第八話・翌日の話
翌朝、私は普段と同じ時間に普段と同じように出掛けた。私は襲われても抵抗などしなかったし、文句も言わなかったけれど、昨夜は予定していた出来事以外何もなかった。残念な事に。
二人の立場上、今なら何があったところで誰が文句をつける訳でもなかったとは思うけれどそれでも本間君の人間性はそんな事を考えすらしないだろう。最初のラインメールを送った時、断られるよりも先に、断られる事など考えてもいない無神経なメールを二通続けて、断れない空気を作った。自分で直せるテレビの配線を頼んで、食事中も、終わってからもワインを勧めてみた。隙の多い女なのではなく、隙を作ったのだけれど、きっと彼からすれば自分はこんなにも信用されているのだから、と、責任感や自制心を高める結果になったのだろう。とすれば私のした事は逆効果だったかもしれない。ようやく彼を私の家に引っ張り込む事が出来たというのに。
というのは半分冗談。半年よりも前であれば、彼が私の家にやって来た事は何度もあった。本間君と高ノ宮君、この二人には仲の良い男子が三人いて、高校生の頃はその五人でよく遊んでいた。そこに藤原さんと花ちゃんが加わるようになり、女の子の数が足りない、という事で私や本間君の妹さんが駆り出される事が度々あった。
大学に入ってからは他の三人はそれぞれ就職と別の大学への進学を決めてしまったので全員で会える事は減ったようだったけれど、それでも時々私は招集された。本間君と藤原さんが同棲していたアパートや、花ちゃんが押し掛け女房をしている高ノ宮君のアパート、そしてここの三カ所には、今挙げた全員が来た事がある。
そういう前提条件があるので、私の家に彼が上がるというのはそうハードルが高い事ではなく、久しぶりではあってもようやくではない。本当の目的はとにかく今の本間君を一人にしないという事。
本間君は地元が遠く、高校生の頃は随分と時間をかけて学校に来ていた。二年生になってからは一つ年下の妹さんと二人暮らしをしていて、大学の一年生の頃は藤原さんとの同棲生活だったので厳密に一人暮らしをしていた期間はないけれど、親元を離れての生活期間は長い。その一緒に暮らす相手を亡くしてしまい、実家に帰っていた彼が再び大学に復帰するという事は、初めての一人暮らしをするという事だ。なので私は、これから暫くの間彼の事を極力一人にしないと決めた。
私が本間君を家に招いた翌日には高ノ宮君と花ちゃんと三人でどこかに遊びに行くと言っていたのでそれはそれで良し。本間君が帰る時、余ったシチューをポットに入れて手渡したのでもう一度会う為の口実はもうある。その時又何か、私の買い物でも良いし、何かのボランティアでも、半年間遅れた分の勉強でも、とにかく何かをさせて彼が自室に一人で籠る時間を減らす。その為に私は。
「学園祭の実行委員になったの、協力してくれるわよね」
昨日そう伝えた。彼の事を、とにかく引っ張り回そう。だからこそ、私は忙しくなければならない。
「うちの大学は六月の終わりに大学祭があるから、年が明けたら準備が始まるの。企画とか、アポイトメントとか、場所取り、設営、イベント管理、チラシ作り、考えるだけで色々やることはあるけれど、どうせ最後には私がやる事になると思うから、本間君が手伝ってくれるのなら嬉しいわ」
昨日の夜、食事を終えてテレビの配線も終わって、私は本間君を呼び出した本来の理由を切り出した。本来の建前とでも言うべきか、ややこしい。元々、手伝って欲しい事があって、手渡したいものがあるから来て欲しいとメールを送っていた。
「これが学園祭までの大まかな予定ね、既に学園祭のキャッチコピーの募集はしていて、一月末か二月中には決定するわ。本間君も考えてね、良いと思えるものがなかったら私達で作るから」
半年以上も前からする事があるのかと、本間君は驚いていた。
「最初の一ヶ月は各部署間で顔と名前が分かるようにするだけよ。冬休みの間に親睦会、要するにただの大規模な飲み会が開かれると思うけれど、そこに本間君も来てどんな人達がいるのか分かってくれたら良いわ。6、70人くらい人がいるから、全員を覚えるのは大変だと思うけれど」
