうに、困った顔で、怒りながら、悲しげに、顔を赤らめ、嬉しそうに、僕の記憶を描き続けた。
§ 自宅にて
新しい住まいにはすぐに慣れた。けれど、自分の部屋のカーテンにも、机にも、クローゼットにも、本棚にも、カーペットにも、見覚えは無く、白一色の病室に比べ、この整然とした部屋は騒然としていて、僕はなんとなく落ち着くことができなかった。
ここでも妹は夜ごと思い出を紡ぎ続け、その声に耳を傾けている間だけはほんの少し心地よい気がした。それは新しい物語の読み聞かせにも似ていたかもしれない。
§ 思い出の場所、思い出の時間
休日ともなると、妹は僕をいろいろな場所に連れて行ってくれた。僕が通ったという小学校、中学校、高校。学校の敷地内には入れなかったが、校舎やグラウンド、体育館など、見せてくれた。それから公園、ショッピングモール、商店街、シネコン、市民ホール、駅、どれほどの場所にどれだけの記憶が散らばっているのか、眩暈がしそうなほどそこかしこに僕はいた。
けれどそれらは一つとして僕の中には無かった。僕はどこにもいなかったが、僕の代わりの空白がそこにある訳でもなく、世界は満たされていた。
§ 喪失
過去を取り戻すことができないまま時は流れ、ある日、妹は気晴らしに僕を近郊の遊園地へ連れ出した。回転木馬やコーヒーカップ、観覧車、しかし老朽化の目立つ古めかしい遊園地だった。そんな遊園地にも子どもたちの歓声は響く。ここには初めて来たという妹もちょっと楽しげだった。
柵で仕切られたコースの中で小さな男の子が電動カートをジグザグ走行させて歓声を上げているのを見た時だった。唐突に、あれは僕だ、と、記憶が鮮明に甦った。柵の外で、父と母が笑いながら手を振っていた。カートはスピードが出なくて僕はちょっと不満だったのだが、ハンドルを右へ左へと切っているうち楽しくなって、両親に手を振りながら、いつまでも、いつまでも走っていたいと思ったのだった。まだ小学校に上がる前の夏のことだ。
思い出したのは、それだけだった。それに意味は無かった。そして、僕は初めて喪失を知った。
「ごめん…」