第七話・彼の顔
好きな人がある日突然消えてなくなる。というのが、一体どういう気持ちなのかが私にはわからない。沢山の恋愛物語の中で、恋人を失った人々の心理は数々描写されているけれど、結局私には、その気持ちをしっかりと実感を込めて理解する事は出来なかった。
心にぽっかりと穴があいたような、という表現、割と使い古されていて、誰しもが一度位は目にした事のあるようなこの言葉が、私にとっては一番しっくり来た。彼が消えてなくなった世界を想像してみた時、残りの世界が余りにも空虚に感じられたから。けれどその彼が消えてなくなる、という想像が上手く出来なかったので、やっぱり結局のところそれは実感とはほど遠い。
この半年間、誰よりもそれを強く感じて生活して来たのだろう私の愛しい人は、その時の気持ちをどう表現するのだろう。別に特別賢い人ではなく、美しい言葉を紡げる程情緒豊かな人とも思えないけれど、それでも気になった。感情があふれるままに、誰かが既に言ったであろう言葉か、文章としての整合性を欠いた羅列を原稿用紙に長々とぶつけるような気もするし、数時間、数十時間何を書くべきか考えた挙げ句、寂しいと一言だけ書いて涙を流すようにも思える。
彼女、藤原時子さんが亡くなったのは半年前の、新学期が始まったばかりの、五月の初めだった。帰宅途中に、ボールを追いかけて赤信号に進入した少年を助けようとして、一緒に轢かれた。亡くなったのは二人、助けようとした男の子も含めて即死。なら見捨てておきなさいよと、心ない事を誰もが思わざるを得ない救いのない事故だった。
急に飛び出したのは子供の方で、ギリギリのタイミングで轢かれに行ったのが藤原さん。運転手は法定速度を遵守し、ブレーキも掛けていた。ただ、大型トラックであったというのと、雨上がりで停止距離が通常より長かったという条件が重なった結果が二名の即死。その後運転手の過失もある程度は認められたらしいけれど、今挙げた理由もあり罪は軽かった。運転手にも家族があり、その家族も本人も当然今後の人生において不要な痛みを抱えて生きなければならない。遺族もそんな運転手に対して重い求刑を求めるような事はせず、怒りもなく、只悲しみだけが残り、そしてそれらをどうにかしてくれる特効薬はない。少しずつ、時間がそれを風化させるべく動いてくれている。
「多分、時子も子供しか見てなかったんだろうな」
告別式の時、遺族の方のご厚意で遺族側の席に座らせてもらっていた本間君はそう言った。棺の中に彼女の体は入っていなかった。入れられるような原型など、留めていなかったと聞いた。
中身の軽い棺を持ち上げた時の一言に、遺族の方々は皆微笑んだ。私も、その微笑みの意味はよくわかった。藤原時子という女性は確かに、赤信号に子供が飛び出したら回りなど見ないで引き寄せに行き、そして注意をする。謝られたら頭を撫で、その子供と友達になって帰る。そんな人だった。
変わった事をするのが通常の、亡き時子さんの事をしっかりと理解し、その時の彼女の思考も分かっている。そんな彼氏の存在に、遺族の方々はほんの少しだけ救われた気持ちになれた。そういう笑顔だった。
「多分、あーあ、やっちゃった。って思ったんでしょうね」
半年前の告別式で、唯一私がかけた彼への言葉。先程の呟きを受けての言葉に、薄く笑った彼は少し頷いて、
「誰に叱られるって思ったんだろうね?」
夢を見るような、そのまま消えてしまいそうな儚い言い方で言って、棺を運んで行った。
「貴方に決まっているでしょう?」
霊柩車に乗せられ、空っぽの棺だと知っていながら、それでも遺族の方々と行動を共にした彼。彼を乗せた車が見えなくなってから私は呟いた。彼女はよく人に叱られる人だった。親や先生にもよく叱られていると彼から聞いたし、同級生や後輩、後輩から友人に、そして恋人になった彼にも、廊下を走らない、とか、走るならもっと周りを見なさい、とか、好きなものばかり食べてたら駄目だ、などと叱られて嬉しそうにしていた。叱られた後に『ごめんなさい』ではなく『ありがとね』と言っているのを何度か見た。
「ただいま」
大学の講義を終え、一人暮らしのアパートの入り口を開いた。誰かが待っている訳ではないけれど、私は家に帰ると必ずただいまを言う。物心が付いた頃からずっと。一人暮らしをしてまでもする必要はないのではと、そう指摘されたとしたら私はこう答える。一人暮らしをする前から、私が家族に対してただいまを言うことなんて無かった。当時私がただいまと言っていたのは(或は行ってきますやおはよう、お休みも)玄関ではなく、私の部屋の入り口でのこと。