そのまま、強引に本間君の予定を全て聞いた。クリスマスやお正月に遊びに行く予定などはないようだったけれど、予定帳を勝手に覗くと殆ど毎日、大学の合間を縫うようにしてバイトが入っていた。
「勤労ね」
私はそう言ってみたけれど、帰って来た言葉に少し落ち込む。
「忙しくないと色々考えてしまうし、疲れ果てる事が出来れば、何も考えずに眠れるから」
そう、と答えた。他に答えようは見当たらなかった。
お金に困っているという事はないのねという確認をしてから、彼の予定の中身を大幅に書き換えた。
一月以上前からシフトを出さなければならないような、もう変更不能のバイトはそのまま、それだけで生活費は賄えるという確認が取れてからは、本間君が取っている講義やゼミを全て聞き取り、休日や夜に行われる研究会や講習、オリエンテーリングなどに出席させる事にした。
「こっちの方がよっぽど役に立つしくたくたになれるわ。体が疲れていたって何か考えてしまう事はあるでしょうけれど頭が疲れていればもう何も考えられないから。分からない事があったら私のところに来る事。これ以外の空いている時間も私のところに来る事。時間はないし、やらなければならない事はいっぱいあるのよ」
分かったわね、と念を押した時、本間君が笑った。変わっていないねと、昨日の事なのにもうその表情を思い出せない笑顔を作って。
「変わらないわよ。私が人使いが荒いの、よく知っているでしょう? またこき使ってあげるから覚悟しなさい」
お手柔らかに、と言い、彼は立ち上がった。一人でワインを半分開けていたけれど(自分で要求はしておらず、開けさせたのは実質私)その足取りは確かで酔っている風ではなかった。
「寒いわね」
玄関先まで送って、白くなる息を眺めながら呟いた。私の視線は丁度彼の肩の辺り。
「どうせ歩きでしょう? 冷えるといけないから使いなさい」
何かを狙った訳ではなく、自分が使っていたマフラーを本間君の首にかけた。彼では二度と巻き直せないだろう私好みの巻き方で首を隠し、頷く。断る暇もなく、きょとんとしていた。
「この巻き方、久しぶりだよ」
嬉しそうに、懐かしそうに、哀しそうに、そう呟いた後ろ姿が見えなくなるまで眺めて、そして私は家に戻った。
「好みが似てるのね」
その呟きは、誰も聞いていなかった。
閑話休題。今。
「失礼します」
講義を終えて、私が向かった先は食堂でも自宅でもなく学園祭の実行委員の部屋。実際に実行委員用に教室が用意されている訳ではなくて、今年の実行委員長と、その親しい友人達が頻繁に使っている研究室がそう呼ばれている。まだ特に何かが用意されているという訳でもない。
「初瀬倉さん」
談笑が漏れていた教室の扉をノックして入ると、委員長の男性が驚いたように私の事を見た。周囲の男女も大体同じような様子で、私はその場全体に向けて会釈をして、歩を進める。
「実行委員に入れて頂きたいのですけれど、まだ人手は必要ですか?」
単刀直入に聞いた。一つ年上の彼、木口先輩とは講義が一緒のものが多く、時々構内ですれ違う。すれ違えば挨拶もして、食事の時に姿を見れば話をする事もある。そんな中。以前実行委員に誘われた事があったのだけれどその時は考える事もなく断った。
木口先輩は以前、今ここにいるうちの何人かを引き連れ、実行委員のやりがいを語ってくれた。その時私は興味がないです。と、一言で正直に断ったので、臆面もなく今度は実行委員に入れて下さいと言う真意は皆理解できないようだった。
「今更なのですけど」
固まった空気を動かす為に、もう一言付け加えてみると、最初に驚きを回復させた木口先輩が、勿論、人手はいくらあっても足りないからと、快活な笑顔で迎えてくれた。
「私以外にも三人、全部で四人なのですけれど、それでも良いですか?」
私と本間君、高ノ宮君に花ちゃんの四人。高ノ宮君と花ちゃんは忙しい日も多いだろうけれど構わない。いざとなれば私一人で四人分くらいの仕事は出来る。
「助かるよ」
「そうですか、そう言って頂けると嬉しいです」
これで、私が本間君についた嘘が嘘ではなくなった。順番は逆になったけれど、彼を引っ張り回す理由も出来上がってまずは満足。仕事はあればある程良い、くたくたになって、何も考えずにいつの間にか寝てしまう。そんな日も続くだろう。
「仕事が本格的に始まるのは年が明けてからですか?」
「そうだね、一度年末年始に実行委員を全員集めて懇親会を開くつもりだから、それからかな」
頷いて、木口先輩、その他何人かと連絡先を交換した。人の顔を覚えるのは苦手だけれど、それでも今この場に居る人達はなるべく覚えておいた方が良いと思ったので、しっかり一人一人の顔を見た。木口先輩は身長が高くて細身、眼鏡をかけていて彫りが深い顔立ち。もしも顔を忘れてしまっても、この特徴を思い出せば何となくは分かる。
今する事はないと言われたので、その場を後にした。
「少し話でもしていかない?」
「すみません、用事があるので」
木口先輩の引き止めの言葉を断り、図書館へ。用事があったというか、単に勉強をしておこうと思っただけ。実行委員であったり、学級委員であったり、イベント毎の準備をする係は慣れている。クラス委員は小学生の頃からやって来た。基本は報告、連絡、相談がしっかりしていて、やるべき事を全員に伝える事が出来ていれば後は時間がかかる装飾や設営があるだけ。
図書館に到着してから、私は又二時間程勉強をする事にした。私の集中力が二時間しか保たない、という事ではなくて、何となく丁度いい時間を考えると二時間になる事が多い。本来人間が連続して集中し続けられる限界の時間は90分だと聞いた事があるけれど、90分だと、少し短いと思ったり、物足りないと感じる事がある。勉強に限らず。
普段から愛用している席を借り、普段通りに二時間勉強をした。無音のまま震える携帯電話が時間の経過を教えてくれて、人影も疎らになった周囲を見回しながら、私は帰るのではなく去年までの文化祭について調べる事にした。
「規模が違うのね」
調べている途中に、というのもおこがましいくらいすぐに、私は高校と大学の学園祭の差を知った。というよりも、当たり前すぎて、理解するのに時間がかかってしまった。
高校であれば、一クラス三十人で、学年毎に八クラス、合計で二十四クラス。合わせて七百二十人。大学は生徒数が一桁、或は二桁違う。規模が違えば、自ずとやる事も変わってくるものだから、甘く考えていた私は結構苦労するかもしれない。
「まあ、何とかやってみましょう」
それでも、まずやるべき事が何なのか、おぼろげながら掴めたところで、私は本を閉じた。
「……そろそろかしらね」
それから暫く経った後、私は少し伸びをして周囲を見渡した。人影の見えない図書館は広く、暖かい。勉強を終えてから本を読んでいた私は時計を見て立ち上がった。それに合わせたように携帯電話が震えて、グループラインへの着信ありを知らせてくれた。送られて来た文章を読む。
“今日は寒いです、お鍋にしようと思います、皆集まれ〜”
差出人は花ちゃんで、グループのメンバーは私と高ノ宮君、本間君。一緒にどこかへ出掛けたと聞いていたけれど、一度解散して、もう一度集まるのかもしれない。
“何か買って行ったら良いものある?”
”ありがと〜、でもだいじょぶだよ、ちゃんと買ったから”
“絶対、何か買い忘れているに3000円”
”流石幼なじみ、花の事を良くわかっている、俺も倍プッシュだ”
“買い忘れた、と思っていたものを使い忘れていて結局冷蔵庫にあった、という可能性も捨て切れないわね、花ちゃんの場合”
“皆酷い!!”
携帯電話の液晶を見ている皆の様子が目に浮かぶようだった。ニヤニヤしたり、笑いを抑えて俯いたりしているのだろう。
“…………陽子ちゃんが正解です”
”WWWWWW”
”凄過ぎる、流石初瀬倉さん”
”男性陣の皆様、ごちそうさまです”
”ごちそうさまです!”
”花は当てられた方だろうが!”