むしろ今の方が本心からただいまと言っている。誰にではなくて、私が選び、私が決めて、私の感覚で物を揃えた、私の人間性そのもののようなこの空間に帰って来た。還って来た。だからこそ私は言う。ただいまと。
靴を脱ぎ、コートを棚に掛け、冷えた室内に暖房を入れる。乾燥機に纏めて放り込んでいた衣類は既に乾いた状態で、手早くアイロンを掛け、畳んでからクローゼットにしまい、床を掃除した。朝洗っておいた食器も全て使用前の定位置に戻した。最後に今日使ったお弁当箱とポットを手洗いして乾燥機にしまう。
いつも通り、帰宅してから行う当たり前の行動。この当たり前の事が苦痛なのか楽しいのかで、一人暮らしの快適さは劇的に様変わりする。私は好きでもなければ嫌いでもない。ただ、自分がやるべき事で、同時に自分以外にやる人間がいない事があると何となく安心する。その間の時間を、無駄に使っていないという充実感があるからで、それがただの勘違いでしかない事は分かっている。夕食作りを始めるよりも先にこれらの事を一通り終わらせて、そうやって体を動かしている間に部屋が暖まっていく。暖まったところで普段は室内用のスウェットに着替え、台所に立つ。今日はもう少しおしゃれな格好をした。ピンクのカーディガンやひざ掛けなども用意した。シチューとハンバーグを作る。子供のようなメニューだ。
料理が得意になる秘訣。まずは一人暮らしをするか、でなければ料理を作る相手を作る事。その状況がなければ上達はしない。或は飲食店で働くということでも良いのかもしれないけれど。
私の場合は、一人暮らしをする前に料理を作る相手が出来た。他でもなく本間君が相手だった。
ご飯を炊けるようになり、お味噌汁を作れるようになった。けれど当時高校生だった私は作ったものを直接その場で食べてもらえる機会には一度しか恵まれなかったので、お弁当に入るおかずを作れるようになる必要があった。
ハンバーグ、ミートボール、タコの形に切ったウインナー。卵焼きに焼き鮭。最初はよくある定番のもの。出来合いのものを買って盛りつけるというのは私の中の何かが許さなかった。塩をふっただけのおにぎりを頬張る彼に、そんなものを食べているくらいなら作って持って来てあげるわと自信満々に言って、その日の帰りに料理本を三冊買って、週末に勉強し、月曜日失敗して、暫くの間忘れていた振りをしてから翌週、急に思い出したということにして持っていった。今では卵焼きにはしらすを入れるし、おかずには茄子の煮浸しにきゅうりのナムル、胡麻をふりかけたほうれん草の白和えを入れた上で、栄養のバランスを考えてメインに鳥の竜田揚げを入れたり、などという遊び心を加える事も出来る。ご飯も炊き込みご飯になったり、のりやおかずで絵を描いてみたりと色々出来る事はある。今年のお正月には是非おせち料理を自分で作りたいと考えている私。
料理を毎日作る環境があるという人ならば、誰からのアドバイスもなくて良い。ただそれだけで上達する。するのだけれど私的には料理本や携帯アプリ、番組を見てそれを何度も作るというが一番の近道だと思う。
砂糖大さじ一杯、などと全ての分量が書かれている料理をそのままコピーするように作ればそれは絶対にちゃんとしたものが出来る。それはそれで美味しくて、そのまま食べてしまえば良い。そうして二、三週間分の料理を作っていくと、自然と自分が得意な料理が幾つか見つかる。上手な人なら上手な人なりに、下手な人でも下手な人なりに。
私の場合は、煮物が得意だと分かった。多分、待つ、という行為が嫌いでないので余分な手を加えずに済んだから。
レシピを見ずにその料理が作れるようになれば、その頃には何か自分なりの工夫をしてみようという気持ちになる。調味料を加えてみるとか、好きな具を増やしてみたりとか、そうしているうちに自分の料理が出来上がる。
「うん」
グツグツと煮立つ鍋の前で頷いた。味見をしたシチューがいい出来。
シチューは、カレー、お鍋と並んで誰でも作れる料理の一つ。日本には、カレーやシチューやお鍋の元が売っているから。
料理をするようになって分かったのが、結局料理で必要な事は包丁の扱いと味付け。これだけ。それ以外の事は下手であっても下手なりに何とかなる。二つの要素のうち片方、味付けが全て最初から出来上がっていて、しかも具材をどう切ったとしても食べられなくなる事はまずないこの三つは失敗する方が難しい。唯一火加減だけは注意が必要だろうか。慣れて来た人はコンソメやブイヨン、スパイスなどを使って自分流の味を求めて行くだろうし、それでお金を取るような人ともなれば自分で野菜や骨を煮込んで出汁を取るようにもなるので、決して底の浅い料理ではないのだけれど。私も、今回は牛乳と小麦粉とコンソメとバターを使ってホワイトシチューを作った。