“むしろお前持ちだ”
”三十分程で到着します、先に始めていて下さい”
駅へと向かう坂道を登る私の足取りは軽かった。
「こんばんわ」
「あ、陽子ちゃんこんばんわ」
「今初瀬倉さん鍵開けずに入って来たぞ、ちゃんとロックしとけよ」
扉を開けたら桃色のカーペットが目に入り、同じくふわふわのピンクのスリッパが用意されていた。明らかに平出花ちゃんの部屋だと分かる部屋の中に入るとお鍋の香りが私を包んだ。
彼氏に怒られて、えへへ、と可愛らしく笑う花ちゃんを見つつ扉を閉め、鍵をかける。台所で動き回っている花ちゃんと、無意識なのか視線でその後ろ姿を追いかけ続けている高ノ宮君。その高ノ宮君の正面に、本間君が座っている。
「今晩は本間君。今日はそういう顔をしているのね」
「そんな急に顔が変わったりはしないよ」
話しかけながらコートを脱ぎ、クローゼットにしまった。私を待っていたみたいで、すぐに高ノ宮君が立ち上がりお鍋を持って机の真ん中に置いた。
「美味しそうね」
お鍋は蓋を開けた時に香りと湯気が立ち登って、綺麗に並べられた具材が姿を現すところにワクワク感がある。野菜だけ入れて簡単に済ませる事も出来るし、色とりどりに具材を入れて見た目を楽しくさせる事も出来る。そして料理上手の花ちゃんは毎回私の期待を超えて可愛らしいものを作ってくれる。
お鍋を食べている最中、今日の三人の出来事を教えてもらった。三人で遊園地に行った話を聞き、絶叫系の乗り物が苦手な本間君がどんな顔をしていたのか想像する。映画だと、恋愛ものでは藤原さんを思い出してしまうし事故や事件を題材にしたものもよくない。カラオケで恋愛ものの歌詞があるものは全て除くというのも大変なので、じゃあ本間君が行った事のない遊園地はどう? と花ちゃんが考えた結果の選択が間違っていなかった事が私は嬉しかった。
お鍋のしめを何にするかで、本間君はご飯、高ノ宮君はうどん、水餃子が食べたくて既に冷凍のものを購入して来ていた花ちゃんに私が加勢して水餃子の勝利。珍しいしめだったけれど美味しかった。
「まあ、俺達は別になぁ」
「うん、手伝うよ。頑張るよ」
水餃子を食べながら私は改めて学園祭の実行委員になった事と、仕事を手伝って欲しいという事を皆に伝えた。高ノ宮君が頷き、高ノ宮君が頷けば首を横に振る事が無い花ちゃんも当然頷き、事情が分かっている本間君も勿論頷いてくれた。
「三人は時間がある時に手伝ってくれたらそれで充分だから余り無理はしないでね」
「大丈夫だよ〜、私達そんなに忙しい人じゃないし、陽子ちゃんが頑張ってくれるんだもん、私達も頑張って手伝うよ」
「まあ、言われた事がちゃんと出来てるかどうかは別だけど」
高ノ宮君が言った冗談に笑って、それから私達の話は特に内容の無い、小学校や中学校の時の思い出であったり、さっきしたばかりの今日の話に変わった。
「色々気を使ってくれてありがとね」
帰り際、お酒を飲んで眠ってしまった二人に布団をかけている花ちゃんからお礼を言われた。私はううん、と首を横に振って答える。好きな人の為に好きな事をしているのだから、お礼を言われるような事ではない。
花ちゃんにも高ノ宮君にも、私がどうして文化祭実行委員になったのかは話していないけれど、二人とも私の意図を察してくれているようだった。
駅まで送ると言われ、二人で連れだって外へ。外の空気は冷たく、内側から暖まった体に気持ちがいい。
「少し元気になってたね」
室内の暖房と温かいお鍋で少し赤くなった丸い頬が緩む。冬の夜は温まった身体を短時間で程よく、外側だけ冷やしてくれた。花ちゃんのちょっと赤毛っぽい茶髪と、大きくて少し垂れた瞳は春にピッタリと合うけれど、冬は冬で中々趣がある。体付きもそれはもう女性的で、大学生でありながら既に母性が溢れんばかりに滲み出ている。自分の息が白くなるのが楽しくてふぅふぅと虚空に吐息をはきかけ、目で追っている。時々寄り目になって首を振っている。どこからどうみても可愛らしい仕草だった。
「まだ時間はかかるでしょうけどね」
私の呟きを聞いて、楽しそうにしていた花ちゃんの表情が曇ったのは哀しい事だけれど、まだまだこれからが大変だという事を私はしっかり自覚しておきたかった。