フライパンにバターを敷き、強火で炒めた後、鍋で温めておいた牛乳の中に放り込む。コンソメも入れて煮込み、空いたフライパンに牛乳と小麦粉を入れてよく混ぜ合わせ、具に火が通った辺りで入れる。とろみが出たら味を見て、牛乳と塩コショウで味付け、ほうれん草など、先に入れておくと崩れてしまう野菜などがあったら最後に入れて、完成。
ハンバーグは少し大きめで、私の手に余るくらいのものにした。お肉を焼く時に出た肉汁にソースとケチャップを混ぜてデミグラスソース風にして、合いびき肉、玉ねぎ、バター、パン粉、卵と、中身もよくあるハンバーグ。ただ、皮を剥いてみじん切りにしたごぼうだけはよくある具材ではないと思う。食べている時の食感が好きで、時間があるか手間が惜しくない時には使う。
料理の合間に、こまめに手を洗ってスマートフォンを操作。連続でラインをした。
『今シチューを作っているの、良かったら食べていって』
『牛乳が足りないかもしれないの、好きな飲み物と一緒に買って来てくれる?』
『それと、テレビ写りが悪いのだけれど直し方分かるかしら?』
予め考えて置いた文章を連続して三通ほど送り、暫くして返って来たラインメールを読み、更に返信。
『ありがとう、甘いお酒があったら嬉しいわ。そっちにも、何かリクエストはある?』
ここからは一通ずつの折り返し。
『そうね、又今度作ってあげる』
『そういえば、久しぶりになるわね、高校生の頃はあったけれど、文化祭の準備の時』
『そうだったかしら? 覚えていないわ』
『(笑)そうね、そうかもしれないわね』
『はい、また後で』
最後の返信をしてから五分程で料理の支度が終わった。お皿を並べて、冷めないように弱火を点けたまま五分。私は彼の顔を思い出そうと目を閉じ、そして全然思い出す事が出来ずに、安心した。
人の顔を覚えるのが苦手な私の、自分でも良くわからない現象なのだけれど、大好きな人の顔はいつも靄がかかったように思い出せない。彼との思い出や、彼がしていた事、身長や体格なら思い出せるのに、彼があの時どう笑っていたか、どんな表情をしていたのか、映像を浮かべる事が出来ない。ただ、彼ならこんな時はこんな表情をしたのだろうと想像するのみ。
だから私は、思い出そうとして彼の顔を思い出せずにいると安心する。まだ私が彼の事を好きでいるのだと確信する事が出来るから。普段だったらそうして、十分程不毛で幸福な時間を味わった後、諦めてアルバムを取り出し、ああそうだ、こんな顔だったんだと思い出す。今日はその作業が必要ない。
チャイムが鳴った。私の心臓も高鳴った。
「思ったより早かったのね」
落ち着こうと思って、殊更落ち着いた声を出してみた。その声はいつも通り、能面のようで面白みのない私の私らしい声で、狙い通り幾らか落ち着く事が出来た。携帯電話を見る、着いたよ、と短いラインメールが一通。
スリッパを履いて、お客様用のものを一足取り出して、そして玄関へ。ワンドアツーロックの鍵を両方とも空け、扉を開いた。
「そういえば、そんな顔をしていたわね、本間君は」
扉を開けた先にいた男性に、私は微笑みながら話しかける。その表情も声も、彼、本間雄大君が知っている初瀬倉陽子らしいものであった筈。なぜなら、彼の事を好きになってからの私はいつだって、彼の顔を一旦忘れ、次の日に会った時、そんな失礼な言葉をぶつけてから挨拶に入っていたのだから。
ファンタジーの物語に出て来る記憶を奪われてしまった主人公。彼、或は彼女は物語の終盤、敵を倒す事であったり、鍵となる思い出を取り戻したり、ふとした拍子に記憶を回復させ、弾けるように、全ての記憶を一瞬で呼び覚ます。大袈裟な言い方になるけれど、私も本間君に会う時はそういった気分になる。彼の顔を見たせいで、色あせていたもの全てが極彩色に輝くような、そんな感覚。
「ごめんなさい、失礼なことを言ったわね、今晩は、会えて嬉しいわ」
ゆっくりと、一つ一つの言葉を切るように言いながら、私は本間君の表情を二度と忘れる事のないよう、決して勝てない勝負を始める。
「上がって頂戴、丁度お料理も出来上がったところなの」
手に持っている荷物が私の頼んだものと寸分も違わないものである事を確認し、彼を玄関に入れ、二つの鍵をもう一度かけた。荷物の中から飲み物を取り出し、料理をよそう。手伝おうとしてくれる本間君を座らせて、ハンバーグとシチュー。彼の前にはご飯も山盛りにして、飲み物は私はオレンジジュース、彼にはワイン。
「テレビは後で良いわ、先に食事にしましょう。お礼だから、遠慮しないで食べて頂戴。残されても私は食べ切れないから」
時刻は午後七時を僅かに回ったところだった。